・竹内神父の午後の散歩道⑦祈りの息遣い  

 病人の看病は、一種独特な体験です。枕元で本人の息遣い感じていると、こちらの方も疲れを覚え 苦しくなります。おそらく、それは、お互いの息遣いが一つになっているからではないか、とそう思います。心を込めて看病すればするほど、それは顕著になります。

 看病は、一つの祈りの形です。神の息遣いと自分の息遣いが一つとなるように、看病する人の息遣いとされる人の息遣いが 一つとなります。

天を仰いで深く息をつき…

 ある時、イエスは、耳が聞こえず舌の回らない人を癒します(マルコによる福音書7章31-37節) その時、彼は、まず天を仰いで深く息をつきます。「天を仰ぐ」という動作は、 神への祈り を表しています。「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった」(同6章41節)。

 「深く息をつく」(ステナゾー)という言葉は、また、「ため息をつく」ことでもあり、「うめく」ことでもあるようです。そのうめきは、特に、圧迫・苦難からの解放を求める切なる祈りにほかなりません。

 このうめきは、しかし、ただ単に否定的・消極的なものではありません。パウロによれば、むしろそれは、私たちの贖いにとって必要なものでもあります。

 「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。私たちは、この希望のうちに救われているのです。… 私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです」( ローマの信徒への手紙8章22-26節)。

エッファタ(開け)

 私たちは、普段、実に様々なものにとらわれています。それは、ある意味で、身体的にも精神的にも病の中にある、と言ってもいいかもしれません。身体は硬直し、心は閉ざされ、命の息遣いは弱くなります。そのような状態にあっては 、私たちは 決して安らぎを得ることも、希望を抱くことも、また生きる喜びを味わうこともできないでしょう。

 「開け (エッファタ)」ということは、しかし、ただ単に苦しみの中にある人の耳や目が開かれる ということに留まりません。その人の命そのものが、その目指すべき方向へと開かれ導かれます。ですから、イエスの奇跡は、何らかの魔術的な行為とは根本的に異なります。「私は命だよ」と語る、イエスの深い憐みの心から 溢れるように湧き出てくる行為です。 奇跡とは、つまり、神の慈しみの働きのしるしにほかなりません。

 イエスが直接触れられる。それによって、耳が聞こえず舌の回らない人が、癒されました。私たちも、また、直接イエスの指で触れられ、彼の息遣いと一つになりたい、とそう願い求めます。イエスの深い息遣いは、私たちの苦しみを共に引き受け、そこから私たちを解放へと導きます。だから、 祈り なのです。

 どのような言葉で祈るか、それは二義的なことです。自分の奥深くから 突き動かすように、深い息遣いが立ち現れます。すなわち、それは、呻くような祈りであり、それによって私たちの命は生かされます。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年5月31日