・(解説)新使徒的勧告‘Gaudete et Exsultate’-「聖性は過ちと失敗の中で必死に前に進む人の中にある」(La Civilita Cattolica)

Antonio Spadaro, SJ)

‘Gaudete et Exsultate’, Pope Francis calls on us to ‘Rejoice and be Glad’

教皇フランシスコの新使徒的勧告の引用資料、組み立て、そしてその意味は

 教皇に選出されて5年、教皇フランシスコは三つ目の使徒的勧告「Gaudete et Exsultate(現代世界における聖性への招き)」(GE)を発出された。サブタイトルにあるように、勧告の主題は「今日の世界における聖性への招き」だ。教皇はこの勧告で、明瞭な、きわめて重要なメッセ―ジ―肝心なこと、キリスト教徒の人生の真髄は-ロヨラの聖イグナチオ(イエズス会の創始者)がイエズス会士たちに示した言葉を使えば-「すべての事象の中に神を求め、見出す」ことだ。これが、個人、教会いずれの改革においても核心-中心に神を置くこと―である。

 教皇になられるとき、ベルゴリオ枢機卿は、まさにこの理由で「フランシスコ」という名を選ばれた。教皇は、アッシジのフランシスコが担った使命-神を教会の中心に置いた精神的な改革の意味で、教会を”再建”すること-に喜びをもって倣おうとされた。教皇はこの使徒的勧告で述べている-「主は、真の生命を私たちに下さった見返りに、私たち一人ひとりにお創りになった理由である幸せをお望みです(GE1項)。

 この権威のある文書は、「聖性に関する論文-この重要な課題を理解する助けとなるような定義と特質、あるいは聖別のさまざまな方向についての検討などを扱うような論文」を意図していない。教皇の”控えめな目標”は、「私たち自身の時代ために実践的な方法で聖性への呼びかけを、リスクと課題と機会とともに、再利用すること」(GE2項)だ。そしてこの意味で、教皇は「この文書が、聖性への強い希望を作り出すために教会全体を捧げることを可能にすることで助けとなる」(GE 177項)ことを期待している。後で分かるように、このような教皇の強い思いは、心を打つような洞察に裏付けられている。

 この使徒的勧告は、5つの章から成っている。出発点は、全ての人に対する「聖性への招き」だ。ここから、私たちは、聖性を選良主義、知的あるいは篤志の形に変える「二つの狡猾な敵」の明確な身元証明へと進む。それから、福音書のイエスの山上の説教で示された八つの幸福の教えを聖性の肯定的なモデルとして提示する-それは「主の光に照らし出された」もので、あいまいな宗教的イデオロギーではない。つぎに、勧告は、現代世界における聖性のいくつかの特徴-忍耐、柔和、ユーモア、勇気、熱情、共同体生活、そして絶えざる祈り―に言及する。そして、勧告は、霊的生活における「闘い、警戒、そして識別」への言及で締めくくられている。

 勧告は、読みやすく、込み入った説明を必要としない。だが、この短い解説で、文書の提示と同じように、私は何よりも、イエズス会士、司教、そしてついに教皇となったベルゴリオの司牧的省察の中にあるルーツを示したい。そして、そうすることで、勧告の中心テーマと、現代の教会に教皇が発出を希望する明確なメッセージを確認したいと思う。教皇フランシスコにとって何が聖性なのか?どこにそれが生きていると見ているのか?どのような形、どのような前後関係で?どうやって、それは定義されるのか?

*聖性が働く通常の場とは

 聖性は、教皇フランシスコの就任当時から、教皇職の核心になっている。教皇就任から5か月経った2013年8月の本誌 La Civiltà Cattolica とのインタビューで、教皇は、聖性について詳細に語っている。その中心部分の次のようなくだりを再読するのは、勧告の理解に役に立つ。

 「私は、神の民の中に聖性を見ます」。そして、さらに踏み込んでこう語られた-「私は、神の民-子供たちを育てる女性、日々の糧を家に持ち帰るために働く男性、病気の人、たくさんの傷を負いながら種に奉仕することで笑みを浮かべる高齢の司祭たち、懸命に働き隠れた聖性を生きるシスターたち-の忍耐の中に聖性を見ます。

