・竹内神父の午後の散歩道 ⑱祝福としての食事

 「食事は、現在、それほど大切なものではないと思います。私の場合、サプリメントを飲んでいますから」—そう言って、50歳の男性は、引出しを開けました。すると、その中から現れたのは、山のようなサプリメント…

 かつて見た、あるテレビ番組の一コマです。毎日、彼は、約60粒のサプリメントを飲んでいるそうです(彼の場合、むしろ、食べている、と言った方がいいかもしれません)。ガバッ、とまるでポップコーンを放り込むように、サプリメントを口にします。しかも、それが、”カイカン”なのだそうです。

*食の目的は

 私たちにとって、食事は、単なる栄養補給が目的なのでしょうか。むしろ、生物としての命を繋ぐ以上に、人間としての命の尊厳を繋ぐものなのではないか、とそう思います。食卓を囲むーそれは、お互いがいっそう親しくなるきっかけとなりますが、同時にまた、同じ命に与る、といった意味もあるでしょう。

 ある日、イエスは、五つのパンと二匹の魚で、5千人の群衆の空腹を満たします(マタイによる福音書14章13-21節)。また別の日に、彼は、七つのパンとわずかな魚で、四千人の空腹を満たします(15章32-39節)。

 前者においては、「〔イエスは〕五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた」(14章19節)と語られます。一方、後者においては、「〔イエスは〕七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った」(15章36)と語られます。

 両者とも、パンも魚も増えた、とは語られていません。ただ、人々は満腹した、と語られます。いったん、イエスの手を介した食物は、祝福されたものとなります。

*イエスとは誰なのか

 そもそも、イエスとは、いったい誰なのでしょうか。ある時、彼は、こう語りましたー「私が命のパンである」(ヨハネによる福音書6章35、48節)。カナの婚宴で、彼は、水をぶどう酒に、しかも上等のぶどう酒に変えました。これが、彼の公生活における最初のしるし(奇跡)です(同2章1-11節)。

 また彼は、最後の晩餐の席で、パンとぶどう酒を取ってこう語られますー「これは、あなたがたのための私の体である…。この杯は、私の血による新しい契約である」(コリントの信徒への手紙11章24-25節)。つまり、イエスの公生活は、食事の場面で始まり食事の場面で終っている、と言ってもいいかもしれません。
イエスは、実際、実に多くの人々と食事を共にしました。そして、そのような場面において、彼はしばしば、神の国の神秘を、また自分が誰であるかを隠された形で示されました。さらにこの世を去る時、彼は、新しい掟を与えることによって、自分が誰であるかを現わされましたー「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13章34節)。

 イエスと共に食卓を囲むーそれは、彼による祝福です。また、私たちが、誰かのために食事を供する時、それもまた、一つの祝福となります。イエスの祝福は、すべての人に開かれています。そこには何の閉鎖性も排他性もありません。彼によって祝福された食物は、私たちにとって真の命となります。「感謝の祈りを唱えて」(エウカリステオー)ーそのような食事は、単なる栄養補給に留まるようなものではありません。それは、一人の人間の命への尊敬、喜び、そして感謝にほかなりません。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2022年7月2日