・Sr.岡のマリアの風 (61)四旬節に味わう教皇の説教と東方神学者の本

 教皇フランシスコの、灰の水曜日の説教(2021年2月17日)を何度も読んでいます。話の底に流れるモチーフ、「旅・巡礼」は、私がいつも心惹かれるテーマです。自分自身の、そして「私たち」のキリスト者としての歩み、キリストの教会の歩みを表現するのに、これ以上ふさわしいイメージはないと、私は思うからです。

 聖書の中で「旅」は、いろいろな形で現れ、その一つ一つの旅は、神の民にとって大切な意味を持っています。楽園を追われたアダムとエバが始めた、地上での旅。人間が神への対話に再び開かれる、その始まりとしての、アブラハムに求められた旅。ヤコブのさすらいの旅-そしてその中心に、自ら「降りて来る」神との出会いがあります。

 ヤコブの子、ヨセフのエジプトへの「旅」―この旅によって、ヨセフ自身、奴隷から、自分の民を解放する者となっていきます。

 そして、旧約聖書の頂点、「出エジプト」の旅―エジプト脱出、「約束の地」に向かう40年間の砂漠での旅。

 これらのエピソードに象徴される旅は、決して簡単でも楽でもありません。旅そのものに危険が伴うことはもちろん、旅をする「私たち」の心が、絶えず誘惑にさらされるからです。

 「エジプト―さまざまな偶像に縛られた状態―」の奴隷状態から解放されたにもかかわらず、私たちは困難に出会うたびに、「エジプトに帰りたい、エジプトでの生活はよかった」と、まったく根拠のない文句を言い始めます。

 出エジプト記を読んでいると、あのような前代未聞の奇跡―紅海の水が左右に壁のように分かれ、その真ん中を通る―によって解放され、神である主と「同等」の契約(花婿・花嫁の関係)を約束されたのに、すぐに「金の雄牛」を作って拝むなんて「信じられな~い!」と思うけれど、実は、同じようなことを、私たちは日々の生活の中でしています。

 実際、私たちは、洗礼においてキリストの内に死んで、「新しい命」、永遠の命に生まれたのに、毎日の生活の中で、あたかも、キリストが来なかったかのように、キリストのあがないのわざがなかったように、「古い命」を生きている、と教会の教父たち、著作家たちは繰り返します。

 だから教会は、年に一度、私たちが誰であるか、どういう命を生きているのかを頭で理解するだけでなく、体全体で体験する時を、信徒たちに与えます。それが「強い季節」、四旬節・復活節、その中心は、キリストの過越の秘儀(受難・死・復活)を記念する「過越の聖なる三日間(聖木曜日から復活の主日まで)」です。

 四旬節は、ですから、私たちが、復活祭をふさわしく祝うことができるよう、つまり、洗礼の秘跡においてキリストと共に死んで復活した私たちの「身分」にふさわしく復活祭を記念できるよう準備する期間です。

 私は今、現代東方正教会の著名な神学者、アレクサンドル・シュメーマン師(Alexander Schmemann、+1983)の四旬節の典礼についての本を読んでいます。(Alexander Schmemann, Quaresima: in cammino verso la Pasqua, Qiqajon, Magnano 2010)自分とは異なる典礼、文化、習慣を知ることは、自分自身の典礼、文化、習慣をより深く悟るための助けになります。

 シュメーマン師の本を読んでいて、今年(2021年)の始めに、初めて訪れたルーマニアで正教会のシスターたちが運営する巡礼宿に泊まった時、四旬節前の典礼にあずかったことを思い出しました。

 シュメーマン師は、東方正教会は、復活祭を準備するための四旬節を、さらにまた準備する期間があること、その準備期間は、連続する五つの主日を含め、一貫して「悔い改め(penitence)」のテーマが差し出されていること、それぞれの主日を導くのは、悔い改めの五つの側面を考えさせる福音箇所であること、を伝えています。

