・菊地大司教の日記より「教皇フランシスコ訪日から2年」

2021年11月25日 (木) 教皇訪日から2年が経ちました

Popejpn1902b 早いもので、教皇フランシスコが日本を訪れてから二年となりました。教皇様は2019年11月23日にタイのバンコクから東京の羽田空港に到着され、その後、24日には長崎と広島を訪れ、ちょうど2年前の25日には東京でさまざまな行事をなさいました。そして26日に上智大学を訪問した後、羽田から全日空(ANA)の特別機で、ローマへお帰りになりました。

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 東京では、東北の被災者の方々との集い、天皇陛下と会談。その後カテドラルで青年の集い、午後には東京ドームでミサを捧げ、その後、首相と会談。私も東京の司教として皇居以外はこの一日、同行しましたが、これだけの行事をこなされる教皇様のタフさに、正直驚きました。

 教皇様の言葉には、どれもこれも力がありました。教皇様は、もちろんカトリックの最高指導者として来日されましたが、同時にバチカン市国(聖座)の国家元首としての立場もあります。従って訪問先の国における発言は、両者の立場を意識してなされています。

 ですから日本におられた間のさまざまな発言は、当然、日本国内のみを意識した発言ではなく、世界に向けた発言であり、また国家元首として他国の内政に干渉するものでもありません。

 なかでも核廃絶のメッセージは、広島や長崎という世界的に意味を持つ二つの都市から、世界の政治のリーダーに向けて発信されたものです。教皇様の視点は常にグローバルに広がっており、その立ち位置から、教皇様の日本での様々な発言を理解したいと思います。

 広島や長崎での言葉は、その後もしばしばさまざまな場で引用されていますから、ここでは東京での教皇様の発言で、心に残っているものの一部を、記憶のために記しておきたいと思います。

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*東京カテドラルでの青年の集いにて

「私たち人類家族にとって、皆が同じようになるのではなく、調和と平和のうちに共存すべきだと学ぶことが、どれほど必要でしょうか。私たちは、『工場の大量生産で作られた』のではないのです。誰もが、両親や家族の愛から生まれたのです。だからこそ、皆、異なるのです。誰もが、分かち合うべき、自分の物語を持っているのです」

「マザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことを話されています。「孤独と、『愛されていない』という思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です」。・・・正直に気づくでしょう。抱えている最大の貧しさは、孤独であり、『愛されていない』と感じることです」

*東北の被災者の方々との集いで

「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません… 一人で「復興」できる人はどこにもいません。誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが、不可欠です」

「私たちの『共通の家』の未来について考えるなら、ただただ利己的な決断は下せないこと、私たちには未来の世代に対して大きな責任があること、に気づかなければなりません。その意味で私たちには、控えめで慎ましい生き方を選択することが求められています」

*東京ドームでのミサで

「命の福音を告げる、ということは、共同体として私たちを駆り立て、私たちに強く求めます。それは、傷の癒しと、和解と赦しの道を、常に差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる『慈しみ』という基準です」

 もっとたくさんの言葉を残して行かれましたが、全てを記すことはできません。教皇様の発言は、カトリック中央協議会のホームページからも、関連のメッセージなどとともにすべてご覧いただけます。また訪日の公式記録集も発売されています(注:「カトリック・あい」も、ご帰国直後から全文を掲載中)。

 教皇訪日直後から感染症への対応に追われることになり、せっかく教皇様が日本に残された諸々の言葉を深め、理解し、行動に移すことがおろそかになってしまいました。残念です。少し落ち着いてきた今だからこそ、もう一度教皇様の日本での言葉に耳を傾け、理解を深め、行動へとつなげていきたいと思います。

 以下、余談ですが、実は個人的に一番記憶に残っていることがあります。(もちろん東京でのエスコート役として教皇様の近くにいて、いろいろと見聞きし体験したことはありますが、それらを書くのは、まだ時期尚早だと思います。)

 東京ドームの祭壇上のことです。奉献文の締めくくり、主の祈りの前の栄唱、「キリストによって・・・」のところで、一瞬、頭が真白になり、そのまま冷や汗をかきながら祈りを歌ったことです。「頼む。私の記憶よ、間違えないでくれ」と祈りつつ…。

 何があったかというと、この日のミサは、事前に教皇庁儀典室と打ち合わせて裁可を経て作成された、この日のための儀式書に基づいて行われました。式文は英語とラテン語と日本語が入り交じっていました。この儀式書は、教皇儀典室の名儀でバチカンで作成され、タイと日本で行われたミサを全て網羅する立派なものです。(右の写真)

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 ”ドームミサ”では、いわゆる奉納の部分以降は基本的にラテン語で、前田枢機卿様と私が共同司式で唱える部分だけが日本語が指定されていましたが、奉献文の締めくくりの栄唱を、私がラテン語で歌い出すことになっていたのです。当日のビデオを見ていただくと分かりますが、歌っているのは私です。

Popeinjapan2019b 祭壇上に用意された件の儀式書は、事前に見ることができませんでした。てっきり、譜面が記されているものと思っていたのです。

 ところが、詠唱を歌い出す瞬間になって、目の前のページを開いたら、言葉だけで音が記されていない。これで間違えたら、大変です。それで冷や汗ものの大緊張だったのです。

 一応これでも私は、ラテン語の典礼から今の典礼に変わる時期に小学生だったので、その頃に侍者を務めることになって、カタカナでラテン語の祈りを暗記しました。

 その後も、小神学校で週に三度ほどラテン語のミサ(今の典礼でグレゴリアン聖歌)があったので、今でもラテン語式文の歌唱はなんとか記憶していますが、やはりあれだけの大舞台で諳んじて歌うのは、大変な緊張でありました。ビデオを見て、その部分がなんとなく間延びして聞こえるのは、『間違えないように』と慎重になっているためです。

 なお教皇訪日関連のビデオは、youtubeのこちらの「Pope in Japan 2019 公式」チャンネルからご覧いただけます。

(編集「カトリック・あい」)

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2021年11月27日