*使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE(喜びなさい。大いに喜びなさい)-現代世界における聖性への呼びかけ」(全5章・試訳)

1.「喜びなさい。大いに喜びなさい」(マタイ福音書5章12節)。イエスはご自分のために迫害され、侮辱される人々に、このように言われました。主は、私たちのすべてを求められますが、その見返りに、真のいのち、私たちが創られた目的である幸せを、私たちにくださいます。主は私たちに聖なる者であることを望まれます。私たちが当たり障りのない、平凡な生き方に満足することを願っておられません。聖性への呼びかけは、聖書の最初のいくつかのページにあります。主のアブラハムに対する言葉で、こう表現されています-「あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい」(創世記17章1節)

2.これから申し上げることは、聖性に関する論文-この重要な課題の理解を助ける定義や区別、あるいは聖化のさまざまな方法についての議論-を意図していません。私の控えめな目的は、聖性への呼びかけを-現代に合った実際的な仕方で、危険、挑戦そして機会とともに-改めて行うことです。それは、主が私たち一人ひとりを、ご自分の前で「聖なる者、汚れのない者にしよう」(エフェソの信徒への手紙1章4節)と、お選びになったからです。

第1章 聖性への呼びかけ

 *私たちを励まし、同行してくださる聖人たち

3.「ヘブライ人への手紙」は、私たちを「自分に定められている競走を忍耐強くは知りぬく」(12章1節)よう励ます、たくさんの言明をしています。アブラハム、サラ、モーセ、ギデオン、その他の人々について語っています(11章1節-12章3節参照)。そして何よりも、「おびただしい証人の群れ」(12章1節)が、目標に向かって常に前進するよう私たちを駆り立てていることを認識しなさい、と私たちに呼びかけているのです。このような証人たちには、私たちの母、祖母、その他の愛する人たちも含まれるでしょう(テモテの手紙2・1章5節参照)。彼らの人生は常には完璧でなかったかも知れませんが、過ちと失敗の最中にあってさえも、前進し続け、主を喜ばせたのです。

4.聖人たちは今、神の前で、私たちとの愛と霊的交わりのきずなを保っています。「ヨハネの黙示録」は、殉教者たちのとりなしについて語る時に、そのことを証言しています-「神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、私は祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつ前裁きを行わないのですか?」(6章9-10節)。私たちはそれぞれ、このように言うことができます-「神の友たちに取りまかれ、先導され、案内されます・・。私は、実際、一人で運ぶことが絶対にできないものを一人で運ばなくてもいい。すべての神の聖人たちが、私を守り、支え、歩ませるためにおられるのです」¹

5.列福と列聖を行う過程で、英雄的な美徳のしるし、殉教による自己犠牲、そして他の人々のために人生を捧げ続け、死に至るまで捧げ続けるような事例が評価されます。このことは、キリストの模範に倣う行為であることを示しています²。例として、福者マリア・ガブリエラ・サゲッドゥ(1914-1939イタリア・サルディニア生まれ、1983年に列福)を挙げることができるでしょう。彼女はキリスト教徒たちの一致のために命を捧げました。

 聖人たちは”隣り”に

6.しかし、私たちはすでに列福され、列聖された人々だけを考える必要はありません。聖霊は、神を心から信じ、忠実な人々の間に、聖性を豊かに注いでくださいます。なぜなら、「神は、人々を個別的に、全く相互のかかわりなしに聖化し、救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め、忠実に神に仕える一つの民として、確立することを望んだ」₃(第二バチカン公会議「教会憲章」9項)からです。救済の歴史で、主は一つの民を救われました。私たちは、一つの民に属していなければ完全に自分自身ではないのです。それが、誰も一人では、ばらばらの個人では救われないことの理由です。神は、私たちを放っておかれず、人間社会の複雑な対人関係のあやをご存知の上で、ご自分のところに引き寄せようとなさいます。神は一つの民の生涯と歴史に立ち入ることを望まれました。

7. 聖性が神の民の忍耐の中-大きな愛をもって子供たちを育てる両親、家族を支えるために懸命に働く男女、病んでいる人、微笑みを絶やさない高齢の聖職者の中-にあることを考えたいと思います。彼らの日々の忍耐の中に、私は、闘う教会の聖性を見ます。聖性は、私たちの隣りの人たち-私たちの中で暮らし、神の実存を映す人たち-の中に見つかることが、とてもよくあります。「聖性の中流階級」と呼べるかもしれません。⁴

8.聖性のしるしに心を弾ませましょう-そのしるしは、主が「信仰と愛の生活を通して、キリストについて生きた証を広め・・キリストが果たした預言職に参加」⁵(「教会憲章」12項)する者の中で最も謙虚な人々を通して、私たちにお見せになります。私たちは、十字架の聖テレサ・ベネディクタが語ったように、本当の歴史はとても多くの人々によって作られている、という事実を思う必要があります。彼女はこう書いています-「預言の力と神聖さで最も優れた人物たちは、真っ暗な闇夜から抜け出て、前に歩む。だが、大部分の人にとって、神秘的な命の形成の流れは見えないままだ。まことに、世界史の最も決定的な転換点は、歴史書に書かれていない人々によって実質的に確定される。そして、私たちは、隠されていたすべてが明らかにされる日に、自分たち個人の生涯の中で、その決定的な転換点を定めた人々について、初めて知ることになるだろう。⁶

9.聖性は教会の持つ最も魅力的な側面です。しかし、聖霊は、カトリック教会の外においてさえも、とても異なった文脈の中で「キリストの花々を助けるご自身の臨在のしるし」を高く上げます⁷。聖ヨハネ・パウロ二世は「自らの血を流してさえもキリストを証しする人は、カトリック教会、ギリシャ正教会、英国国教会そしてプロテスタント教会の共通の遺産」である、ということを私たちに思い起こさせてくれます⁸。2000年の大聖年の期間中に行われた信仰一致の記念行事で、彼は、殉教者たちは「分裂をもたらしたいかなる原因よりも雄弁に物語る遺産」であると語りました⁹。

 主は呼びかけておられる

10.これらすべてが重要です。それでもなお、この勧告で、私は、主が私たち一人ひとりに、そしてあなたに個人的になさる「聖性への呼びかけ」について特に強調したいと思います-「聖なる者となれ。私が聖なる者だからである」(旧約聖書・レビ記11章44節、新約聖書・ペトロの手紙11章16節)。第二バチカン公会議はこのことについて、はっきりと言明しました-「これほど多くの優れた救いの手段に恵まれているすべてのキリスト信者は、どのような生活条件と身分にあっても、各自、自分の道において、父自身が完全に持っている聖性に達するよう、主から招かれている」¹⁰(教会憲章11項315)と

11.「各自、自分の道のおいて」と第二バチカン公会議は述べています。私たちは、達成不可能に見える聖性の模範の前にして、失望落胆してはなりません。助けられ、奮い立たされるような例証はいくつかあります。でもそれをまねることを意味しません。なぜなら、そうすることが、私たちのために主が考えておられる道から外れることさえあるかもしれないからです。大事なのは、信徒一人ひとりが自分自身の道を識別し、最善の道-神が自分たちの心に置かれた最も個人的な贈り物―をみつけること(コリントの信徒への手紙112章7節参照)。自分たちにとって意味のないことを真似ることに絶望的な努力をすることではありません。私たちはみな、証人になることを求められていますが、証人になるための実際の道はたくさんあります¹¹。実際に、偉大な神秘家である十字架の聖ヨハネは「Spiritual Canticle」を著わす際、難しくて固いルールを全面的に避けることを選びました。そして彼は、韻文を、誰もが「自分のやり方」で恩恵を受けることができるように組み立てた¹²、と説明しています。なぜなら、神の命は「ある人にはこのやり方、他の人には別のやり方」で、つながるからです¹³。

12. 様々な形の中で、私にはもう一つ、強調したいことがあります。それは、「女性の特質」を聖性の女性的な形の中に見ることができる、それは、この世界において神の聖性を映すために欠かすことのできない手立てだ、ということです。実際のところ、これまでの女性が一番無視され、見過ごされた時代にあって、聖霊は、教会において新しい霊的活力にあふれ、重要な改革を行う魅力ある聖人たちを、育て上げました。そうした聖人として、ビンゲンの聖ヒルデガルド、聖ブリジッド、シエナの聖カタリナ、アビラの聖テレジア、リジュ―の聖テレーズを挙げることができます。しかし、また私は、名を知られることのない、あるいは忘れられた女性たち全てのことも思い浮かべます-彼女たちは、それぞれのやり方で、証し人の力によって、家族と共同体社会を支え、改めたのです。

13. このことは、私たちのすべてを捧げ、神が永遠の昔から私たち一人ひとりのために作っておられた唯一の計画を自分のものとするように、刺激し、励まします-「私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別した」(旧約聖書・エレミヤ書1章5節)と。

 あなたのためにも

14. 聖となるために、司教、司祭、あるいは聖職者である必要はありません。私たちはしばしば「聖性は、日常の雑事から離れ、祈りにたくさんの時間をかけることのできる人にだけある」と考えがちです。そのようなことはありません。私たちはみな、どこにいようと、愛をもって生活を送り、自分が行う一つ一つの事を通して証しすることで聖となるように、呼ばれているのです。あなたは司教として生きるように呼ばれていますか?-与えられた責任を愛をもって果たすことで、聖となりなさい。あなたは結婚していますか?-あなたの夫、妻を愛し、大切にすることで、聖となりなさい。キリストが教会のためになさったように。あなたは生計を立てるために働いていますか?-あなたの兄弟姉妹に奉仕するために、誠実に腕を振るって働くことで聖となりなさい。あなたは親、それとも祖父、祖母ですか?-子供たち、孫たちに、イエスに倣うにはどうしたらいいかを、辛抱強く教えることで、聖となりなさい。あなたは権限を振るう立場にありますか?-社会の利益を図るために働き、自己の利益を捨てることで、聖となりなさい¹⁴。

15.あなたが受けた洗礼の恵みが、聖性の歩みの中で、実を結ぶようにしましょう。すべてを神に対して開きましょう-どのような状況にあっても、神に顔を向けましょう。聖霊の力が、そうするように助けてくれますから、迷うことがないように。聖性は、結局のところ、あなたの人生において結ぶ聖霊の実(ガラテヤの信徒の手紙5章22-23節参照)なのです。あなた自身の弱さに安住する誘惑にかられるとき、十字架につけられたキリストを見上げて、こう言いなさい―「主よ、私はおろかな罪びとですが、あなたは、私をほんの少しだけ良くする奇跡がおできになります」と。聖ではあるが罪びとたちの集まりである教会には、あなたが聖性に向けて成長するのに必要なのものがすべてあります。主は、聖典、秘跡、聖所、生きた共同体、聖人である証し人、そして神の愛から発する多岐にわたる美徳を教会にお授けになりました―「宝石で飾られた花嫁のように」(イザヤ書61章10節)

16. 主があなたに呼びかけておられる聖性は、いくつものささやかな行いを通して成長します。例を挙げましょう。ある女性が買い物に出かけ、隣の人に会い、話し始め、うわさ話が始まります。でも、彼女は心の中でこう言います。「だめ。だれの悪口も言わない」と―これが聖性に進む第一歩。家に戻った彼女に、子供たちの一人が自分の望みと夢を聴いて、とせがみます。そこで、疲れていても、腰かけて、我慢して、愛をもって彼の話を聞きます―これが、聖性に進むもう一つの犠牲。後で、彼女は、いくらかの後ろめたさを感じますが、聖母マリアの愛を思い出し、ロザリオを取り、心から祈ります―これが聖性へのもう一つの歩み。さらに、この後で、彼女は通りに出て、失望落胆している人に出会い、立ち止まって、やさしい言葉をかけます―さらなる一歩です。

17.時として、人生は大きな試練に出会います。試練を通して、主は、私たちの人生で主の恵みをさらに明らかにすることのできる回心へ、新規まき直しを図るよう呼びかけます―「ご自分の神聖にあずからせる目的」(ヘブライ人への手紙12章10節)で。また、時として、自分がすでにしていることをもっと完全にする方法を見つけることだけを必要とします―「暮らしの中で普通にしていることを、特別な方法で完全なものにするだけのための、霊感がある」¹⁵.ベトナムのグエン・バン・スアン枢機卿( 1928 –  2002)は 刑務所に入れられた時、釈放される日を待つことで時間を無駄に過ごすことを拒否しました。そうする代わりに、「この時を、愛でいっぱいにして生きる」ことを選びました。彼はこう決断しました―「日々あたえられる機会をしっかりと捕えよう。普通ではない仕方で、普通のふるまいをしていこう」¹⁶と。

18.このようにして、神の恵みに導かれ、私たちは、たくさんのささやかな振る舞いによって、神が望まれた聖性を形作ります―自分たちだけで十分な男、女としてではなく、「神のさまざまな恵みの管理者」(ペトロの手紙14章10節)として。ニュージーランドの司教団は、私たちが主の無条件の愛をもって愛することができる、と正しく教えています。なぜなら、復活された主は、その力強い命を、私たちのひ弱な命と共にされます―「主の愛は限りなく、一度与えられたら、決して取り去られることはない。無条件で、常に誠実です。主のように愛するのは容易ではありません。それは私たちが、しばしば弱いからです。しかし、キリストが私たちを愛されたように愛しようと、ひたすら努めることは、キリストがご自身の復活された命を私たちと共にしてくださる、ということを示します。このようにして、私たちの人生に―たとえ、人間的な弱さのただ中にあっても、主の力が働いていることが実証されるのです」¹⁷。

 *キリストにおけるあなたの使命

19.キリスト教徒は、地上での自分の使命を聖性への道をたどること見なさずに考えることはできません。なぜなら、「神の御心は、あなた方が聖なる者となること」(テサロニケの信徒への手紙14章3節)だからです。それぞれの聖人は、歴史の特定の時に、福音の特定の側面を反映し、具体化するために父が計画された使命を帯びています。

20.その使命はキリストにおいて完全な意味を持ち、キリストを通してのみ、理解することができます。その核心に、聖性は、キリストとの一致において、キリストの命の神秘を経験しています。聖性は、独特の、個人的なやり方―キリストと共に常に死に、新たに復活する、という仕方―で、主の死と復活に私たちを結びつける中に存在します。しかし、それはまた、私たち自身の人生で、イエスの地上での生活の様々な側面―公生活に入る前のナザレでの隠れた暮らし、地域社会での暮らし、底辺の人たちへの親密さ、自己犠牲の愛を示す中での貧しさなど―を再現することを必要とします。このような神秘を深く想うことで、ロヨラの聖イグナチオが指摘しているように、私たちの選択と態度に、その神秘が体現されるように導かれます。¹⁸ なぜなら「イエスの生涯のすべては、その神秘のしるし」¹⁹(カトリック教会のカテキズム515項)「キリストの全生涯は御父を啓示するもの」²⁰(同516項)「キリストの全生涯はあがないの神秘」²¹(同517項)「キリストの全生涯は統合の神秘」²²(同518項)であり、「キリストは、私たちがご自分とともにそれを生き、ご自分が私たちと共にそれを生きることができるようにされる」からです。

 21.御父の計画はキリストであり、キリストのおける私たち自身です。結局のところ、私たちの中で愛されるのはキリストです。それは「聖性は、十分に慈愛に満ちて生きる以外の何ものでもない」²⁴からです。結果として「私たちの聖性の大きさは、キリストとキリストの中にある私たち自身に端を発します。その限りにおいて、聖霊の力によって、私たちは全人生をキリストをひな型として作っていくのです」²⁵。聖人一人ひとりは、聖霊がイエス・キリストの豊かさから取り、の民に与えられるメッセージなのです。

22.聖人たちの一人を通して主が私たちに語ろうと望まれる言葉を知るために、細部に巻き込まれる必要はありません。それは、そうすることで間違ったり、失敗したりするかも知れないからです。聖人の語ることすべてが福音書に完全に忠実だとは限りません―彼や彼女のすることすべてが正当あるいは完全だとは限りません。私たちが熟慮する必要があるのは、聖人たちの生涯の全体、聖性における成長の旅全体、私たちが個人として彼らの全体として意味するところを理解した時に現れるイエス・キリストの似姿です。²⁶

23.これは、私たちすべてに対する強力な勧めです。あなたはまた、使命として自分の人生全体を見る必要があります。祈りの中で神の声を聴き、あなたに与えられるしるしを知ることで、そのようにしてみなさい。いつも聖霊に尋ねなさい―私が受けた使命を果たす場を識別するために、私の人生の瞬間、瞬間に、私がもとめられる判断の一つ一つに、イエスが何を期待しておられるのでしょうか―と。聖霊があなたの中に、現代世界でイエス・キリストを映すことのできる個人的な神秘を作ってくださるようにしなさい。

24.その言葉の内容、神があなたの人生によって世界に話しかけることを望まれた、というイエスのメッセージをはっきりと理解するようになるように。あなた自身を変容させましょう。あなた自身を聖霊によって新たにされるようにしましょう。そうすることで、あなたの尊い使命に失敗しないようにすることができるのです。あなたがその愛の道を放棄せず、浄化し啓蒙する主の超自然的な恵みにいつも心を開いている限り、主は、あなたが失敗し、道を外しても、使命を全うするようにしてくださいます。

 聖化する行為

25.キリストは神の王国をもたらすためにおいでになりました。キリストを、その王国から離れて理解することができないように、あなたがたの一人ひとりの使命も、その王国の建設と分かちがたいものです―「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ福音書6章33節)。キリストとその意志と一体となることは、愛、正義、そして普遍的な平和の国をキリストとともに建設する責任を含みます。キリストご自身はあなたとともに―必然的に伴うすべての努力と犠牲において、そして、それがもたらすすべての喜び、豊かさにおいて―このことを経験したいと希望されています。あなた自身の体と魂でこの偉大な事業に最善を尽くすように努めなければ、聖性を成長させることはできません。

