・「愛ある船旅への幻想曲」 ①「愛」と「信頼」でイエスが舵を取る船に…

  「カトリックあい」の一信徒読者の私が、兄弟姉妹とのおしゃべりを基に気ままな“船旅”へ出発したいと思います。私見にお目通しくださる方々に感謝を申し上げます。

 新型コロナウィルスがクルーズ客船で確認された報道は、「Oh my God!」と世界中の人たちの思考が停止したことでしょう。私にとって夢のクルージング旅行、あこがれの船旅。勿論、接触感染はクルーズ船のみで起こることではありませんから、私の船旅への思いが変わることはありません。今は一日も早くウィルス感染症が終息することを願ってやみません。

 「船」には様々な解釈がありますが、象徴としての「船」は、時に聖別された特異な存在と思われます。キリスト者にとっては、ノアの箱舟、そしてイエスと弟子たちが乗った舟が思い出されるでしょう。(写真は、ガリラヤ湖畔、舟の奇跡の教会にて・南條俊二撮影)

 私たちは共同作業をしているときに、“同じ船に乗っている”という表現をします。同乗者は力を合わせて目的地へと向かわねばなりません。そこには試行錯誤を繰り返しながら、必然的に信頼関係が生まれているはず  です。

 目的地に行くためには、その船の船長の力量も大きく左右されるでしょう。ある日、気が付いたら下船している人たちがいる。何も言わず、姿が見えなくなる。この場合に「なぜ、あの人は船を下りたのだろうか」と船長は考えるのではないでしょうか。

 徒然草52段、“仁和寺にある法師”*には、どんな小さなことにも指導者が必要であることを、教訓として兼好法師が教えています。老年になるまで石清水に参詣しなかった仁和寺の一法師が、案内人なく一人で参詣し、ふもとの末寺や末社を本社と思い込み、帰って来ました。老僧が年来の希望を果たしたと思い込み、友人に感激の情を込めて語ってしまったという、おかしみがにじみ出ている物語です。いつの世も、自分だけの思い込みや勘違いには気をつけねばなりません。

 私たち信者は『‘教会』という巨大な船に乗っています。しかし、世界中の教会は大小様々です。教会の大きさが違うように、各指導者の人格は、決して同じではないでしょう。イエスの12人の弟子たちからもそれは理解できます。

 本物のキリスト者の集まりは、全く異なった性格やタイプの人間が共存できる場所です。今を生きる私たちには、「今を生きるイエスの教え」が必要です。指導者が独りよがりの偏見と
思い込みで教会組織を運営することには、疑念が生じるかもしれません。なぜならば、現実の社会で生きている私たちは、 私たちなりに社会の動きに目を向けて、善悪を区別することができるからです。

 『教会』という同じ船に乗るのであれば、人々を必要としているイエスの「愛の行為」を先ずは指導者が熟知し、信徒と共に証しせねばならないでしょう。「愛」を深く知り「信頼」を持って 、イエスが舵とる船に乗り込みたい私です。

(西の憂うるパヴァーヌ)

*徒然草第52段

  仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果たし侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。

すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年2月27日