・Sr.岡のマリアの風(64) 聖母月、ロザリオ・マラソンを振り返ってー「苦悩の時にあって『神の民』として『留まる』こと」

 2021年5月の聖母月は、昨年に引き続き、新型コロナの大感染の中、物理的に「集まる」ことができない、共に賛美をすることができない、という状況で迎えました。そんな中、教皇フランシスコの 強い望み で、世界30か所の聖母巡礼地を結ぶ「ロザリオ・マラソン」が行われました。

 30か所の一つに、日本の「被爆の聖母」小聖堂も選ばれ、21日午後6時からささげられたロザリオの祈りは、全国にライブ放映されました。私たちの共同体では、5日の韓国の聖母巡礼地でのロザリオの祈りにも、オンラインで参加しました。また24日はミャンマーの巡礼地で、苦しむ神の民の祈りの声が天に上げられました。(ロザリオ・マラソンについて、また「被爆の聖母」については「マリアのミニ動画」2021年5月も参照してください)

 さらに長崎の「みつあみの会」(長崎生まれの三つの修道女会の集まり)は15日にオンライン・ロザリオの祈りの集い」を行い、40以上の修道院(韓国、ベトナム、ローマも含む)を結び、参加してくださった司教さま、神父さま、協力者の信徒たちと共に、感謝、賛美、嘆願の祈りをささげました。

 一人では、落胆し、希望を失いそうなときでも、「神の民」として、父祖アブラハムから始まるすべての「信仰の父、母たち」とむすばれ、私たちは、私たちの時代の中で、私たちが生きている場所で、信仰に留まり、それを次世代につないでいくことができるようるなります。

 信仰に留まること。信仰を守る、保つこと。信仰を継承してくださった先人たちに感謝し、彼らの模範に力づけられ、そして後から来る世代のために、私たちの模範を残すこと。

 教皇フランシスコは、まさに、出口が見えない苦しみを生きているミャンマーの信徒たちと、バチカンの聖ペトロ大聖堂で共にささげたミサの中で、イエスが父のもとに帰る前に使徒たちに望んだ「守る(保つ、留まる)(custodire)」について黙想されました(5月16日)。祖国ミャンマーが「暴力、紛争、抑圧」によって刻印されている時に、「私たちは何を『守る』(何に留まる)よう招かれているのか」、と。

 教皇は、三つの「守る(留まる)」を挙げます。「信仰を守る」「一致を守る」「真理を守る」。それは、「信仰に留まる」「一致に留まる」「真理に留まる」と言うこともできるでしょう。

*信仰に留まる

 「留まる」-なぜなら、いただいた 賜物 の中に忍耐強く留まることだからです。信仰も、一致も、真理も、神の賜物です。それを私たちは、日々の生活の中でも経験します。私たち人間の自然の傾き、この世の論理は、信頼するよりも疑う、一致するよりも分裂する、真理よりも自分の都合のよいようにものごとを曲げて見る方へと流れます。

 キリストが私たちに賜物として与えてくださる信仰、一致、真理は、この世の論理ではなく、神の論理であり、神の論理は非常にしばしば「逆説的」です。父である神が私たちを救うため、私たちに永遠の命を与えるために遣わした、神の独り子イエス・キリストが、どのような生き方をしたか、何を言ったか、何をしたか、を見れば明らかです。

 イエスの最初の説教の一つ、「真福八端」は、 神の逆説 の最たるものでしょう。人間の論理ではとても理解できません。イエスは、まずご自分で、この逆説的な「真福八端」の生き方を示しました。ですから私たちは、「留まる」ことができるよう、イエスを見つめなければなりません。

 第一に「信仰に留まる」こと。イエスは、生涯最後の日々の苦悩の中にあって、「天を仰いで」祈っていた、と教皇フランシスコは強調します。[以下、試訳]

 それは、イエスの生涯の最後の時です。イエスは、近づいている受難への苦悩の重みを感じています。ご自分の上に降りかかろうとしている夜の闇を感じ、裏切られ、見捨てられたことを感じています。

 けれどまさにその時、その時においてもまた、イエスは目を天に上げます。まなざしを神に向かって上げます。悪の前に頭を下げず、悲しみに押しつぶされず、敗北し、絶望した人の歎きに陥らず、天を仰ぎます。

 どんな状況にあっても、まなざしを天に向けることを、イエスは弟子たち、私たちに、身をもって示されました。

 イエスはそれを、ご自分の弟子たちにも求めました。エルサレムが軍隊に侵略され、人々が不安になって逃げ出し、恐怖と荒廃に見舞われる時、まさにその時、「身を起こし、頭を上げなさい」と(ルカ福音書21章28節)。

 詩編作者たちのように、苦悩の中で天に叫びを上げること。信仰とは、「信頼」することから始まります。神は慈しみ深く、ご自分の子らの叫びに耳を傾け、私たちにとって最上の方法で応えてくださることに信頼すること。その信頼こそが 憎しみと復讐の連鎖を断ち切る唯一の武器です。

 祈りは、私たちを、困難な時においても、神への信頼へと開きます。祈りは私たちを、すべての事実にもかかわらず希望するよう助けます。祈りは日々の戦いの中で、私たちを支えます。それは逃亡ではありません、問題から逃げる方法ではありません。その反対に、祈りは、死を蒔くたくさんの武器の中にあって、愛と希望を守るために私たちが持っている唯一の武器です。

*一致に留まる

 二番目に「一致に留まる」こと。 一人きりで信仰に留まることはできません。私たちは必ず、民として、共同体として信仰に留まります。もしかすると、今、私がいる場所に、共に信仰に留まってくれる人はいないかもしれません。でも私は「民の一人」です。アブラハムから始まって、空の星のように、海辺の砂のように、数えきれない「信仰の兄弟姉妹たち」に繋がっています。

