(2021.9.8 Vatican News By Benedict Mayaki, SJ)
教皇フランシスコは8日、水曜恒例の一般謁見で聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」についての講話をお続けになり、「キリストにおけるすべてのキリスト教徒の平等」を強調、「信仰においてキリストを受け入れる人は、誰もが洗礼を通して、キリストと神の子にふさわしい尊厳を身につけるのです」と語られた。
講話で教皇は、ガラテヤの信徒たちに、告げられた神の啓示の目新しさを忘れないように、とのパウロが説かれたことに注目。私たちが真に神となり、神の相続人である子供になることを可能にした、イエスへの信仰を強調していること、を指摘された。
*キリストを受け入れる人は神の子にふさわしい尊厳を身につける
「ですから、キリスト教徒たちは、はっきりと意識して受け取った素晴らしい賜物を生かすために、洗礼を受けた瞬間を、感謝をもって思い起こす必要があります」と強調。イエス・キリストにおいて「信仰がもたらされた」ことで、「神の子供たちとなる根底的に新しい条件が作り出されたのです」と説かれた。
そして「同じ創造主の息子と娘である限り、すべての男性と女性が含まれる訳ではなく、信仰が、私たちに、キリストにおいて、神の子供たちとなることを可能にする」とされ、 こうして、「キリストにおいて神の子供であることは、違いを生みます。なぜなら、イエスは、人となられたことで私たちの兄弟となり、死と復活によって私たちを父と和解させてくださったからです。 ですから、キリストを信じて受け入れる人は誰でも、洗礼を受けることでキリストと神の子に相応しい尊厳を身につけるのです」と強調された。
*洗礼は私たちは変える
教皇は、聖パウロが、新約聖書にある何通もの手紙の中で洗礼について何度か言及していることに触れ、「パウロにとって、洗礼を受けることは、イエスの奥義に効果的かつ真に参加することと同じでした」とされた。
そして、「たとえば、ローマの信徒への手紙の中で、パウロは『私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました… 私たちも新しい命に生きるためです』(6章4節)と語っています。洗礼は単なる外見的な儀式ではなく、洗礼を受けた人は、深く変容し、新しい命を得、神に立ち返り、『アッバ、父よ』と神を呼ぶことができるようになるのです」と語られ、キリスト教徒たちに、自分が洗礼を受けた日を忘れず、その日を祝うよう、強く勧められた。
*洗礼は”違い”を超える
さらに教皇は、洗礼を受けることで受けた帰属意識は、とても新鮮で、ユダヤ人とギリシャ人、奴と自由人、男性と女性の違いを超越し、民族や宗教に存在する違いに勝る、というパウロの大胆な言明(ガリラヤの信徒への手紙3章28節)に注目。「パウロは、キリストにおいて、ユダヤ人もギリシャ人も民族・宗教の領域で真に破壊に該当することはなかった、とガラテヤの信徒たちに書いている。ユダヤ人には異教徒を超越する特権が与えられたのです」と述べられた。
これと同じく、「自由人」と「奴隷」の区別をなくすという考え方は、律法によって「自由民はすべての権利を享受する一方で、奴隷には人間としての尊厳さえ認められない」という当時の状況の中で大きな衝撃をもたらした。同様に、「男女の社会的格差を克服するキリストにおける平等」は、「当時は革命的なものでしたが、今日の世界でも、再確認される必要があります」と強調。
「このようにして、聖パウロは、洗礼を受けた全ての人の間の深い一致を確認します。なぜなら、その一人ひとりが、キリストにおいて、新たな被造物となったからです。ですから、現実に、実質的に平等に造られた神の子供たちであることの尊厳にとって、一人ひとりの差異は、二次的なものなのです」と念を押された。