☩「待降節は私たちに神を知る新たな方法を教わる好機」待降節第三主日の正午の祈りで

Pope Francis blesses Baby Jesus figurines in St. Peter's Square

*イエスが本当にキリストなのか、という疑い

 教皇はまず、牢の中にいるヨハネについて、「牢という物理的な制約以上に、心の内的限界に置かれていることを想像できます。つまり、イエスの中に待ち望んでいた救い主を見ることができなくなったかのようであり、本当に救い主であるかどうか、確認するために弟子たちを送ったのです」と語られた。

*”疑いのトンネル”をくぐることは霊的な成長に役立つことも

 そして、「ヨハネがこのような行為をしたことは、私たちをかなりの程度、驚かせます。なぜなら、ヨハネはヨルダン川でイエスに洗礼を授けた時に、弟子たちに『イエスは神の子羊だ』と告げていたからです」とされ、「このことは、最も偉大な信仰者でさえも、”疑いのトンネル”をくぐることを意味します。 これは悪いことではありません。 それどころか、霊的な成長にとって不可欠な場合もあります。『神は常に、私たちが想像するよりも偉大だ』ということを理解するのに役立つからです」と説かれた。

 

 

*心を開き、神を再発見する

続けて教皇は、「神のなさることが、私たちが必要とすること、期待することを超え、私たちが想定していたことと、どれほど異なっているかを、常に驚きをもって受け入れる必要がある。 ですから、私たちは常に主を求め、目を見開き、主によって変えられる必要があります」と強調。

 さらに、アンリ・ド・リュバック(1896‐1991=フランスの神学者イエズス会士。リヨン大学カトリック神学部で基礎神学宗教史教授をつとめ ,第2バチカン公会議以後の教会改革運動に強い影響力をもった)の業績を思い出しつつ、「神を一連の段階ー私たちが神を失うかもしれないという考えた時ーに再発見する必要があります。洗礼者ヨハネのように、私たちも心を開き、思いや考え方によって理解が制限されないようにすることで、神を再発見するようにです」と説かれた。

 

*待降節は、私たちが見過ごしていた神の愛に改めて気づく時

また教皇は「時々、私たちは、主に目新しさを感じないかも知れません。そして、『主について、自分はすでに多くのことを知っている』という思いにとらわれているかも知れない。でもそれは、『力強い神』を見ているだけで、『私たちの自由と選択を尊重しながら介入してくださる神』の謙虚さ、柔和さ、憐れみ、愛を見過ごしているのかも知れません」とされ、「 神や他の人についての私たちの考えや偏見は、直される必要があり、待降節は、私たちの見方を覆し、神の憐れみに驚嘆するための理想的な時期なのです」と強調された。

 そして、「幼子イエスのキリスト降誕の準備をすることで、私たちは再び、自分たちに主が誰であるかを学びます。 神と私たちの兄弟姉妹に対する、特定の考え方や偏見を捨てる時です。 自分自身への贈り物について考える代わりに、イエスが目の見えない人、耳の聞こえない人、足の不自由な人に行ったように、傷ついた人に、慰めの言葉をかけ、手を差し伸べる時です」と語られた。

 説教の最後に教皇は、私たちがクリスマスの準備をする際に、私たちの手を取り、私たちの間に住まわれる神の偉大さを、幼児イエスの小ささな姿の中に認識させてくださるよう、聖母マリアに願うことを、すべての人に勧められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年12月11日