◎教皇連続講話「祈りについて」㉖「祈りは戦い、だがイエスはいつも私たちと共にいてくださる」

Pope Francis holds general audience at the Vatican対面の一般謁見再開ーコロナは大丈夫? 

(2021.5.12 Vatican News Linda Bordoni)

  教皇は12日、コロナ対策としてバチカン宮殿から動画配信の形で続けて来られた水曜恒例の一般謁見をバチカンの聖ダマソの中庭で再開され、「祈りについて」講話で、「祈りが時として、いかに難しくなるのか」「多くの偉大なキリスト教徒が試練の時に障害と危機に打ち勝つのに、いかに悪戦苦闘するのか」について考察された。

 約半年ぶりに信者たちと交流される一般謁見を再開された教皇は、冒頭で「皆さん一人ひとりとおできるることを大変うれしく思います。私たちは神において皆兄弟で、こうして出会うことは互いのために祈ることを助けてくれるからです」と集いへの参加を感謝された。

 講話では、まず、「祈りとは一時的な気休めではありません… 聖書や教会史で出会ういかなる偉大な祈り手も、”楽な祈り”をしてはいません」とされ、「祈りは、確かに大きな安らぎを私たちに与えますが、それは時には、辛くて長い内面の戦いを通して得られるもの。決してたやすいことではありません… 私たちは、祈ろうと思っても、すぐに他の本質的でないことで気をひかれ、祈りを後回しにしてしまうことがある。敵はそうして私たちを陥れるのです」と語られた。

 そして、「神に結ばれた人たちは、祈りの喜びだけでなく、難しさや苦労にも触れています… ある聖人は何年にもわたって、祈りに何の味わいも、有益さも見出すことができませんでした」とし、「沈黙・祈り・集中は難しい。祈りたい人は、信仰とは簡単なものではなく、時には何の手がかりもない、完全な闇が生じることも忘れてはなりません」と忠告された。

 また教皇は、祈りの敵になるものとして、「祈りによって本当に神にたどり着けるのか」「なぜ神は沈黙しているのか」という疑いや、神の捉えがたさを前にしての「祈りは単なる心理的操作に過ぎない」「何かには役立つだろうが、本当に必要ではない」という思い、さらには「信じること」なしに「実践」だけをする態度、などを挙げられた。

 さらに、「祈りの最悪の敵は、私たち自身の中にあります」とされて、祈りの戦いとは、「すさみからくる失望、『たくさんの財産』を持っているためにその全てを主に差し出すことのできない悲しみ、『自分の望みどおりに願いが聞き入られない』という落胆、罪深さを考えてかたくなになる高慢の傷、祈りの無償性に対する反感、などとの戦い」と、「カトリック教会のカテキズム」( 2728項)を引用して語られた。

 続いて教皇は「私たちの心が誘惑に揺らぐ時、それを乗り越えるにはどうしたらよいでしょう」と信徒たちに問いかけられた。

 そして、そのために、「霊性の歴史の中で多くの師たちが与える助言に耳を傾けること」を勧められ、具体例として、聖イグナチオ・デ・ロヨラの著書「霊操」は「私たちの生き方を整えることを教え、キリスト教的召命とは、悪魔の旗の下ではなく、イエス・キリストの旗の下にとどまって戦う決意であり、困難の中にあっても、善を行う努力をすることだ、と教えてくれます」と有用性を解かれた。

 また、「修道生活の父」と呼ばれる聖アントニオ修道院長(251年‐356年)の祈りの戦いについて、教皇は、アレキサンドリア司教の聖アタナシオが著書「聖アントニオ伝」で記したエピソードを紹介された。聖アントニオは35歳頃に、人生で最も深刻な霊的危機の一つを体験した。彼は危機に動揺しながらも、それに耐え抜き、平安を取り戻した時、主に向かって「主よ、どこにいらしたのですか。なぜ私の苦しみを終わらせるために、すぐに来てくださらなかったのですか」と詰問した。すると、イエスは答えられた。「アントニオ、私はそこにいたのだ。しかし、おまえが戦うのを見届けるために待っていたのだ」(聖アントニオ伝、10)。

 さらに、教皇は祈りの戦いにまつわる話として、ご自身がアルゼンチンの教区で働いておられた時の体験を回想された。

 毎日曜のミサに出たことのない労働者の男性の娘さんが危篤になった。それで、彼は70キロ離れた、アルゼンチンの守護、ルハンの聖母の巡礼聖堂に出掛けた。だが、聖堂に着いた時には、すでに午後10時になっており、門が閉じられていた。それでも、彼は門の柵を握りしめ、夜明けまで祈り続け、朝の6時に門が開くと、聖堂の中に入って聖母像に挨拶して帰宅した。そして家に着くと、娘さんはすっかり回復していた。

 教皇は「彼の必死の思いが、祈りを通して、聖母の恵みを受け、聞き届けられたのです。聖母が聞き入れらたのです。私はその証人ー祈りは奇跡を起こします、なぜなら、祈りは、父として私たちをみる神の優しさに、直接届くからです」と説かれ、「私たちは、必要な時に恵みを求めますが、戦わずに、それを得ようとします… だが、祈りは戦い。主は私たちといつも共にいてくださいます」とされた。

 そして、最後に次のように締めくくられた。

 「イエスは私たちといつも共にいてくださいます。盲目になる時、私たちはイエスの存在を見ることができないが、見える時がきます… 私たちの人生の終わりに、これまでを振り返り、このように語ることができるでしょうー『私は、自分が一人だと思っていた。だが、そうではない。イエスが共におられる』と」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2021年5月12日