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・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑳神との融合を求めるハーフェズの人生
引き続いて、筆者が日ごろ暗唱している14世紀ペルシャの大詩人ハーフェズの詩の断片を、その短形詩(ガザルという)全体とともに紹介する。
「我が心(恋)の苦しみを 涙が露わにしてしまうのを恐れる 確かに封印されていた(恋の)秘密が 世に知られるのを
(A)石は忍耐の挙句ルビーになるという然り しかし全身の血を吐いての挙句である 柳のようにすらっとした長身の汝(美女)の頭のかたくなさに いつ我が短き手は 汝の腰に届き抱擁できるのか 汝への愛の錬金術でわが顔は金色(泥色)となった なるほど汝が情けで土が金色になった
(B)あらゆる方向から願の矢を放った そのうちの一つでも当たれば良いではないか 泣きながら助けを求めて酒場(修道、すなわち神との融合・陶酔を求める場)に行こう
悲しみが我が手から離れるよう 果たしてかなうであろうか
(恋人を取り巻く)守り人の傲慢さに困惑する極みの中で 神よ(我が)卑しさが露呈しませんよう たくさんの醜きことにも出会わざるを得ない 正しい見方のできる人に評価されるまでは 月見の欄干のある王のあの宮殿 たくさんの(恋人を求めた者が想いをかなえられず)さらし首が宮殿の入り口にうずたか く積み上げられている (恋人に)結びあえるはずの宮殿の(城壁の)小尖塔の高みには たくさんのさらし首がその入り口に土朽れている
さあ我らが(恋の苦しみの)話を思いの人に告げよ しかし(おしゃべりな)北東風には聞かれないようにしてくれ ハーフェズよ (メス鹿の内臓に懸かる)嚢のように汝の手は(美女の)髪の毛に懸からんとする 静かにしていよう さもなくば東北風が聞き広めてしまう」
上記(A)(B)の2か所は、筆者の教訓とする詩句の断片であり、何ごとにも忍耐、あらゆる努力が肝心という、我が国も含めて世界のどこにでもある格言であろう。もっとも詩自体は、ペルシャ文学の世界からは縁遠い日本の読者には分かりずらいであろう。そこで、我々にはなじみのない詩人の人生への基本的姿勢・態度を改めて述べておこう。
神への愛の道、すなわち神との融合を求めるのがハーフェズの人生である。しかし、それは捉えたと思えばすぐに突き放されてしまう、現実の恋にも似た悲喜こもごも、容易な技ではない。涙や苦しみは日常茶飯の人生である。全身で血を吐くような苦しみ、それに耐え続けなければ目的は成就しない。
神の愛を成就するためにはあらゆる努力・工夫がいり、その過程では不愉快なこと、我が意に添わない事にもしばしば出くわさざるを得ない。わが身を貶めかねない事態も懸念される。そうした覚悟のうえで、四方八方に願の矢(祈り)を放つ。そのうち一つでも当たればよいではないか。そうした想いで苦難に立ち向かって行かなければならない。
もとより、(美女・神への)恋は己の密かな問題で外に向かって吹聴すべき問題ではないし、(恋の)痛みや苦しみで流す涙も人に知られたくはない。しかし、恋の苦しみで流す涙は、外にも見られ人にもわかってしまう。
神と融合しえない苦しみ・苦痛から、詩人の顔からは色が失せて土色となる中で、それを黄金と言っているのは、皮肉とも聞こえるが、神との融合の瞬間も体験しているからであろう。愛の錬金術と言っているが、土色の鉄を金に変えようとしたのが錬金術である。もとより神との融合は持続せず、またしても救いを求めて修道の場に戻ることになる。
以上の諸点が入り乱れて詩の中盤までに述べられている。後半のエピソードは、神との恋を果たす道がいかに険しきものかを、月見(月は美女の象徴)の欄干のある宮殿にたとえている。
美女(神)の住む城は、兵に守られ近づくことさえかなわない。これまでどれほどたくさんの者が、美女(神の表象)を求めて城壁を上ろうとして果たせなかったか。城の高い尖塔の足元にはそうした者たちの髑髏(どくろ)がうずたかく積み上げられている。
最後のメス鹿の袋とは、ホタン(中国西部に位置する、かつてはシルクロードで栄えオアシスの町)に産する鹿で、メス鹿の体内にぶら下がるオレンジ大の嚢は、香料として珍重された。鹿の内臓に垂れ下がる嚢に連想されて、ハーフェズは我が手が美女の髪を捉えて(美女に)ぶら下がろうとする、すなわち神との愛の成就を予感している。まさに色を失い黄色ばんだ顔が金色に輝こうとしている。
しかし、そのことは我が秘め事であり、我が恋の苦しみは北東風には悟られず美女(神)のみに伝わってほしい。ペルシャの文学では、北東風は秘密をあまねく広める役回りであり、北東風に悟られず、というのは、世間に知られとやかく言われないように、ということである。
(駒野欽一=元イラン大使)
・WYDに参加して①「苛酷な環境、でも様々な国の仲間から多くのメッセージをもらった」(土屋みほ)
(2019.3.10 カトリック・あい)
1月にパナマで開かれたワールドユースデー(世界青年の日、WYD)大会には、日本からも若い人々が参加しました。このほど、参加者の土屋みほさん(横浜教区・茅ヶ崎教会)と吉松愛さん(東京教区・碑文谷教会がその体験、感想をお寄せくださいました。以下に①②として掲載いたします。
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「苛酷な環境、でも様々な国の仲間から多くのメッセージをもらった」・・・土屋みほ(横浜教区茅ヶ崎教会)
私は今回、ワールドユースデーパナマ大会にはじめて参加し、日本中、世界中の仲間と数々の貴重な体験や祈りの日々をともにしました。