26.他の人々との交流を避けて沈黙を愛すること、行動を避けて平和と静寂を望むこと、奉仕を軽んじて祈りを求めることは、いずれも健全ではありません。この世界での私たちの人生で、すべてのものが受け入れられ、統合され、私たちの聖性への道の一部となり得ます。私たちは、行動の最中においてさえも、思慮深くあり、責任と寛大さをもって、ふさわしい使命を遂行することで、聖性において成長することが求められます。

27.聖霊が、使命を果たすことを私たちに強く促してから、使命を放棄するように、あるいは使命を一生懸命果たさないように求めることがありうるでしょうか? それでも、私たちには、司牧の約束や責任をこの世界で二の次にする誘惑にかられる時があります。聖性における成長と内的な平和の道に「心の乱れ」があったかのように、です。私たちには、「人生には使命はない、人生が使命なのだ」²⁷ということを忘れる可能性もあります。

28.申し上げる必要もありませんが、不安、誇り、あるいは他の人々に感銘を与える必要からなされるものは、どれも聖性に導くことがありません。そのようにして私たちが行うことが、どれも福音的な意味をもち、イエス・キリストと一層、一体化させる、という約束を証しするように、私たちは強く求められています。例えば、キリスト教の教理を教える人の霊性について、教区司祭の霊性について、務めの霊性について、私たちはよく話します。同じ理由から、私は使徒的勧告「福音の喜び」では福音宣教の使命の霊性を、回勅 「ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に」では環境に関する霊性を、「(家庭における)愛の喜び」では家庭生活の霊性を、締めくくりの言葉としました。

29.このことは、神の前で、静かにひとり、沈黙の時を過ごすことの必要性を無視することを意味しません。それとは全く反対です。絶えず新製品が出る小物、旅の興奮し、そして限りなく並ぶ日用品―は時として、神の声を聴く場をなくしてしまいます。私たちは、言葉、浅薄な娯楽、そして騒々しさを増す騒音に圧倒され、喜びではなく、人生に意味を失った人が抱く不満でいっぱいになります。私たちは、”rat race”(心身をすり減らす空しい行為)を止めねばならない、と気づくこと、神との心からの対話をするのに必要な個人的な空間を取り戻すことに、どうやって失敗するのでしょうか?そのような空間を見つけることに苦痛を感じるかもしれませんが、それはいつも良い結果を生みます。遅かれ早かれ、私たちは、自分の本当の姿に向き合い、主に入ってきていただかねばならなくなるのです。「底知れない恐ろしい誘惑をじっと見つめる自分を知る、絶望の淵に立ち目もくらむような気持になる、あるいは、自分が完全に孤独で見捨てられたことに気づく」²⁸というようなことがなければ、このようなことは起きないかもしれません。そのような状況の中に、私たちは、自分の任務に十分な献身をもって生きるという、最も強い動機を見出すのです。

 30.私たちの心を乱す様々な事象が世界中に広がり、私たちは、自由な時を絶対化するように導かれ、娯楽やつかの間の快楽を与える趣向に自分自身を委ねることになり得ます。²⁹ 結果として、私たちは自分の使命を不快に感じるようになり、約束はおろそかになり、惜しみない用意を怠らない奉仕の心が薄らいでいきます。そして、私たちの霊的な認識を変えてしまいます。福音を述べ伝えること、あるいは他の人々へ奉仕することに手を抜くようになる時、どのような霊的情熱が健全でいられるでしょうか?

31.一人でいることと奉仕、個人生活と福音宣教の努力、をともに満たすことのできる聖性の精神が、私たちには必要です。それがあれば、どの瞬間にも神の目の中で自己犠牲の愛を表すことができるのです。

 もっと生き生きと、もっと人間らしく

32.聖性を恐れないように。聖性があなたの気力、活力、喜びを奪うことはありません。それとは反対に、あなたは、天の父があなたをお創りになった時に考えておられたものとなり、自分自身そのものに誠実になるでしょう。神により頼むことは、私たちをあらゆる形の隷属から解放し、自身のもつ素晴らしい尊厳に気づかせてくれます。この好例を、聖ジョセフィン・バキタ(「カトリック・あい」注・1869 – 1947・スーダン生まれ、奴隷にさせられたのち、イタリアの女子修道会に入り活動)に見ることができます―「ジョセフィンは拉致され、わずか7歳で奴隷に売られ、残酷な主人たちのせいでひどい苦しみを味わった。だが、彼女は神―人ではなく―が一人ひとりの人間の、一人ひとりの人生の真の主人である、という深遠な真実を理解するようになった。この経験が、この『アフリカの謙虚な娘』にとっての、偉大な賢明さの源となった」³⁰。

33 .一人ひとりのキリスト教徒が聖性を育てれば育てるほど、私たちの世界のために、より大きな結果を生むことでしょう。西アフリカの司教たちはこのような意見を述べました―「新しい福音宣教の精神のもとで、福音化されるように、あなた方―洗礼を受けた者―すべての力を通して福音化するように、そして、あなた方がどこにあっても、地の塩、世の光としての役割を担うように、私たちは呼びかけられています」³¹

34.あなたの目を高く上げ、あなた自身を神によって愛され、自由にされるようにすることを、恐れないように。聖霊によって導かれることを、恐れないように。聖性があなたの人間らしさを弱めることはありません。なぜなら、それは「あなたの弱さと神の恩寵の力の出合い」だからです。レオン・ブロイ( 1846 – 1917、フランスの作家)の言葉にも、結局のところ「人生で唯一最大の悲劇は、聖人にならないことだ」³²とあります。

第2章 聖性の二つの狡猾な敵

35.ここで私は、私たちを惑わす可能性のある誤った二つの聖性の形―グノーシス主義とペラギウス主義―について述べたいと思います。この二つはキリスト教の歴史の初期からある異説ですが、私たちを悩まし続けています。今も、多くのキリスト教徒が、恐らくそうとは知らずに、この誤った考え―カトリックの真理の面をかぶった人間中心的な内在論を取る―に惑わされることがあります³³。注意したいのは、この二つの形が教義と規範の仮定的な確信が「自己陶酔的で権威的なエリート主義」を生じさせ、それによって、「福音を述べ伝える代わりに、他者を分析し、格付けし、そして恵みへ導くことにではなく、人を管理することに力を費やし」、どちらの場合も、「イエス・キリストに対しても、他者に対しても、真の関心を払っていない」(以上、使徒的勧告「福音の喜び」94項)ことです。

 *現代のグノーシス主義

 36.グノーシス主義は「特定の経験、あるいは一連の論証と少しばかりの情報だけに関心を持っています。それは、慰めと光を与えると考えられるものですが、主体は、自らの理性と感情の内在にとざされたまま」なのです³⁵(同94項)。

   神と体を欠いた知性

37.  ありがたいことに、カトリック教会の歴史を通じて、常に明白になってきたことがあります。それは、人の完成度は、情報と知識の量ではなく、慈愛の深さによって計られる、ということです。グノーシス主義者たちはこれを理解しません。なぜなら、特定の教義の複雑さを理解する能力をもとにして他者を判定するからです。彼らは、知性を体から離れたものとして考えるので、他者の中にキリストの傷つけられた体を感じることができず、抽象的な概念の百科事典の中に閉じ込められたようになっています。それで結局のところ、信仰の神秘を具現化しないことで「キリスト無き神、教会無きキリスト、民無き教会」を選ぶのです³⁶。

38.確かにこれは表面的で独断的な見方です―表面にはたくさんの動きがあるのに、内面の心は深く動かされず、影響されもしません。それでも、グノーシス主義は人によっては誤った魅力を感じさせます。なぜなら、グノーシス的なアプローチは、厳格で、人のよっては純粋のように見え、すべてを包含するある種の調和か秩序があるように見えるからです。

39.ここで注意してほしいのは、私が、キリスト教の信仰に対して理性主義が有害だ、と言っているのではない、ということです。理性主義は、教会で―教区の信徒の間でも、それを形成する中心をなす哲学と神学の教師の間でも―存在可能です。グノーシス主義者たちは、自分たちの説明でキリスト教の信仰と福音のすべてを完全に理解できると考えています。自説を絶対的なものと死、自分たちの考え方を他者に押し付けます。福音の教義的、道徳的教えについて熟考するために健全かつ謙虚に理論を使うことは、(注・グノーシス主義のように)イエスの教えをすべての支配を希求する冷酷で厳しい論理に貶めるのとは違います³⁷。

 神秘無き教義

40.グノーシス主義は、最も邪悪なイデオロギーの一つです。なぜなら、知識や表面的な経験を不当に称揚しながら、自分自身の現実についての見方を完全だと考えているからです。そのことに気が付くことすらなく、イデオロギーは独善的になり、近視眼的にさえなります。自己を具現化されない霊性の仮面をかぶる時、なお一層、非現実的になります。グノーシス主義は「本質的に、神秘―それが神と恩寵の神秘だろうと、他者の命の神秘だろうと―を支配することを希求する」³⁸からです。

41. ある人がどの質問に対しても答えをもっている時、それは、その人が正しい道を歩いていないしるしです。偽預言者―自分自身の心理的、あるいは知的理論を売り込むために、宗教を利用する人―になるかもしれません。神は私たちを限りなく超越しています-驚きに満ちています。私たちは神にいつ、どのようにして出会うか、を決める者ではありません-出会いの時と場所を決めることは、私たちに任されていないのです。すべてのことを明らかに、確かなものにしたい、と望む人は、神の超越を制御するという、おこがましいことをすることになります。

42. 私たちには、どこに神がおられないかを言う資格もありません-神はご自身でお選びになった仕方で、一人ひとりの人生に神秘的に存在されるからですし、私たちが確信をもってそれを排除することもできません。ある人の人生が完全に破綻したように見えときでも、悪い行いや常習で荒廃したように見える時でさえも、神はそこにおられるのです。私たちが自分自身を、偏見ではなく、聖霊の導きにゆだねるなら、どの人生にも神を見つけることができるし、見つけるに違いありません。これが、グノーシス的な考えが、それが制御できないために、つかむことのできない神秘の一部なのです。

 理解力の諸限界

43.主から受けている真理を把握することは容易でない。そして、それを表現するのはもっと難しいことです。ですから、真理を理解する方法で、他者の人生を厳しく監督する権威づけを、私たちに与えるように主張することはできません。ここで私は、教会において、教理の多くの側面とキリスト教徒の人生を解釈する異なった方法が正しく共存していることを指摘したいと思います―その多様性において(注・哲学や神学や司牧における見解の異なる方針は)「神のみ言葉の豊かな宝を明確にすために役立ち」³⁹(「福音の喜び」40項)ます。寸分の違いもなく皆が守る、教理の一枚岩を夢見る人にとっては「これは望ましくない、混乱を招くもののように思われるかもしれない」(同)のも事実です。実際、グノーシス主義のいくつかの系統は、福音の具象的な単純さを批判し、至高の統一体に、三位一体であり人となった神を取って代わらせようとしました。そうすれば、私たちの歴史の豊かな多様性が消えてしまいます。

44.実際に、教理―あるいは教理の理解と表現と言った方がいいかもしれませんが―は「質問、疑問、尋問・・を提起する精力的な能力を欠いた閉鎖されたシステムではない。人々の問い―苦難、葛藤、夢、試練、それと心配についての問い―にはすべて、解釈する価値がある。私たちが、人となられた神の真理を真剣にとらえようとするなら、その解釈の価値を無視することはできない。その不思議さは、私たちが知りたいと思うのを助長し、彼らの問いは私たちに問いかける」⁴⁰のです。

45.危険な混乱が起き得ます。私たちは「何かを知っているから、あるいは、特定の言葉でそれを説明できるから、自分はすでに聖人だ、完全だし、”無知な大衆”より優れている」と思うことがあります。聖ヨハネ・パウロ二世は、カトリック教会の教養の高い人たちが「自分は他の信徒たちよりも、ともかく優れている」と感じる誘惑に陥らないように警告しました⁴¹。実際のところ、自分が知っていると考える事柄は、神の愛によりよく応えるように、常に私たちを刺激すべきなのです。まさに「あなたは生きるために学ぶ:神学と聖性は分かちがたい」⁴²のです。

46.アッシジの聖フランシスコは、弟子たちの何人かが教えていることを知った時、グノーシス主義への誘惑に陥らせないようにしよう、と思いました。それで、パドヴァの聖アントニオに手紙を書きました―「あなたが兄弟たちに聖なる神学を教えるのを、うれしく思っています。ただし、この勉学の間、祈りと奉献の心を、あなたが消さない限り・・」⁴³と。キリスト教徒の経験を生き生きとした福音から遠ざけるような、一連の知的演習に変える誘惑を、フランシスコは認識していたのです。一方、聖ボナベンツラは、真のキリスト教徒の知恵が隣人に対する慈しみから引き離されることは絶対ない、と指摘しました-―「考えられる最も偉大な知恵は、私たちが与えねばならないものを豊かに分かち合うこと・・慈しみが知恵の友であるのに対して、貪欲は知恵の敵だ」⁴⁴.「黙想と結ばれた行動は、黙想を阻まず、かえってそれを促す。慈しみと献身の業として」⁴⁵。

 *現代のペラギウス主義

47. グノーシス主義は、今も見られるように、もう一つの異端に取って代わられました。時が経つにつれて、多くの人が認識するようになったのは、それが私たちをもっと良くする、ないしは聖なる者とする知識ではなく、私たちが送る生活のようなものだ、ということでした。しかし、これはグノーシス主義の古い過ちに巧みに回帰しただけでした。グノーシス主義を消し去るというよりも単に変容させただけだったのです。

48.グノーシス主義者が知性に帰したのと同じ力を、次に、もう一つの主義者が人の意志、個人の努力に、帰そうとしました。これは、ペラギウス主義者とセミ・ペラギウス主義者のことです。彼らの下で、神秘と恩寵の場に取って代わったのは、知性ではなく、人の意志でした。すべてのものは「人の意志や努力ではなく、神の哀れみ」(ローマの信徒への手紙9章16節)によっていること、「神がまず私たちを愛してくださった」(ヨハネの手紙1・4章19節)ことが忘れられたのです。

 謙虚さを欠いた意志

49.ペラギウス主義的あるいはセミ・ペラギウス主義的な思考に従う人は、神の恩寵について熱心に語っても、「自分の力だけに信を置き、定められた法規を順守していること、またカトリックの過去に特有の様式にかたくなに忠実であることで、他者よりも自己の力と感情にのみ、信を置いている」⁴⁶(使徒的勧告「福音の喜び」94項)のです。そのような人々の中には「すべてのことは、神の恩寵をもって成し遂げられ得るのだ」と語っても、心の中では「全てのことは人の意志によって可能となる」という考える傾向があります―まるで、それが純粋で、完璧で、全能であり、恩寵は付け足しであるかのように。彼らは「誰もがすべてすることはできない」⁴⁷ということを、人生において、「人間的な弱さは恩寵による以外に完全に癒されることはない」⁴⁸ということを、認識できません。どの場合にも、聖アウグスティヌスが教えたように、神はあなた方に、できることをするように、できないことは頼むように⁴⁹、そして何よりも、謙虚にご自分に祈るようにとお命じになります―「意のままになるものは与え、したいと思うものは自制しなさい」と⁵⁰。

50.結局のところ、自分の弱さを心から祈りをもって自覚できないことが、私たちの中で恩寵がより効果的に働くのを妨げています。なぜなら、誠実で偽りのない成長の旅を構成する潜在的な善をもたらすための場所が残されていないからです⁵¹。神の恵みは、まさに基礎を置くがゆえに、私たちを皆一緒にスーパーマンにすることはありません。そのような考え方は、自分自身の能力に過度の自信を示すことになります。自らの正当性のもとで、私たちの態度は、恩寵の必要性について語ることに対応するものにはなりません。そして特定の状況において、恩寵に信を置かないようになってしまうのです。もしも、私たちが自分のおかれた具体的で限られた状況にあることを認めることができなければ、主がいつも私たちにお求めになっている現実的で可能な歩みを、目にすることはできないでしょう―一度は主の贈り物に魅せられ、力づけられたとしても。神の恵みは歴史の中で働きます-通常は、私たちをとらえ、次第に変容させます⁵²この歴史的で進歩的な現実を、私たちが拒否すれば、恩寵を拒み、妨げることになります-言葉では恩寵を讃えていても。

51.神がアブラハムに語りかける時、こう言われます―「私は全能の神である。あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい」(旧約聖書・創世記17章1節)。全き者となるため、神が示されたように、私たちは神の前で謙虚に、その栄光に包まれて生きる必要があります;私たちの人生の中に神の変わらぬ愛を認めつつ、神とともに歩む必要があります。私たちの善のためだけであり得る存在を前に恐れを無くす必要があります。神は、私たちに命を与えてくださった、大いなる愛をくださる父なのです。神を受け入れ、神なしの人生を生きようとするのを止める時、孤独の苦しみは消えます(旧約聖書・詩編139章23-24節参照)。

