(2023.3.10 Vatican News Paolo Rodari)
教皇フランシスコは着座10周年を前に様々な欧米メディアからインタビューを受けているが、スイス公共放送協会のイタリア語圏向け放送(RSI)が12日夜に放送予定のインタビュー録画内容を公開した= www.rsi.ch。
このインタビューで、教皇は質問に答える形で「 culture of welcome(喜びをもって受け入れる文化)」を育む必要性、ロシアの軍事侵略によって引き起こされたウクライナでの戦争やその他の地域紛争、前任のベネディクト16世との関係、死後の世界などについて語られた。
教皇職を辞任する可能性については、「考えていません」としたうえで、辞任を判断するのは、物事に対する認識力、明晰な知覚、状況を判断する能力、などが欠けるようになった場合、とされた。ブエノスアイレスで「通りを歩くこと」ことが出来たのを今でも恋しく思っており、バチカンでの教皇職に心配事は尽きないが、”ユニークな街”であるローマで元気にやっている、と断言された。
ウクライナなど世界各地で続く紛争について、「私たちは”世界大戦”の中にいる。断片的な形で始まり、今では、それが世界的でない、と言えなくなっています。諸大国は、現在起きている戦争にすべて絡み合っているから。現在の主戦場はウクライナです. 誰もがそこで戦っている」と語り、 プーチン大統領は、教皇が自分に会いたいと思っているのを知っているが、「そこ(ウクライナの戦い)には、”ロシア帝国”だけでなく、あちこちの帝国の利害が絡まっている」と指摘した。
インタビューでの主なやり取りは次の通り。
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*「耐久力は落ちているが、膝は順調に回復している」
問:教皇になられて10年。あなたはどれくらい変わられましたか?
教皇:歳を取りました。 持久力が落ちている。膝のけがは、肉体的な屈辱でしたが、今は順調に回復しています。
問:車いすに乗るのは大変でしたか?
教皇:ちょっと恥ずかしかったです。
*「教会は一部の人のための家ではない、来る人を選ばない」
問:多くの人があなたを「最も小さな教皇」と呼んでいます。 あなたもそう感じでおられますか?
教皇:「捨てられる人」を私が歓迎するのは事実ですが、それは私が、「それ以外の人を捨てる」ことを意味しません。 貧しい人々はイエスのお気に入りですが、金持ちを追い出すことはなさいません。
問:イエスは、すべての人を自分の食卓に連れてくるように求めますが、 これは何を意味するのでしょうか?
教皇:それは、「誰も除外されないこと」を意味します。 招待客が婚宴への出席を拒んだとき時、金持ちも貧しい人も、すべての人を招いて席をいっぱいにする、というたとえ話を、イエスはなさいました。 忘れてはなりません―教会は一部の人にとっての家ではなく、来る人を選びません。 神の聖なる信者たち… どの人もそうなのです。
問:生活状態が原因で教会から疎外されている、と感じる人がいるのはなぜでしょうか?
教皇:罪はいつもそこにあります。 世の中には少しばかり虚栄心が存在し、自分は他の人より素晴らしいと感じることがありますが、それは正しくありません。 私たちは皆、罪人です。 「真実の時」に、あなたの真実を表に出してください。そうすれば、自分が罪人であることが分かるでしょう。(「カトリック・あい」注:「真実の時」は1945年作成のメキシコ映画。貧しい家庭がお金のために翻弄され、数十万ドルのために犯罪に加担する、という内容)
*死後の世界、聖マルタの館、そしてアルゼンチンの思い出
問:死後の世界をどのようにお考えですか?
教皇:想像できません。 どうなるか分からない。共にいてくださるように、聖母にお願いすることしかできません。
問:教皇になられた時、なぜバチカン宮殿でなく、聖マルタの館にお住まいになることを選ばれたのですか?
教皇:教皇選挙で就任が決まった2日後に、私はバチカン宮殿の教皇の住まいに出かけました。 それほど豪華ではないが、 作りはしっかりしていて、スペースも大きい。 私が、自分が住むところについて持っていた感覚は真逆でした。 精神的に受け入れられない。それから、 私が今住んでいて、貴方のインタビューを受けている聖マルタの館の前をたまたま通った時、「私はここに住む」と言う言葉が出たのです。 ここは、教皇庁で働く40人が住む宿舎です。 そして、彼らは世界のあらゆる所から来ています。
問:教皇になられる前のアルゼンチンでの暮らしで今でも恋しく思うことはありますか?
教皇:町中を歩いて、通りを下って… よく歩いていました。 私はいつも人々と一緒に、地下鉄、バスに乗っていました。
問:欧州の暮らしはどうですか?
教皇:非常にたくさんの政治家、政府の長、または若い閣僚がいます。 私はいつも彼らに言います―「互いに話をしてください。 あれは左、あなたは右、どちらも若い。話しかけて。 若者同士で対話をする時です」と。
問:”地の果て”(アルゼンチン)出身の教皇がもたらすことのできるものは?