プログラム前半の4日間は、パナマシティでの本大会に向けての準備期間ということで、チトレという、空港からバスで約6時間の町に滞在し、チトレ教区での日々を過ごしました。そこではエコロジー活動としての植樹や、ボランティア活動としての老人ホームでのダンスなど、一人一人が選んだアクティビティに参加し現地の方々を中心に、様々な人と交流を行いました。また、近くの大きい公園(広場)で、チトレ教区に滞在した数千人と共にミサに預かったり、カテドラル周辺でパレードが行われたりと、町中が歓迎と喜びの雰囲気に満たされました。
プログラム後半の7日間は、パナマシティでの本大会(教皇主催の大会)のプログラムでした。初日は教皇歓迎式典にて教皇様をお迎えし、その後は各国や地域、教区などに分かれてカテケージスを行いました。日本巡礼団は歓迎式典の開催場所から地下鉄で2駅の所にある、聖マリア教会(St. Mary church)を拠点とし、本大会プログラムに参加しました。そして十字架の道行、数十キロに及ぶ徒歩巡礼を経て、徹夜祭(野外宿泊)、閉会ミサに預かりました。最終日はパナマ市街地の訪問やパナマ運河の見学など、観光の1日でした。
日本巡礼団としては1月16日から1月31日までの約2週間の日程が組まれ、カナダのトロント経由で経て日本~パナマ間を移動するという、片道約30時間超の長旅でしたが、大きな怪我や病気も無く、全員が無事に行って帰ることができました。日本で私たちの無事を祈って下さった全ての方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。
日本からは司教、司祭、シスター、青年合わせて54名の参加でした。中でも、高校生や大学生、社会人など様々な立場や年齢の仲間と共にワールドユースデーに参加出来たことは、私にとっても、新しい発見や学びを得た貴重な機会となりました。
様々な国の人々と、ひとりの神様を見つめ続ける2週間、また、自分を見つめ続ける2週間。平均気温30度以上、湿度70%前後、ほぼ毎日、数十万人規模の集まりに参加する、という、正直言って、過酷な環境であったことは否定できません。
でも、生まれ育った環境も、使う言語も、肌の色や目の色も違う人々が大切な人たちのことを思い、祈り、そして歌い、抱き合って、どんな人も変わらない体温に触れている姿は、平和そのものを象徴しているのだなぁ、と強く感じました。
見るだけでなく、触れること。家のソファに座って、液晶画面越しの世界を知る、知った気になるのではなく、実際に外の空気に触れてみること。人に触れること、心や声に触れてみること。平和のはじまりは、ともに祈ること。ともに歌うこと。少しだけ、外に出てみること。誰か、何かに触れること。神様からだけでなく、名前も知らない無数の仲間からも、たくさんの大切なメッセージを貰いました。
・WYDに参加して②「国を超えた大勢の仲間、ともに祈る中に『神様がいる』と確信」(吉松愛)
(2019.3.10 カトリック・あい)
1月にパナマで開かれたワールドユースデー(世界青年の日、WYD)大会には、日本からも若い人々が参加しました。このほど、参加者の土屋みほさん(横浜教区・茅ヶ崎教会)と吉松愛さん(東京教区・碑文谷教会)がその体験、感想をお寄せくださいました。以下に①②として掲載いたします。
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②ともに祈る中に、神様がいる、と確信した・・・吉松愛(東京教区・碑文谷教会)
今年の始め、私は公式日本巡礼団の一人としてワールドユースデー・パナマ大会に参加しました。約2週間のプログラムはちょうど大学の期末試験期間中でしたが、事前にテストやレポート提出をさせてもらって、参加することとなりました。全56名のうち全国の教区から集まった若者は45名で、私と似たような状況の青年、有給休暇をまとめて取ってきた社会人の方などがいました。
約2週間のうち、首都パナマシティの本大会は6日間で、大会前の期間、私達は本大会会場から車で4時間程のチトレ地区でホームステイし、準備期間を過ごしました。本大会を翌週に控え、複数国の巡礼団を受け入れていたチトレ地区は、毎日がお祭りのような盛り上がりでした。この場所で私は、ベタな言い方になりますが、愛を感じました。ホームステイ先は賑やかで温かく、日本人の口に合うような食事を用意してくださり、近所の人や家族親戚がよく出入りして言語の壁など忘れる程に時間の許す限りお喋りしました。
ここで過ごすうちに、東京で常に何かに追われるように送ってきた日々から徐々に解放されました。また、毎日、各国の青年と共にミサに与り、自分が信者であることに改めて感謝しました。特に滞在2日目、夕方の野外ミサで私は第一朗読を読ませていただきました。ヘブライ人への手紙を日本語で読んだ後、“Palabra de Dios”と言うと“Palabra de Dios”と返って来ました。
この時の一致感、「共に祈っている」という意識が忘れられません。その時、「ここに神様がいる」と確信しました。チトレでの日々があったからこそ、私の心は解きほぐされ、本大会に臨むことができました。
本大会期間、道や電車には常に人が溢れていました。ここで、日本巡礼団は小グループに分かれて、分かち合いや本大会プログラムに臨みました。私の班は年齢も性格も異なる5人でしたが、何度思い返しても、この5人で良かったと思います。そして何よりも、教皇様を間近で拝見できたことが、いまだに信じられません。会場中がヒートアップしてもみくちゃになりながら “Esta es la juventud de el Papa!”と全員で何度も叫びました。
人の多さと炎天下の為に、体調不良者が相次ぎましたが、それだけの人が同じ目的でここに集っている、いう状況に胸が一杯になりました。カトリックがマイノリティである日本にいたら気づきませんでしたが、少し飛び出してみたら、これ程の数の同世代の家族がいたことを知りました。このことを知れた私は強められたと思います。
