(2022.9.11 Vatican News staff reporter)
教皇フランシスコは11日、年間第24主日の正午の祈りの説教で、「神が私たちの父であり、私たちが迷子になるたびに探しに出、両手を広げて待っておられること」を思い起こされ、「神が私たちに持っておられるのと同じ親密さ、思いやり、優しさを、他の人々にも示すように」と信徒たちに求められた。
説教で教皇はこの日のミサで読まれたルカ福音書の15章1‐32節を取り上げられた。この箇所では、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「あなたは罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を述べたのに対して、イエスが三つのたとえ話をもって、神の憐みについて説かれている。
教皇は、「これらのたとえ話をもって、イエスは、『神は誰も排除されない。すべての人をご自分の子供として愛しておられるので、皆を晩餐会に出席させたいのだ』と語ろうとされているです」と語られた。
以下は、バチカン放送による教皇の説教の日本語抄訳
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今日の福音は、神の慈しみ深い御心を示すための3つのたとえ話を語っています。イエスはこれらのたとえ話で、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言うファリサイ派の人々や律法学者たちに答えました。
イエスは罪人たちを迎え、食事を共にすることで、「すべての人を子として愛し、誰一人除外しない神」を啓示しておられます。
3つのたとえ話は、「父なる神は、私たちが道を見失うたびに探しに来られる方だ」という福音の中心的メッセージを要約するものです。実際、これら3つのたとえ話の主人公、「見失った羊を探し回る羊飼い」「失くした1枚の銀貨を再び見つけた女」「放蕩息子の父親」は、神を表しています。
それぞれの主人公の共通点を考えてみましょう。それは「欠けているための不安」です。羊が一匹足りなかったり、銀貨一枚が無かったり、息子がいなかったりしたために、主人公たちは落ち着かない気持ちでいます。
主人公たちは、よく考えれば、もっと平気でいられたかも知れません。羊が1匹いなくても99匹もいる、銀貨が1枚無くしてもまだ9枚もある、放蕩息子がいなくてもよく仕えてくれる従順な息子がいる、というように。
しかし、彼らの心は、欠けている1匹、1枚、1人の息子のために落ち着きません。他者を愛する人は、そこにいない人のことを心配する。欠けている人を懐かしみ、見失った人を探し、遠く離れた人の帰りを待つ。神は、誰1人失うことを望まれないのです。
神は、私たちが遠くに離れると、落ち着いてはいられません。悲しまれ、心を震わせ、ご自分の腕の中に連れ戻すために、探し始めます。神は、父、母の心を持って、愛する子が欠けていることを苦しまれます。私たちが離れていることを苦にされ、その帰りを待っておられます。私たちがどのような状況で道を見失っても、いつも両手を広げて待っておられることを、忘れてはなりません。
自分に問いましょう。「私たちは主に倣う者として、そこに欠けている人を心配するだろうか」「そこにいない人、キリスト教生活から遠く離れた人のことを気にかけているだろうか」「そのような気がかりを心に抱いているだろうか。それとも自分たちだけで平気でいるだろうか」「共同体の中に欠けている人、離れた人に憐れみを抱くことなく、自分たちのグループだけで満足しているだろうか」…。
御父は、そこにいないご自分の子らに気付いて欲しい、と私たちに願っておられます。私たちの身近な人で、「あなたは、神にとって大切な人ですよ」という言葉をおそらく聞いたことがないであろう人を思い浮かべてみましょう。
その人は「でも、私には問題があって、実はあれこれひどいことをしたのです」と言うかも知れません。その人に言いましょう。「神様にとってあなたは大切な存在です。あなたは探さなくても、神様はあなたを探していますよ」と。
このような問いに心を動かされるがままに、聖母に祈りましょう。聖母は、疲れを知らず私たちを探し、子である私たちの世話をしてくださる御母です。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)