 つまり、教会は、人間の本質の脆さを知り、精神的弱さを予見しながら、私たちを徐々に、四旬節の「戦い」「努力」へと導入する、とシュメーマン師は言います。

 「古い」命、罪の命、みすぼらしい命は、簡単には、打ち負かされ変わることはありません。福音は人間に努力を求めます。それは、現在の状況において、潜在的には不可能です。私たちは、あるヴィジョン、ある目的、私たちの可能性をはるかに超えた生き方の前に置かれています。

 使徒たち自身、彼らの「先生」の教えを聞きながら、絶望して尋ねますー「それでは、誰が救われることができるでしょう」(ルカ福音書18章 26節)。

 実際、到着点が、ほかならぬ完全である生き方の理想のために―「あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」(マタイ福音書5章48 節)―日々の心配、物質的富の追求、安全、快楽で形成された人生の卑しい理想を放棄するのは、簡単ではありません。

 この世は、そのすべての伝達手段を通して言いますー「幸せになりなさい、心配せずに、広い道に入りなさい」。福音の中で、キリストは言いますー「狭い門から入りなさい」(マタイ福音書7章13節)、戦い、苦しみなさい、それが唯一の真の幸せの道だから、と。

 教会の助けなしに、私たちはどうやって、この並外れた選択をすることができるでしょうか。どうやって、悔い改め、毎年、復活祭に私たちに与えられる約束された栄光に戻ることができるでしょうか。

 私たちが、復活祭を、単に食べたり飲んだり休んだりすることの許可としてではなく、私たちの中の「古い」ものの終わり、「新しい」ものへの入場として迎えることができるようにしてくれるのは、教会が私たちに与える助け―悔い改めの学び舎(学校)―だけです。

 まさに、四旬節はこの「悔い改めの学び舎」であり、その学び舎に、一人ひとりのキリスト者は、毎年行かなければならない、と彼は言いますー「自分の信仰を深めるために、自分の生活をよく顧み、出来る限りそれを変えるために」。

 だから 「旅」。イスラエルの民の、約束の地に向かう40年間の旅のように、約束の地―父の家、楽園―に向かう40日間の旅。四旬節は、真の信仰の源泉そのものに向かう、すばらしい巡礼の旅です。真の生き方の再発見です。

 まさに、四旬節の典礼の形(フォルマ)と精神を通して、教会は私たちに、この唯一の季節の意味を伝えています。

 シュメーマン師は、四旬節のさまざまな賛歌、祈りの中でも、まさに「四旬節の祈り」と呼ぶことができる短い祈りを紹介しています。伝統が、霊的生活の偉大な師の一人、シリアの聖エフラエムの作と考えているものです。

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 主よ、私のいのちの師よ!私から取り除いてください、怠惰な精神、落胆、権力への渇望、意味のない話を。

 その代わりに、あなたの僕(しもべ)に与えてください、貞潔(清さ)、謙虚さ、忍耐、愛の精神を。

 主であり王である方よ、私に、自分の誤りを見させてください。私の兄弟を裁かないようにしてください。

 あなたは代々にたたえられるからです。アーメン。

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 シュメーマン師は、なぜ、このように短くシンプルな祈りが、四旬節の典礼全体の中で、ひじょうに重要な位置を占めているのか、と問いかけ、それに答えています。それは、この祈りが 悔い改めの 否定的 肯定的要素のすべてを適切な方法で列挙し、いわば、私たちの四旬節の努力のための「覚書(リマインダー)」を形成しているからです。

 まさに四旬節の努力の目的は「私たちの人生をゆがめ、事実上、神の方に向かうことさえ不可能にしてしまうある種の根本的な霊的病から、私たちを解放することに」あります。

 この後、シュメーマン師は、この祈りの中で指摘される悔い改めの要素を、一つひとつ、解説していきます。それについては、「マリア論オンライン講座」のHPや講座自身で見ていきたいと思っています。

 みなさんの四旬節の歩みの上に、復活の主の光が惜しみなく注がれますように!祈りつつ…

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

 

(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用しました=「カトリック・あい」)

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2021年2月27日