日本で元の生活に戻ってひと月半経ちますが、今まで自分がカトリックであることを知らなかった人達にも、パナマでの経験を話せるようになりました。私にとってワールドユースデーは今回きりの経験になるでしょう。しかし、この一度の経験が、これからの自分の人生に大きな影響を与えるだろう、と確信しています。
改めてワールドユースデーを開いてくださった教皇様、この大会の存在を教えてくださった神父様、家族、出会った人々、濃密な6日間を共に過ごした大切な友人たち、そして神様に感謝します。今回のテーマ「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」に倣い、神様の道具として今の教会を動かすエンジンとなれますように。
・Sr.阿部のバンコク通信㉚ガルシアさんの訃報-祈りと医療に一生を捧げ、日本兵への感謝も忘れず…
先日、敬愛するドメニカ ・ガルシアさんが、安らかに天に召されたとの連絡がありました。フィリピ ンのサンロレンソの出身。貧 しく弱い人々の傍に立ち、全き奉仕の生涯を生きた女医。毎朝のミサに始まり、祈り、医療活動に身も魂も投じ、「神 の名は慈愛」を証しした、85年の生涯。叱咤激励してくれた人生の、カトリック教徒の大先 輩でした。
ガルシアさんとは、私が25年前にタイに来て、間もなく親しくなりました。当時、バンコクの拘置所には常時5千人前後の 不法滞在者が収容されていました。1987年にタイに来た彼女は30年余にわたって、拘置所にあるJRS( イエズス会難民司牧)クリニックの医師として活躍するかたわら、国境沿 いのジャングルに潜む難民、北部の山奥の山岳民の村々をまわって治療 にあたりました。薬と食料品を満載、協力する友人や看護師を連れ、時には警 察の目を避けて、抜け道を通って、彼らに会いに行かれました。私も都合がつく限り、拘置所や巡回治療にご一緒しましたが、表 立っては見えないタイの”ゲッセマネ”の主の兄弟に出会う機会となりました。
タイに来る前のガルシアさんは、マルコス政権下の母国フィリピンを拠点に、クメール・ルージュ政権下のカンボジア国境、べトナムからの難民キャンプ、タイとラオス国境のノンカイ、マレーシ ア…と、国連機関からの要請を受けて各地に飛び、全力投球で奉仕されました。タイに来てからも、難民認定の為の検診書類作成や、数えきれない難民を受け入 れ国へ同伴なさいました。
彼女が私に、こう話したことがありました-「私は日本の兵士に救われました。高熱で瀕死の私を毛布で包み、 昼夜交代で抱き、看護して、命を救ってくれたのです」。フィリピン唯一の聖人、聖ロレンソ・ ルイス( 1636 年にドミニコ会の宣教師とともに来日、長崎で処刑され、聖トマス西と15殉教者の一人として列聖された)や、第二次大戦中、フィリピンに駐屯した日本兵への熱き思いを、飽くことなく語り、彼らが歌った日本語の童謡も聞かせてくれたガルシア先生。天国へ の凱旋を祝い、ご安息を心よりお祈りいたします。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
・菊地大司教の日記㊻教皇フランシスコ3・八王子教会で堅信式、そして新潟へ
2019年3月 3日 (日)
教皇フランシスコ 3
教会は、聖霊によって守り導かれているのですから、わたしたちは安心して集っていることができるはずなのです。
しかし現実はそんなに簡単ではない。社会は少子高齢化だ。その直撃を受けて、教会も少子高齢化。戦後に相次いで建てられた聖堂は、そろそろ補修が必要だ。なかには建て替えも考えなくてはならないところもある。災害が相次ぎますから、耐震工事も不可欠だ。
教会共同体の運営に関わってくださる多くの方々は、本当に毎日、心配の種が尽きないことだと思います。そしてそのような配慮と取り組みは、この世界に現実の組織として存在する限り、不可欠であり重要です。感謝です。
でも同時に、教会は、様々な方向を向いていなくてはならないのも事実であり、常に与えられた使命を最優先に果たしていく努力も忘れることはできません。

教皇フランシスコの、「福音の喜び」にある有名な言葉です。
「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」(EG20)
物理的に今いる場所が快適かどうかと言うよりも、何も変化させずに今あるままでいることが、一番安心できる、という意味で、「快適な場所」です。
今の教会は、少なくともエネルギーに満ちあふれていると感じています。でもそのエネルギーが、ちょっと後ろ向きの積極性に使われすぎでしまっているのではないか。
前向きの積極性に使うエネルギーも大切です。様々な方向に向かって歩み出す、積極的なエネルギーも必要です。決して忘れてはならないことは、私たちにはいの一番に考えなければならない使命があること。それはイエスの福音をなんとしてでも一人でも多くの人に伝えること。言葉と行いであかしをすること。そこへと踏み出す勇気が必要です。
教会共同体は、快適にそこに留まるためにエネルギーをため込むのではなく、ともに祈りミサにあずかることで、聖霊のエネルギーを頂き、それを充填し、勇気を持って外へと送り出すためにエネルギーを発生させる。そんな存在であったらばと思います。
教会が、福音をあかしするための、エネルギー発電所になりますように。
八王子教会で堅信式、そして新潟へ
先週の日曜日、2月24日は、八王子教会を訪問し、10時からの主日ミサの中で、五名の方が堅信の秘跡を受けられました。
堅信の秘跡を受けられた皆さん、おめでとうございます。ミサ後には、受堅者を囲んで、お隣の幼稚園ホールをおかりして、祝賀会もありました。