 このようにして、私たちは、主の喜ばしく、完全な御心を知り(新約聖書・ローマの信徒への手紙12章1-2節参照)、そして私たちを陶器のように成形していただく(旧約聖書・イザヤ書29章16節参照)のです。私たちはよく、自分の中に神が住まわれる、と言いますが、神の中に私たちが住む、私たちが神の光と愛の中に住むことができるようにしてくださる、と言った方がいい。神は私たちの神殿;全生涯を通じて、主の家に住めるように、私たちは願います(詩編27章4節参照)。「あなたの庭で過ごす一日は、千日に勝る恵みです」(詩編84章11節)。主において私たちの聖性はあります。

 しばしば見過ごされた教会の教え

52.教会は「私たちが自分自身の働きや努力によってではなく、常に私たちを導かれる神の恩寵によって正しい者とされるのだ」と繰り返し教えてきました。教父たちは、聖アウグスティヌス以前の人々さえも、この基本的な信仰を明確に表明しました。聖ヨハネ・クリソストムは「神は私たちが戦い始める前でさえも、贈り物全ての源を私たちに注いでくださる」と言いました⁵³。聖バジルは、忠実な信者たちは神においてのみ輝く、なぜなら「彼らは、真の義を欠いていることを自覚し、キリストを信じることを通してのみ義なる者とされる」からだ⁵⁴、と語っています。

53. オランジュで開かれた二回目の教会会議(注・西暦529年に開催。「神の恵み」についてのいわゆる”ペラギウス論争”にいちおうの終止符を打った)は、神の恵みについて、人は何も要求できず、値せず、買うこともできないこと、そして、それとの協調全てが同じ恵みに先立つ贈り物だということを、確固たる権威をもって教えました―「清められたいという強い願望さえも、聖霊のあふれるような働きを通して、私たちにもたらされる」⁵⁵と。その後、トリエント公会議(注・1545 ― 1563年開催、プロテスタント対策としての教会改革を議論)は、霊的成長のための協調の重要性を強調しつつ、ドグマ的な教えを再確認しました―「我々は、償いなしで罪を赦される、と言われている。罪を赦されることに勝るものは何もない、信仰も行いも、赦しを受ける恩みに値するものは何もない。なぜなら、『もしそれが恵みによるものとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや、恵みではなくなる』(ローマの信徒への手紙10章6節)からである」⁵⁶。

54.「カトリック教会のカテキズム」はまた、私たちに、神の恵みの贈り物が「人間の知性や意志の力を超えている」⁵⁷(1998項)こと、そして「神の前では、人間には、しかるべき報い、というものはあり得ません。私たちは創造主である神から全てをいただいているので、神と私たちとは想像することさえできないほど、不平等」⁵⁸(2007項)であることへ改めて注意を向けさせます。神の友情は私たちを限りなく超越します-私たちはそれを行いによって買うことができない、神の愛にあふれた働きによって生まれ得る贈り物なのです。このことは私たちを、全く分不相応な贈り物への喜びあふれた感謝の中で生きるように勧めます。なぜなら、「恵みを受けたら、すでに手にしている恵みは価値あるものではあり続けられない」⁵⁹(聖トマス・アクィナス「神学大全」Ⅰ⁻Ⅱ.q.114,a.5)からです。聖人たちは自らの行いをあてにすることを避けました―「人生の黄昏に、私は、空の手であなたの前に立つでしょう。私の行いを数えてください、と主よ、あなたにお願いをいたしませんから」⁶⁰(幼きイエスの聖テレジア「Act of Offering to Merciful Love」Prayers,6)・・・・・・・・・・・・・・・・・

55.これは、カトリック教会がしっかりと持ち続けてきた素晴らしい信念のひとつです。神の言葉の中にとてもはっきりと言明されているので、疑問の余地はあり得ません。愛に関する最高の掟のように、その真実は私たちの生き方に影響を与えるに違いありません。なぜなら、それは福音の真髄から出ているものであり、私たちは、それを知性によって受け入れるだけでなく、人から人へと伝わる愛の源とするからです。しかし、もしも私たちの地上での命と生まれながらの才能が神の贈り物だと認めないなら、私たちは、主の友情の無償の贈り物を讃美することはできません。「私たちは、自分の命が本質的に贈り物だということを、喜びをもって受け入れる必要がある。それは、自分のために何か―自分自身の創造性と自由から生まれる果実―をと思うような今の世の中では、容易でない」⁶¹けれども。

56.自由に受け入れ、謙虚にいただいた神の贈り物の基礎の上においてのみ、私たちの累進的な変容の中での自分自身の努力によって強調することができます⁶²。私たちは第一に神のものでなければなりません―まずそこにおられる神に自分自身を差し出し、自分の能力、悪との闘い、そして創造性を神にゆだねる。そうすることで、神の無償の贈り物は私たちの中で成長し、発展していくでしょう―「兄弟たち、神の憐みによって、あなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい」(ローマの信徒への手紙12章¹節)。それゆえに、教会は、慈しみだけが、恵みの人生で成長を可能とする、と常に教えています―「愛がなければ、無に等しい」(コリントの信徒への手紙1・13章2節)からです。

 新ペラギウス主義者

57.それでもなお、キリスト教徒の中には、他の道―自分自身の努力、人の意志への崇拝、そして自分自身の能力による正当化の道―を取ることを主張する人がいます。その結果は、自己中心とエリート主義で固まった独善、真の愛の喪失です。このことは、さまざまな面に、思慮と行動があからさまにつながらない形でにじみ出ます―法律への妄執、社会的、政治的利益への没頭、教会における典礼、教理、威信への堅苦しいほどの配慮、実際的なことを取り仕切る能力へのうぬぼれ、そして、自助努力と自己充足の段取りについての行き過ぎた関心など―です。キリスト教徒の中には、愛をもって聖霊に導かれようとするよりも、福音の美しさと喜びを伝えることに情熱を注ぐことよりも、そして巨大な群衆の中に、キリストを渇望する迷える人を捜し求めることよりも⁶³、そうしたことに時間とエネルギーを消耗させる人もいるのです。

58.しばしば、というわけではありませんが、聖霊が鼓舞していることとは反対に、教会の日常が、博物館に陳列するにふさわしい物か、選ばれた少数者の所有物になる可能性があります。こうしたことは、あるキリスト教徒の集団が、一定の規則、慣習、あるいは行動様式に過度に重きを置く時に、起こり得ます。そして福音は矮小化され、抑えつけられ、それが持つ単純明快さ、魅力、香りを奪われるようになります。これは恐らく、ペラギウス主義の巧妙な形態かもしれません。神の恵みの人生を、一定の人間の組織に従属させるように思われるからです。それは、集団、運動、共同体に影響を与える可能性があり、なぜ彼らがそれほど頻繁に聖霊において激しい人生を始め、結局は化石化する・・あるいは堕落してしまうのかの、説明になります。

59.私たちが「教会の規則と組織によって方向づけられたものとして、すべてのことは人間の努力に依拠する」と、いったん信じてしまうと、無意識のうちに福音を理解しにくくなり、神の恵みの業にわずかな余地しか残さない青写真のとりこになってしまいます。聖トマス・アクィナスは、教会によって福音に付け加えられた教えは「忠実な信徒たちの行いに負担をかけないように」、節制を強られる必要がある-としています。そうしなければ、私たちの宗教が強制労働のようになってしまいかねないからです⁶⁴。

 *律法の要約

 60.このようなことを避けるために、私たちは「非常に重要なことを追求するように命じる徳のある聖職階級制度がある」ということを心に込めておくとよい。首座大司教は、神を目的、動機とするtheological virtues三つの信・望)にふさわしい、ものです。その中心に愛があります。聖パウロは、真に重要なのは「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤの信徒への手紙5章6節)だと言っています。私たちは、愛を堅持するためにあらゆる努力をするように求められています-「人を愛する者は、律法を全うしているのです‥愛は律法を全うするものです」(ローマの信徒への手紙13章8-10節)「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(ガラテヤの信徒への手紙5章14節)と。

61.言い換えれば、勧告と規定の茂みの中で、イエスは、二つの顔-父なる神と私たちの兄弟の顔―に気づく道を開きます。もう二つの決まり文句、もうふたつの掟を私たちに示されません。二つの顔、いやただ一つの顔-他の多くの顔に映し出された神の顔-を示されます。私たちの兄弟姉妹の一人ひとり、特に最も小さな人々、最も傷つきやすい人々、自らを守る手立てのない人々、そして助けを求めている人々の中に、神のまさにその姿があります。実に、弱い人間の断片を使って主は究極の芸術作品をおつくりになるのです。なぜなら、「耐え忍ぶもの、人生で価値あるもの、豊かにするものは消えないでしょうか?この二つ-主と私たちの隣人-が持つ豊かさは消え去らない!」⁶⁵からです。

62.主が、新しい形のグノーシス主義とペラギウス主義-教会を圧迫し、聖性への道に沿って進むのを妨げる動き―から、教会を自由にしてくださいますように!このような道から外れた動きは、個々の人の気性と性格によって、様々な形をとります。ですから、私は皆さん全員に、彼らの人生にそのようなことが起きるのか、神の前でよく考え、識別するように強く促したいと思います。

(以上、第一章、第二章「カトリック・あい」南條俊二試訳)

第3章 主の光の中で

63.何が聖性かは、さまざまな説があり、それぞれに、様々な説明と相違があります。それをよく考えてみることは、よいことですが、イエスの言葉に頼り、イエスの真理の教え方を思い返すときほど、それが照らし出されることはありません。イエスは、山上の説教(マタイ福音書5章3節―12節、ルカ福音書6章20節―23節参照)を私たちに与えてくださったときに、聖なるとはどういうことか、とても平易に説明されました。山上の説教は、キリスト教徒の身分証明書のようなものです。ですから、もし誰かが「よいキリスト教徒になるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねたら、答えは明確です。私たちは 心の貧しい人々は 幸いである、天の国はその人たちのものである。

67.福音書は私たちの心の深みをのぞき込んで、私たちが、人生で、どこに安心を見出すか見るよう誘いかけてきます。普通、豊かな人々は彼らの富に安心し、もしその富が脅かされたら地上の生活のすべての意味が失われると考えます。イエスはこれを、私たちに「愚かな金持ち」のたとえをもって語られています: 彼は、富があるので安心しきっている愚かな男のことを語られました。なぜなら、まさにその夜、その男の命は取り上げられたからです(ルカ福音書12章16節―21節参照)。

68.富は何も保障してくれません。実に、私たちは、いったん自分たちが豊かだと思うと、それですっかり自己満足に浸り、神の言葉や、兄弟姉妹への愛や、人生で最も大切なことの喜びの場を手放します。そうして、私たちは全ての中で最も素晴らしい宝を得る機会を失ってしまいます。それが(注・山上の説教で)イエスが「心の貧しい人々、貧しい心を持った人々は幸い」と語られた理由です。そこに、主がとこしえの新しさをもってお入りになることができるからです。

69. ここに出てくる霊的な貧困は、ロヨラの聖イグナチオが「holy indifference(聖なる不偏心)」(注・貧困より富がいい、名誉のあるほうがいいとか、病気より健康の方がいいとか、普通の人間の常識ではそう判断するが、イグナチオの基本的心構えとして、そうした世の常識にとらわれず、心を不偏に保って神が自分に望まれる方を選び取る、という心のあり方を意味する。「神のより大いなる栄光」を積極的に生きるための「偏らない心」のこと)と呼んだものと密接に関係します―これは私たちに喜びに満ちた内面の自由をもたらします-「私たちは、すべての被造物に対する振る舞いに、無頓着であるように自分を鍛えねばなりません。そのすべにおいて、私たちの自由な意思が認められ、禁じられてはいない。それゆえ、私たちは、病弱よりも健康な体、貧困よりも富裕、不名誉よりも名誉、短命よりも長命、そしてその他同じようなことすべて―を熱望することはありません」⁶⁸。

70.ルカは「心の」貧しさではなく、単純に「貧しい」人々のことを言っています。(ルカ福音書6章20節参照)。このように、彼もまた、私たちに、簡素で質素な生活をするよう促しています。彼は、最も困窮した人々の生活を分かち合うよう私たちに呼びかけています。それは使徒たちの暮らしであり、つきつめれば、「豊かであるのに貧しくなられた」(コリントの信徒への手紙二8章9節)、そのイエスの生活に身を置くよう呼び掛けているのです。心が貧しいこと-それが聖性なのです。

 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」

71.初めからすべての方面で紛争、論争、敵対があり、考え方、習慣、そして話し方や衣服に至るまでをを基準に常に私たちは他人を分類している世界にあって、これは強い言葉です。結局、自尊心と虚栄心が支配し、そこでは、人は他者を支配する権利があると考えるのです。それでも、イエスは出来ないと思えるような違うやり方を薦められます。それは、柔和な方法です。これは、イエスが弟子たちと共になさっている仕方です。エルサレムにイエスが入られた時の様子を思いめぐらせてみましょう:「見よ、あなたの王が来る。高ぶることなく、ろばに乗ってくる」(マタイ福音書21章5節、旧約聖書ゼカリア書9 章9節)。

72.キリストは言われます:「私は柔和で謙遜な者だから、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ福音書11章29)。もし私たちが常に他人に怒ったり、いらいらしたりしていると、しまいには消耗して疲れ果ててしまいます。でも、偉そうな態度を見せず、他人の欠点や限界を優しさと柔和さを持ってみるなら、私たちは実際に彼らを助けることができ、無駄な不平不満にエネルギーを消耗することを止められるのです。リジューの聖テレーズは「完全な寛容さは、他者の過ちを我慢し、その過ちに憤慨しないことです」⁶⁹と言っています。

73.パウロは柔和さを聖霊の実の一つだ、と言っています(ガラテヤの信徒への手紙5章23節)。彼は、もし私たちの兄弟姉妹の一人の悪い行いが私たちを苦しめるなら、私たちは彼らを叱らなくてはなりませんが、私たちは「柔和な心」で、そうせねばなりません。なぜなら「あなた自身も誘惑されないように」(ガラテヤの信徒への手紙6章1 節)です。私たちが、私たちの信仰や信念を弁明するときでさえ、私たちは、「穏やかに」(ペトロの手紙一3章16節参照)せねばなりません。私たちは、また敵対するものも「優しく」教え導かねばなりません(テモテへの手紙2章25節)。カトリック教会の中で、私たちはしばしば、この神の言葉が求めることに喜んで応じることをしない、という過ちを犯すのです。

74.柔和さは、また、神だけに信を置く人々の心の貧しさの別の表現でもあります。実際、聖書の中では同じ言葉ーanawim-は、通例、貧しい人々と、柔和な人々の両方を意味します。「もし私がそのように柔和だったら、人は私のことを愚か者か、馬鹿者か、弱虫だと思うでしょう」と反論する人がいるかもしれません。時には、そう思われるかもしれません。でも、そう思わせておきなさい。いつもその方が良いのです。なぜなら、そうすれば私たちの最も深い望みがかなうからです。柔和な人々は「地を受け継ぐ」と言うのは、彼らは彼らの人生のうちに神の約束が成就されるのを見るからです。あらゆる状況で、柔和な人々は彼らの望みを主に置きます。そして主に望みを置く人は地を継ぎ…そして豊かな平和に自らをゆだねるであろう(旧約聖書・詩編37章9節、11節参照)。主の側からすれば、主は彼らに信をおかれるのです-「私が顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、私の言葉におののく人」(旧約聖書イザヤ書66章2節)。柔和さと謙遜を持って対応すること-それが聖性なのです。

 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」

75.世間はまさに反対のことを言います:娯楽、喜び、気晴らしや逃避が良い人生の役に立つと言います。世俗的な人は、家族や周りの人の病気や悲しみの問題を見ないふりをします。視線をそらすのです。世間は悲しみを望んでいない:苦しい状況はむしろ無視して、隠してしまったほうが良いと思います。現実は隠せるのだと信じて、不幸な状況から逃れるためにたくさんのエネルギーを使い果たします。でも、十字架は決して無くならないのです。

76.物事を本当にあるがままに見て、苦しみや悲しみに同情する人は人生の深さに触れ、本物の幸福を見つけることができます⁷⁰。その人は、慰められるのです。世間にではなく、イエスによって。そのような人々は、他の人々の苦しみを共にすることを恐れません-彼らは苦しい状況から逃げないのです。彼らは、苦しむ人々を助けに来たり、彼らの苦痛を理解したり、慰めをもたらしたりすることによって、人生の意味を発見します。

 彼らは、他の人の身は自分たちの身であり近づくことも、彼らの傷に触れることすら恐れません。彼らはすべての距離が消えてしまったかのように、他者への同情を感じます。このように、彼らは聖パウロの説教に喜んで応ずるのです:「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)。他者と共に悲しむことを知ること-それが聖性なのです。

 「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」

77.飢えと渇きは基本的欲求と我々の生存本能にかかわるので強烈な経験です。同じ強烈さで正義を望み、高潔さにあこがれる人々がいます。イエスは、彼らは満たされる、とおっしゃいます。というのは、遅かれ早かれ、正義が来るからです。私たちは、たとえいつもその努力の結果を見るとは限りませんが、その実現のために協力することは出来ます。

78.イエスは、あまりにしばしば、些細な利益のために台無しにされたり、あの手この手でごまかされたりする世間の正義とは別の正義をお薦めになります。見返りを求める政治の駆け引きで汚職の泥沼にはまるのは、なんとたやすいことか、いつものことで分かっていますし、そこでは何もかもが取り引きなのです。なんと多くの人が、不正で苦しみ、力なく立ち尽くすことか、その一方で、この世のおいしい分け前を取る人々がいるのです。本当の正義のために戦うのをあきらめてしまい、勝者の列に加わることを選ぶ者もいます。これは、イエスがお称えになる、義を飢え渇き求めることとは、全く違います

