・Chris Kyogetuの宗教と文学⑩「宮沢賢治の『よだかの星』ー灰の水曜日に」

 「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。灼(やけて)死んでもかまいません。私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れてって下さい」(「よだかの星」宮沢賢治より)

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(あらすじ) よだかは醜い鳥として生まれ、みんなから疎まれていた。鷹にはよだかと自分の名前が入っていることで「戒名」を押し付けられ、明後日の朝までに名前を変えていなかったら殺すと脅してきた。よだかはそれによって、殺されることの恐怖を覚え、また自分も餌となる虫を食べていることに嫌気をさした。居場所を探して飛び回るが、それでも彼を受け入れてくれるところは無かった。最後は、よだかは星になって、今でも輝いている。

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 賢治は法華経を信仰し、元は浄土真宗の信者だったが、どれほど彼の宗教観がこの作品に影響があるのかは分からない。仏教では、生まれたことへの苦しみを超越するために修行を重ねることが重要であり、誕生時の状況や環境は過去の業(因果)の結果とされる。よだかの星も、生まれながらの醜さや他の星々からの虐待を通じて、運命に抗いながら居場所を探し求めた。

 仏典によると、ネパールのカトマンズ盆地の東方の山中に「ナーモブッダ」という有名な聖地がある。ここはブッダがブッダとして生まれる「前世」において、お腹を空かせた虎の母親に自分の生命を投げ出して与えたという話がある(純粋贈与)。前世のブッダは自分に身体に対する執着を捨て去ることができたとされる。そこで「食べられるもの」と「食べるもの」の区別さえ消失している。「よだかの星」の構想は、この話の影響は無意識下でもあったのかもしれない。

 また、仏教では苦しみから解放されるためには、執着や欲望からの解放が必要とされる。よだかの星は周りからの差別や虐めに苦しむことで、物質的な欲望や世俗の価値観からの解放を迫られた存在として描かれている。

 よだかは、「はちすずめ」や「翡翠」の兄でありながら、醜かった。その上、心優しく、緩やかに「食事」をするという不浄を受け入れようとすることができなかった。居場所を求めるも、太陽や星々に拒否されてしまうが、最後は星になる。

 鷹から名前を戒名することを命令され、殺意を向けられてしまうが、不条理な殺生を受け入れられなかったよだかは、名前だけは「神様」にもらったものだと言って、星になった。これは、単なる自己犠牲と思われがちだが、鷹の命令に背いてまで彼は神から預かった名前を守ったのだ。それはカトリック信者で言えば「洗礼名」とも言えるのかもしれない。

 神の価値観と人の価値観の摩擦がこの作品には見られる。本来ならよだかも祝福されるべき存在であったが、彼には苦しい摩擦だけが訪れた。よだかは自分の生きていくための殺生を拒むことや、自ら命が尽きるまで飛び続けて星になってしまったことから、自死ともとれ、非暴力による攻撃力の高さとしても評価されているが、それ以前に鷹のような存在がまず「定め」と言って非暴力的に差別することは日常にある。

 

 今年、2024年は2月14日に「灰の水曜日」を迎えるが、その前日に多くの信者が「赦しの秘跡」(告解)を行うだろう。きっと多くの聖職者たちが「赦しの秘跡」の素晴らしさなどを語るのかもしれないが、私は8割の聖職者を信じることができないのかもしれない。現に、この秘跡の機会を”利用”され、強姦された女性信徒が、訴訟を起こし、その裁判が始まっている。

 私はそれを知った際に「そういう神父はいても不思議じゃない」というような経験が、私にもあった。さほど大したことがないことではあるが、だからと言って、これに関しては通報することはしなかった。

 私たち女性は、「神父は女性経験が少ない」「女性に慣れていないから」と等という理由に、デリカシーの無い発言や態度に色々と我慢していることがある。赦しの秘跡は教会によって個室でない所もあるが、色んな話を聞きすぎて、妄想を抱いている神父、というのが存在する。