八王子教会の主任は東京教区の辻神父様。助任が、4月の人事異動で秋津教会の主任へ転任することが決まっている野口神父様です。教区の神学生の小田君も、現在八王子教会に滞在中です。八王子教会には力強い侍者団がおられ、この日のミサは香炉もつかって大変荘厳な雰囲気でありました。
八王子の町へ足を踏み入れたのは、たぶん40年ほどぶりかと思います。中学生の頃に一度、八王子教会を訪れたと記憶しています。その当時の教会周囲を記憶しているわけではないのですが、今回は、教会の周囲に高層マンションが建ち並び、また新しいマンションの工事も進んでるのを目の当たりにしました。なにか、教会がマンションの谷間にあるような、そんな町になっていました。
聖堂は一杯でしたし、聖歌もすばらしく、教会共同体全体にみなぎっている活発なエネルギーを感じさせられました。
さてそんな八王子教会訪問をおえ、先週は司祭の月例集会やカリタスジャパンの会議などを経て、金曜日の夜には新潟へ移動。
3月2日の土曜日は、この季節の新潟にしてはまずめずらしい快晴に恵まれたなか、新潟地区の信徒使徒職協議会総会が開催され、出席してきました。
第二バチカン公会議直後に、盛んに言われた信徒使徒職ですが、その頃から新潟教区には、各地区に信徒使徒職協議会が設置され、信徒が主導する様々な活動が行われてきました。
私が2004年に新潟に赴任してからは、教区全体の信徒と修道者、司祭の代表で様々な意見を交換する教区宣教司牧評議会を立ち上げましたが、これまでの経緯もあり、各地区での信徒使徒職協議会は、信徒をとりまとめる場として機能し続けています。
新潟地区は、新潟、佐渡、青山、寺尾、花園、鳥屋野、亀田、白根で構成されています。合併で新潟市になった新津は、以前の経緯もあり今の時点では隣の新発田地区に属しています。

これらの教会から、司祭団と信徒の代表が集まり、参加者は七〇名ほどでしたでしょうか。私が「あらためて福音宣教について考える」というテーマで一時間お話をさせて頂き、その後1時間でグループの分かち合い。皆で一緒にお弁当の昼食を頂いて、午後一時半から派遣ミサで終了となりました。
小さいけれども、コンスタントに活動を続けている教区です。この十年ほど、全体的な人口は減少していますが、成人洗礼の数はほぼ変わっていません。もちろん少子化の影響もあり、幼児洗礼は減っているのは事実ですが、まだまだ教会にはできることがたくさんあります。いま必要なのは、新しい牧者でしょう。司教の誕生を待っている教区です。
一日もはやく、教皇様が新潟のために新しい司教を任命してくださるように祈っていますし、皆様にもお祈りをお願いします。
よく、前任者である私が後継者を指名するとか、いろいろな噂があるようですが、残念ながら、前任者が後任選びに関わる余地はそれほどありません。
実際の新しい司教の任命は、その国を担当する教皇大使が中心になって候補者を選び、いろいろな人の意見を聴取しての調査をおこない、それに基づいて教皇庁の福音宣教省の枢機卿委員会議で選任が進められ、最終的に福音宣教省長官がこの委員会議の結果を教皇様のところに持って行き、教皇様が最終決定をされます。
時間がかかるのは、その最初の候補者選びと調査です。手続きが早く進み、ふさわしい司教が選任されるように、聖霊の導きをどうぞお祈りください。
(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、新潟司教兼務)
・阿部仲麻呂神父の私見「性的虐待へ個人的感想と解決策の提言」
■個人的な感慨;
*「名前をもつ、かけがえのない、ひとりの尊い人間」として被害者の話を聴き、時間をかけてその境遇を理解する姿勢を見せる必要がある。匿名の統計上の話題のもってゆきかたをしないようにする、繊細で丁寧なかかわり方が重要である。
*イエス・キリストのことばが想い出された。ー「私を信じるこれらの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、その首にろばのひきうすをつけられて、海の中に投げ込まれるとしても、そのほうがその者にとっては、まだました」(マルコ福音書9章42節)。
*児童虐待・性的虐待は、子どもの成長を阻害する「犯罪」であり、それ以上に「たましいの殺人」に等しい重大問題である。
*「子どもの成長を阻害すること」は貧しい青少年を社会に増やす結果につながり、社会的文化への重大な背信行為でもある。
*児童虐待・性的虐待への積極的対応を心がけることは、貧しい青少年の諸問題を専門的に解決する使命を生きるサレジオ会の専権事項である。それゆえ、この問題に対処するための専属の会員を任命する必要がある。
■解決策としての提言;
*日本のカトリック教会全体レベルでの児童虐待問題に対処する客観的な第三者を含めた研究チームを発足させる。
*児童虐待被害者や家族のためのケアのための連絡部署を設ける(すでに在る部署を拡大専属化し活動を活性化する)。
*日本のカトリック教会の児童虐待などの調査報告書を作成して教皇に報告し、今後の具体的刷新策を社会的にも公表する。
(2019年2月21日記)
(阿部仲麻呂=あべ・なかまろ=サレジオ修道会司祭)
・菊地大司教の日記㊺3月の予定・「聖書 聖書協会共同訳」発行記念式典@銀座教会
2019年2月27日 (水)
3月の予定
2月は、本当にあっという間に時間が過ぎ去る月だと感じます。まもなく3月ですので、主な予定を記します。
なお、すでに教区人事の公示に記載されているように、4月1日から教区本部の事務局次長が司教秘書として赴任します。神言修道会のエドガルド・ジュニア・サンティアゴ神父ですが、たぶんディンド神父と言えばご存じの方もおられるかと思います。4月1日以降は、私のスケジュール管理をはじめ司教へのさまざまな問い合わせなどに、まず最初に対応する窓口となっていただく予定です。
3月2日(土) 新潟地区信徒大会、講演とミサ (新潟)
3月3日(月) 責任役員会 (教区本部)、HIV/AIDSデスク会議 (15時半、潮見)
