(2022.9.28 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは28日の水曜恒例の一般謁見で、カザフスタン訪問などで中断していた「識別について」と題する連続講話を再開され、「私たちを神と親しい関係に入ることができるようにする、識別における祈りの重要さ」について語られた。
「祈りは、霊的な識別、とくに愛を伴う識別の際に、欠かすことのできない助けとなます」とされた教皇は、「祈りは、私たちが、さまざまな思いを超え、自発的な愛のこもった主との親しい関係に入ることを可能にします… 聖人たちの人生の秘訣は、神との親密さと信頼。それらは彼らの中で育まれ、神にとって喜ばしいことを認識するのをさらに容易にします」と指摘された。
(以下、バチカン放送より講話の要旨=編集「カトリック・あい」)
今回は、「識別」の構成要素の中で最も大切な「祈り」について考えてみたいと思います。識別には、ある環境、すなわち「祈りの状態」にあることが必要です。
祈りは、霊的識別に欠くことのできない助けです。それは特に神に対して愛情のもとに素直に親しく友のように話すことを助けてくれます。単なる考えを超越し、自然な愛情をもって主との親しい関係に入ることができるのです。
聖人たちの生き方の秘密は、神との親しさと信頼にあります。彼らは神との親しさを育むことで、神が喜ばれることが何であるかを容易に理解できるようになっていきました。
真の祈りは、神との親しさそのものであり、ただ「祈りを繰り返し唱えていればよい」というものではありません。この親しさが、「神のみ旨が自分たちのためにならないのではないか」という疑念や「私たちの心を騒がせ不安にする考えから生まれる誘惑」に打ち勝たせてくれます。
識別は「絶対の確信」を強要しません。なぜなら、人生は常に論理で片付くものではなく、ただ一種類の考え方に閉じ込められない、多面的な様相を帯びているからです。
「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ人への手紙7章19節)と使徒パウロが言った経験を、私たちも何度体験したことでしょう。私たちは理性のみでできておらず、機械のような存在でもありません。すべきことの説明を得るだけでは足りません。主のための決意の障害となっているのは、特に愛情的な障害です。
マルコ福音書で、イエスが最初に行った奇跡が、汚れた霊に取りつかれた男を癒したことであったのは、意味深いことです(マルコ福音書1章21-28節参照)。カファルナウムの会堂で、イエスは一人の人を悪霊から解放されると同時に、悪魔がふき込んでいた「神は私たちの幸福を望まない」という誤った神のイメージからも解放されました。悪霊に取りつかれた男は「イエスが神だ」と知りながらも、イエスを信じることができずに「我々を滅ぼしに来たのか」(同1章24節)と言いました。
たとえイエスが神の子だったとしても、「私たちの幸福を望んでおられるのだろうか」と、キリスト者をも含む多くの人が皆、同じように疑っています。それどころか、ある人々は、イエスの教えを真面目に受け取ることは「人生を台無しにし、自分たちの願いや熱望を押さえつけることを意味するのではないか」と恐れています。
こうした考えは、私たちにも頭をもたげることがあります。「神が私たちに求めるものが大きすぎる」、あるいは、「神は自分にとって大事なものを取り上げてしまう」、「神は私たちを本当に大切に思っていないのではないか」と考えてしまうのです。
私たちが主との最初の出会いで体験したように、「喜び」は主との出会いのしるしです。これに対して「悲しみや恐れ」は主から離れているしるしです。
「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」(マタイ福音書19章17節)とイエスは金持ちの青年に言われました。残念ながらこの青年には、「善い先生」のすぐ近くに従いたい、という望みの実現をはばむものがありました。青年はイエスに会いに行く熱心さと行動力を持ちながらも、愛情において彼の心は二つに引き裂かれていた。彼にとって富は重要すぎたのです。
イエスは金持ちの青年に決断を強要しません。福音書は青年が「悲しみながら立ち去った」(同19章22節)ことを伝えています。いくら多くの財産や才能を持っていたとしても、主から遠ざかる者は、決して喜びを感じません。
外見に惑わされやすいために、私たちの心の中に起きることを識別するのは容易でありませんが、神との親しさが、疑いや恐れを優しく解いてくれるでしょう。
聖人たちは、神の光を反映させ、不可能をも可能にする「神の愛情深い存在」を、日常生活の単純な行いの中に表しています。
互いに愛情を持ち続け、長い人生を共に過ごした夫婦は、次第に「似た者になる」と言われます。愛のこもった祈りにおいても、同じようなことが言えます。そこでは、命の奥深くから湧き上がってくるもののように、少しずつ、自ずと重要なことを見分けられるようになります。
友が友に語りかけるように、主との友情の絆を生きる恵みを願いましょう。