79.真の正義は、人々が自分でまさに決心するとき、彼らの人生にやってきます:それは、貧しい人々、弱い人々のための正義を追い求めるときに現われます。「義」と言う言葉は、人生のあらゆる面で、神の意思に忠実であることの同義語であり得ますが、その言葉の意味をあまりに一般的に考えると、私たちはそれが特に、最も弱い人々に対する義に示されることを忘れてしまいます-「善を行うことを学び裁きをどこまでも実行して 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」(旧約聖書イザヤ書1章17節)。義のために飢え渇くこと:それが聖性です。

 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」

80.憐れみには二つの面があります。「与えること-他者を助け、他者に奉仕すること」、もう一つは「赦すことと、理解すること」です。マタイはそれを一つの黄金律で表しました-「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ福音書7章12節)。カテキズムを読むと、この黄金律が「あらゆる場合」⁷¹(「カトリック教会のカテキズム」1789項、参照1970項)に適合することに気づかせてくれます。特に私たちが「倫理的判断が不確かなものとなり、決定を下すのが困難な状況に立たされる」⁷²(同1787項)時です。

81.与えることと赦すことは、有り余るほど与え、有り余るほど赦してくださる神の完全性、その秤を小さくして私たちの人生の中に再現すること、を意味します。ですから、ルカの福音の中には「完全な者となりなさい」(マタイ福音書5章48節)という言葉はなく、むしろ、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そすれば、あなたがたも与えられる」(ルカ福音書6章36-38節)とあります。ルカは、大事な言葉を付け加えています。「あなた方は、自分の量る秤で量り返されるからである」(同6章38節)。他の人々を理解し、赦すために用いる物差しが、私たちが受ける赦しを測ることになります。私たちが与えるために用いる物差しが、私たちが受け取るものを測ることになります。私たちは決してこれを忘れてはなりません。

 82.イエスは、「復讐しようとする人々は幸いである」とは言われません。イエスは人を赦す人々は「幸いである」と言われ、「七の七十倍までも」(マタイ福音書18章22節)赦す人々についても、そう言われます。私たちは自分たちを赦された者の大きな群、と考える必要があります。私たちは神の憐れみを持って見られているのです。私たちが誠実に主に近づき、主の言葉に注意深く耳を傾けると、時には主の叱責の言葉を聞くこともあるかもしれません-「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ福音書18章33節)。憐れみをもって見つめ、行うこと-それが聖性なのです。

 「心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る」

83. 山上の説教でイエスが語られたこの言葉は、心が素朴で、純粋で、無垢な心を持つ人について語っています。愛することのできる心は、愛を傷つけ、弱め、危険にさらすことをみとめません。聖書は私たちの本当の思い、私たちが真に求め、強く望むもの-外見ではなく― を述べるために、この心を使います。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(旧約聖書・サムエル記上16章7節)。神は私たちの心に語りかけることを望まれます(同・ホセア記2章16節)-そこで、律法を書くことを熱望されます(同・エレミヤ書31章33節参照)。ひと言で言えば、神は私たちに新しい心を与えてくださったのです(同・エゼキエル書36章26節)。

84. 「何を守るよりも、自分の心を守れ」(旧約聖書・箴言4章23節)。偽りに穢れたものは、主の目に真の価値は何もない。主は「偽りを避け、愚かな考えからは遠ざかる」(同・知恵の書1章5節)。父なる神は「隠れたところから・・見て」(マタイ福音書6章6節)おられ、不純で不誠実なもの、ただの見せびらかしや見せかけを、お分かりになります。そして御子も同じように「何が人間の心の中にあるか」(ヨハネ福音書2章25節参照)知っておられます。

 85.確かに、愛の働きのない愛はあり得ませんが、この山上の説教は、主が兄弟姉妹に心からの献身を期待しておられることを、私たちに気づかせます。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私には何の益もない(コリントの信徒への手紙一13章3節)。マタイ福音書の中にも、心から出てくるものが、人を汚す(15章18節参照)とあります。殺人、窃盗、偽証、その他の悪い行いも、心から出てくるからです(同19節参照)。心の意図するものから、私たちの行動を決める望みや、最も深い決意が出てくるのです。

86.神と隣人を愛する心(マタイ福音書22章36-40節参照)-誠実に、単に言葉だけでなく愛する心-が純粋な心なのです。その心は神を見ることができます。聖パウロは隣人愛の賛歌の中で「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている(コリントの信徒への手紙Ⅰ・13章12節)」が、真実と愛が打ち勝つ時、私たちは「顔と顔を合わせて」見ることができるのです。イエスは、心が純粋な人々は「神を見る」と約束されます。愛を曇らせるすべてのものを、心から取り去ること-それが聖性なのです。

 「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは、神の子と呼ばれる」

87.この山上の説教の言葉は、私たちに、この世界で数多く、果てしなく続く戦争の状況について考えさせます。しかし、私たち自身が、争いの原因になるか、少なくとも、誤解を招く原因になっていることが、よくあります。たとえば、誰かについて何か聞いて、それを何回も言いふらすかもしれません。二度目には、それに尾ひれを付けて、言いふらし続けるかもしれません。そして、人を傷つければ傷つけるほど、満足するように思えます。後ろ向きで、破壊主義的な人々の住むゴシップの世界は、平和をもたらしません。そういう人々は、真に平和の敵です-決して「幸いな人」ではありません⁷⁷。

88.Peacemaker仲裁者は、実際に平和を「作り」ます-社会に平和と友情を打ち立てます。平和の種をまく人々に、イエスはこの素晴らしい約束をなさいました-「その人たちは、神の子と呼ばれる(マタイ福音書5章9節)」のです。イエスは弟子たちに、どこへ行っても「この家に平和があるように!」と祈るように言われました。神の言葉は、すべての信徒に平和のために働くように促します。「清い心で主を呼び求める人々」(テモテへの手紙Ⅱ・2章2節参照)とともに、「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれる」(ヤコブの手紙3章18節)」。そして、私たちの共同体の中で、どうしたらいいか議論する時があったら「平和や互いの向上に役立つことを追い求めよう(ローマの信徒への手紙14章19節)」、それは、争いよりも一致が望ましいから。⁷⁴

89.福音的平和を「作る」こと-誰も排除せず、ちょっと変わった人や、面倒な難しい人、要求の多い人、人と違う人、人生に打ちのめされた人や、単に無関心な人さえも、抱き締めること-は易しくありません。それは、困難な仕事です-頭と心を大きく開くことがもとめられます。それは、「机上の合意や、少数の幸福な者のための、はかない平和」⁷⁵(使徒的勧告「福音の喜び」218項)、あるいは「少数の人による少数の人のため」⁷⁶(同239項)の計画を作ることについて-ではありません。争いを無視したり、軽視したりしようとすること-でもありません。そうではなく、「対立に面と向かい、解決し、新しい過程の連鎖につなげ」⁷⁷(同227項)なければなりません。私たちは平和の熟練工になる必要があります。平和の建設は沈着、創造力、完成、そして技能が求められる作業なのです。私たちの周り全てに平和の種を蒔くこと-それが聖性です。

 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」

90.イエスご自身が、私たちにこう警告されています-自分の提唱する道は、流れに逆らい、あなた方に、その生き方によって社会に挑戦させ、結果、あなた方は社会の厄介者にさえなる-と。イエスは、どれほど多くの人がかつて、そして今も、正義のために必死に努力しているという理由だけで、神と他者のために誠実に献身しているという理由で、迫害されているかに、注意を向けます。もし私たちが、あいまいな凡庸の中に沈みたくなかったら、安易な人生を求めるのはやめましょう。それは「自分の命を救いたいと思うものは、それを失う(マタイ福音書16章25節)」からです。

91.福音を生きるとき、私たちは、すべてが容易に運ぶ、と期待してはいけません。なぜなら、権力や世俗的利益への渇望が、私たちが進もうとする道にしばしば立ちふさがるからです。聖ヨハネ・パウロ二世は「社会的な組織や生産と消費の形態が、自己を贈り物として差し出し、人々の連帯を確立することを、一段と難しくさせるならば、社会は不和になってしまいます」⁷⁸と語られました。そのような社会では、政治もマスコミも経済も、宗教でさえも、もつれ合い、真の人間的な社会的発展の妨げとなり、結果として、山上の説教で示された「幸い」を全うするのが容易でなくなるのです-そうしようとする試みは、悪いほうにとられ、疑いの目で見られ、嘲笑されるのです。

92.愛の掟を生き、正義の道をたどる時、どれほど疲れと苦しみを経験しようと、十字架が私たちの成長と聖化の源であり続けます。決して忘れてはなりません。新約聖書が、私たちに「福音のために私たちは苦しみに耐えねばならないでしょう」と告げるとき、それは「まさしく迫害のことを指している」(使徒言行録5章41節、ピリピの信徒への手紙1章29節、コロサイの信徒への手紙1章24節、テモテへの手紙Ⅱ・1章12節、ペトロの手紙Ⅰ・2章20節・4章14-16節、ヨハネの黙示録2 章10節)」と言うことを。

93.ここでは、どうしても避けられない迫害のことを話しています。他者をひどく扱ったことで引き起こされる種類の迫害ではありません。聖人たちは、虚栄心や消極的な言動、辛辣さで他の人を耐え難くさせるような、変わった、超俗的な人ではありません。キリストの弟子たちは、そのような人たちではありませんでした。使徒言行録は繰り返し述べています-弟子たちは「民衆全体から」好意を寄せられていた(使徒言行録2章47節、4章21節・33節、5章13節参照)、彼らを困らせたり迫害したりする権力者たち」(使徒言行録4章1-3節、5章17-18 節参照)はいたが、と。

94.迫害は、過去の現実ではありません。と言うのは、今日、私たちもまた、迫害-現代の極めて多くの殉教者のように、流血による、あるいはもっと巧妙なやり方による、虚偽と中傷による迫害-を経験しているからです。イエスは、私たちを幸いである、と言われます-「私のために身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」(マタイ福音書5章11節)時に。またある時には、迫害が、私たちの信仰を戯画化し、私たちが馬鹿げているように見せようとする、あざけりの形をとることもあります。
またある時は、迫害は、私たちの信仰を風刺し、私たちを滑稽に見せようとする嘲笑のかたちをとることもあるのです。福音の道を日々受け入れる-たとえそれが私たちに問題を引き起こそうとも-それが聖性なのです。

*偉大なる基準

95.マタイによる福音書の25章(31節-46節)では、イエスは山上の説教の「憐れみ深い人々は幸い」を、さらに発展させています。もし私たちが、神の目にかなうような聖性を求めるなら、この福音には、私たちを裁く一つのはっきりした基準が述べられています。「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたとき飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときの着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」。

 主に忠実に倣って

96.聖性とは、神秘的に恍惚となり無我夢中になることではありません。聖パウロは、「もし私たちが、本当に、新たにキリストについて深く考え始めるのなら、私たちは、特にキリスト自身が、ご自分と一体となりたいと願われた人々の顔を見ることを学ばねばなりません」⁷⁸。 マタイによる福音書25章35節-36節は「ただの慈善への呼びかけではなく、キリストの神秘へと光を流すキリスト論の記述」⁸⁰なのです。貧しい人々、苦しむ人々の中におられるキリストを認めようというこの呼びかけの中に、私たちは、キリストの心そのものが表われ、キリストの最も深い感情と選択が表われているのを見るのです。そして、それに倣おうとあらゆる聖人が努力しているのです。

97.イエスのこれらの妥協を許さぬ要求がある以上、キリスト教徒たちに、真に開いた心sine glossaでそれを認め、受け入れてくれるよう求めるのは私の義務です。すなわち、その勢いをそぐような、どのような「言い訳」もなしに、ということです。私たちの主は、聖性とはこれらの要求から離れては、理解も実行もされない、ということを、とてもはっきりさせておいでです。なぜなら、憐れみ深さは「福音の鼓動する心臓」⁸¹だからです。

98.もし、寒い夜に外で寝ている人に出会ったら、その人を厄介者、怠け者、邪魔者、面倒なものを見てしまった、政治家が解決する問題、あるいは公共の場所に散らかったゴミくずとさえみなすこともあり得ます。または、信仰と慈悲の心で、この人の中に自分と同じ尊厳を持った人間、天の父に無限に愛される存在、神の似姿、イエス・キリストに贖われた兄弟姉妹、を見ることもできます。それでこそキリスト教徒です。聖性とは、この各々の人間の尊厳をはっきり認めることを離れて理解できるものでしょうか⁸²。

99.キリスト教徒にとって、これは、常に健全な不安を伴います。一人の人間を助けることだけで、私たちの努力のすべてを正当化できたとしても、それで十分とは言えないでしょう。例えば、カナダの司教たちは、聖年の聖書的理解は、単に良いことを実行することだけではない、と言っています。それはまた、社会的変革を求めることを意味しているのだと言っています。「後々の世代もまた罪を免除されるためには、明らかに、目標はまさに社会及び経済システムの回復でなければならなりません。もう二度と、排斥など起こり得ないように」⁸³と。

(以上、第三章(99項まで)「カトリック・あい」岡山康子試訳)

 福音の心に打撃となるイデオロギー

100.残念なことに、時として、さまざまなイデオロギーが、私たちを二つの有害な誤ちへと導きます。一つは、福音のこれらの要請を、主との個人的な関係から、主との内的一致から、恵みから、切り離すことです。キリスト教はこうして、アシジの聖フランシスコ、聖ビンセンシオ・ア・パウロ、カルカッタの聖テレサ、そして多くの人々の人生で明らかにされた輝く神秘を剥ぎ取られた一種のNGOとなります。これらの偉大な聖人たちにとって、黙とう、神の愛、そして福音の朗読は、彼らの隣人への献身の熱意や効果を損なうものでは決してありません。全く逆です。

101.もう一つの有害なイデオロギーの過ちは、他の人々の社会的なつながりを、表面的で、世俗的で、非宗教的で、物質主義的、共産主義的、大衆主義的とみて、疑う人の中に見られます。あるいは、まるで、他にもっと重要なことがあるかのように、あるいは、大事なただ一つのことは特定の倫理的問題や、彼らが守っている道理であるかのように、相対化してまうのです。例えば、まだ誕生していない無垢な命を守ることは、明確で、断固として、熱心でなければなりません。なぜなら、危機に瀕しているのは、人の命の尊厳だからです。人の命は常に神聖であり、あらゆる人への愛-その成長段階を越えて-を求めます。しかし、同じように、既に誕生している哀れな人々-貧しく、見捨てられ、恵まれず、虚弱で年老いて隠れた安楽死にさらされ、人身売買の犠牲となり、新しい形の奴隷制度やあらゆる形の排除の犠牲となっている人々-の命もまた、同様に神聖なのです。私たちは、この世の不正に目をつぶるような”聖性の理想”を目的とするわけにはいきません。そこには、お祭り騒ぎをし、勝手気ままに振る舞い、最新の消耗品のためだけに暮らす人々がいる一方で、それを遠くから眺め、みじめな貧しさのなかで全生涯を送る人々がいるのです。

102.相対主義へと現代世界の欠陥について、例えば、移民の置かれた状況は大したことのない問題だ、と言うことを、私たちはよく耳にします。カトリック信徒の中には、”重大な”生命倫理の問題に比べて、それは二次的な問題だと考える人もいます。支持票を気にする政治家がそのようなことを言うのは理解できますが、キリスト教徒はそうであってはなりません。キリスト教徒に取って、唯一のふさわしい態度とは、自分の子供たちに未来を与えるために命を危険にさらす私たちの兄弟姉妹の立場に立つことです。イエスが「あなた方は、見知らぬ人を受け入れる時、私を受け入れるのだ」(マタイ福音書25章35節参照)と私たちに言われるとき、これが、まさにイエスが私たちに何をお求めになっていることだ、と私たちは悟ることができなのでしょうか?聖ベネディクトはためらうことなく、そうしました。そして、それが自分の修道士たちの生活を「ややこしくする」かもしれなかったにもかかわらず、修道院の扉をたたいたすべての来訪者を「キリストのように」⁸⁵敬意を込めて⁸⁶歓迎するように命じました-貧しい人々と巡礼者たちは「最大の心遣いと配慮」⁸⁷をもって待遇されねばならない―と。

103.似たようなことが、旧約聖書に見られます―「寄留者を虐待したり、圧迫してはならない。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである」(旧約聖書・出エジプト記22章20節)。「寄留者があなたの土地に共にすんでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国において寄留者であったからである」(同レビ記19章 33 ‐34節)。これは、教皇の創作でも、気まぐれな熱狂でもありません。今の世界においてもまた、私たちは、預言者イザヤが「何が神に喜ばれるのか」と尋ねられた時に示した「霊的な知恵の道」を生きるように招かれています。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に合えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出でる」(同イザヤ書55章 7‐ 8節)のです。

 神にとって一番喜ばしい礼拝

104 私たちは、ただ礼拝と祈りによって、あるいは、単に、いくつかの倫理的な掟に従うことによって、神に栄光を与えている、と思うかもしれません。第一の掟が私たちの神との関係にあるのはその通りですが、私たちの生活を計る究極の基準が「自分が他の人々に何をしたか」にあることを忘れることはできません。祈りは最も大切なものです。愛への日々の関わりを育てるからです。私たちの礼拝は、寛容さをもって生きることに自らを捧げる時、そして、祈りの中で受けた神の賜物を兄弟姉妹への思いやりに示されるようにする時、神に喜ばれるものとなります。