3月5日(火) バチカンより日本へ祈りのレクイエム、コンサート
3月6日(水) 灰の水曜日ミサ (10時、関口教会)
3月7日(木) 常任司教委員会ほか (9時、潮見)
3月8日(金) ロゴス点字図書館 (午後、潮見)
3月10日(日) 一粒会総会 (関口)
3月11日(月) 司祭評議会、 東日本大震災8年追悼ミサ (14時半 カテドラル)
3月13日(水) 日本聖書協会会議 (10時半、日本聖書協会)
3月15日(金) ペトロの家会議 (14時半 教区本部)、経済問題評議会 (18時半 教区本部)
3月16日(土) アジア学院評議員会 (11時 都内)、 宣教司牧評議会 (14時半 教区本部)
3月17日(日) 「性虐待被害者のための祈りと償いの日」の集いとミサ (13時半、新潟教会)
3月18日(月) 新潟教区顧問会、司祭代表会議 (午後、新潟教区本部)
3月19日(火) 新潟司祭代表会議 (午前、新潟教区本部)、ロゴス点字図書館理事会 (14時半、潮見)
3月20日(水)~23日(土) カリタスアジア総会 (バンコク)
3月24日(日) 北町教会60周年ミサ (9時半)、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」晩の祈り (17時、カテドラル)
3月25日(月) 司祭月例会 (午前中、教区本部)、滞日外国人司牧関連会議 (13時半、教区本部)
3月26日(火)~29日(金) 国際カリタス理事会 (ウィーン)
3月31日(日) 茂原教会四旬節黙想会 (9時半講話、11時ミサ、茂原教会)
「聖書 聖書協会共同訳」発行記念の式典@銀座教会
日本聖書協会が推進役となり事業が進められてきた、いわゆる「共同訳」の新しい聖書が完成したのは、ご存じの通りです。今回は推進役となった聖書協会の名前を取り、「聖書 聖書協会共同訳」と命名されています。昨年12月に発行されました。
その発行を記念して、記念の講演会と奉献式が、2月22日の金曜日の午後、銀座教会を会場に行われましたので、参加してまいりました。
日本聖書協会には、その理事会にカトリック教会からも理事を出しており、これまでは横浜教区の梅村司教様が務めてくださいましたが、今年から私が理事に入ることになりました。
今回の新しい翻訳事業は、すでに2003年頃から始められており、1987年に発行された「新共同訳」以来、31年ぶりの新しい翻訳の登場となります。プロテスタント諸教会の専門家とカトリックの専門家が協力し合って完成した、一大事業です。
その翻訳方針は、いくつかありますが、特に「日本の教会の標準訳聖書となること」を目指し、「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指」して、作業が続けられました。聖書学の専門家とともに、日本語の専門家や、現場での司牧者も、様々なレベルで加わり、共同作業で完成した翻訳です。
カトリック司教協議会は2010年2月の司教総会で、今回の翻訳事業をカトリックとプロテスタントとの共同事業として認めています。聖書協会の事業の経緯や翻訳への取り組みは、こちらのリンクをご覧ください。聖書協会ホームページ上のPDF文書へのリンクです。
長い年月にわたって、今回の翻訳事業のために献身された多くの専門家の方々、聖書協会の関係者のみなさま、本当にご苦労様でした。御献身に、心から感謝申し上げます。
「自分の人生の60代のすべてを、この翻訳事業のためにささげた」とお話しくださった専門委員の方もおられました。聖書翻訳という歴史に残る事業のために力を尽くしてくださった皆様に、感謝します。

当日の講演会は、オランダで同じく共同訳の聖書翻訳に携わられたローレンス・デ・ヴリース教授による「神の言葉と、今を生きるわたしたち」と題したお話で、どうして聖書の翻訳をし続けていくのかと、翻訳をあらため続ける意義についてお話しくださいました。
銀座教会には一杯になるほどの関係者が集まり、講演会後には祈りの式を持って新しい翻訳を奉献。式では聖書協会理事長の大宮溥先生が説教され、カトリックを代表して私が、そして聖公会を代表して総主事の矢萩新一司祭が祝辞を述べました。
奉献式後には、会場を近くのホテルに移し、さらにたくさんの諸教会関係者が参加し祝賀会。ここではカトリックを代表して、梅村司教が祝辞を述べられました。
聖書研究や個人での使用については、どうぞ積極的にご利用ください。公式の典礼における朗読などでの利用に関しては、司教団として検討をさらに深めているところです。
(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)(「司教の日記」よりご本人の了承を得て転載しています)
・三輪先生の時々の思い➀「特攻死は自殺にあらず」-イエズス会士と川端康成は同じ論理だった
以前に私のアメリカ留学時代の経験として倫理学特殊問題の教室で、イエズス会神父の裁断について書いた記憶がある。それが本紙の為であったかは定かではないのだが。それは太平洋戦争末期に起こったいわゆる「特攻」作戦についてであった。
神父で教授の先生が「特攻作戦で死んだ日本軍の兵士の死は自殺であったか、それとも通常の戦場の死と同等であったか」との設問を、まだハイティーンに過ぎない若者も交じっている教室で発したのである。そこはワシントンのジョージタウン大学であった。学生はほとんどがアイルランド系のカトリック信徒である。男子校であり、みんなそれぞれの信念のもとでマッチョを建前としていた時代の事である。
「自殺」はキリスト教では、「大罪」であり、死後の行き先は懲罰の地獄である、とされていた。神父による葬儀はご法度で、かような死に方を選んだ者の亡骸は、村はずれの細道の十字路の真ん中に埋められ、通行人の土足で蹴散らされるようにされていた。
