・Chris Kyogetuの宗教と文学  ⑦ジェーン・エアによる詩篇23章(メタファーについて)

 私は主の家に住もう 日の続く限り(詩篇23章6節)

 小説には色んな思惑が仕込まれている。作り話と見せかけて、社会性や著者の実話が根底として垣間見えることがある。表現や創造した世界は。数学者でもない作家が、––読者を騙し抜いて「天才数学者」を書くことが出来るのか––要するに著者自身の知覚を超えられるのか、ということだが、これは文学でも永遠の議論なのかもしれない。

 「アナリーゼ(日本語では『楽曲分析』)」というものがあるが、そこまでもいかずに単なる直感で、これは著者の実話じゃないのかな、と感じるところがある。

 例えば、アンデルセンの「雪の女王」の屋根裏部屋の植木鉢に植えられている薔薇の話があった。アンデルセンはデンマークなので、イギリスの庭文化と比較はできないが、大体、西洋圏は庭に花を育てるが、「屋根裏」というところで狭さ、貧しさが、綿密な描写によって現れていた。非常に丁寧にアンデルセンはその描写していた。実際に、彼の日記を読んでみると、アンデルセンの実家の母親が屋根裏の鉢に「野菜」を育てていたのがモデルで、それを彼の童話は「薔薇」にしたのだ。これはアンデルセンの「優しい感性」だったのではないかと思う。

 次に実話の根底が見えたのはジェーン・エアの親友、ヘレンがチフスで亡くなるシーンだった。これは映画でも、美しく撮影されている。(シャーロット・ゲンズブール主演版、ミア・ワシコウスカ主演版)まずは、原作でもここに至るまで綿密な自然描写が施されている。イギリスの庭は生活圏にある自然で、「主人の顔」とも言われているが、これは、バルザックの「セラフィタ」のように登山で行く遠くの自然とは違う、また違う描写なのだ。それにはバルザック自身、登山が趣味だったことも表れている。

 「ジェーン・エア」では、実際に著者の姉、二人が肺結核で亡くなっていることを元にしている。「ジェーン・エア」はシャーロット・ブロンテの作品で、当時、女性の作家は売れないだろう、と中性的な名前で売られていたことで有名である。ジェーンは両親を失い、親戚に引き取られたが、酷い扱いを受けるようになった。そして厄介払いのように、ジェーンを孤児院に引き取らせる。そこは宗教的抑圧が酷く、現代で言えば「虐待」とも言えるところだった。

 19世紀当時のイギリスは「孤児」の人権が著しく低く、その問題を題材に扱っている作品は、イギリス作品で他にも存在する。有名なのはディケンズの「オリバーツイスト」やバーネットの「小公女」「秘密の花園」である。

 ジェーンの学校でチフスが流行っていて、学校でも学級閉鎖のようになっていた。そしてジェーンの親友ヘレンもチフスを患い、隔離された。ヘレンは信心深く、ジェーンは忍び込んで声をひそめて彼女と最期の会話をする。

 ”Are you going somewhere, Helen? Are you going home?(あなたはどこへ行くというの?あなたのお家?)”

 ”Yes; to my long home — my last home(そうよ、私の遠い家よ、私の行き着く先よ)”

 「私の遠い家」、これは詩篇23章の「神の家」のことだろう。詩篇23章について、ベネディクト16世の解説が良かったので引用する。

 「詩編作者がいうとおり、神は詩編作者を『青草の原』、『憩いの水』へと導きます。そこではすべてが満ちあふれ、豊かに与えられます。主が羊飼いなら、欠乏と死の場所である荒れ野にいても、根本的ないのちが存在することを確信できます。そして、『何も欠けることがない』ということができます。実際、羊飼いは羊の群れを心にかけ、自分の歩調と必要を羊に合わせます。彼は羊たちとともに歩み、生活します。自分が必要とすることではなく、羊の群れが必要とすることに注意を払いながら、『正しい』道、すなわち彼らにふさわしいところへと導きます。自分の群れの安全が羊飼いの第一の目的であり、この目的に従って彼は群れを導くのです」。

 ジェーン・エアに話は戻るが、彼女の親友ヘレンも、この酷い経営の孤児院で、どんな目に遭っていたか、どんな苦難を知っているのかのかも表れている。ジェーンも自分もあなたのところへ行ったら会えるかと尋ねると、親友はこのように返した。

 ”You will come to the same region of happiness: be received by the same mighty, universal Parent, no doubt, dear Jane(あなたは同じ幸福に行くことができるのよ、それは力強い、私たちの両親の元に。ジェーン、大好きよ)” と、彼女は答えたが、これはルカによる福音書23章42、43節にあった。

 イエスが処刑される時に、他に二人の囚人がいた。一人はイエスを罵ったが、もう一人はイエスに「イエスよ、あなたが御国へ行かれる時は、私を思い出してください」。囚人は「自分は天の国に行けないのだろう」とあきらめていたのだ。だがイエスは、「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と答えられた。

