・愛ある船旅への幻想曲 ㉛「教会とは何なのか、聖職者とは何なのか」”合併”でまた、問いが振り出しに…

 マタイ福音書に登場する“異邦人”であるカナンの女性が強い信仰から執拗に自分の娘を癒してくれるようにイエスに願う場面。イエスは「あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と言われ、娘の病は癒やされた。

  教皇は「これが神という方のなさり方なのです。神は愛なのです」とされ「、愛ある方は、ご自分の立場に固執せず、心を動かされ、もともとの計画を変える方法を知っておられるのです。私たちキリスト教徒は、そのようなキリストに倣うべきです」と説かれた=教皇フランシスコの年間第20主日の正午の祈り(「カトリックあい」より)

 高松教区と大阪大司教区の合併が中央協議会ホームページと各新聞にも8月16日に掲載された。これは、日本の教会にとって、大きな課題を与えられたと言えよう。しかし、8月17日に中央協議会の文言が変わった。高松教区と大阪大司教区の発表文書から「合併」から「統合」に改めたとある。どう考えても高松教区の現況から当然の成り行きであり、「吸収合併」にほかならないだろうに、何故あえて「吸収合併ではありません」と、強調するのか。

 社会では、たとえ合併であれ、統合であれ、先ずは組織幹部から、ここに至るまでの経緯、そして今後の方針を丁寧に説明するのが事の筋道ではないか。ここにそれはない。バチカンの発表から、高松と大阪の教区トップ集団が今何を考え、何に固執しているのか。信徒は、財政面でも教区を支えている。それは当然の義務だからと、信徒を蔑ろにした内容のない文書で発表したのか。これがよくよく考えての文章ならば、もっと始末に負えない。

 日本は近い将来このような教区の合併が起こり得る可能性は高い。今回は、高松教区の司教は空位である。退任司教が強い信仰の持ち主であれば、人間としてどんな立場に置かれても正しい道を識別し、現在生きている“社会”のルールに沿った行動を取るだろうに。カトリック教会で子供達に紹介するコルベ神父は自分の置かれた状況から何をなさったか。

 また、今回の合併問題は数年前から検討されてきた、といわれている。だが、高松教区の発表文書には「予想外の」とある。わからない。小さな教区であろうがなかろうが、この場に及んで、一番守らねばならない教会の教えは、どこに行ったのか。

 聖職者に従順な信徒方には新しい教区誕生への疑問も不安もないだろう。これは、聖職者にとっては好都合である。だが、カトリック教会にある位階制度から有無を言わせぬ強引さ、「シノドス的」な教会の姿には程遠い信徒への塩対応ぶりを今回も思い知った信徒も多く居ることを忘れないでほしい。

 カトリック教会には守るべき大切な古い伝統があることは百も承知であるが、反省も聞く耳も持たない名前だけが変わる「新しい教区」のスタートでは、未来に希望はない。信徒への愛が微塵も感じられないこの度の合併劇。真の愛を知らない人からの愛は口先だけで語られ、本人だけが酔いしれた今回のような発表文章となり、未来を見据えた信徒には疑問と怒りしか残らない茶番である。

 教会とは何なのか。聖職者とは何なのか。また、振り出しに戻った私である。

 イエスに「あなたの信仰は立派だ」と言われるために自分はどう生きていかねばならないのか。自分の立場に固執せず、聞く耳を持ち、正しい変化に身を任す。イエスに倣うためには、人間としての真の愛を知らねば、神からの愛にも気付かず、人への愛も偽善に終わるだろう。

 新しい教区が、次世代に恥じぬ対応ができるようにと、今後、責任者に就任される教会関係者に、切に願いたい私である。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2023年8月30日