・Sr.岡のマリアの風 (76)  叫び続けるヨブ。教皇の思いは…

   教皇フランシスコは、連続講話「老年の意味と価値について」で、5月18日に「叫び続けるヨブ」についての、ひじょうに力強くインパクトのある話をなさいました。私自身、教皇の話を聞いた後、しばらくぼ~っとなりました。

 教皇は繰り返し強調されますー 神が最後に答えたのは、叫び続けたヨブであって、「すべてを知っているかのように」ヨブを説得しようとした友人たちではなかった、と。ヨブは、神を、人間の定型、理屈に閉じ込めることを、断固として拒みます。慈しみ深い神が、ご自分を呼び求める惨めな人間を見捨てることなどあり得ないという絶対的な信頼をもって叫び続けます。

 教皇は、ヨブが、人間が造り出した神の「風刺画」を受け入れず、「悪を前にして、叫び続ける信仰を証ししています。神が答えてくださるまで、神がご自分のみ顔(表情)を現してくださるまで叫び続ける信仰を証ししています」と言われます。

ですから、ヨブの叫びは「祈り」です。ヨブは人間に向かって文句を言っているのではありません。造り主、あがない主である主に向かって「抵抗」しているのです。ヨブの祈りは、ユダヤ教のラビ伝統が、人間の歴史始まって以来、初めて神に「抵抗」した人、と考える、父祖アブラハムの執り成しの祈りを思い起こします。アブラハムは、自分の民ではないソドムの人々のために、彼らの悪を知りながらも、彼らをすべて滅ぼそうとしている主に大胆に抗議します。いつ聞いても、心を打たれる言葉です。

 「正しいものを悪い者と共に殺し、正しい者と悪い者が同じような目に遭うなどということは、決してありえません。全地を裁かれるが公正な裁きを行なわないことなど、決してありえません」(創世記18章 25節)

 主はアブラハムの言葉を受け入れ ソドムの町に「10人」の正しい人がいたら滅ぼさない、と約束されます (32節参照)。

 私がいつも感動を覚えるのは、主がアブラハムの「交渉」を、最後の最後まで聴くことです。50人、45人、40人、30人、20人…そして10人になるまで。主は、最初から、ソドムの町に10人の正しい人さえもいないことをご存知でした(実際、町は滅ぼされました)。それでも、アブラハムの抗議をさえぎりません。聖書には何も書かれていませんから想像するしかありませんが、主はアブラハムの抵抗を喜んだのではないか、と私には思われます。ご自分がお造りになった人間を滅ぼすことは、主の望みではないからです。

 アブラハムは、神と「対話」をするよう招かれた民の、最初の人です。自分の民ではない人々のため、神のみ前で執り成す民 あきらめずに正義を叫び続ける民の始まりです。

 ヨブの友人たちは、人間が造り出した神のイメージ、罪人を容赦なく排斥する、冷徹な裁き主である神のイメージをヨブに押し付けようとします。ヨブは、そのような神のイメージに、徹底的に反対します。「神がご自分のみ顔を現わしてくださる」ことを確信して叫び続けます。

 実際、ヨブの言葉は何と胸を打つでしょうか、と教皇は言われます。

 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に塵の上に立たれる。私の皮膚がこのように剥ぎ取られた後、私は肉を離れ、神を仰ぎ見る」(ヨブ記19章 25-26節)。

 これは強烈な信仰告白です。なぜ自分がこのような苦しみを受けているのかは分からない。それでも、私は、惨めさのどん底で、自分をあがなってくださる神のみ顔を見るたろう、と言っているのです。

 そしてついに、神は答えます。友人たちにではなく、ヨブに対して。神は、友人たちの説教ではなく、ヨブの「抵抗」を受け入れたのです。

 それはヨブが「沈黙の後ろに隠された神のやさしさの神秘」を理解したからだ、と教皇は言われます。強く心を打つ言葉です。神の沈黙が、冷徹な裁き主のそれではなく、やさしさの神秘で満ちていることを、ヨブは知っていた、だから、神の沈黙を前にしても、疑わず、恐れず、扉をたたき続けることが出来たのだ、と。

 ヨブの叫びが祈りだったことは、その後のヨブの態度で分かります。ヨブは、「もう十分です、あなたの前に黙します」と言います。ヨブの状態(「足の裏から頭の頂(いただき)まで、悪性の腫れ物」が出来た状態:2章7節参照)が、この時点で良くなったわけではありません。それでもヨブは、もはや叫びません。

 ヨブは告白します。「私は耳であなたのことを聞いていました。しかし今、私の目はあなたを見ました」(42章 5節)。

 ヨブは言うのです、「あなたのみ顔を見ました。それで十分です」と。教皇は、人生の先輩である人たちに、人類のため、世界のために「叫び続けてください」、「恐れずに、勇気を出して、前に進んでください!」と言われます。それは、教皇フランシスコにとって、「世界を救う」「命を救う」使命を託されている「自分たち」に対する、創造主である神の切実な呼びかけなのでしょう。

 「マリアのミニ動画」25回目でも、教皇のヨブについての話を分かち合いました。数日中に「mikonagai聖母の騎士」のYoutubeチャンネルから配信される予定です)。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

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2022年6月3日