(2023.9.13 Vatican News By Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは13日、水曜恒例の一般謁見で、「使徒的熱意について」の連続講話を再開され、今回は、ベネズエラに忘れることのできない遺産を残した「貧しい人々の医者」、福者ホセ・グレゴリオ・エルナンデスの高潔さを取り上げられた。
教皇は講話で、まず、「福者ホセ・グレゴリオ・エルナンデスは、その聖なる模範によって、私たちにインスピレーションを与えてくれます」と強調された。
福者ホセ・グレゴリオ・エルナンデスは1864年にベネズエラのトルヒージョ州イスノトゥに生まれ、カラカスのベネズエラ中央大学の医学部を卒業後、欧米に留学、帰国後は大学で教鞭を取り、細菌学の専門家となった。医師という職業に使命を感じて、最も貧しい人々を助けたが、1899年、フランシスコ会第三会に入会。9年後、修道者となるためにイタリア・ルッカのカルトジオ会に入った。だが、病を得て祖国に帰り、数年後、再度、イタリアに戻り、ローマの教皇庁立ピオ・ラテンアメリカ神学院で神学を学んだももの、病気が再発し、帰国を余儀なくされた。このような経験を通し、彼は「信徒の立場に留まりながら神と人々に仕える」という召命を自覚することとなり、スペイン風邪が大流行した際には、患者たちに献身的に寄り添い、治療に尽力したが、1919年6月、カラカス市内で病気の老婦人のために薬を買いに行く途中、車にはねられて亡くなった。 聖ヨハネ・パウロ2世教皇は1986年に彼を尊者とされていた。
2021年にエルナンデス医師を列福された教皇は、他人を助けるために、無私無欲で自分のすべてを捧げた彼を振り返られ、母親から信仰を学んだことをまず取り上げ、「母はゆりかごから私に美徳を教え、神についての知識を育て、慈善を与えてくれました 」という彼の言葉を引用。「母親たちが、いかに頻繁にキリストの信仰と愛を、その言葉で子供たちに伝えているか」を強調された。
教皇は、慈善活動が、福者ホセ・グレゴリオの人生を方向付けた「北極星」であると指摘しつつ、彼を「陽気な気質を備えた、善良で明るい人物であり、際立った知性の才能に恵まれ、医師、大学教授、そして医師になりました。そして何よりも、最も弱い人の側に立った医師であり、ベネズエラでは『貧しい人々の医師』として知られていました」と説明。
さらに、「彼は、金銭的な富には興味がなく、福音の豊かさに惹かれていた。貧しい人、病人、移民、苦しみの中に、ホセ・グレゴリオはイエスを見ていました」と述べ、「自分がこの世で求めない成功を、自分のことを「民衆の聖人」、「慈善の使徒」、「希望の宣教師」と呼ぶひとたちから受け取り、受け取り続けているのです」と強調された。
またホセ・グレゴリオは「謙虚で親切な人物で、内なる炎、神と隣人に奉仕して生きたい、という願望に動かされていました… その熱意から、彼は修道者、司祭になろうと何度か試みましたが、さまざまな健康上の問題がそれを妨げました。しかし、彼の身体的弱さは、自分自身よりも他人が必要としていることに、さらに敏感にさせました。彼は、自分に与えられた使命に固執したが、『 使徒的熱意』とはまさにこのこと。自分自身の願望に従うのではなく、神の計画に応え続けることです」と説かれた。「彼は、人々の痛みに奉仕する”聖職の医療”を生きました」。
「では、彼は、これほどの熱意をどこから受け取ったのでしょうか」と自問された教皇は、それは「神の恵み」の確信と「神との親密さ」から来る強さの両方からだった、と指摘。また、「彼は祈りの人だった。そして、平和のために命を捧げるように召されている、と感じていました。 キリストへの信仰と愛から、『平和の使徒』となることを望んだのです」と答えられた。
彼の奉仕人生は50代前半で終わりを迎えた。ミサに出た後、病人に薬を届けるために通りを渡っている時に車にはねられ、病院に運ばれ、聖母の名前を唱えながら亡くなった。
教皇は、「彼の地上の旅はこうして終わりました… 慈しみの業を行いながら路上で事故に遭い、自らの仕事を”善の傑作”とした病院でなくなったのです」とされたうえで、信徒たちに「 自分自身に問いかけてみましょう。目の前の貧しいイエスがおられたら、自分がどう対応するでしょうか?」と促され、「福者ホセ・グレゴリオは、現在の深刻な社会的、経済的、政治的問題に向き合うよう、私たちを励ましているのです」と強調された。
そして、助けを求める人々に寄り添い、平和の推進に努めることによって「自らの手を汚す」という、キリスト教徒に求められていることの模範として、ホセ・グレゴリオを讃えられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)