・愛ある船旅への幻想曲⑯「あるロシア女性の手記」を読んで思ったこと

 “あるロシア女性の手記”が新聞に連載されている。ここで少し紹介させていただきたい。

*「今年のキリスト教復活祭」のテーマでは…

 ウクライナの人たちは自国の戦士のことを、爆撃にさらされ占領下にある都市や村の住民のことを、住む場所もお金もなく世界各地に分散している避難民のことを祈るだろう。苦しみ、殺され、その後よみがえったキリストも、彼らとともにいることだろう。一方、ロシア人が祈るのは…「殲滅すべき敵」と見なすウクライナに勝利することだ。

 祈禱も、血を分けた兄弟民族に打ち勝つためになされる。一体、これがキリスト教だろうか?キリスト教風の装いをまとって、復活祭のお勧めの用語でカムフラージュしただけではないか。わが国の悪魔的な祈禱の本質は、聖職者や宗教活動家が口にしたり書いたりしているものを読めば分かる。

 「これは聖戦だ。信仰を守るためなら、ロシアはどんな犠牲も払う」「ロシアに栄えあれ!ウクライナの悪魔に打ち勝つのだ!」。要するに、大規模な世界戦争を彼らは、あおっている。「皆殺しだ!わが勝利のない世界は不要だ」と。

*「非人間的な侵略の唱道者」のテーマでは…

 聖職者や信心深い人々こそが、戦時下で一番残酷で非人間的だ、ということだ。彼らは、侵略のイデオローグ(唱導者)になってしまった。その説教は良心を目覚めさせずに眠らせる。現政権と同様の犯罪者だ。聖職者はこの戦争を止めることができたはずだ。兵士たちに呼びかけて、住民に悪辣な行為をしないよう諭すこともできたはずだ。

 それなのに彼らはロシアの勝利を、信仰でも言語や文化、生活様式の上でも兄弟である人たちの血を欲している。少数ではあるが戦争に反対する聖職者も「いる」のではなく「いた」ことも言っておく必要がある。しかし、彼らは即座に教会に弾劾され、口を封じられ、説教も信者に届かないままだ。今年、ロシアの復活祭でキリストは、よみがえることなく彼らから離れ、おそらくロシアからも去ってしまった。

 光あふれる祭日ではなく、とても苦い、血まみれの祭日だ。ウクライナと西側諸国は、復活祭に向けて人道回廊を設け、占領下のマリウポリから住民を退避させるようロシアに提案したがロシアは拒絶した。聖職者たちは口を閉ざしたままだ。「わが国」の兵士は、「わが国」の聖職者の説教に従い、ウクライナに向けてミサイルを発射した。ミサイルには聖なる復活祭の文句が書かれていた。「キリストはよみがえりたまえり!」気味が悪い。ぞっとする。「キリストは私たちのためによみがえらなかった。私たちはキリストを殺したのだ」と記されている。

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 私は、この筆者と同じように、「キリストが永久にロシアから去ったわけではない」と願い、祈らずにはいられない。私の友達の娘さん一家はスイスに住んでいる。ウクライナから母親と息子が避難し、かわいい男の子は娘さんの息子の小学校で学んでいた。しかし、先日、父親の死でウクライナに帰国した。こんな状況を子供たちは目の当たりにせねばならないのだ。悲惨な戦争は生涯忘れることのできない心の傷になるだろう。

 復活の主日は、十字架上で亡くなったイエス・キリストがよみがえられたことの喜びで人々を一つにする、カトリックにとって最も重要な祭日だ。

 ここ数年の自分自身の状態はどうだろう。心からその日を祝い、カトリック信徒として喜びの内に教会で生きているだろうか。疑いがある。「非人間的」な状態を、教会の中で感じているのかもしれない。

 ある年配の方から、「今のカトリック教会で、今まであった制度を受け入れられる人と受け入れられない人が、なぜいるのか」と尋ねられた。この問いかけについて、年配ではない世代の信徒たちと、この問いかけについて分かち合った。

 「では、どうして何の問題意識も持たずに、今まで来れたのか、お聞きしたい」「教会組織がイエス・キリストの教えから逸脱している、という認識はないのか」「今の制度を容認している人は、制度を知らない人か、その制度で優位に立っている人か、自分のことで精一杯で制度に無関心な人ではないか」「制度のことなど知らずに信徒になったが、色々見てくると今の制度の理不尽さがやたら目につく」… 意見や感想が次々と出てきた。

 カトリック信者にとって制度への認識の違いは、“世代間ギャップ”だけで片付ける訳にはいかないだろう。今の制度に疑問を持つ信徒は、それに抗議しているのではない。人間中心の組織や制度が生んだ”権威”を振り回すことは、イエスの教えではないはず、と憂いているのだ。

 パウロは、ガラテヤの信徒の手紙の中で、こう諭している。「私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。思い上がって、互いに挑み合ったり、妬みあったりするのはやめましょう」(5章25節〜26節)。

 私は、聖霊の導きによって神からの良心を受けねばならない、と思っている。どんな場面でも、キリスト者同士の争いに、“イエスの愛”は届かない。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2022年5月31日