105.同じように、私たちの祈りが本物であるかどうかを識別する最善の方法は、自分の生活が、どの適度、慈しみの光で変容させられているか、吟味することでしょう。なぜなら、「慈しみは御父の業であるだけでなく、御父のまことの子らを見分けるための基準にもなる」⁸⁸からです。慈しみは「教会の活力のまさに基礎となるもの」⁸⁹です。この点について、私は、改めて強調したいと思います―慈しみは正義と真理を排除しない―それどころか「慈しみは正義が満たされた状態であり、神の真理の最も輝かしい形の表明である、と言わねばならない」⁹⁰と。慈しみは「天国への鍵」⁹¹なのです。

106.私は、聖トマス・アクイナスを思い起こします。彼は「自分たちの業のうちで最も尊いのはどれか、自分たちの外見的な業のうちで神への愛を最も良く表すのはどれか」と自らに問いかけました。そして、ためらうことなく答えます。「それは、隣人に対する慈しみの業だ⁹²、礼拝さえも凌ぐ」と―「私たちは外見的な犠牲と捧げものによって神を礼拝する。それは、神ご自身の恩恵のためではなく、私たちと私たちの隣人の恩恵のためだ。なぜなら、神は私たちの犠牲を必要としないが、私たちが献身的な愛を奮い起こし、隣人に益をもたらすように、犠牲を捧げることを、私たちにお望みになるからだ。ゆえに、他の人々の欠けた部分を補うような慈しみの業は、隣人の幸せに、もっと直接的に働きかけるものであり、神により受け入れていただける犠牲なのだ」⁹³と。

107.自分の生活をもって神に栄光を捧げることを本当に望む人、自分の存在が「聖なる方」を称えることを本当に熱望する人は、慈しみの業を行うことにおいて、ひたむきで、粘り強くあるように招かれています。カルカッタの聖テレサはこのことをはっきりと認識していました―「そうです。私には人間的な欠点と過ちがたくさんあります…でも、神は身をかがめ、私たちを、あなたを、私を、この世界でご自分の愛と憐みをお示しになるために、お使いになります。私たちの罪、もめ事、過ちをお耐えになります。この世界を愛し、どれほど愛しておられるかをお示しになるために、私たちを頼みとされているのです。私たちが自分たちにかまけすぎれば、他の人々に残される時間はなくなるでしょう」⁹⁴。

108.快楽主義と消費主義は、私たちの破綻を証明することになる可能性があります。なぜなら、自分の楽しみに取りつかれると、最後には、自分自身と自分の権利に気を取られすぎ、楽しみのための自由な時間を是が非でも求めるようになるからです。私たちが、消費社会の熱にかられた欲求―欠乏感、不満感を抱き、すべてを今持ちたいと熱望する状態―に抗し、簡素な暮らしを求めることができないなら、助けを求める人々に対して、現実的な配慮を示すのは、難しくなるでしょう。同じように、皮相的な情報、即席の意志疎通、仮想現実に囚われる時、私たちは自分の貴重な時間を無駄遣いし、兄弟姉妹が身体的な苦しみに遭っていることを何とも思わなくなるでしょう。それでも、このような目まぐるしい活動の最中にも、福音は、今とは違った生活―もっと健やかで、幸せな生活―を与える約束を、告げ知らせ続けるのです。

109.聖人たちの力にあふれた証しは、彼らの生涯―イエスが山上の説教で示された八つの幸福と最後の審判の基準を具体化した生涯―の中で明らかにされています。イエスの言葉は短く、直接的ですが、―キリスト教は何よりも実践を重視するので―誰にとっても実践的で有効な言葉です。これはまた、学びと考察の対象となりえますが、私たちの日々の生活で福音をよりよく生かす助けとなるために他なりません。私は、これらの聖書の素晴らしい箇所を、頻繁に読み返し、これらの箇所に立ち返り、祈り、具体化しようと努めることをお勧めします。そうすることは私たちの為になり、本当の幸せをもたらしてくれるでしょう。

(以上 109項まで「カトリック・あい」Sr.岡立子、南條俊二試訳)

第4章 現代世界における聖性のいくつかの特徴

110.イエスが山上の説教で示された八つの幸せとマタイ福音書25章31-46節が示す聖性の枠組みの中で、主が呼びかけておられる命の道を理解するのに必要な、いくつかの特徴や霊的な姿勢について、私の考えを述べてみたいと思います。聖別の方法はすでに知られているので、説明するまでもないと思いますが、さまざまな祈り方、聖体拝領と赦しの重要な秘蹟、個人的な犠牲の奉献、異なる形の献身、霊的な指導などその他にも沢山の方法があります。ここでは、特に重要な聖性への呼びかけについて、確かな観点からだけ、お話したいと思います。

111. 私が強調したいしるしは、一つの聖性の模範全体ではなく、神と隣人に対する5つの素晴らしい愛の表現-今日の文化に存在するある種の危険と制約からみて特に重要と考えるもの―です。今日の文化には、悩ませたり衰弱させたりするような不安観、時には暴力が見られます;無気力と陰鬱;消費至上主義で培われた自己満足;そしてあらゆる形の霊性の代用品―神とはかかわりのない―それが現在の“宗教市場”を支配しているのです。

*忍耐力、辛抱強さ、そして柔和さ

112.強調したいしるしの第一は、私たちを愛し、支えてくださる神の内に堅固な基礎を置くこと。この内的な強さの源は、私たちが人生の浮き沈みに屈せずやり通すだけでなく、他者の敵意、裏切り、そして失敗に耐えるのを可能にします。

「もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか」(ローマの信徒への手紙8章31節)-聖人に見られる平安は、ここから来ています。このような内的な力によって、私たちは、テンポが速く、騒がしく、攻撃的な世界で、愛から生まれる誠実さを示すことができるーなぜなら、神にpistis(信頼)を置く人々は、 他者に対してもpistos(誠実である)からです。彼らは、苦難にある人々を見捨てることなく、不安と失望の中にいる人々に寄り添います。そうすることが彼らにすぐさま満足をもたらさないかも知れない、としてもです。13. 聖パウロは、ローマの信徒たちに「悪に悪を返さず」(ローマの信徒への手紙12章17節参照)、「復讐せず」(同19節)、「悪に負ける」ことなく、「善をもって悪に勝ちなさい」(同21節)と述べています。この態度は、「弱さ」ではなく、「真の強さ」のしるしです。なぜなら神ご自身が「忍耐強く、その力は大きい」(旧約聖書ナホム書1章3節)からです。神の言葉は私たちに「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てる」(エフェソの信徒への手紙4章31節)ように強く勧めています。

114.私たちは攻撃的で自己中心的な傾向を認識して闘い、根を張らないようにする必要があります。「怒ることがあっても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはなりません」(エフェソの信徒への手紙4章26節)。そうした傾向に圧倒されると感じる時、私たちは「祈りの錨」にいつでもしっかりと、すがりつく ことができます。そうすることで、神の手の中―安らぎの源―に帰ることができます。「どんな ことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求 めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あ なたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピの信徒への 手紙4章6節-7節)。

115.  キリスト教徒もまた、インターネットや様々なデジタル通信を通じて、言葉の暴力を もつネットワークのとばっちりを受けるときがあります。カトリック系メディアにおいてさえ、許容範囲 の限界が無視され、中傷と名誉棄損が当たり前のようになり、あらゆる倫理的な基準や他者への 名誉に対する敬意が放棄される時があります。その結果、「(注・話す人の顔がみえる)公の議論の場」では受け入れられないような話を「(顔の見えない)ネットワーク」で語り、他人に暴言を吐くことで自分の不満を解消しようとする―という危険な二極分化が起きるのです。

 ひどいことに、そうした人々は折に触れて、他の戒律を支持すると言いながら、偽証 や嘘を禁じるカトリック教会の「第八のおきて」(注・「カトリック教会のカテキズム2464項以降参照)を完全に無視し、冷酷に他者を中傷します。このようなことの中に、どのようにして軽率な舌が地獄によって火を付けられ、 すべてのものを燃やしてしまう(ヤコブの手紙3章6節参照)かを、私たちは知るのです。

116. 神の恵みの業としての内なる力は、今日の暮らしに蔓延する暴力に心騒がせることのないようにしてくれます。神の恵みは、私たちから虚栄心を取り除き、柔和な心を持てるようにしてくれるからです。聖人たちは、他者の失敗に文句をつけるような無駄なエ ネルギーは使いません。兄弟姉妹の落ち度に口をつぐみ、他者を貶めたり、不当に扱うような言葉の暴力を避けます。他者を厳しく扱うことを躊躇し― 自分よりも優れた者と考えます(フィリピへの信徒への手紙2章3節参照)。

117. 無慈悲な裁判官のように他者を見下し、威張りちらし、常に他者に教 えようとするのは、良いことではありません。それ自体が巧妙な形の暴力なので す⁹⁵。十字架の聖ヨハネは別の道を示しました。「常に、あらゆる人から教えを受けることを求めなさい。最も小さい人にさえ教ようと熱心になるよりは」⁹⁶。そして、どうやったら 悪魔を追い払えるか、こう助言しています―「他者の良いことを、自分自身の良い ことのように喜びなさい。そして、あらゆる点で、相手が自分よりも優位になるよ うに願いなさい。心の底からそうしなさい。そうすることで善をもって悪に打 ち勝ち、悪を追い払い、心の平安を得ます。あなたが最も苦手とする人々に 対して一層、そのようにしなさい。そのような方法で自分自身を鍛えないなら、真の慈しみは得られず、慈しみの心を持って前に進むこともできない、と自覚しなさい」⁹⁷。

118 謙遜は辱められることによってのみ心に根付かせることができます。辱められることなしに、謙遜も聖性もありません。もし、あなたがいくつかの辱めを受けることができず、神に捧げることができないなら、謙虚にはなれないし、聖性への道を歩むこともありません。神が教会に授ける聖性は、子であるイエスの辱めをくぐります。

 イエスは聖性への道です。辱めは、あなたをイエスの似姿にします。辱めは、キリス トに倣うために避けられません。なぜなら、「キリストもあなたがた のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された」(ペトロの 手紙一2章21節)からです。次に、イエスは父である神の謙遜を示します。神は、民の不信仰 と不満に耐えながら、謙虚に旅をともにしてくださいます(旧約聖書・出エジプト記34章 6-9節、知恵の書11章23節-12章2節、新約聖書・ルカ6章36節参照)。それゆえ、辱めを受けた弟子たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたこと 」(使徒言行録5章41節)を喜んだのです。

119. ここで私は殉教の過酷な境遇に置かれた人だけではなく、様々な人々―家族を危険から守るために黙り続ける人々、自分自身を誇るよりも他者を讃えることを望む人々、あるいは、歓迎しない仕事 を選び、時には神に捧げるために不当な処置を耐える選択した人々―が受けるの日々の辱めについても、お話したいと思います。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(ペトロの手紙一2章20節)―こ れは、下を向いて歩き回るとか、ひと言も話さないとか、他者とともにいることから逃げ ることを意味しません。時には、自分本位から解放されるために、あえて穏やかに反対意見を述べ、正義を求め、あるいは、権力者の前で弱者を守ろうとします。それが、自分の名声が傷つけられるかも知れない、としても。

120. 私はそのような辱めが「心地よい」と言っているのではありません。それではマゾヒズム(自己虐待)になってしまいます。そうではなく、辱めは「キリストに倣い、キリストに一致して成長する道」なのです。これは純粋に自然的なレベルでは理解しがたく、世間はそのような考えを冷笑します。そうではなく、辱めは「祈りの中」で求めるべき恵みなのです。「主よ、辱めにあう時、私があなたの足跡に従っているのだということをわからせてください」。

121. このような行動は、キリストのもたらす心の平安を前提にしています。傲慢な自己中心主義から来る攻撃性から解放された平安です。同じ平安、恵みの実りは、私たちの内に信頼を保たせ、耐えず善であるように励まします-詩編に「死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない」(23章4節)、あるいは「彼らが私に対して陣を敷いても、私の心は恐れない」27章3節)とあるように。

 私たちは岩である主のうちにしっかりと立って、歌うことができますー「平和のうちに身を横たえ、私は眠ります。主よ、あなただけが、確かに私をここに住まわせてくださるのです」(詩編4章8節)。キリストはひと言で言えば、「私たちの平和」(エフェソの信徒への手紙2章14節)です-「我らの歩みを平和の道に導くため」(ルカ福音書1章79節)に来られるのです。キリストが、聖ファウスティナ・コヴァルスカ(1905-1938、ポーランドの修道女)に「人類は、私の愛に信頼して顔を向けるまで、平和を手にすることはできないでしょう」⁹⁸と言われたように。

 ですから、成功、空しい楽しみ、財産、他者に対する権力、あるいは社会的地位を求める誘惑に陥らないようにしましょう。イエスは言われます-「私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ福音書14章27節)と。

  喜びとユーモアのセンス

122. 臆病で、気難しく、辛辣か憂鬱、あるいは侘しい顔つきをするのとは程遠く、聖人たちは、喜びと上手なユーモアにあふれています。全くの現実主義ですが、前向きで希望に満ちた生気を発散します。キリスト教徒の生活は「聖霊によって与えられる喜び」(ローマの信徒への手紙14章17節)です。なぜなら、「いつくしみの愛の必然的な結果は喜びだからです-愛する人は誰でも愛されている人々と一体となることを喜びます…いつくしみがもたらすのは愛です」⁹⁹(トマス・アクィナス「神学大全」Ⅰ-Ⅱ、q.70、a.3.) 。私たちは、神のみ言葉という素晴らしい贈り物を受け、「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって」(テサロニケの信徒への手紙1・1章6節)それを信奉します。神が、私たちを殻から引き出し、生活を変えようとされるのを受け入れるなら、聖パウロが「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピの信徒への手紙4章4節)と言っているように、喜べるようになります。

123. 預言者たちは、喜びの啓示として、私たちがいま生きている「イエスの時代」を宣言しました。「叫び声をあげ、喜び歌え」(イザヤ書12章6節)。「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ」(イザヤ書40章9節)。「山々よ、歓声をあげよ。主はご自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった」(イザヤ書49節13章)。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る:彼は神に従い、勝利を与えられた者」(ゼカリア書9章9節)。私たちはネヘミアの励ましも忘れるべきではありません。「悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である!」(ネヘミヤ書8章10節)。

124. マリアは、イエスのもたらした新しさを理解して歌います-「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ福音書1章47節)。そして、イエスご自身も「聖霊によって喜びにあふれ」(ルカ福音書10章21節)ました。彼が自分たちの前を通り過ぎる時、「群衆はこぞって喜んだ」(ルカ福音書13章17節)。イエスが復活した後、弟子たちが行くところは、どこでも「(町の人々は)大変喜んだ」(使徒言行録8章8節)。イエスは私たちに断言します-「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。‥‥私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない」(ヨハネ福音書16章20節、22節)。「これらのことを話したのは、私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためである」(ヨハネ福音書15章11節)。

125. 厳しい時がやって来るかもしれません。その時には十字架が陰を投げかけますが、何ものも超自然的な喜びを壊すことはできません。その喜びは「状況に応じて変化しつつも、消え失せることはありません。それが、自分が無限に愛されている、という個人としての確信から生じるかすかな光であるとしても」¹⁰⁰(使徒的勧告「福音の喜び」6項)。超自然的な喜びを、何ものも壊すことはできません。深い安心感、穏やかな希望、そして世間が理解し、真価を認めることのできない、精神的な充足感をもたらします。

126. キリスト者の喜びには通常、ユーモアのセンスがあります。このことは、例えば、聖トーマス・モア、聖ビンセンシオ・ア・パウロ、聖フィリップ・ネリに、はっきりと見てとれます。不機嫌には聖性のしるしは見られません。「心から悩みを取り去れ」(旧約聖書・コヘレトの言葉11章10節)。私たちは、主から「楽しませてくださる」(テモテへの手紙Ⅰ・6章17節)ものを豊かに与えていただいているので、悲しみは忘恩のしるしとなり得ます。私たちが自分自身にとらわれ過ぎれば、神からの贈り物を識別できません¹⁰¹。

 127. 父の愛をもって、神は私たちにお告げになります-「子よ、分に応じて、財産を自分のために使え…一日だけの幸せでもそれを逃すな」(旧約聖書・シラ書[集会の書]14章11節、14節)。主は私たちが前向きで、感謝をし、率直であることを望まれます-「順境には楽しめ…神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる」(同・コヘレトの言葉7章14節、29節)。どのような状況にあっても、私たちはいつも素早く立ち直れるままでいるべきであり、聖パウロに倣うべきです-「私は自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」(新約聖書・フィリピの信徒への手紙4章11節)。アッシジの聖フランシスコはこれに従って生きました。彼は一切れの固いパンを前にして感謝に満たされ、顔をなでるそよ風だけのために、神を喜んで賛美することができたのです。

128. これは、現代の個人主義的な消費者主義者の文化が提供する喜び、ではありません。消費者主義は心を膨張させるだけです。つかの間の快楽を提供しても、喜びを与えることはありません。ここで私は、分かち合い、分かち合われる聖体拝領に生きている喜びについてお話します-なぜなら「受けるより与える方が幸い」(新約聖書・使徒言行録20章35節)、「喜んで与える人を神は愛してくださる」(同・コリントへの信徒の手紙Ⅰ・9章7節)とあるからです。兄弟愛は喜びの許容範囲を広げます-なぜなら、それが他者の善をともに喜ぶことを可能にするからです-「喜ぶ人とともに喜びなさい」(同・ローマの信徒への手紙12章15節)「私は自分が弱くても、あなたが強ければ喜びます」(コリントへの信徒の手紙Ⅱ・13章9節)。その一方で、私たちが「自分の必要だけに注力」するなら、「わずかな喜びしか持たずに生きることになります」¹⁰²(使徒的勧告「(家庭における)福音の喜び」110項)。

