・愛ある船旅への幻想曲 ⑰”しらけ世代”も「教会」を問い続ける

 最近、コロナ禍で制限されてきた社会生活が、感染者数の下げ止まりなど不安要因を抱えながら、ゆっくりではあるが戻りつつある。教会も然りだ。ただ、人と会うことさえも制限されるという異常な事態が常態化し、社会全体のつながり、人間関係の希薄化が進むことが心配されている。

 私の世代は、“しらけ世代”と呼ばれている。一つ上の“団塊の世代”が社会への影響力が大きいために、こう呼ばれてもしかたがない。世代論を嫌う人もいるが、私は各世代の背景を知ることは必要だと思っている。

 いつの間にやら私たち世代もおばあちゃんになり、友達との会話に孫の話は欠かせない。大学生活を終えるまで真面目に勉強してきたと思い込んでいる⁈私たちは、孫の教育にも並々ならぬ興味を持っている。しかし、自分の意見を決して娘や息子に無理強いすることはない。私たちは、今を生きる子供達家族への流儀を心得ているつもりだ。今日まで、互いに愛と信頼を育んできた結果だ。

 私は、『教会』とは何か、と問い続けている。いろんな本を読み、著名な方にも問うてはいるのだが。教皇フランシスコは、2015年の水曜恒例一般謁見の連続講話『家庭』㉖『共同体』で、次のように語っておられる。

 「イエスはご自分の周りに『集い』とも言える共同体を作りました。それはいわば召命によって人々を招くことでした。これが『教会』という言葉の意味です。福音書の中でイエスの周りに集う人々は、もてなしの心にあふれる一つの家庭を形作ります。それは、閉鎖的で閉ざされたものではありません」

 今回のシノドスに関して、ある方からNICE1(第一回全国福音宣教推進会議)のまとめを読むことを勧められた。そこから、少し紐解くことができた。以下はそのごく抜粋。

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【“開かれた教会をめざして”公式記録集】

・前文(抜粋)

4.日本の教会全体を視野に収め、各教区の独自性を保ちつつ、日本の教会全体の成長のために、共同で責任を負い、共同の作業を展開するよう要請される。

5.「日本の教会」という視点に基づいて行動することは、不可欠な要請である。

Ⅱ優先課題(抜粋)

1.  宣教のための共同体育成

 16教区が一体となって、日本の教会として当面取り組まなければならないのは、基本方針を実現するための実践的養成ではないでしょうか。

 他の小教区、教区とも手をとり合い、助け合って努力することも大切です。

【参加者一同の『宣言』】(抜粋)

 全ての人に開かれ、全ての人の憩い、力、希望となる信仰共同体を育てるよう努めたいと思います。人間の尊厳を守り、真の幸せを実現することに貢献できる教会を育てていくよう励みます。

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 この記録集には「日本の教会」と「共同」という言葉が何回も出てくる。私が常々考えている内容である。しかし、35年前と現在の『日本の教会』に変化はあるのだろうか。NICE1に直接関わられた信徒方は“焼け跡世代”と“団塊の世代”の方々で、今も教会の為に尽力され、今回のシノドスにも中心的立場で参加されている方々と思う。

 私にとって『シノドスへの道』は、自分が歩む道を考え直すきっかけとなった。

 地理学者のロバート・D・サック『人間の領域性ーその理論と歴史』第4章カトリック教会には“信仰が教会の唯一の関心ごとではない、と指摘し、教会は政治的で経済的な制度、と記されている。政治的とは、解釈に違いはあるだろうが、私は内田樹氏(フランス文学者、思想家)の“安倍政権を総括する”を読み、安倍政権、政治家や官僚、政治を『教会』(聖職者、おもだった信者を含む)に置き換えてみた。

 「教会で決定的に失ったのはのインテグリティ(誠実さ)。道徳や倫理が欠如した教会を長期間にわたり見せられ続けた結果、真っ当な道を歩もうとしてきた司祭や信徒、国民に深い失望と精神的な揺らぎが芽生えた。教会の判断が常に正しいわけではない。時に、教会の指示で事実がゆがめられることも度々おこっている。そこに教会の見識、良識が問われる。もし、今の教会の「負の遺産」まで継承するのであれば、どんな未来が待っているのか、私たちはよく考える必要がある」

 「開かれた教会をめざして」を議題にあげるのは、今の教会が「開かれていない」「閉ざされている」から、と言うことになる。そのあり方に疑問を抱き、もの言う信徒たちは教会を追われる。世間の常識は、教会には通用しない。各小教区も手を取り合い、助け合わなければ教区の一致もない。フランシスコ教皇の回勅『兄弟の皆さん』に“他者を自分たちと区別する閉じたグループは自分本位や単なる自己保存の現れになりがちです。”とある。

 信者間の妬みや批判も、ともすれば自分だけを守るためであり、そこに愛はなく争いしか残らない。フランシスコ教皇の憂いを、どれだけの信者が共有しているのか。

 結局、今まで共同作業も共同責任もとってこなかった現実がここにあるのではないか。日和見的な上部だけの関係は真の交わりと一致は実現しない。日本の教会に、日本人がいない、元気な若者がいない。この状態に危機感を持つ信者がどのくらいいるのだろうか。

 政治も教会も、結局は人の問題である。

 私は、他者を思いやり、信仰という宝を分かち合い、愛ある純粋な道を歩みたいと思っている。

マタイによる福音書 12章6節から8節

 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたら、あなたがたは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

 (西の憂うるパヴァーヌ)
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2022年7月2日