互いに相手をどう呼び合っているか-たいてい、私たちは、そこに二人の関係を見ることができるでしょう。家族の中で、また学校や職場といった社会の中で、私たちは、そのことを体験します。
その際、「名(前)」は、大切な役割を担っています。相手が自分の名前を憶えている-感謝(よろこび!)。自分が相手の名前を憶えている-祈り(よろこび!)。これが、人間関係の原点ではないか、とそう思います。
*名は体を表して
聖書において、「名」は、ある人(もの)の単なる「しるし」や記号ではありません。むしろ、それは、それらを超えて、その人(もの)の本質や役割を表しています。
例えば、旧約聖書でしたら、アブラハム(国民の父)、イサク(神は笑う)、そしてヤコブ(かかとを握る)、などを思い起こすことができるでしょう。また、新約聖書でしたら、ヨセフ(主[ヤーウェ]は加えたもう)、マリア(神に愛された者/高められた者)、そしてイエス(主は救い)、などを挙げることができるでしょう。
イスラエルの民は、しかし、神を直接名前で呼ぶことをはばかりました。そこで、彼らは、「主」という言葉で神を呼ぶようになります。「主」以外に神はない。「あなたがたは私の証人/私が選んだ私の僕である-主の仰せ。/あなたがたが私を知って、信じ/それが私であると悟るためである。/私より前に造られた神はなく/私より後にもない。/私、私が主である。/私のほかに救う者はいない」(イザヤ書43章10-11節)。
*主の名を呼び求め
その延長線上において、イエスは、‶主イエス・キリスト〟と呼ばれます。つまり、これは、‶イエスは救い主であり神である〟という信仰告白です。ですから、私たちは、祈りの最後に、「私たちの主イエス・キリストによって」と唱えます。言い換えれば、これは、「主イエス・キリストの名によって」ということです。
主の名を呼ぶ-それは、神に礼拝を捧げること、あるいは祈ることにほかなりません。それゆえ、キリスト者は、「御名を呼び求める人」(使徒言行録9章14節)「この名[イエス]を呼ぶ者たち」(9章21節)、「主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人々」(コリントの信徒への手紙1章2節)、「主を呼び求める人々」(テモテへの手紙2章22節)と言われます。つまり、キリスト者とは、「絶えず祈る者」のことなのです。
イエスは、次のように語ります-「あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる」(ヨハネによる福音書16章23節)。イエスの名によって願うとは、「イエスの本質によって願う」ということ。そのイエスの本質とは、「主は救い」でした。つまり、「神の救いの営み(オイコノミア)を信じるならば、父は、必ずそれを叶えられる」ということでしょう。
このように、キリスト者の信仰はイエスの名に基づく、と考えられます。ですから、パウロは、こう語ります-「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマの信徒への手紙10章9節)。ここに、‶使徒信条〟の核心があります。
(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)