 ヘレンの台詞はこの影響を受けているのだとは思う。

 メタファーについて、日本語での「比喩」とメタファーについて、単純に英訳の「metaphor」とは訳せないものがある。日本語では「薔薇のように綺麗だ」という比喩と、文脈や背景、真理まで汲み取るメタファーがある。例えば、「彼は獅子のように勇敢だ」という日本語の比喩表現を英語にすると、「He is brave like a lion」となるが、「He is a lion」とすると、日本語でいうメタファーと言える。聖書でもこのように後者の比喩とメタファーは存在する。

 神は「光」、「岩」に例えられるが、これらはいずれも、「置換」ではなく、英語で言えば「like~(のようだ)」とは違う。比喩は、言葉や表現を使って何かを暗示するが、広く受け入れられ定着するとともに、「魚」といえばイエスだ、という「象徴」ともなる。(それはまるで、聖霊が魅せるペルソナのようである)

 小説と、聖書という異なる物を照らし合わせるときに、たとえ詩篇の23章を扱っていたとしても、全く別の書物として直接的な対応関係は無い。私の文学性は、文学とは「聖書の下」だと思っているし、小説家は、特にキリスト教作家になるのであれば、作家の感性は、神の「道具」だとも思っている。

 宗教から離れ、自由表現が認められる中で、何故、このような選択肢を取ったのかについては、今回は割愛させてもらうが、文学表現は、メタファーによって、聖書との対応性、そして関連性を持たせるのである。「ジェーン・エア」でのジェーンとヘレンの二人は、神の家を巡ってこの世での最期の会話と自覚している。ヘレンにとっての「羊飼い」は、自分自身のことだったのかもしれない。彼女は神のみを見ていたわけでは無いのかもしれない。そこに彼女が「自己中心的」でなかったことも、表れている。ヘレンが死の淵でジェーンに「神の家」に行く、ということを語る際、幼くして、先に行く者として、彼女は大切な親友のために、そうなろうとした。

 私の解釈になるが、彼女たちの一喜一憂や言葉が、全部が聖書の影響だ、と言い切ってしまうのもまた、「つまらない」のかもしれない。何故、聖書の言葉を使うのか。何故、影響を受けているか、そこまでメタファーを拾う必要があるのか、その疑問は、まずイエスがゴルゴタの十字架上で亡くなる時に叫ばれた(マルコ福音書15章34節)とされる「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)は、詩篇の22章2節を使っているところから説明すると、言いやすい。

 物語と聖書はメタファーによって包括されている状態ではあるが、別々の存在であって設計図のように正確に因果関係が決められているわけではない。メタファーはプロパガンダにも使われた過去があるほど横暴な解釈もあるので、全てを肯定できるわけではないが、何故、この言葉が出てくるのか? と考えるときに、感性や感情というものがどういう経路で湧いてくるのか、明確に全部の説明ができないが、とてもその人を「愛している」とき、何がその人を最善に喜ばせられるのか、その上で、そのような言葉が出てくるのではないのかと思う。

 もっとも、「主」を愛している、という証しとして、人を愛することは難しい。人には苦難の中で、感情や言葉が歪むことがある。それでも主に見せられる心で、人を愛することがどれほど重要なのか、信仰を持つものは知っていなければならない。

 聖書と文学、それは信仰を透過し、学者が必要とする根拠をすり抜けながら、「魂」が表出する。ジェーンが朝起きると、親友は旅立っていた。朝を迎えた者と、旅立った者、世界が再び見えた者と、そうでない者。ジェーンは勝手に忍び込んでも、大人たちに怒られなかった。それよりも彼女の存在を無視して、ヘレンの遺体の処理で騒がしかった。まるで映像技術がこの当時からあったように、このシーンは大人たちの言葉がかき消されている。

 孤児院は衛生面や虐待の多くの隠蔽で忙しくて、悲しむ暇がなく、風景に溶け込んでいく。死んだ親友に魂があったこと、それを知っているのは、ジェーンだけだった。その重さに気づけるかどうか。メタファーの行き先は「神の家」かどうか、読者に委ねられている。

 ベネディクト16世の285回目の一般謁見講話はhttps://www.cbcj.catholic.jp/2011/10/05/8346/

(詩篇23章1‐6節)

主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。

主は私を緑の野に伏させ  憩いの汀に伴われる。

主は私の魂を生き返らせ  御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。

たとえ死の陰の谷を歩むとも  私は災いを恐れない。

あなたは私と共におられ  あなたの鞭と杖が私を慰める。

私を苦しめる者の前で  あなたは私に食卓を整えられる。

私の頭に油を注ぎ 私の杯を満たされる。

命ある限り 恵みと慈しみが私を追う。

私は主の家に住もう 日の続くかぎり

(Chris Kyogetu=聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用)

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2023年10月31日