特攻は私にとっては「英雄死」であって、当時のアメリカの男性文化のなかでは、やはり「勇気ある者」の「名誉ある死」でなければならなかった。それを裏書きするように、突っ込んだ米空母の甲板上に投げ出された日本軍人をアメリカ人艦長が、アメリカ軍人の名誉ある死と同等にあつかって、「国旗」-おそらく特攻兵士がたすき掛けにしていた日章旗-に包んで栄誉ある水葬にしたというエピソードが伝わっている。
そこに働いていた倫理は、私がジョージタウン大学で習ったと同じ論理であった。「特攻死は自殺ではない。なんとならば、特攻兵士の目的は敵艦を撃沈する事であり、その手段は自分が座乗している航空機を激突させることである。その結果として、死は予測されるが、目的ではない。」ということであった。
男性文化がマッチョで固まっていた1950年代の事、それに護られて軍国主義時代の教育の尻尾が完全に切り離されていなかった私にとって、その裁断は「詭弁」そのものに聞こえた。しかしキリスト教を土台とする倫理学で「自殺」に非ず、と裁断されて、ほっとしたのも事実であった。御国のために命を捧げた特攻兵士等が地獄に落ちるなど到底、肯んじることなど出来ない相談であったから、私は救われた想いであった。
それから幾星霜。「特攻死は自殺であったか否か」という命題も遠い昔の事になっていた。それが最近、忽然と意識にのぼった。
あの日本のノーベル賞作家として第一号であった川端康成が、私が英語では嘲笑的に使われる「詭弁」の代名詞のような「ジェズイティカル」と呼んで憚らない知識人もいるだろう、と予想される論理で、特攻兵士の死に言及しているのを発見したのである。それは敗戦の翌年1946年の7月『婦人文庫』に「生命の樹」と題して発表された小説においてであった。
そこには九州の特攻基地で働いていた若い女性の主人公の言葉として、こう記されているー「強いられた死、作られた死、演じられた死ではあったろうが、ほんとうは、あれは死というものではなかったようにも思う。ただ、行為の結果が死となるのであった。行為が同時に死なのであった。しかし、死は目的ではなかった。自殺とはちがっていた」(『戦後占領期短編小説コレクション(1)1945-46年』、藤原書店、2007年、96頁)。
私が1954年頃に、アメリカの大学で、倫理学の特殊問題として、イエズス会士の神父で教授のヒュウ先生から学んだ「特攻死は自殺に非ず」の論理構成は、日本国敗戦の翌年発表された作家、川端康成の論理と全く同じなのであった。後にノーベル文学賞を受ける川端は、敗戦翌年のこの時、46歳であった。
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)
・Sr.石野の思い出あれこれ⑧ 病臥の母に挨拶して家を出る-歩いて修道院へ
行くべき道は決まった。行き着くところは? 聖パウロ女子修道会。出版物によって布教(今は宣教と言うが、当時は布教と言った)する修道会ということは何回も聞いていた。だけど、詳しいことは何も知らなかった。修道会に入ってから勉強をしていろいろなことを知った。
この修道会は、1915年8月6日、聖パウロ会の司祭、福者ヤコブ・アルベリオーネ神父によって、北イタアのピエモンテ州にある小さな町アルバに創立された。それより一年前に既に創立されていた男子の聖パウロ修道会の傍らにあって、出版活動によってすべての人にキリストのメッセージを伝えることを目的として設立された女子修道会である。
当時、出版物は悪い思想を普及する手段として、教会はこれを危険視し、読んではいけない本のリスト、禁書目録まで発行していた。アルベリオーネ神父は考えた。「悪を広げるための手段」を「善を普及する手段」に変えようと、修道会の設立にあたった。
40年近く経った1950年代初頭、教皇庁は聖パウロ修道会と聖パウロ女子修道会を「出版、映画、ラジオ、テレビ、および人類の進歩が提供し、時代の状況と必要が求める、より迅速で効果的な手段を用いて使徒職活動をおこなうこと」を目的とする修道会と認め、最終認可を与えた。
修道会創設から100年以上の月日が流れた。この間に印刷物による布教活動に始まった修道会の活動は、世界の変化や、技術の進歩に伴い、コンピュータ、インターネット、スマートフォンなど新しい手段を次々と取り入れ、活動分野を広げている。しかし創立当初の精神と理念は変わることなく、今も会員たちは、神から与えられた道をしっかりと歩み続けている。
貧しさのうちに誕生した修道会は成長し、イタリア全土はもとより外国にも活動の場を広げていった。1948年8月6日、イタリアから最初に日本に送られた三人の修道女が横浜港の地を踏んだ。そして、翌年の1949年10月7日。ロザリオの聖母の祝日が、わたしの修道会入会の日と決められた。喜びと不安、希望と心配が入り混じる心でわたしはその日を迎えた。準備は万端整った。
友人たちが修道院まで見送ると言って幾人か我が家に集まった。わたしは緊張していた。相変わらず母は病臥していた。その枕元に行って挨拶をしなければならない。思っただけでも胸が詰まる。勇気を出して母の側に行き座って母の顔を見ながら「お母さん行きます」とわたしは挨拶した。行ったら帰らない覚悟だったから、「行ってきます」とは言わなかった。
黙ってうなずいた母の目にうっすらと涙が浮かんだ。わたしの目にはさらに大きな涙があふれ出た。急いでトイレに駆け込み思いっきり泣いてから、腫れた目のまま、わたしは友達が待っている庭に出た。友達がそれぞれ荷物を持ってくれた。そして父がお布団を一組、自転車の後ろの荷台に縛り付けて、わたしたちと一緒に歩いてくれた。
当時はマイカーなんてなかった。修道院まではゆっくり歩いても50分。午後3時過ぎ、わたしは入会志願者として、聖パウロ女子修道会の敷居をまたいだ。わたしの心にはこれからの生活に対する大きな希望と、去りゆく父や友の姿を見ながらの寂しい気持ちとが混在した。