 大胆さと情熱

129. 聖性は parrhesía(パレーシア=信仰者としての能力を勇気を持って話すこと)でもあります―大胆さ、この世において、福音を伝え、足跡を残そうとする衝動です。こうすることを私たちに認めるために、イエスご自身が来られ、穏やかだがしっかりと、もう一度、言われます―「恐れることはない」(マルコ福音書6章50節)。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ福音書28章20節)。これらの言葉は、私たちが前に進み、聖霊が弟子たちを強く奮い立たせたのと同じ勇気をもってイエス・キリストを大胆に宣言することを可能にします。大胆さ、情熱、正々堂々と意見を述べる自由、弟子のような熱心さ―これらすべてがparrhesíaと言う言葉に含まれています。聖書も、神と他の人に開かれた生活の自由を表現するために、この言葉を使っています(使徒言行録4章29節、9章28節、28章31節、コリントの信徒への手紙Ⅱ・3章12節、エフェソの信徒への手紙3章12節、ヘブライ人への手紙3章6節、10章19節参照)。

130. 福者パウロ6世は、福音宣教における障害として、「内から来るためになお一層深刻」な「parrhesíaの欠如」について語られました¹⁰³。私たちはそれほどしばしは、岸辺近くに居続けようとする誘惑にかられることでしょう!それでも、主は私たちに、湖の沖に出て、網を下ろすように招かれます(ルカ福音書5章4節参照)。主は私たちに、主に奉仕して生きることをお命じになります。主にしっかりと繋り、神から与えられた特別な能力すべてを他者への奉仕に使うように、励まされます。私たちが神の愛によって駆り立てられていることをいつも感じることができますように(コリントの信徒への手紙2・5章14節)、そして、聖パウロと一緒に「福音を告げ知らせないなら、私は不幸なのです」(コリントの信徒への手紙Ⅰ・9章16節)と言えますように。

131. イエスをご覧なさい。彼の深い憐みが、人々に触れました。憐みは彼を、私たちによくあるように、ためらわせたり、臆病にしたり、人前を気にしたりさせませんでした。私たちとは全く正反対です。イエスの憐みは、教えを伝えるためにご自分を積極的に出かけさせ、癒しと解放の教えを伝える使命を果たすために他の人々を送りました。自分の弱さを自覚しましょう。イエスが、私たちの弱さをつかみ、私たちも教えを伝える使命に送り出してくださるようにしましょう。私たちは弱い。けれども、私たちは宝―自分を大きくし、受け取った人をもっと元気に幸せにする宝―を持っています。大胆さと使徒的勇気は、教えを伝える使命の大切は要素なのです。

132. Parrhesía  は聖霊の刻印です― それは、私たちの伝える教えが真正であることを証明します。それは、私たちが宣言する福音の栄光へ導く喜ばしい確信です。それは、誠実な証人(注・キリストのこと=ヨハネの黙示録1章5節参照)―何ものも「神の愛から、私たちを引き離すことはできない」(ローマの信徒への手紙8章39節)という確信を私たちに与える証人―に対する揺るぎない信頼です。

133. 私たちは聖霊の助けを必要としています。恐れや行き過ぎた慎重さによって無力にならないように、安全な境界の内側にいることに慣れてしまわないように。閉ざされた場所はかび臭く健康に良くないことを思い起こしましょう。イエスの弟子たちは、危険や脅威によって動けなくなる誘惑にかられた時、 parrhesíaを嘆願する祈りを共にしました―「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(使徒言行録4章29節)と。そして、「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」(使徒言行録4章31節)のでした。

134. 預言者ヨナのように、私たちは絶えず安全な避難所に逃げたい誘惑にかられます。「避難所」には、個人主義、唯心論、狭い世界での生活、依存症、非妥協的な態度、新しい考えと取り組み方の拒否、教条主義、郷愁、悲観主義、規則や規制を盾にすること―というように、多くの名前があるようです。慣れ親しんだ、安易なやり方のままにしておくのに逆らうことが、私たちはできます。でも、その場合に私たちが受ける挑戦が、嵐、鯨、ウリ科の植物を干上がらせる害虫、あるいはヨナの頭を焦がした風や太陽のようなもののこともあるでしょう。私たちにとって、ヨナがそうだったように、挑戦は、私たちを神―いつも新たな旅に出るように招いておられる神―の優しさに引き戻す役目を果たします。

135. 神は永遠に新しい存在です。神は、私たちを絶えず駆り立てます―社会の周辺部とその先に向けて、新たな歩みを始め、慣れ親しんだものを越えて進むように。神は、私たちを連れていかれます―人間性が最も傷つけられているところに、浅薄な体裁に従おうとする外見の裏で、男女が人生の意味についての疑問への答えを求め続けるところに。神は恐れません!恐れを知らないのです!神はいつも私たちの案と実施計画を超えています。神は社会の周辺部を恐れず、ご自身がしもべの身分となられました(フィリピの信徒への手紙2章6‐8節、ヨハネ福音書1章14節参照)。もしも、私たちが思い切って周辺部に行けば、そこで神を見つけるでしょう―実に、神はそこに、すでにおられます。イエスは、そこにすでにおられます―兄弟姉妹の心の中に、彼らの傷ついた体の中に、彼らの悩みと深い悲しみの中に。そこに、すでにおられるのです。

136. 確かに、私たちはイエスに、心の扉を開く必要があります―イエスは扉の前に立ち、たたいておられます(ヨハネの黙示録3章20節)。それにもかかわらず、私は、おそらくイエスがすでに私たちの内におられ、その腐りかけた自分本位から逃れさせてほしいとを扉を(内側から)たたいておられるではないか、と思うことがあります。福音書に、イエスがどのようにして「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」(ルカ福音書8章1節)かが、書かれています。イエスが復活された後、弟子たちがあらゆるところに出かけた時、主は彼らとともにおられました(マルコ6章20節参照)。これは、真の出会いの結果として起こることなのです。

137. 現状に満足しきるのは魅力的です―現状への満足は、ものごとを変えようとすることに意味はない、自分たちにできることは何もない、と告げます。なぜならこれは、物事がこれまで通り、そのまま生き延びようとするやり方だからです。習慣の力によって、私たちはもはや、悪に立ち向かえなくなります。私たちは「成り行きに任せる」か、さもなければ、他人がそうすべきだと決めたようにするようになる。それでも、私たちを無気力から奮い起こし、惰性から解放してくださるように、神にお任せしましょう。いつものやり方を考え直しましょう―目と耳を開き、何よりも心を開いて、現状に満足しきらないように、かといって、復活された主の生き生きとして力のある言葉に不安を感じないようにしましょう。

138. 私たちは、宣教に身を捧げ、卓越した忠誠で他者に仕え、しばしば命の危険を冒し、間違いなく自分の安楽な生活を犠牲にする、すべての司祭、聖職者、一般信徒の模範によって、行動を鼓舞されます。彼らの証言は、「官僚」「職員」よりも、真の命を分かち合うことに熱心な、情熱のある宣教者を、教会が必要としていることを、私たちに気づかせます。聖人たちは、私たちを驚かせ、当惑させます。彼らの人生によって、私たちに、無気力で退屈な平凡な生き方を捨てるように強く促すからです。

139. 主に恵みを願いましょう―私たちが、聖霊から一歩踏み出すように呼びかける時、ためらうことのないように。使徒的な勇気を願いましょう―私たちが、他の人々と福音を分かち合い、キリスト者としての生活を「思い出の博物館」にしようとするのを止めるように。どのような状況においても、聖霊が、復活されたイエスの光の中で過去を熟慮させてくださいますように。このようにして、教会は、立ち止まらず、主の驚くべき贈り物を喜びをもって受け入れるでしょう。

* 共同体の中で

140. 私たちが他者と離れて生きる時、強欲、悪魔のわなや誘惑、そしてこの世の身勝手さと戦うことはとても困難です。あまりにも多くの魅力に攻められ、孤立無援となり、現実の感覚と内的な輝きを失い、それに容易に屈してしまいます。

141. 聖性の成長は、共同体での他者と並んでの旅です。このことはいくつかの深い信仰をもった共同体に見ることができます。時折、カトリック教会は、福音を雄々しく生き、あるいは神に構成員全員の命を捧げた共同体の人々を列聖してきました。例として、the Order of the Servants of Mary (聖母のしもべの会)の創立者である聖なる7人、the first monastery of the Visitation in Madridの福者7人、日本の聖パウロ三木と同志の殉教者たち、韓国の聖アンドレ・デゴンと同志の殉教者たち、あるいは南米の聖ロケ・ゴンザレス、聖アロンソ・ロドリゲスと同志の殉教者たちを思い浮かべることができます。また、アルジェリアのティビリヌのトラピスト会修道士たちによってごく最近なされた証しも思いをはせるべきでしょう―彼らは共同体として殉教に備えました。多くの神聖な結婚においても、二人の男女は他者を聖化するためにキリストがお使いになる手段となるのです。他者とともに暮らし、働くことは、間違いなく霊的な成長への道となります。十字架の聖ヨハネは、彼の信奉者の一人に言いました―「あなたは変えられ、試練を受けるために他者とともに生きているのです」¹⁰⁴と。

142. 各々の共同体は「神が教えられた『復活された主の隠された現存を体験』する場」を創るように求められています¹⁰⁵。み言葉を分かち合い、ともに聖餐を捧げることは、友愛を育み、私たちを、神聖な宣教する共同体にします。そしてまた、真正な、互いに分かち合う神秘的な体験のもととなります。聖ベネディクトと聖スコラスティカがその実例です。聖アウグスティヌスが母の聖モニカとともに味わった崇高な霊的体験も思い浮かべることができます―「母がこの世を去ろうとする日―あなたはご存じだが、私たちには知らされていない日―が今、迫って来た時、あなたの秘密の手はずによってだと私が信じているように―母と私は庭に面した窓に身を寄せて立っていた・・私たちは、あなたの泉―あなたの中にある命の源―から流れ出る水を飲もうと心を開け広げ‥‥そして、その知恵について語り合い、それを求めようと懸命に努力し、心のはずみで、それにいくらか触れた‥‥永遠の命は、私たちが今、思い焦がれた認識の瞬間のようなものかもしれない」¹⁰⁶。

143. しかしながら、そのような経験は、とてもよくあることでも、最も重要なことでもありません。共同生活―家庭、小教区、修道会、あるいはその他どの共同体においても―は、日々のこまごまとしたことから成り立っています。これはイエス、マリア、ヨセフの聖家族に当てはまりました―三位一体の交わりの美しさが模範的な形で反映されていたのです。イエスが弟子たちや一般の人々と分かち合った生活についても言うことができました。

144. イエスが弟子たちに、些細なことにも気をつけるように求めたことを、忘れないようにしましょう。

 婚宴でワインが足りなくなってきた―という、ごく些細なこと。

 1匹の羊がいなくなった―という、ごく些細なこと。

 少額の硬貨二枚を献金したやもめに注意を向ける―という、ごく些細なこと。

 花婿が遅れるかもしれないと、ランプに予備の油を用意する―という、ごく些細なこと。

 何個のパンを持っているか弟子たちに尋ねる―という、ごく些細なこと。

 夜明けに弟子たちを待ちながら、火を起こし、魚を料理する―という、ごく些細なこと。

145. 愛を込めた些細な振る舞いを大事にする共同体¹⁰⁷の人々は、互いにいたわり合い、開放的な、宣教をする環境を作ります。そうした共同体には、復活された主がおられ、御父の計画に従って共同体を聖別してくださいます。ごく些細なことの中に、主の愛の賜物が与えられ、神の慰めを体験する時が、何度もあります。

「冬のある晩、私はいつものように、なすべき小さなことをしていました。…すると、突然遠くに楽器の調和のとれた音色が聞こえました。それから、明るい客間が目に浮かび、そこは、きらきらと光り輝いていて、あらゆる誉め言葉と洗練された会話を交わす、優雅に着飾った若い淑女たちで、一杯になっていました。続いて、私の視線は、自分が助けている貧しく、病弱な人に向きました。美しい旋律の代わりに、彼女が時折漏らす不満だけが聞こえました。…私の心の中に起きたことを、言葉では表現できません―私が確信しているのは、主が真実の光で照らしてくださった、それが、この世の闇の中の祝宴よりも、あまりにも素晴らしい輝きだったので、自分の幸せを信じることができなかった、ということです」¹⁰⁸。

146. 他人はさておいて健康で幸福な生活を目指す私たちを孤立させがちな、増大する消費者中心の個人主義とは反対に、私たちの聖性への道は、イエスの次の祈りに、私たちを、なおいっそう一致させることを、ただ可能にするのです。「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章21節)

 不断の祈りの中で

147. 最後に、明白なように思われるかもしれませんが、私たちが心に止めておく必要があるのは、聖性は、超絶的な存在に対していつも心を開いているところにある、それは祈りと賛美で表現される、ということです。聖人たちは、祈りの心と神との霊的交わりを求めることで際立っています。彼らは、この世に心を奪われることが、狭くて、息苦しいことであるだと知っており、自分自身の関心と責任のまっただ中で、神を強く求め、祈りと主の黙想に、心身を打ち込むのです。たとえ、祈りが長くなくても、強い感情を込めたものでなくでも、祈りのない聖性を、私は信じません。

148. 十字架の聖ヨハネは私たちに告げます―「神の現存のなかに、いつも留まろうと努めなさい。現実、想像、あるいはその両方で、あなたのなすべき務めが許す限り」¹⁰⁹と。結局のところ、神への熱望は、私たちの日々の生活に滲み出るのです―「祈り続けるように務めなさい。そして、運動をしている最中でも、祈りを止めないように。食べ、飲み、他の人々と話をする、あるいは何をしていても、いつも神に頼り、神にしっかりと心を寄せなさい」¹¹⁰

149. しかし、日々の暮らしに神への熱望が滲み出るためには、神とだけ過ごす時間も必要です。アビラの聖テレジアにとって、祈りは「私たちを愛してくださっている神との打ち解けた交わり、頻繁な対話です」¹¹¹。私が強調したいのは、このことは、特権を与えられた数少ない人たちだけではなく、私たち全員にとっても、当てはまる、ということです。なぜなら、「私たちはみな、敬慕する方の存在に満たされた、沈黙の時を必要としている」¹¹²からです。神への信頼に満ちた祈りは、神と顔を合わせる出会いのために開かれた心の反響、そこではすべてが平和で、沈黙の中に静かな主の声を聴くことができるのです。

 150.沈黙において、聖霊の光の中で、私たちは主が求められている聖性の道を識別することができます。そうでなければ、どのような決断も、福音を暮らしの中で賛美するのでなく、覆い隠したり、沈めたりするような、まやかしに過ぎなくなるでしょう。弟子たち一人ひとりにとって、師イエスと共に過ごし、言葉を聴き、彼からいつも学ぶことが必須です。もしも私たちがイエスの言葉を聴かないなら、私たちの言葉のすべてが無駄なおしゃべり以外の何ものでもなくなります。

 151.私たちは次の言葉を思い起こす必要があります-「亡くなられ、復活されたイエスの御顔を黙想することは、私たちの人間性を回復させる。たとえ、人間性が人生の苦しみで壊され、罪で傷つけられても。キリストの御顔の力をあたりまえのように思ってはならない」¹¹³。では、質問をします。「あなたにはありますか―主の現存に静かに身をゆだねる時が、主と静かに時を過ごす時が、主のまなざしに浸る時が?主の炎が心の中に燃えるようにしていますか?主の愛とやさしさでもっと、もっと温めてくださるようにしていないなら、あなたはその炎をとらえることはないでしょう。そうだとしたら、あなたはどのようにして、自分の言葉を証しによって他の人々の心に火をつけることができるでしょうか?キリストの御顔をじっと見つめても、自分が癒されず、変えられないと感じたら、主の心の中、傷の中に入りなさい。そこに神の慈しみが宿っているからです¹¹⁴。

152.お願いしたいのは、祈りに満ちた沈黙を、周りの世界から逃れ、否定するものだと絶対に考えない、ということです。祈りを欠かしたことのないロシア人の巡礼者は、祈りが自分を周りで起きていることから切り離すことはない、として、こう語っています-「皆が私に親切にしてくれました。誰もが私を愛してくれているかのように…。心の中に(幸せと慰めを)感じただけでなく、外の世界全体が私にとって魅力と喜び一杯に思われました」¹¹⁵.

