(2024.5.1 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは1日の水曜恒例一般謁見で、「悪徳と美徳」をテーマにして連続講話を続けられ、今回は「theological virtues=対神徳(神学的な徳目)の最初のものである信仰」、人間が自由に神に身を捧げる行為である「信仰」について語られた。
講話で教皇はまず、「3つの対神徳がなければ、私たちは暗闇でも見える目を持たず、愛されていなくても愛する心も持たず、あらゆる希望に立ち向かう希望も持たないだでしょう」と述べたうえで、アブラハムの例を取り上げ、「アブラハムは、神の命令により故郷を離れ、新天地へ向かい、神への信頼ゆえに息子イサクを喜んで犠牲にしようとしました」とされた。
そして次に、モーセも信仰の人であり、「しっかりと立って主を信頼し、しばしば信仰を欠いた人々を擁護し続けました」と語られ、さらに、聖母マリアを取り上げて、「マリアは、天使のお告げに『私は主のはしためです』と謙虚に答え、神への信頼に心が満たされて、歩むべき道も、危険も知らずに旅を始めたのです」と語られた。
また教皇は、「キリスト教徒を形成するのは、信仰です… キリスト教徒にとって重要なのは、(キリスト教の)文化を受け入れることではなく、神との関係を築くことです」と語られた。
さらに、イエスがガリラヤ湖の嵐を静めたという福音書の記述を思い起こしながら、その時に弟子たちが味わった恐怖を強調され、「信仰の敵は理性や知性ではなく、恐怖です」と指摘。
これが、「信仰こそ、キリスト教徒が人生で最初に歓迎すべき贈り物であり、子供たちが洗礼を受けるときに、親たちが、彼らのために求める贈り物である理由です」と述べられ、「親たちは、子供たちのために望んでいた贈り物を受け取ったことに気づき、『子供たちは、たとえ人生で試練に遭っても、恐怖に溺れることはない』ことを理解するのです」と語られた。
講話の最後に教皇は、「誰もが信仰を持っているわけではなく、キリスト教徒であっても信仰が不足している場合があること」を認めたうえで、「信仰は、最も幸せな賜物であり、私たちが、うらやむことを許される唯一の美徳。それは、信仰が、私たちの中に恵みを引き起こし、神の神秘に心を開くからです」と説かれ、「ですから、私たちも弟子たちと同じように、主に向かって繰り返し、このように願いましょう―『主よ、私たちの信仰を増してください!』(ルカ福音書17章5節)」と信者たちに促された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)