家族や友人が去り、シスターたちとだけ残ったわたしの心は緊張よりも、うっすらした喜びと安心感に満たされた。今日からここがわたしの家。ここでわたしはすべてを神様のために捧げる。そんな思いで満たされた。
( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)
・Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」㉘「私」は「私たち」でない?-京都の大浴場で考えた
うわさには聞いていたが、目にするのは初めてだった。
2月下旬、学会出席で久しぶりに訪れた京都での出来事だ。錦市場で食べたみたらし団子の味は驚くほど味がなかったな――などと考えながらホテルの大浴場へ入った。そこで遭遇したのは、水着で入浴するという外国人女性ペアの蛮行だった。
同じ東アジアからの旅行客と見えた2人は、水着のままボディーソープを体に塗りたくり、それをシャワーで軽く流しただけで湯船に体を沈める。これを文字にしただけでは、さほどの違和感は生じないかも知れない。しかし、彼女たちの様子を実際に目にしてしまうと、裸の身には著しく不快だった。湯が石鹸で汚れる、不潔だ、とにかくマナー違反だ――と、「なぜそれが問題か?」を胸の内であれこれと理屈建てしてみたが、とにかく甚だしく不快なのだ。
大浴場に居合わせた数人の日本人客は、誰も彼女たちと同じ浴槽に入ろうとはしない。お湯につかるのをあきらめて、帰ってしまう年配客もいた。誰かがフロントに通報してくれたおかげで、しばらくするとホテルの従業員が大浴場に姿を見せた。スタッフに注意を受けた2人は、すごすごと脱衣場へと退散して行った。ようやくホッとした空気が浴室内に広がり、「私たち」はゆっくりくつろいで入浴を楽しむことができたのだった。
日本のマナーを守らない外国人に、「私たち」は不快な思いをした――と、ここまで書きながら、私自身が「私たち」でなかった経験をしたことを思い出した。
あれは英国中部の街に暮らしていた頃、市内にオープンしたラーメン店で久しぶりの日本の味を堪能した時のことだ。結構な人気を博していた店内は、英国人であふれており、日本人は私ひとりだった。注文した味噌ラーメンをおいしくいただいたのだが、店内が妙に静かなことに気がついた。
周囲を見回して驚いた。英国人はみな、音を立てないように細心の注意を払って麺を口に運び、汁はスプーンで静かにすくって、それが西洋料理のスープであるかのように「マナー」を守って飲んでいた。器を手で持ち上げ、音を立てて汁をすするという暴挙をしでかした私は、赤面する思いだった。日本人である私が、日本流の料理を、日本式に食べても、その地が英国だということで、私自身は「私たち」でなかったのだ。
東京でも似たような経験をした。和風スパゲティを出すという専門店を初めて訪れ、明太子スパゲティを注文した。運ばれて来た料理は十分に食欲をそそるものだったが、添えられていたのは割り箸のみだった。「箸でスパゲティを食べてもおいしくない! フォークを持ってきて」と従業員に私は求めた。私の隣席にアングロサクソン系の男性が座っているのに気づいたのは、店員を呼んだ後だった。彼はペーパーバックを左手に、割り箸で優雅にスパゲティを食べ進めているではないか。もちろん、他の大勢の日本人客と同様に。ここでも私は、「私たち」でなかったのである。
この4月から日本は、日本人と外国人が本格的に共生する社会へ大きな一歩を踏み出す。「私たち」は、さまざまな人々から成る「彼ら」と共に暮らすことを求められる。多文化共生と口にするのは、たやすい。だが問題は、大浴場やラーメン、スパゲティだけにとどまらない。異文化が交錯するトラブルを乗り越え、習慣とマナーを共有する必要がある。
そんな社会に、「私たち」の私はきちんと適応できるだろうか? 同じ日本に長く暮らしながら、薄味のみたらし団子に首をひねってしまう自分に間口の狭さに、私はまだ覚悟を決められないでいる。
(みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス―看取りのカルテ』=幻冬舎=が昨夏、文庫化されました。クレーム集中病院を舞台に医療崩壊の危機と医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた長編小説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=も好評発売中
・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑲友がサアディの詩に託した東日本大震災への哀悼
イスラム世界に大きな役割を果たしたペルシャ文化、その華であるペルシャ詩の巨星、14世紀の詩人ハーフェズの詩の紹介である。筆者が日ごろ暗唱し自らへの励み、教訓としているハーフェズの詩の断片を、サアディが詠んだ以下の短形詩(ガザルという)全体とともに解説する。
「夜泣き鶯(詩人自身のこと)は 心に血を流しながら 花(詩人最愛の息子)を育んだ(神が吹かせた)見えざる風により(花弁は散り)百ものとげが夜泣き鶯の心に突き刺さる オウム(同じく詩人自身)は(大好物の)砂糖(同じく詩人の最愛の息子)を思い浮かべて 心楽しかった
『突然虚無の大岩がすべての夢を木っ端みじんにした』 我が目を輝かす源 かの心の果実 楽しい思い出(いずれも息子のこと)自らはさっと行ってしまった 我には苦難が残される 隊商の先導者よ 我が荷物が落ちた 神よ助けたまえ 恵みを信じてこの隊商に加わったのに 土色の顔 滂沱の涙の我を見下すことなかれ
