・愛ある船旅への幻想曲 (36)「竜年の日本、この国は、教会はどうなっていくのだろう」

 日本では、1月1日夕に能登半島を中心とした地域で大地震が発生し、津波警報から避難を呼びかける絶叫調のアナウンスがテレビから流れ、震源地から遠く離れた場所に居る私の心臓と身体は硬直状態になった。

 愛猫を抱いたまま何が起こったのか茫然とする自分がいた。被災地の方々のショックは如何ばかりか。2日夕には羽田空港で旅客機と海上保安庁機の滑走路上での衝突のニュース速報が流れた。

 新年早々日本は、どうなっているのか。神様に伺いたいのである。そして、時間が経つにつれて不安と恐怖は苛立ちへと変わる。この寒空の下、着の身着のまま避難された方々のため、そして事故に遭われた方々のために国、首相の迅速なる対応を願わずにはいられない。

 人間社会は行政で動き、政治家が絡んでくる。最近、政治家はさまざまな分野で国民からの信頼は失墜続きであり、自分のためにあったらしい組織は崩壊している。それでも被災地への支援に関して、国そして行政からの指導を待たねばならない。この状況下で国民は、よく従っていると思う。

 行政と政治家のつながりは切り離すことのできない関係だ。それゆえに、政治家としての力量がある人を国民は選ばねばならない。国民の声に耳を傾ける姿勢を持ち、筋道を立てて丁寧な説明からの回答ができ、国民・人命を第一に考えるまともな?人を私たちは責任をもって選ばねばならない。

 カトリック教会はどうだろう。カトリック教会は、信徒が司教を選ぶことはできない。「共に歩む教会」を目指すために”シノドスの道”を歩くように教皇フランシスコは世界の教会に訴えておられるが、世界代表司教会議総会の第一会期総括文書からは、現代の状況を認識したうえでの前向きな議論ができているのか疑問を覚える。

 昨年、”突然”起きた大阪高松教区合併劇に関しても、信徒にとっても由々しき事態であろうに、”上”の方からの一方的な、体のいい言葉(文章)で、満足な経過説明もないまま、決定事項が発表された観がある。一般社会ではありえない”権威主義”的なやり方がなされ、「これぞカトリック社会」と思い知らされた信者も少なくないだろう。

 教会の”伝統”である位階制度を黙認する司祭、助祭、修道者、そして信徒がいることに驚くが、それに疑問を持つこと自体がカトリック信徒ではないと蔑視される。今回の合併劇が物語っているのは、「教会には、まともな?信徒は必要ない、いらない」ということではないのか。

 聖職者による性的虐待に関しても、私のまわりの、聖職者に”好意的”な信者の方々の多くは、「性的虐待があったことなど、教会から知らされていない」「私は何も知らない」「たまたま、でしょう」などまともに対応しようとしない。その一方で、まとも?な信者たちからは、「教会で性的虐待が一例でもあるなら、大問題。そんな場に自分を置くことはできない」「司祭という特権で信徒に虐待をする行為は絶対に赦せない」、さらには、「一つ一つの問題を解決するまで教会には行かない」との声も聞く。

 性的虐待問題に象徴される教会の信徒たちの二極化の根本にあるのは、聖職者への思い、ひいては自分と教会との繋がり方の相違だろう。人間は立場や生き方が違えば、互いを分かり合うことが難しいことも承知しているが、性的虐待で信頼を損ねた教会の姿を直視する勇気は、違いを超えて持たねばならない、と思う。

 社会の流れの中で、教会の良き点、悪しき点も知っていることが教会を愛するためにも必要ではないか。何よりも、教会は苦しんでいる人たちに寄り添わねばならない。決して自分のためだけの教会にしてはならない。

 今や宗教界にもAIを取り入れる時代である。若者が語るAIへの興味は半端でない。今年の『世界広報の日』の教皇フランシスコのメッセージは1月1日の『世界平和の日』と同様に”人工知能“をテーマとされている。教皇は、社会の変化をいち早く汲み取りAIにも識別をしながら、カトリック教会の未来に向けて考えておられる。

 ITによって世界が繋がり、大きく変動する中で、カトリック教会はこのままでは、そうした変化から取り残されてしまうだろう。信徒の教会離れが加速する今、教会のありようについて、AIの答えを聞きたいものだ。AIに私の質問の意図が分かり、まともな?答えが返ってくるだろうか。

 養老孟司さんが書かれた『まともな人』は、私の愛読書である。養老先生も、どんな人が「まとも」であるか分からないけれど、有名人の具体例を挙げて感想を述べておられる。しかし、そのことについても確信はない、と言われる。この正直さが、私は大好きだ。

 『まともな人』を読んで、心にいくらか余裕ができた。それなら次は、「当たり前」について考えようと思う。言い換えれば、「まともなこと」と言い換えてもいい。でも、「まとも」とは何だろう。「まともな人」とは、どういう人だろう… 私は、「私のまとも」?で生きているのだが。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2024年2月4日