教皇:アルゼンチンの哲学者アメリア・ポデッティの言葉を思い出します。「 遠く離れた所から普遍性を理解する」- それは社会的、哲学的、政治的な原則です。
*コロナ禍で閉鎖された聖ペトロ広場での孤独の祈りでの体験は
問:(新型コロナの世界的大感染で)何か月にもわってバチカンの聖ペトロ広場が閉鎖されました。その広場で”孤独な祈り”を捧げられましたが、覚えておられることはありますか?
教皇: あの時は、雨が降っていて、人はいなかった。 私は、「主がそこにおられる」と感じました。 主が私たちに悲劇、孤独、闇、疫病を理解させようとしておられたのでした。
*”世界大戦”の中にあるウクライナ、武器市場、帝国の利害…
問:世界にはいくつもの戦争が起きています。
教皇:これまで100 年余りの間に、3 回の”世界大戦”がありました。14 ~ 18 年、39 ~ 45 年、そして今起きている大戦です。 今の大戦は、断片的な形で始まりましたが、今では誰もそれが「世界的ではない」とは言えません。 強大な力はすべてそれに巻き込まれています。 戦場はウクライナ。 そこでみんなが戦っている。 それは、武器産業を連想させます。 ある専門家は私にこう言いました―「兵器が1年、生産されなければ、世界の飢餓の問題は解決されるでしょう」と。 世界的な武器市場… 戦争が行われ、そこに古い武器が売り込まれ、新しい武器がテストされるのです。
問:ロシアによるウクライナ軍事侵略が始まる前に、あなたはプーチン大統領に何度かお会いになりました。 もし今日、大統領にお会いになったら、何と言われますか?
教皇:公の場で話すのと同じくらい、はっきりと彼に言うつもりです。 彼は教養のある人です。 侵略が始まって2日目に、私は在バチカンのロシア大使館に行き、「大統領が話し合いの機会を設けてくれるなら、喜んでモスクワに行く」と言いました。 ラブロフ外相は私の申し出に感謝する手紙をくれましたが、「今は、その時ではない」と書いてありました。 プーチンは私がいつでもモスクワに行く用意があることを知っています。 しかし、この戦争には、ロシア帝国だけでなく、他の帝国の利益も絡んでいます。 国民の利益を二番目に置くのは、帝国の典型です。
問:ウクライナの他に強い関心を持たれているのは?
教皇:イエメンの紛争、シリア、ミャンマーの貧しいロヒンギャ… どうして人々がこのような苦しみを受けねばならないのですか。 戦争は酷い。そこに 神の霊は存在しない。 私は聖戦を信じていません。
*ベネディクト16世が開いた「教皇生前辞任」の扉―自身の辞任の要件は
問:教皇職を退かれ、亡くなるまで Mater Ecclesiae Monastery(教会の御母の修道院)で10年間過ごされたベネディクト 16 世との交流は?
教皇:良い交流を持てました。 彼は神の人です。 私は彼をとても愛しています。 最後にお会いしたのは昨年のクリスマスでした。 その時は、ほとんど話すことができませんでした。 とても低い声で話されたので、”翻訳”されないと分からなかったのですが、頭脳は明晰でした―これはどうなっていますか、その問題はどうですか、など問いかけられた。その内容はすべて新鮮なものでした。 彼はいつもバランスが取れていて、前向きで、賢い人でした。 しかし、クリスマスにお会いした時、人生の終わりに近づいていることが分かりました。
問:ベネディクト16世の葬儀は地味なものだったのは、なぜでしょう?
教皇:現職でない前教皇の葬式を計画・準備するのは、儀典担当者にとって難しいことでした。現職の場合と異なるのはどこにあるのか。 違いを生み出すのは困難でした。 私は、将来の教皇の葬式の儀式を研究するように担当者に言いました。 彼らは物事を研究し、少し単純化し、典礼的に正しくないものを取り除いています。
問:ベネディクト16世は、教皇の生前辞任の扉を開きました。 あなたは、ご自分にもその可能性があると言われたことがありますが、現時点では考えておられない。 将来、生前辞任するとした場合、理由は何でしょうか?
教皇:物事がはっきりと分からないような疲労を感じる、 頭脳の明晰さが欠如する、状況を判断する方法が分からなくなる… おそらく、物理的な問題もその理由になるでしょう。 私はいつもこのことを他の人に聞き、アドバイスをもらっています―「 最近の私はどうですか? 私はそうすべきだと思いますか?…」。私を知っている人や(その方面に知識や経験のある)枢機卿に聞いてみます。 そして彼らは真実を話してくれます―「教皇職を続けてください、大丈夫です…」と。 でもお願いします。間に合ううちに声をかけてください。
問:人に挨拶される時、あなたはいつも「私のために祈ってください」と願われますが、なぜでしょう?
教皇:誰もが祈ると思います。 信者でない人たちにも私はお願いします―「私のために祈ってください」と。 無神論者の友人が私への手紙の末尾に、次のように書いています―「… あなたにgood vibes(良い感じ)を送ります」。 それは異教の祈り方ですが、愛情深いやり方です。 そして誰かを愛することは、祈りです。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)