 「職業病だ」と”同情”する意見もあるが、しかし、それらに理性をおいて一線を保つことも覚悟の上で神父になったはずだ。女性というのは、カトリックに限らず、女であるのなら、そう言うことは免れないので、目を瞑っていることが多い。

 「いちいち軽い『言葉』や多少、触れることを気にしていられない」というものも確かにある。だから、それが一線を超えて自分を傷つけていて、「異常だ」とすぐに気づけないことが多い。どこから「異常」が始まっていて、どこまでなら黙るべきなのか、気のせいなのか… すぐに被害を報告できない、というのは確かにあることだ。

 

 これからの灰の水曜日から自身を省みるとするのなら、信者に「赦しの秘跡」を勧める前に、私たちに「信仰かが遠のいている」と説教をする前に、赦しの秘跡の根本を見直すべきだ、と提案したい。

 例えば、教皇フランシスコが2014年2月19日の一般謁見での説教で、「迷える羊に対して善き牧者である私たちが、主になさるように、両肩に人々の魂の重荷を担う準備が整っているべきなのだ」と語っておられる。もっと、掘り下げたいが、長くなるので割愛する。

 生きる上で、「よだか」のようにこの世との摩擦は必ず訪れる。確かに、聖職者にも「書き味が悪いペン」がいたとしても、そういう存在も回心し、再起できる場所というのも理解はできるが、「秘跡」に不正を混ぜてしまうことは、矛盾でしかない。他の宗教や宗派にも真理があるというように、カトリックの教理が正しいかどうか、というのは問わないとしても、私達はイエスの名前を使って体系づけられたことに同意したことを、忘れがちである。

 自分自身の洗礼名に始まり、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイによる福音書18章20節)とあるように、イエスの名前を深く意識することを忘れてはならない。

 イエスキリストの存在は、シニファン、シニフィエのように単にシンボルや言葉の意味だけで説明できるものではない。彼の存在は、人々の信仰、経験、そして奇跡的な出来事により深く根付いていく。そのため、あらゆる言葉や概念に閉じ込めることはできない。イエスキリストの存在はシンボルや言葉の枠を超えているのだ。それには、心をどうしておくべきか、それこそ聖書に書かれてあるだろう。

 

 よだかは、自分の名前を守ろうと星になった。神様からもらった名前だからだ。これには魂の尊厳と神への忠誠心すら感じさせる。どんなに見た目が醜くても自分にも「小さな光のカケラ」があると、よだかが太陽に言ったように、誰しもそのような魂の尊厳がある。

 よだかの死について、よだかをバカにした鳥たちや、存在を拒んだ星々達は悲しむことはない。残念ながら、そういう人たちは、悲しまないのだ。そういう人たちから奪われたものは取り返すことができない、と私は思っている。けれども、その悲しみや死は心優しい読者を傷つける。非暴力の攻撃性というものは、愛してくれる人に大きな傷を与える。自死というものはそういうものだ、ということも隠喩としてあるだろう。

 鷹のようにならず、よだかの綺麗な心のように生きること、守り抜いた神様からもらった「名前」のようなものを人は誰しも持っている。それを賢治も訴えているように思う。それには、童話として架空の死を通す必要があったのかもしれない。

 

 遠くの訴訟や、会ったことのない人間が、どこかで苦しんでいる、ということを自分の痛みのように感じる必要はないのかもしれない。それでも、イエスの名前を使う限り、イエスは私たちに何かを求めていることを忘れてはならない。他者というものは「架空」のようにも思えるが、キリスト者は他者を宗教的に感じて、イエスの愛と正義を実践しなければならない。

 イエスが望んでいることは何なのか、自分自身の小さな光のカケラを探さなければならない。四旬節の始まりである灰の水曜日のこの日は、信者たちが過去の過ちに反省し、聖体拝領を受ける。

 灰の十字を受けることで、自分自身の罪や過ちを認識し、赦しを求めるが、学び直し、皆様が去年よりも気づけることを。

(Chris Kyogetu)

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2024年2月4日