 何よりもまず、私たちは、イエスの十字架の下に留まった母マリアとつながっています。マリアほど、一人の被造物として 神の逆説を、自分の人格全体をもって(心で、体で)経験した人はいません。その母を、イエスは私たちに母として与えてくださいました。

 人類における最も暗い夜の中で、「闇の力が支配する時」(ルカ福音書22章 53節)に、イエスと共に、自分を空(から)にして、神に満たされるに任せた母マリア。マリアと共に留まるなら、私たちはどんなときでも、何があっても、イエスへの信仰に留まることができます。神が慈しみ深い父であることを信じ続けることができます。

 教皇はミャンマーの信徒たちに向かって嘆願されます。

 私たちは一致を守るよう招かれています。イエスの御父への、この深い悲しみからの嘆願を真剣に受け取るよう招かれています:一つになること、一つの家族を形造ること、友情、愛、兄弟愛の絆を生きる勇気をもつこと。特に今日、兄弟愛は、どれほど必要とされているでしょうか!

 そしてこの一致は、教皇フランシスコがたびたび思い起こすように、私たちの小ささの中で、日々紡いでいくもの、あきらめずに蒔き続けるもの、機械的にではなく「手作業で」造り出すものです。真の平和は、外交戦略だけでは達成できません。真の平和は、一人ひとりの心の中の平和から生まれるからです。

 マザーテレサが言うように、私たち一人ひとりが、大きな海の中の「清い水の一滴」となることから始まります。

 いくつかの政治的・社会的状況は、あなた方の力をはるかに越えていることを、私は知っています。けれど、平和と兄弟愛のための任務は、つねに下から生まれます。一人ひとりが、小ささの中で、自分の役割を果たすことができます。一人ひとりが、自分の小ささの中で、兄弟愛を築く者、兄弟愛をまく者となるため、暴力を増長するのではなく、引き裂かれたものを再建するために働くために努力することができます。

 なぜこのように「一致」が大切なのでしょう。イエスが弟子たちに求める一致は道徳的レベルのことではありません。イエスは、ご自分に敵対する力、悪魔が 「分裂するもの」であることを知っています。アダムとエバを誘惑した時のように、悪魔は巧みに私たちを分裂へと導きます。そして、分裂の果ては、家族の破壊、教会の破壊、社会の破壊だけでなく「私たち自身の破壊」だ、と教皇は言われます。

 多様性の中での一致を可能にする神の力、聖霊の力に対抗する、分裂させ、派閥を作り、敵対させる悪魔の力。どちらの方に私たち人間の本性が傾きやすいかは、私たち自身の経験で明らかです。だから決して悪魔と「対話」してはいけません、と教皇は繰り返します。私たちは簡単に、悪魔の巧みな罠に引っかかってしまうからです。一致への道が険しく、不可能に思われるときこそ、私たちは神の一致の力、一つに集める力に信頼して留まらなければなりません。

*真理に留まる

 三番目に「真理に留まる」こと。信仰に留まり、一致に留まることは、私たちがキリスト者であることの原点、イエス・キリストの内に留まることから来ます。キリストの言葉と行いの中に留まること、キリストの福音に留まること。福音の一部ではなく、総体の中に留まること。福音の中の幾つかの言葉を取り出して、それを自分の理想や思想を擁護するために操作するのではなく、私たち人間の知性にとって分からないこと、理解不能なこともすべて含めて、福音全体に留まること、イエスの行い、言葉全体に留まること。

 ですから、イエスが最後のときに、私たちのために父に願ったこと、真理の中に私たちを聖別することは、私たちが「教義やドグマの番人になること」ではなく キリストに結ばれて留まること、キリストの福音に捧げられた(聖別された)者となること」を意味します。キリストに留まること、なぜなら、特にヨハネ福音書のなかで「真理は、御父の愛の現れであるキリストご自身」だからです。

 教皇フランシスコのメッセージは明瞭です。「主は生ぬるい人々を必要としていません」。

 主は私たちが、この世の論理に妥協するのではなく、「人生のあらゆる状況において預言者となること、つまり、福音にささげられた者となり、たとえそれが時代の流れに逆らうという代償を要求しても、福音の証し人となること」を求めます。

 そしてそれは、福音への日々の忠実さの中で、「平和の職人」となること、「社会的・政治的選択を通しても働くこと」です。時に命を危険にさらしながら。「このようにして初めて、物事は変わるのです」。

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生ぬるくなりがちな私たちは、「苦しみの暗い夜においても、悪がより強く見えるときでも、神の国の喜びを証しすることができるように」、目覚めて祈らなければなりません。それは人間の力を超えるものだからです。復活のキリストの霊の力で初めて可能だからです。

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新型コロナの大感染の中で、世界中で止まない紛争、それによる難民・移民問題の中で、失業問題の中で、この聖母月は私たちに、「母」マリアのまなざしを通して、キリストのみ顔を見つめること、キリストのまなざし、言葉、しぐさを見つめることを思い起こしました。それは「原点に戻る」ことでもあるでしょう。教会もまた「母」であるからです。

 母マリアのまなざしで、イエスのまなざしを見つめるとき、私たちのまなざしも変えられていくのでしょう。今、私たちの周りに、イエスのいつくしみのまなざし、母マリアのまなざしを必要としている人々が、どんなにたくさんいるでしょうか。まず、私たち自身が、そのまなざしに見つめられるにまかせ、変えられるにまかせることができますように。

 そして、傷ついた世界、人類の上に注がれる、父である神の慈しみのまなざしを、私たちの生き方を通して証しすることができますように。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

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2021年5月31日