・愛ある船旅への幻想曲 ㉚ 若者たちの「夏祭り」から、教会の行事の在り方を考える

 コロナ禍の行動制限のない夏を久しぶりに迎える。私が住む地域も、毎週末あちこちで『祭り』が開催されている。日本での祭りの本来の目的は「神様に感謝すること」―“祀る”が語源らしい。

 先週末、駅前に大勢の中高生の姿があった。一瞬、「何事?」と、カルチャーショックに陥った。

 翌日、中学2年男子から、「新しい祭」が近くの公園で開かれていた事を教えられた。今の世の中、一人がインターネット上で得た情報を、簡単に仲間に一斉配信できる。高校2年男子は「そういう情報が流れてくるんです」という言い方をする。この二人は、新しい祭に興味を持ち、それぞれのグループで行動に移した。

 高校男子に、祭りの目的を聞いてみた。「神様を… 米の収穫とか…」と全体的には、分かりにくい答えだったが、”神様”と未信者の彼が言ったことで良し、とした。”神様”についての分かち合いは、後日のお楽しみ…。今回は、興味のあることにしか反応しない中高生が街に溢れたイベントやネット環境の在り方について彼らから学びたかった私である。

 カトリック教会も、いろいろな行事が再開されるだろうが、一つひとつの問題が正しく解決されていない教会の現状を考慮したうえで企画、実施する必要があるのではなかろうか。特に「青少年活動」に関しては、心していただきたい。

 先日、宗教法人世界平和統一家庭連合(旧統一 教会)が東京・多摩市の国士舘大学多摩キャンパスに隣接する土地を購入したことが明らかになったが、「宗教法人法に基づく解散命令がなされないことが確定するまでの間、既存建物の解体・改修、新たな建物の建築など一切の行為を行わないように」との多摩市当局の申し入れを無視する形で、先月初めに既存建物の解体工事に着手したという。大学当局も、質問に対する旧統一教会の回答を受けて、「市民の不安解消に向けた努力や取組みの姿勢が一切窺えないことは、誠に遺憾」であるとの見解を公表している。子供を持つ親なら、問題のある宗教組織に子供を近寄らせたくないだろう。

 ひるがえって、カトリック教会の”イベント”で問題が生じた場合、責任は誰が取るのか。(今、教会が責任を取らない問題が山積している)。教区や宣教会のイベントに参加して、聖職者や修道者から受けた失言、暴言そしてハラスメントを、「今だから告白」する青年男子の存在が身近にあることを、私たちは知らねばならない(これは青年男子だけに限らない問題だが)。

 コロナ禍が明らかにした活動の難しさと宗教組織に対する批判の中で、何を教訓に活動する必要があるのか。その場限りの集まりが楽しかったらそれで良し、とするのか。先行きの見通しのきかない今を生きねばならない子供たちにとって、教会はどのような場を提供し、誰がどのような指導をするのか、そもそも人格、識見共に優れ、適切な”指導”ができる人物がいるのか、等々。

 まずは、”自信満々な聖職者主導の教会”が、宗教教育にも悪影響を及ぼしていることを、謙虚さを持って認識することから、始めるべきだろう。子供の教育は、学校の責任や親の責任が問われ続けているが、教会は今、「責任問題」について語る資格が十分にはない立場にあることを認め、その上での青少年育成のための活動をどのように進めるのか、慎重に慎重を重ねた姿勢で臨んでもらいたい、と思うのだが、いかがだろうか。

 …子供たちにとって、愛がいっぱいの、思い出深い夏休みになりますように。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2023年8月5日