・ 愛ある船旅への幻想曲 ㉝「教会が堕落すれば、キリストに近づく道を人々に閉ざすことになる」

 今年の夏は、ほとんどの人が暑さに辟易とされたのではないだろうか。私も体調不良と戦う日々であった。「ようやく涼しくなった」と言いたいところだが、私の場合は「急に寒くなった」と言いたい。合服の出番なく、冬服が自分の存在を、私にアピールするのである。

 今、社会生活での温度差はどうだろう。庶民の私たちの知る術もない理由から絶対にあってはならない戦争が始まる。独占欲の塊となったトップたちに正統性はなくなり、対立は長期化し、かけがえのない命を勝手に奪われていく国々の姿を私たちは知っている。日本で住む私たちにとっても遠い国の問題ではないはずだが、自分にはどうする事もできない問題だとたかを括り日々の報道にさえも興味を示さない人々がなんと多いことか。

 とはいえ、世界中には平和を訴える団体が多々存在する。それらの団体の中には疑問視せざるを得ない組織体制がある事も否めない事実なのだが、彼らは断固として「平和運動を行なっている」と自負するのである。そして、それはまかり通る。過去の日本に於いても、表面上は平和を掲げながら実際は、二枚舌を持つ政治家のふるまいがあったとかなかったとか。会心の笑みで全世界に向かって平気で嘘をつかれては困るのである。しかし、日本人は、自国への評価が下がる問題にさえ、深く真相を知ろうともせずに、都合よく騙されてしまう、いや、騙されたふりができる国民性を併せ持っているのかもしれない。

 今、日本のカトリック教会は平和をどう説くのだろう、と思ってしまう。「平和」とは、ただ戦争がない状態だけではなく、他者との間で積極的に互いを尊重し、いたわり合いながら生きていくことを、聖書は教えている、と私は思っている。だが、今回のカトリック大阪高松大司教区設立への流れは”平和的”だったのだろうか。

 バチカンからの正式な文書がない状態で、信徒への通達文書は作成され、突然にバチカンから大阪と高松の合併が発表されたような内容だった。設立式で読まれた大勅書には「前高松教区長・諏訪榮治郎司教の願いを受けた前田枢機卿の要請を教皇フランシスコが受け入れた」と記されていた。これが真実であろう。一部の信徒たちの推論は正しかったわけだ。

 司教たちの事前相談と事前協議は数年前から行われ、聖職者自らがシノドスを無視する白々しさから密約を交わし、さも降って湧いたような合併劇を演出し、信徒を翻弄させ、服従のみを強いる間違った位階制度の在り方を見せつけた。同時に経過報告も反省も謝罪もない司教の退任劇がYouTubeで流れ、ここまでやられては脱帽であり、「たいしたこと」だ。そして、権力の横行を支える聖職者たちの姿を見ながら、ソクラテスの「不知の自覚(注:自分が常識的な知識すらない状態であることを認めて、自覚すること)」を思い起し、こんな茶番には付き合えないと思った私である。

 だが、当日の設立式に参加している信者らの拍手は、これからの大司教区を共に歩もうとする純粋な心からの祝福だろう。カトリック教会に対してなんの疑いもなく、「全て正しい」と思う信者たちだろう。

 それを見た聖職者たちの喜色満面の笑顔は何なんだったのだろう。信徒の意見を聞かなかった教会、今回の合併劇がそれを物語っているというのに、だ。イエスが涙を流された聖書箇所を、聖職者そして教会運営に携わる信徒には、是非とも思い出していただきたい。そして、先日亡くなられた森司教と教皇の次の言葉を、私たちと共に、かみしめて欲しい。

 「もし、教会が堕落すれば、キリストに近づく道を、人々に閉ざすことにもなるのです。キリスト信者という名をかたる者が、倫理的に堕落していたり、おかしなふるまいをすれば、一般の人々は、そこに近づくことを避けてしまいます。過去の歴史の中で、教会は幾度も、こうした過ちを繰り返し、キリストの期待を裏切り、人々につまづきを与えてきました。過去の教皇、司教、司祭あるいは信者たちの心ない言動が、救いを求める人々とキリストとの出会いの障害となった事実を否定することはできないでしょう」(森一弘著(新しいカトリック入門)「続・愛とゆるしと祈りと」第一部 教会について)

 「真実、神は、全能者は、ご自分を誰かに擁護してもらう必要はなく、人々を恐れおののかせるためにご自分の名が使われることを、望んではおられません」(2019.2.04 教皇フランシスコ・『世界平和のための人類の兄弟愛』に関する共同宣言)

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2023年10月31日