153.歴史が消えることもありません。祈りは、神の賜物によって養われ、存在し、私たちの暮らしの中で働いているので、いつも記憶によって印が付けられねばなりません。神の業の記憶は、神と民の契約の経験の中心に位置します。神は、歴史に介入することを望まれ、私たちの祈りは記憶に織り込まれています。私たちは、神の御言葉だけでなく、自分自身の人生、他の人々の人生、そして主がご自身の教会になさったすべてを回顧します。これは、聖イグナチオ・ロヨラが「Contemplation for Attaining Love」¹¹⁶で書いているように、喜ばしい記憶です。彼は、主からいただいた全ての恩恵を心にとめるように、私たちに求めています。祈る時、自分の歴史について考えなさい。そうすれば、たくさんの慈悲をいただていることに気づくでしょう。そして、主がいつもあなたのことを考えてくださっている、ということを、もっとよく知ることができるでしょう-主は決して、あなたを忘れません。ですから、主に、自分の人生のもっとも小さな細部に光を当ててくださるようにお願いするのは意味があります-主がすべてを見ておられるからです。

154. 嘆願の祈りは、神を信頼し、それ自身では何もできないことを理解する心の表現です。神に忠実な人々の人生は、信仰に満ちた愛と大きな信頼から生れる変わることのない嘆願によって特徴づけられます。祈願の祈り-たびたび私たちの心を鎮め、希望をもって絶えるのを助ける祈り―を軽んじないようにしましょう。とりなしの祈りは、神に信頼を置く行為であり、隣人への愛の表現でもあるので、特に価値があります。片寄った霊性をもとに、こう考える人たちがいます-祈りは、神についてひたすら想うこと、心を乱す全てから解放されるべきで、他の人々の名前も顔も介入させてはならない、と。しかし、現実には、とりなしを通して、イエスが私たちに残された二つの掟を実践しようとするなら、私たちの祈りは、神をなお一層喜ばせ、自分の聖性の成長をもっと効果的にするでしょう。とりなしの祈りは、私たちの他の人々に対する兄弟的な思いやりの表現です。なぜなら、それによって、私たちは彼らの人生、深刻な悩み、そして高遠な夢を、包み込むことができるからです。とりなしの祈りに進んで身を委ねる人々について、聖書の次の言葉を当てることができます-「この人こそ、深く同胞を思い、民のために不断に祈っている」(旧約聖書マカバイ記Ⅱ・15章14節)。

155. もし私たちが、神が存在されていると悟るなら、時として静かな驚きをもって神を崇敬し、そして祝祭の歌で神を賛美せざるをえません。そうして、福者シャルル・ド・フーコーの体験に与ります。彼はこう言いました-「神がおられることを信じると、たちまち、神のために生きること以外に何もできないことが分かった」¹¹⁷。神の巡礼者たちの生活の中には、純粋な崇敬の素朴なしぐさが、たくさんあり得ます-たとえば、「神の愛と親密さを象徴する聖像にじっとひとみを凝らす」時のように。「神への愛は、一時立ち止まり、神秘を深く想い、それを沈黙のうちに楽しむ」¹¹⁸のです。

156. 神の御言葉-「蜜よりも甘い」(詩編119章103節)が「両刃の剣」(ヘブライ人への手紙4章12節)よりも鋭い-を祈りを込めて読むことは、私たちに、一時立ち止まり、主の声を聴くことを可能にします。それは私たちの歩みを照らす松明、私たちの進む道の光となります(詩編119章103節参照)。インドの司教たちが思い出させてくださったように「神の御言葉への信心は、美しいが選択可能な数多くの信心の、単なる一つ、ではない。キリスト者の人生における、まさに核心であり、存在の証しなのだ。御言葉には人々の人生を変える力がある」¹¹⁹のです。

157. 聖書の中でのイエスとの出会いは、私たちを聖餐に導き、文字となった御言葉がそこで、最も大きな力を発揮します。なぜなら、生きた御言葉が、実際にそこにおられるからです。聖餐において、唯一の真の神は、この世ができる最大の崇敬をお受けになります。生贄として捧げられるのが、キリストご自身だからです。聖体拝領でキリストの体を受ける時、私たちはキリストとの契約を新たにし、私たちの人生を変容させる御業をさらに周到に行っていただくことを受け入れます。

(以上、第4章「カトリック・あい」田中典子試訳)

第5章、闘い、用心、識別

158.キリスト教的生活は、絶え間ない闘いです。悪魔の誘惑に抵抗し、福音を告げるために、私たちは力と勇気を必要とします。この闘いは素晴らしい。なぜなら、主が私たちの生活で勝利を収めるたびに、私たちが祝うのを可能にするから、です。

*闘いと用心

159.ここで扱っている「闘い」は、この世と、世俗的なメンタリティー-自分自身をだまし、熱意と喜びに乏しい、鈍感で平凡なままにするような-に対する闘いだけではありません。この戦いは、私たち人間の弱さと性癖(怠惰、欲情、怨嗟、嫉妬あるいはそれと似たようなもの)との葛藤に矮小化できるものでもありません。それはまた、悪魔-悪の筆頭-との絶えざる苦闘でもあります。イエスご自身が私たちの勝利を祝福してくださいます。ご自分の弟子たちが福音を告げることで進歩を見せ、悪なるものの抵抗に打ち勝った時、イエスは大変喜ばれました-「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」(ルカ福音書10章18節)と。

 神話以上のもの

160.もし、私たちが生命を、単に経験主義的(経験だけに頼った)基準で、超自然的展望なしに眺めることに固執するなら、私たちは、悪魔の存在を認めないでしょう。この悪の力が、私たちのただ中にある、という確信そのものが、私たちに、なぜ、時として、悪がとても大きな破壊力をもっているのかを理解することを、可能にします。

 確かに、幾つかの現実を表現するために聖書作者たちが持っていた知識は、概念上 、限界のあるものでした。例えば、イエスの時代に、てんかんを「悪魔にとりつかれていること」と混同する可能性はありました。しかし、これが、福音の中で語られたすべてのケースが精神的な疾患であったとか、結局、悪魔は存在しない、あるいは働いていない、と、現実を極度に単純化するように、私たちをさせるようなことがあってはなりません。

 悪魔の存在は、聖書の最初のページにあり、それは、悪魔に対する神の勝利をもって終わっています¹²⁰. 実際、「主の祈り」を私たちに残された時、イエスは私たちが、御父に「悪から私たちを解放してください」と願いながら祈りを終えることをお望みになりました。そこで使われている表現は、抽象的な悪について言っているのではありません。より厳密に訳せば「悪魔」です。それは、私たちを苦悩させる「人格的実存」を示しています。イエスは、悪魔の力が私たちを圧倒することのないように、悪魔からの解放を毎日、願うことを、私たちに教えられました。

161.ですから、「悪が、ある神話、表象、シンボル、象徴、または概念だ」とは考えないように¹²¹しましょう。そのような錯覚は、私たちの警戒心を低くさせ、注意をおろそかにし、危険にさらしたままにします。 よりむき出しのままにします。 悪魔が私たちを所有する必要はありません。悪魔は私たちを、憎しみで、悲しみで、うらみで、悪癖で毒します。そして、防御を弱めている間に、私たちの生活、私たちの家族、私たちの共同体を破壊するために利用します。「悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っている」(ペトロの手紙1・5章8節)からです。

 目覚めていること、信頼すること

162.神の御言葉は、私たちに「悪魔の策略に対抗して立つ」(エフェソの信徒への手紙6章 11節)ように、「悪い者の放つ火の矢をことごとく消す」ように、明確に求めておられます。このような表現は芝居ががったものではありません。なぜなら、私たちの聖性への道はまさに「常に闘い」だからです。このことを悟らない人は、失敗や凡庸に苦しめられるでしょう。この霊的な戦いのために、私たちは、主が与えてくださる強力な武器-信仰に満ちた祈り、神の御言葉の瞑想、ミサの奉献、聖体崇敬、和解の秘跡、慈善活動、共同生活、宣教活動-があります。私たちが不注意であれば、誤った悪の約束にたやすく誘惑されてしまうでしょう。聖人とされたクラ・ブロチェロはこう言っています-「堕天使ルシファーがあなたに自由を約束し、恩典を全部くれても、その恩典が過ち、欺き、そして毒だったら、何の役に立つのか?」¹²²と。

163.この歩みにおいて、全ての善きものの涵養、霊的生活の進歩、そして愛の成長は、悪を相殺する最良の力です。どっちつかずでいることを選ぶ人、わずかばかりのことに満足する人、主に自らを進んで捧げる理想を捨てる人は、悪との闘いに、決して持ちこたえることができません。もっといけないのは、敗北主義に陥ることです。なぜなら「(勝利の)確信を持たずに闘いを始めれば、すでに半分、負けており、自分の才能を埋もれさせてしまいます…キリスト者の勝利は、常に十字架ですが、その十字架は悪の急襲に立ち向かう挑戦的なやさしさを備えた、勝利の御旗でもある」¹²³のです。

 霊的な堕落 

 164 聖性の歩みは、聖霊が私たちに与えてくださる平和と喜びの源です。それと同時に、私たちに「ともし火をともし」(ルカ福音書12章 35節)、注意深くしていることを求めます-「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」(テサロニケの信徒への手紙1・5章 22節)、「目を覚ましていなさい」(マルコ福音書13章 35節、マタイ福音書24章 42節)、「眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(テサロニケの信徒への手紙1・5章 6節)。神の律法に反する深刻な過失を犯していない、と思う人は、鈍感で、無気力な状態に落ち込むようになり得ます。彼らは、自らがとがめられるような深刻な事態に置かれていることに何も気づず、それゆえ、自分の霊的生活が徐々に熱意のないものになっていくことを自覚できません。そして遂には、弱体化し、堕落してしまうのです。

 165.霊的な堕落は、罪人が転落するよりもひどい-それは、安楽で自己満足的な盲目の形態のひとつだからです。そこではまた、あらゆることが容認されるようにみえます-欺き、中傷、利己主義、その他の狡猾な自己本位の形-「サタンでさえ、光の天使を装う」(コリントの信徒への手紙2・11章 14節)のです。そうして、ソロモンは命を終えました-大きな罪を犯したダビデは、恥辱を埋め合わせることができたにもかかわらずです。イエスは私たちに、堕落にたやすく繋がるような自己欺瞞に陥らないよう警告しました。悪魔から解放され、人生が正常な状態になったと確信したのに、結局は(その穢れた霊が連れて来た)他の七つの悪霊にとりつかれてしまう人(ルカ福音書11章24∼26節)についてお話になりました。他の聖書の箇所では、次のようなあからさまな表現がされています-「犬は、自分の吐いた物のところへ戻ってくる」(ペトロの手紙Ⅱ・2章 22 節、箴言26章 11節も参照)と。

 識別

166.あるものが聖霊から来るのか、この世の霊、あるいは悪霊から生じるのか。どのようにしたら、私たちはそれを知ることができるでしょうか? 唯一の方法は「識別」です。識別は、知識や常識以上のものを、私たちに要求しますが、強く求めねばならないない賜物です。この賜物をくださるように、信頼をもって聖霊に願い、そして、祈り、考察、朗読、良き助言を通して賜物を育てるように努めれば、私たちは、この霊的な授かりものを受ける中で、確かに成長するのです。

 緊急に必要なこと 

167.識別の賜物は、今日、これまでよりも一段と必要となっています。なぜなら、現代の生活は、活動と気晴らしに巨大な可能性を与え、世はそれらを、すべて価値があり良いものとして提供します。私たちすべて、特に若者たちは「頻繁にチャンネルを切り替える文化」にどっぷりと漬かっています。二つ、あるいはそれ以上の画面を同時並行して操り、二つか三つの仮想空間のシナリオで同時に影響し合うことが、私たちには可能です。識別する知恵がなければ、私たちは、次々と過ぎ去っていく流行の餌食に容易になってしまいます。

168.このことを知っておくことは、自分の人生で何か新しいことが出てきた時、いっそう重要になります。ですから、それが、神によってもたらされる新しいぶどう酒か、それとも、この世の霊、あるいは悪魔の霊が作り出す幻想なのか、判断する必要があります。他の時-悪の力が、今のまま変わらないように、今のままにしておくように、変化に頑に抵抗するように、私たちを仕向ける時-には、それと反対のことが起こり得ます。それでもなお、聖霊の働きを妨げようとします。私たちはキリストの自由をもって、自由です。それでもなお、イエスは私たちに、自分の内面にあるもの-私たちの願望、不安、恐れ、そして疑問-そして、自分の周りで起きるもの-「時のしるし」-を調べるように、そうすることで、完全な自由への道をはっきりと知るようにお求めになります-「すべて吟味して、より良いものを大事にしなさい」(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ・5章 21節)と。

つねに、主の光に照らされて 

169.識別は、何か特別な時-深刻な問題を解決し、重大な決断をする必要がある時-だけに必要なのではありません。識別は、主によりよく従うように私たちを助ける霊的な闘いの手段です。私たちは常にそれを必要としています-私たちが神の予定表を認識するのを助けてくれるように、神の恵みの促しに気づき損ね、成長への神の招きを無視することのないように。識別はしばしば、小さなこと、取るに足らないように見えるものの中に働きます。なぜなら霊の偉大さは、日々のありふれた現実の中に、現われるからです¹²⁴。それは、偉大で、より良く、より美しいこと全てを拘束されることなく求める努力を意味します-同時に、小さな事柄、その日その日の責任ある務めと献身への気遣い、もです。

 全てのキリスト者の方々に対してお願いします-主との対話の中で、真摯な日々の「良心の究明」をすることを怠らないように。識別はまた、私たちが具体的な手段-主が、その神秘的な、愛のこもった計画のもとに、単なる善意を超えて活動するように、私たちに与えてくださる手段-を見分けることを可能にします。

超自然的な賜物 

170 確かに、霊的識別は、人間的、実存的、心理学的、社会学的、あるいは道徳的知恵の貢献を排斥しません。それを超越します。教会の賢明な規定さえも十分ではありません。識別は恵みであることを、いつも覚えていましょう。識別は、理性と賢明さを含んでいるとしても、それらを越えます。

 なぜなら、それは、神が一人ひとりのためにもっている、唯一の繰り返せない計画の神秘をかいま見ること(直感すること)であり、より多様なコンテクスト(文脈)や限界のただ中で実現されるからです。単に、つかの間の(地上の)幸せ、何か役に立つことをする満足、ましてや、平穏な良心をもちたい、という望みが、かかっているのではありません。私を知り、私を愛してくださる御父の前での、私の命の意味がかかっているのです。私が そのために、私の実存を捧げることの出来る、真の意味-神が一番よく知っておられる真の意味-がかかっているのです。

 識別は、死ぬことのない(終わることのない)命の源そのものに導きます。「唯一の真の神であるあなたを知り、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ福音書17 章2節)。それは、特別な能力を求めません。より頭のよい、学識のある人々だけのものでもありません。御父はご自分を、進んで小さい人々にお示しになるのです(マタイ福音書11章 25節参照)。

171.神は、私たちに様々な仕方で、私たちの仕事の最中に、他の人々を通して、そしていつも、お話しになります。しかし、私たちには、長い祈りの沈黙なしには、まず次のようなことはできません-それは、神の言葉遣いを受け止め、自分が受け取ったと信じる霊感の実際の意味を解釈し、不安を鎮め、そして、神ご自身の光の中で、自分の存在全体を確かめることを、私たちがよりよくできるようにするのを可能にすること、です。このようにして、私たちは、聖霊によってかきたられた命から湧き出る新しい統合が生まれるのを可能にするのです。

 

主よ、話してください

 172.しかし、祈りの最中でさえも、思いのままに行動する霊の自由と向き合うのを避けることが可能です。祈りの識別は、聴く-主と他の人々に、現実そのものに、聴く―用意ができたところから生まれることを、思い起こす必要があります。それを、私たちは常に新しいやり方で求められています。聴く用意ができている時のみ、私たちは、自分自身の不完全で不十分な考え、通常の習慣と物の見方を、捨てる自由を得ます。全てが平静、平穏であるだけでは十分ではありません。神が、さらに多くのものを、私たちにくださろうとしていても、不注意に安住している私たちには、それが分からないのです。

173.当然ですが、そのような聴く態度には、究極の基準としての福音に対する従順が伴います。それには、福音を守る教導職への従順も含まれます。私たちが、教会の宝の中に、救いの「今日」のために極めて有益なものなら何でも見つけようとするように。有益なのは、ルールを当てはめることでも、過去になされたことを繰り返すことでもありません。なぜなら、同じ解決方法がすべての状況に適するわけではないし、ある状況において役に立ったものが他の状況では役に立たない結果となることもあるからです。聖霊の識別は、復活された主の永遠の”今日”の前に場所をもたない頑なさから、私たちを解放します。聖霊だけが、一つ一つの状況の中にある不鮮明で、隠れたものに入り込み、その一つ一つの微妙な違いをつかみ取ります-福音の新しさが、異なる光の中で浮かび上がるように。

賜物と十字架の論理

174.識別における進歩に欠かすことのできない条件のひとつは、神の忍耐と神の予定表-決して私たち自身のものではありません-についての理解を育てることです。神は、不信心な者たちの上に火を降らせる(ルカ福音書9章 54節参照)ことも、熱意にあふれた人々が、麦の中に蒔かれた毒麦を根こそぎにする(マタイ福音書13章 29節参照)ことも、お認めになりません。寛容さが求められます。「受けるよりは、与えるほうが幸い」(使徒言行録20章 35節)だからです。

 識別は、この世の生活から逃れるのに何をしたらいいかを見つけるのではなく、私たちが洗礼を受けた時に託された使命をいかにしてよりよく果たすことができるかを知るためのものです。それには、犠牲を払う-すべてを犠牲にする用意ができている-必要があります。「幸せ」は一見、正しく見える、矛盾した論理だからです。私たちが一番それを経験するのは、この世のものでない神秘的な論理を受け入れる時-聖ボナベンツラは十字架を指さしながら「これは私たちの不可避の関係だ」と言っています。私たちがこの動きを始めれば、自分の良心を麻痺させることなく、識別に自分自身を大きく開くことになります。

175.神の前で、私たちが、自分の人生の道を究明する時、立ち入り禁止の区域はありえません。人生の全ての側面で、私たちは成長を続け、神に対してもっと大きなものを差し出すことが可能です-私たちが最も困難だと感じる区域でさえも。それでも、私たちは聖霊に願う必要があります-私たちを自由にし、私たちの人生の幾つかの側面に神が入ることを拒否させる恐怖を追い払ってくださるように、と。

 神は私たちの全てをお求めになりますが、私たちにすべてをお与えにもなります。神が、私たちの人生にお入りになりたいと望まれるのは、それを壊したり、傷つけたりされるためではなく、実りをもたらしてくださるためなのです。識別は、唯我論的な自己分析でも、利己的な自己反省でもなく、神の神秘に近づくために、私たちを残しておく確実な手順なのです-神は、求められた使命を私たちが実行するのを助けてくださいます-私たちの兄弟姉妹のために。

176.私は、以上の考察の最後を、聖母マリアが飾ってくださることを望みます-なぜなら、マリアが、何よりも、イエスのBeatitudes(山上の説教で説かれた八つの幸せ)を生きられたからです。マリアは、神を前にして讃え喜び、全てのことを大切に心に留め、剣がご自身を刺し貫くにまかせた女性です。

 マリアは、聖人の中の聖人、誰よりも祝福された方です。彼女は、私たちに聖性の道を示し、いつも私たちの傍を歩いてくださいます。私たちを転んだままにさせず、時々は、私たちを、裁かずに、抱きしめてくださいます。

 マリアと語り合うことは、私たちを慰め、私たちを解放し、私たちを聖化します。私たちの母マリアは、盛りだくさんの言葉を必要となさいません。何が自分の人生に起きているか、私たちが語ることを必要となさいません。私たちに必要なのは、ささやくことだけです―何回も何回も―Hail  Mary(ラテン語のAve Maria。直訳は「こんにちは、マリア」)…と。

177.私の望みは、ここで述べてきたことが、教会全体が「聖性への強い希望」を促すために新たに自らを捧げられるようにする-その助けとなることです。聖霊に願いしましょう-神のより大きな栄光のために聖人となる強い希望を、私たちの中に注いでください、その希望のために、私たちが互いに励まし合いますように-。このようにして、私たちからこの世が取り去ることのできない幸せを、私たちは分かち合うのです。

 2018年(教皇在位第6年)3月19日、聖ヨセフの祭日 ローマ、聖ペトロのかたわらにて フランシスコ

(以上、第5章「カトリック・あい」Sr.岡立子・南條俊二試訳)

177. It is my hope that these pages will prove helpful by enabling the whole Church to devote herself anew to promoting the desire for holiness. Let us ask the Holy Spirit to pour out upon us a fervent longing to be saints for God’s greater glory, and let us encourage one another in this effort. In this way, we will share a happiness that the world will not be able to take from us.

