(2021.10.20 Vatican News By Christopher Wells)
教皇フランシスコは20日、水曜恒例の一般謁見で、聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」をテーマとした講話を続けられ、今回は「キリスト教の自由は、他の人々に奉仕することで表現されていること」を重点に語られた。
教皇は、まず、「私たちが、キリストを通して、恐れと罪の奴隷状態から、神の子の自由に変わった」ことを思い起こされ、キリスト教の自由の中心にあるものについてのより深い理解に導かれた。
教皇は「自由は、”免許証”とは大きく異るもの。私たちが利己的な欲求に屈するところにはありません。自由は、私たちを他者への奉仕に導きます」とされ、 「真の自由は、愛の中に完全に愛で表現されるのです」と強調。
*奉仕の自由
しかし、このことは、私たちを”福音のパラドックス”ー「『奉仕』することで『自由』にされ、『自分自身を捧げる』ことで完全に『自分自身を見つける』、『命を失う』ことで『命を得る』というパラドックスに導くことになる」と指摘され、「このパラドックスは愛によってのみ、説明できます。私たちを自由にしたのはキリストの愛であり、私たちを最悪の奴隷状態、つまり自己の奴隷状態から自由にしたのは、愛です。ですから、自由は、愛とともに成長するのです」と説かれた。
*他者のための自由
さらに教皇は、「聖パウロにとって、愛は『自分が好きなようにすること』を意味しません。単に自分自身を喜ばせるために行動するなら、私たちは虚しさに気づきます。自由は豊かで、偽りがない、他者のために使われる場合にのみ、実際の日々の生活に関わります」とし、「聖パウロは『すべてのものは合法である』と認めていますが、『すべてのものが、有用、あるいは啓発的であるとか限らない』とも語っています。『自己奉仕の自由』という考えに対して、聖パウロが『愛の求め』を置きます。愛に導かれる自由は、私たち自身と他者を自由にする唯一のものです」と語られた。
*共通善
また、「私の自由はあなたの自由が始まるところで終わる」という現代的な考えに対して、聖パウロはキリスト教の自由、つまりイエスによって与えられた自由を考えている。それは、自己を他者と分けず、共同体社会を構成する一部であり、そうした社会的側面はキリスト教徒にとって基本的なもの。それが、私益ではなく公益に目を向けることを可能にします」とされ、このような自由についての理解は、「新型コロナウイルスの世界的大感染が『お互いをどれだけ必要としているか』を私たちに痛感させた今、特に重要です」と説かれた。
*無償の愛の中で自由は成長する
そして教皇は、「そのような理解だけでは十分ではありません。私たちは日々、具体的にそれを選ぶ必要があります」として、こう締めくくられた。「他者は、私の自由を妨げない、自由を完全に実現するのを可能にするのだ、と口にし、信じましょう。なぜなら、私たちの自由は神の愛から生まれ、無償の愛の中で成長するからです」。