以下、バチカン放送(日本語課)による講話の前文(編集「カトリック・あい」)
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今日は、「夢見る人」としての聖ヨセフを考察したいと思います。
聖書に見られる、古代の人々の文化において、夢は神がご自身を啓示するための手段と考えられていました。
夢は、私たちの霊的生活、内的世界を象徴するものであり、しばしば神は啓示をされたり、私たちに語りかけられたりされます。しかし、私たちの心には、神の声だけでなく、恐れや、希望、誘惑など、他の多くの声があり、その中で、神の声を「聴き分ける」ことが重要です。
ヨセフは、そのために必要な沈黙を育み、主が自分の心に向ける言葉を前に、正しい選択をすることができる人でした。
ここで、福音書に記される「ヨセフの四つの夢・啓示」を振り返り、神の啓示を前にどのような態度で臨むべきかを学ばましょう。
ヨセフの最初の夢は、婚約していたマリアが身ごもっていることが明らかになった時のことです。このことについて思い巡らすヨセフの夢に、天使が現れ、「恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」( マタイ福音書1章18-25節参照)と言いました。これに対するヨセフの反応は速やかでした。「ヨセフは目覚めて起きると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた」( 同1章24節)のです。
人生は、難解で解決もないように見える状況に私たちを立たせることもありますが、こうした時に祈ることは、主から私たちがすべきことを示していただくことを意味します。祈りは、私たちに、問題から抜け出すための直感を与えてくれるのです。神は、解決のための助けをくださらずに、私たちに問題をお与えになることはありません。
ヨセフの二番目の夢は、幼子イエスの命が危険にさらされている時でした。そのメッセージは明らかです。「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(同2,章13節)。ヨセフはためらうことなく、その言葉に従いました。「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ退き、ヘロデが死ぬまでそこにいた」( 同2章,14-15節)。
人生では、自分や愛する人たちが危険な状況に出会うこともありますが、そのような時に祈ることは、困難に負けず、立ち向かうために、聖ヨセフと同じ勇気が私たちの心に湧き起るようにする声を聞くことを助けてくれます。
帰国のための神からのしるしを、エジプトで待っていたヨセフは、三つ目の夢を見ました。天使が夢に現れ、幼子の命を狙っていたヘロデが死んだのでイエスとマリアを連れてイスラエルに行くように、と言った。ヨセフは「起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ入った」(同2章21節)。
しかし、まさにその帰国の旅の途中、ヨセフは、「アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めている、と聞き、そこに行くことを恐れた」(同2章22節)。そこで、ヨセフは四つ目の夢を見ます。ヨセフは「夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方へ退き、ナザレという町に行って」(参照 同2章22-23節)住みました。
恐れもまた、人生の一部であり、そのために祈りを必要とします。神は、私たちが恐れに遭わないとは約束されませんが、恐れが私たちの選択を左右することがないように、助けてくださいます。ヨセフは恐れを感じましたが、神はその恐れを乗り越えるよう導かれました。祈りの力は、闇の中に光をもたらすのです。
私は、人生の重みに押しつぶされて、希望することも、祈ることもできない人々を思います。これらの人々が、神との対話に心を開き、光と力と支えを、再び見出せるように、聖ヨセフの助けを願いたいと思います。
「祈り」とは、決して抽象的な、あるいは自分の世界だけに閉じこもった行為ではありません。祈りは、常に慈愛と密接に結びついています。祈りと隣人への愛を一致させることができるときにのみ、私たちは、主のメッセージを理解することができるでしょう。
聖ヨセフは、祈り、愛しました。それゆえに、常に人生の試練に立ち向かうために必要なものを、得ることができました。聖ヨセフに信頼し、取り次ぎを祈りましょう。
夢を見る人、聖ヨセフよ、
霊的生活を取り戻すことを教えてください。
その内的な場所で、神はご自分を啓示し、私たちを救われます。
祈りは無駄であるとの考えを私たちから取り去ってください。
一人ひとりが神のお望みに応えられるよう助けてください。
私たちの考えが聖霊の光に照らされ、
心がその力に強められますように。
そして、私たちの恐れが神の慈しみに救われますように。
アーメン。