・竹内神父の午後の散歩道 ㉕「復活」という出来事―木に掛けられたイエス

(あり得ない)—そう呟くことがあります。例えば、2011年の東日本大震災とか、今回の新型コロナの世界的大感染などに直面した時などです。この呟きはしかし、今、自分が目にしてる出来事の原因・理由が分からない、ということの表明でしょう。でも、実際に起きたのです。現実はこのように、いつも私たちの理解を超えています。

*「復活」という出来事

 イエスの復活—これもまた、人間の理解を超えた出来事です。それは、昔も今も変わりません。「『死者の復活』ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒言行録17章32節)。しかし、パウロはこう語ります。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であり、あなたがたの信仰も無駄になります」(コリントの信徒への手紙1・15章13‐14節)。

 この不思議な出来事の意味を知るためには、何が必要なのでしょうか。そのことを考えるにあたって、興味深い話があります(ヨハネによる福音書20章1-9節)。少しユーモラスな印象を受けます。

 イエスが墓に葬られた後、二人の弟子がその墓に向かいます。ペトロともう一人の弟子(イエスに愛された弟子 です。この弟子は、ペトロより先に墓に着きます。彼は、中には入りませんでしたが、亜麻布が置いてあるのを見ました(ブレポー)。後から到着したペトロは、墓に入って亜麻布が置いてあるのを見ました(セオーレオー)。「ブレポー」も「セオーレオー」も、感覚的な目で見ることなのですが 、後者は「詳細に観察する」といった意味を含んでいます。

 さらにこう続きます。「先に墓に着いたもう一人の弟子も中に入って来て、見て、信じた」(20章8節)。ここで語られる「見る」(エイドン)は、「物事の背後を見る」、あるいは「心とか信仰の眼で見る」といった意味でしょうか。また、具体的に何かを見た、とは語られていません。その出来事の意味を見た(知った)のでしょう。

 

*十字架の木から命が生まれ

復活—それは、イエスにおける神の働きです。「人々はイエスを木に掛けて殺しましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました」(使徒言行録10章39-40節)。この言葉は、初代教会の人々によって大切に受け継がれた ケリュグマ (初代教会の宣教使信)と呼ばれるものの一部です。この木が、命の木となります。「あなたは人類を十字架の木によってお救いになり、木から死が始まったように木から生命を復活させ、木によって勝ち誇った悪霊を木によって打ち滅ぼしてくださいました」(「主の受難叙唱」より)。「あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の中に隠されている」(コロサイの信徒への手紙3章3節)と語られます。

 「 キリスト者」とは、洗礼によって罪に対して死んだ者です。そのことについてパウロは、次のように語ります。

 「キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです」(ローマの信徒への手紙6章3‐4節)。

 洗礼は、ある意味で、「復活の先取り」と言ってもいいかもしれません。

 

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

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2023年4月8日