Given in Rome, at Saint Peter’s, on 19 March, the Solemnity of Saint Joseph, in the year 2018, the sixth of my Pontificate. Francis


[1] BENEDICT XVI, Homily for the Solemn Inauguration of the Petrine Ministry (24 April 2005): AAS 97 (2005), 708.

[2] This always presumes a reputation of holiness and the exercise, at least to an ordinary degree, of the Christian virtues: cf. Motu Proprio Maiorem Hac Dilectionem (11 July 2017), Art. 2c: L’Osservatore Romano, 12 July 2017, p. 8.

[3] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, 9.

[4] Cf. JOSEPH MALEGUE, Pierres noiresLes classes moyennes du Salut, Paris, 1958.

[5] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, 12.

[6] Verborgenes Leben und Epiphanie: GW XI, 145.

[7] JOHN PAUL II, Encyclical Letter Novo Millennio Ineunte (6 January 2001), 56: AAS 93 (2001), 307.

[8] Encyclical Letter Tertio Millennio Adveniente (10 November 1994), 37: AAS 87 (1995), 29.

[9] Homily for the Ecumenical Commemoration of Witnesses to the Faith in the Twentieth Century (7 May 2000), 5: AAS 92 (2000), 680-681.

[10] Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, 11.

[11] Cf. HANS URS VON BALTHASAR, “Theology and Holiness”, in Communio 14/4 (1987), 345.

[12] Spiritual Canticle, Red. B, Prologue, 2.

[13] Cf. ibid., 14-15, 2.

[14] Cf. Catechesis, General Audience of 19 November 2014Insegnamenti II/2 (2014), 555.

[15] FRANCIS DE SALES, Treatise on the Love of God, VIII, 11.

[16] Five Loaves and Two Fish, Pauline Books and Media, 2003, pp. 9, 13.

[17] NEW ZEALAND CATHOLIC BISHOPS’ CONFERENCE, Healing Love, 1 January 1988.

[18] Spiritual Exercises, 102-312.

[19] Catechism of the Catholic Church, 515.

[20] Ibid., 516.

[21] Ibid., 517.

[22] Ibid., 518.

[23] Ibid., 521.

[24] BENEDICT XVI, Catechesis, General Audience of 13 April 2011Insegnamenti VII (2011), 451.

[25] Ibid., 450.

[26] Cf. HANS URS VON BALTHASAR, “Theology and Holiness”, in Communio 14/4 (1987), 341-350.

[27] XAVIER ZUBIRI, Naturaleza, historia, Dios, Madrid, 19933, 427.

[28] CARLO M. MARTINI, Le confessioni di Pietro, Cinisello Balsamo, 2017, 69.

[29] We need to distinguish between this kind of superficial entertainment and a healthy culture of leisure, which opens us to others and to reality itself in a spirit of openness and contemplation.

[30] JOHN PAUL II, Homily at the Mass of Canonization (1 October 2000), 5: AAS 92 (2000), 852.

[31] REGIONAL EPISCOPAL CONFERENCE OF WEST AFRICA, Pastoral Message at the End of the Second Plenary Assembly, 29 February 2016, 2.

[32] La femme pauvre, Paris, II, 27.

[33] Cf. CONGREGATION FOR THE DOCTRINE OF THE FAITH, Letter Placuit Deo on Certain Aspects of Christian Salvation (22 February 2018), 4, in L’Osservatore Romano, 2 March 2018, pp. 4-5: “Both neo-Pelagian individualism and the neo-Gnostic disregard of the body deface the confession of faith in Christ, the one, universal Saviour”. This document provides the doctrinal bases for understanding Christian salvation in reference to contemporary neo-gnostic and neo-pelagian tendencies.

[34] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 94: AAS 105 (2013), 1060.

[35] Ibid.: AAS 105 (2013), 1059.

[36] Homily at Mass in Casa Santa Marta, 11 November 2016: L’Osservatore Romano, 12 November 2016, p. 8.

[37] As Saint Bonaventure teaches, “we must suspend all the operations of the mind and we must transform the peak of our affections, directing them to God alone… Since nature can achieve nothing and personal effort very little, it is necessary to give little importance to investigation and much to unction, little to speech and much to interior joy, little to words or writing but all to the gift of God, namely the Holy Spirit, little or no importance should be given to the creature, but all to the Creator, the Father and the Son and the Holy Spirit”: BONAVENTURE, Itinerarium Mentis in Deum, VII, 4-5.

[38] Cf. Letter to the Grand Chancellor of the Pontifical Catholic University of Argentina for the Centenary of the Founding of the Faculty of Theology (3 March 2015): L’Osservatore Romano, 9-10 March 2015, p. 6.

[39] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 40: AAS 105 (2013), 1037.

[40] Video Message to Participants in an International Theological Congress held at the Pontifical Catholic University of Argentina (1-3 September 2015): AAS 107 (2015), 980.

[41] Post-Synodal Apostolic Exhortation Vita Consecrata (25 March 1996), 38: AAS 88 (1996), 412.

[42] Letter to the Grand Chancellor of the Pontifical Catholic University of Argentina for the Centenary of the Founding of the Faculty of Theology (3 March 2015): L’Osservatore Romano, 9-10 March 2015, p. 6.

[43] Letter to Brother Anthony, 2: FF 251.

[44] De septem donis, 9, 15.

[45] In IV Sent. 37, 1, 3, ad 6.

[46] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 94: AAS 105 (2013), 1059.

[47] Cf. Bonaventure, De sex alis Seraphim, 3, 8: “Non omnes omnia possunt”. The phrase is to be understood along the lines of the Catechism of the Catholic Church, 1735.

[48] Cf. THOMAS AQUINAS, Summa Theologiae II-II, q. 109, a. 9, ad 1: “But here grace is to some extent imperfect, inasmuch as it does not completely heal man, as we have said”.

[49] Cf. De natura et gratia, 43, 50: PL 44, 271.

[50] Confessiones, X, 29, 40: PL 32, 796.

[51] Cf. Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 44: AAS 105 (2013), 1038.

[52] In the understanding of Christian faith, grace precedes, accompanies and follows all our actions (cf. ECUMENICAL COUNCIL OF TRENT, Session VI, Decree on Justification, ch. 5: DH 1525).

[53] Cf. In Ep. ad Romanos, 9, 11: PG 60, 470.

[54] Homilia de Humilitate: PG 31, 530.

[55] Canon 4: DH 374.

[56] Session VI, Decree on Justification, ch. 8: DH 1532.

[57] No. 1998.

[58] Ibid., 2007.

[59] Thomas Aquinas, Summa Theologiae, I-II, q. 114, a. 5.

[60] ThÉrÈse of the Child Jesus, “Act of Offering to Merciful Love” (Prayers, 6).

[61] Lucio Gera, Sobre el misterio del pobre, in P. GRELOT-L. GERA-A. DUMAS, El Pobre, Buenos Aires, 1962, 103.

[62] This is, in a word, the Catholic doctrine on “merit” subsequent to justification: it has to do with the cooperation of the justified for growth in the life of grace (cf. Catechism of the Catholic Church, 2010). Yet this cooperation in no way makes justification itself or friendship with God the object of human merit.

[63] Cf. Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 95: AAS 105 (2013), 1060.[64] Summa Theologiae I-II, q. 107, art. 4.

[65] FRANCIS, Homily at Mass for the Jubilee of Socially Excluded People (13 November 2016): L’Osservatore Romano, 14-15 November 2016, p. 8.

[66] Cf. Homily at Mass in Casa Santa Marta, 9 June 2014: L’Osservatore Romano, 10 June 2014, p. 8.

[67] The order of the second and third Beatitudes varies in accordance with the different textual traditions.

[68] Spiritual Exercises, 23d.

[69] Manuscript C, 12r.

[70] From the patristic era, the Church has valued the gift of tears, as seen in the fine prayer “Ad petendam compunctionem cordis”. It reads: “Almighty and most merciful God, who brought forth from the rock a spring of living water for your thirsting people: bring forth tears of compunction from our hardness of heart, that we may grieve for our sins, and, by your mercy, obtain their forgiveness” (cf. Missale Romanum, ed. typ. 1962, p. [110]).

[71] Catechism of the Catholic Church, 1789; cf. 1970.

[72] Ibid., 1787.

[73] Detraction and calumny are acts of terrorism: a bomb is thrown, it explodes and the attacker walks away calm and contented. This is completely different from the nobility of those who speak to others face to face, serenely and frankly, out of genuine concern for their good.

[74] At times, it may be necessary to speak of the difficulties of a particular brother or sister. In such cases, it can happen that an interpretation is passed on in place of an objective fact. Emotions can misconstrue and alter the facts of a matter, and end up passing them on laced with subjective elements. In this way, neither the facts themselves nor the truth of the other person are respected.

[75] Apostolic Exhortation, Evangelii Gaudium (24 November 2013), 218: AAS 105 (2013), 1110.

[76] Ibid., 239: 1116.

[77] Ibid., 227: 1112.

[78] Encyclical Letter Centesimus Annus (1 May 1991), 41c: AAS 81 (1993), 844-845.

[79] Apostolic Letter Novo Millennio Ineunte (6 January 2001), 49: AAS 93 (2001), 302.

[80] Ibid.

[81] Bull Misericordiae Vultus (11 April 2015), 12: AAS 107 (2015), 407.

[82] We can recall the Good Samaritan’s reaction upon meeting the man attacked by robbers and left for dead (cf. Lk 10:30-37).

[83] SOCIAL AFFAIRS COMMISSION OF THE CANADIAN CONFERENCE OF CATHOLIC BISHOPS, Open Letter to the Members of Parliament, The Common Good or Exclusion: A Choice for Canadians (1 February 2001), 9.

[84] The Fifth General Conference of the Latin American and Caribbean Bishops, echoing the Church’s constant teaching, stated that human beings “are always sacred, from their conception, at all stages of existence, until their natural death, and after death”, and that life must be safeguarded “starting at conception, in all its stages, until natural death” (Aparecida Document, 29 June 2007, 388; 464).

[85] Rule, 53, 1: PL 66, 749.

[86] Cf. ibid., 53, 7: PL 66, 750.

[87] Ibid., 53, 15: PL 66, 751.

[88] Bull Misericordiae Vultus (11 April 2015), 9: AAS 107 (2015), 405.

[89] Ibid., 10, 406.

[90] Post-Synodal Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 311: AAS 108 (2016), 439.

[91] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 197: AAS 105 (2013), 1103.

[92] Cf. Summa Theologiae, II-II, q. 30, a. 4.

[93] Ibid., ad 1.

[94] Cited (in Spanish translation) in: Cristo en los Pobres, Madrid, 1981, 37-38.

[95] There are some forms of bullying that, while seeming delicate or respectful and even quite spiritual, cause great damage to others’ self-esteem.

[96] Precautions, 13.

[97] Ibid., 13.

[98] Cf. Diary. Divine Mercy in My Soul, Stockbridge, 2000, p. 139 (300).

[99] THOMAS AQUINAS, Summa Theologiae, I-II, q. 70, a. 3.

[100] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 6: AAS 105 (2013), 1221.

[101] I recommend praying the prayer attributed to Saint Thomas More: “Grant me, O Lord, good digestion, and also something to digest. Grant me a healthy body, and the necessary good humour to maintain it. Grant me a simple soul that knows to treasure all that is good and that doesn’t frighten easily at the sight of evil, but rather finds the means to put things back in their place. Give me a soul that knows not boredom, grumbling, sighs and laments, nor excess of stress, because of that obstructing thing called ‘I’. Grant me, O Lord, a sense of good humour. Allow me the grace to be able to take a joke and to discover in life a bit of joy, and to be able to share it with others”.

[102] Post-Synodal Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 110: AAS 108 (2016), 354.

[103] Apostolic Exhortation Evangelii Nuntiandi (8 December 1975), 80: AAS 68 (1976), 73. It is worth noting that in this text Blessed Paul VI closely links joy and parrhesía. While lamenting a “lack of joy and hope” as an obstacle to evangelization, he extols the “delightful and comforting joy of evangelizing”, linked to “an interior enthusiasm that nobody and nothing can quench”. This ensures that the world does not receive the Gospel “from evangelizers who are dejected [and] discouraged”. During the 1975 Holy Year, Pope Paul devoted to joy his Apostolic Exhortation Gaudete in Domino (9 May 1975): AAS 67 (1975), 289-322.

[104] Precautions, 15.

[105] JOHN PAUL II, Apostolic Exhortation Vita Consecrata (25 March 1996), 42: AAS 88 (1996), 416.

[106] Confessiones, IX, 10, 23-25: PL 32, 773-775.

[107] I think especially of the three key words “please”, “thank you” and “sorry”. “The right words, spoken at the right time, daily protect and nurture love”: Post-Synodal Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 133: AAS 108 (2016), 363.

[108] THÉRÈSE OF THE CHILD JESUS, Manuscript C, 29 v-30r.

[109] Degrees of Perfection, 2.

[110] ID., Counsels to a Religious on How to Attain Perfection, 9.

[111] Autobiography, 8, 5.

[112] JOHN PAUL II, Apostolic Letter Orientale Lumen (2 May 1995), 16: AAS 87 (1995), 762.

[113] Meeting with the Participants in the Fifth Convention of the Italian ChurchFlorence, (10 November 2015): AAS 107 (2015), 1284.

[114] Cf. BERNARD OF CLAIRVAUX, Sermones in Canticum Canticorum, 61, 3-5: PL 183:1071-1073.

[115] The Way of a Pilgrim, New York, 1965, pp. 17, 105-106.

[116] Cf. Spiritual Exercises, 230-237.

[117] Letter to Henry de Castries, 14 August 1901.

[118] FIFTH GENERAL CONFERENCE OF THE LATIN AMERICAN AND CARIBBEAN BISHOPS, Aparecida Document (29 June 2007), 259.

[119] CONFERENCE OF CATHOLIC BISHOPS OF INDIA, Final Declaration of the Twenty-First Plenary Assembly, 18 February 2009, 3.2.

[120] Cf. Homily at Mass in Casa Santa Marta, 11 October 2013: L’Osservatore Romano, 12 October 2013, p. 2.

[121] Cf. PAUL VI, Catechesis, General Audience of 15 November 1972: Insegnamenti X (1972), pp. 1168-1170: “One of our greatest needs is defence against that evil which we call the devil… Evil is not simply a deficiency, it is an efficiency, a living spiritual being, perverted and perverting. A terrible reality, mysterious and frightful. They no longer remain within the framework of biblical and ecclesiastical teaching who refuse to recognize its existence, or who make of it an independent principle that does not have, like every creature, its origin in God, or explain it as a pseudo-reality, a conceptual and imaginative personification of the hidden causes of our misfortunes”.

[122] JOSÉ GABRIEL DEL ROSARIO BROCHERO, “Plática de las banderas”, in CONFERENCIA EPISCOPAL ARGENTINA, El Cura Brochero. Cartas y sermones, Buenos Aires, 1999, 71.

[123] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 85: AAS 105 (2013), 1056.

[124] The tomb of Saint Ignatius of Loyola bears this thought-provoking inscription: Non coerceri a maximo, conteneri tamen a minimo divinum est (“Not to be confined by the greatest, yet to be contained within the smallest, is truly divine”).

[125] Collationes in Hexaemeron, 1, 30.

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