大空の下 わら入りの泥で作られた楽しみの場(流転する現世におけるハーフェズの詩作品)は(土色の顔に滂沱の涙を流す)我が作 ああ何ということか 天空の月は嫉妬して悪しき目 我が月のごとき弓のような額(美男子の息子)は墓を住処とした 王手に差し掛かった時ハーフェズはチャンスを生かせなかった いかんせん 運命のいたずらは我を金縛りにした」。
筆者が暗唱している『 』の部分は、かつて本コラム冒頭で紹介した通り、筆者がペルシャ文学に開眼したハーフェズの一句である。3.11東日本大震災に際して、ペルシャの詩を読み上げて弔意と哀悼の意を伝えてくれたイランの友人。その詩心にいたく感動して、分からぬままに詩集の頁をめくる我が目を釘付けにしたのがこの一句である。未曽有の大災害に深い衝撃を受けた日本人、その一人である筆者の心にずしんと響き、その時の気持ちをぴたりと表現した一句である。
この詩をハーフェズは、最愛の息子を突然失った時に読んでいる。“シャー ラフマン”という名のハーフェズの息子は、インドへの旅行中なくなったと言われる。自慢の種であり、希望の源、将来への期待であった若き息子の突然の死、あとに残されて心は真っ白になり呆然とする詩人の気持ちを伝えて余すところがない。
冒頭にある夜泣き鶯は、ペルシャ文学ではおなじみの”ボルボル”という鳥、ここではハーフェズ自身である(両者の醸し出す音色、すなわち鳥の囀りとハーフェズの詩のリズムの心地よさが共通)。心血を注いで育て上げた花、すなわち我が息子が、運命により吹き散らされ花弁は散り散りになるとともに、あとに残ったとげが夜泣き鶯、すなわちハーフェズの心に突き刺さる。
オウムもハーフェズ自身であり(オウムも喋るのを得意とする)、オウムの大好物の砂糖は息子である。その息子の突然の死は、まさにすべての夢を木っ端みじんにした。すべてを失ったハーフェズに残るのは苦難のみ、隊商すなわち神の愛を求める修行の道に加わったのも、運命の気ままに打ち勝つためであったのに、との嘆き節も禁じ得ない。そんな落胆のどん底にあっても、詩人としての自負は萎えない。むしろそれにすがらざるを得ない。
ハーフェズの顔面からは血の気は失せ、滂沱の涙、そんな我が姿を見て、日ごろの修行はどうしたのかと言って見下すことはしてくれるな、と詩人としての自負を精一杯歌い上げている。 この世の人々の楽しみは己が紡ぎだしたもの(ハーフェズの詩作)と虚勢は張ってみても、恨めしいのはこの世の運命、息子に何もしてやれなかったことを最後まで悔いている。
天空の月の「悪しき目」とは、他人に「悪しき目」でにらまれれば、「悪しき運」に侵される、との今に至るペルシャ世界の俗信を踏まえたものである。
(翻訳は筆者)(駒野欽一=元イラン大使)
・菊地大司教の日記㊹教皇フランシスコ来日に備えて2
2019年2月 6日 (水)
教皇フランシスコの言葉から。「福音の喜び」に次のような記述があります。
「神は人々を個々人としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。一人で救われる人はいません。」(EG113)
教会はいろいろな人の集まりですし、いろいろな人が集まれば、そこには様々な人間関係が生じます。時には教会の中で対立さえみられ、そのために、教会を離れてしまう人も少なくありません。残念なことだと思います。
信仰は自分と神との関係だから、一人でも大丈夫。そうなのかもしれません。でもわたしたちの信仰の歴史は、その始まりから、共同体のうちに育まれてきました。救いの歴史は、私と神とのプライベートな関係の中にあるのではなく、神とその民との関係の中で刻まれています。
教会は、単に礼拝のために人が集まる場ではなく、現実社会の中で神の民として存在するあかしとして存在し、救いの実現のために不可欠なのです。わたしたちの信仰は、教会共同体の中で育まれます。
だからこそ、教会は常に、誰かを排除していないか、対立を生み出していないか、自らのあり方を顧み続けることが必要です。よく言われるように、対話は、互いの自己主張を我慢することではありません。互いに謙遜と尊敬をもって、それぞれの人生の歴史に耳を傾け、唯一の神の懐に抱かれて、ともに救いの道を目指したいと思います。
(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)
・Sr.阿部のバンコク通信㉙聖人像を祭壇に置く仏僧に、エキュメニカルな信仰を感じる
『行って全ての人に福音を宣べる』緊急課題を実感するこの頃です 。人生の師であるイエス=福音、『私は真理、道、命である』 と宣言する方と親しく出会えたら…と願わずにいられない人々 にしばしば接する機会があり、自分の合掌する気持ちに力が入りま す。
先日、パウロ書院に、仏教の僧侶が来られました。カトリックの霊 性神学書、十字架のヨハネ、アヴィラの聖テレジアの著書などを読 まれ、これまで何体かの聖人の御像を注文されて、祭壇に飾って祈 られている、とのこと。今回も注文の聖ヨハネパウロ2世像を取りに来 られ、『大変尊敬しています』と嬉しそうに、大きな十字架像も購入されました。宗旨を超えて偉大なる方を敬い、祈祷に捧げる敬虔な姿 、エキュメニカルな信仰心を感じます。故プラサンティ僧も、 修院の祝別式に来られたり、僧院を訪ねて、神仏に仕え、人々のた めに祈る、同じ修道の道を歩む意義を熱く語らい、私たちのことを喜ん でくださいました。
早朝から、裸足で祈りながら街をめぐる僧侶の姿が普段にあるタ イ国、40万の出家した僧侶の存在、30万余の寺院。そしてカト リック教会と聖職者2,500人、モスク他…。見えない世界 との接点が身近にある事の意義を改めて噛み締めています。 Something Great である師イエスが啓示された父なる神、聖霊の交わりに自らを浸ら せ、タイでの一粒のパン種として生きる覚悟です。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)