 私にとって、これは通常の聖性です。私はしばしば、忍耐を聖性と結びつけます-それは、人生の様々な出来事や置かれた環境の重荷をhypomoné(我慢)する忍耐だけではなく、日々、前に進み続ける確固とした忍耐でもあります。これは聖イグナチオが語っている「教会の闘士」の聖性です。これは私の両親たちの聖性でした-私の父、私の母、私にとても良くしてくれた祖母ロサの聖性です。私の聖務日課書には、ロサおばあさんの遺言が書かれており、それをよく読み返します。私にとって、祈りのようなものです。彼女は多くの苦難に、道徳的にも、耐えた、慈愛に満ちた人で、いつも勇気をもって前に進みました」。

 このような言葉の中に、勧告 Gaudete et Exsultateの基調と意味、霊的な雰囲気、実際的な応用を知ることができる。教皇はインタビューで、それを鮮明にしている-「”聖なる中流階級”が存在します。私たちはみな、マレグが書いているように、それに属し得ます」。教皇はご自分が大切にしておられる20世紀フランスのカトリック作家、ジョセフ・マレグ氏の著作を引用している。同氏は1876年に生まれ、1940年に亡くなっているが、Gaudete et Exsultateでも、その著作が引用され、「私たちの隣に住む人たち、私たちの真ん中で暮らしている人たちに見つかる聖性は神の臨在を映します」(GE7項)と表現されている。

 メレグは著書「Agostino Meridier」でこう書いている。「聖人たちの魂のみが、宗教的現象を的確に探究するための適切な場となる、という古い考えは、彼にとって不十分と思われる。最も謙虚な魂でさえ、何らかの価値を持っている。聖性の通常の世界でさえも」と。

 だから、聖性は、理想的、抽象的あるいは超人的な模範的人物ではなく、日常の生活の中で、私たちのそばにいる人たちの中に探し求める必要があるのだ。教皇は2016年5月24日のご自分の宿舎、サンタマルタの家での説教でこう話された。「聖性の道は単純明快です。後戻りするな、いつも前に進め。そして力強く」と。これより前、2013年10月14日の説教では「ドライ・クリーニングされた、清潔で、きれいな聖性」に矮小化されるべきではない、とされ、2015年3月5日には「偽りの聖性」と批判されている。私たちは誤りのない完璧な人生(GE22項参照)にではなく、「常には完璧でない生き方をし、過ちと失敗の最中にあっても、前に進み続け、主に対して喜びを証しする人たち」(GE3項)に注意を向ける必要があるのだ。

 先の私たちのインタビューで、教皇は、前任者の教皇職の自己犠牲で示した聖性についてこう語った-「教皇ベネディクトは聖性、偉大さ、謙遜の業をなさいました」。聖性は、謙遜と偉大さを共にもたらし、一般の労働者、祖母、あるいは教皇に、当てはめることができる。それは、同じ聖性だ。おそらく、ベルゴリオもまた、このことをマレグの著書から学んだのだろう。マレグはこのように書いている-「告白することで罪を赦したのがイエスであったから、聖性に関する限り、アルスの主任司祭(Curé dArs)(聖ヴィアンネのこと)の魂と私の魂は、無限なる創造主から等距離にある」。普通の人の魂と祭壇に立つ名誉を受けた人の魂の間にも、非対称や天国への距離の差は存在しないのだ。

*”民”の聖性

 教皇フランシスコは私たちに、聖性がいかに孤独の産物へないかを理解させてくれる-聖性は、神の民の生きた体に住むのだ。1982年に出版した文書の中で、ベルゴリオ神父は「私たちは聖なる体において、聖性を目的に創造されました-その体とは、私たちの聖なる母、教会です」と語り、聖性とは「その人の体への神の訪れのこと」と端的に説明している。今回のこの勧告で、教皇はこのように書いている-「だれも、孤立した個人として、一人で救われることはありません。そうではなく、人間社会に存在する個人同士の関係の複雑な構造をお考えになりながら、神は、私たちをご自身に引き寄せられます。神は、民の人生と歴史に入っていくことをお望みになるのです」(GE6項)。

 それで、私たちは「証しする人々の偉大な群れ」に取り巻かれ、彼らは私たちを「目的地に向かって絶えず前進させる」(GE3項)のだ。2013年に出された使徒的勧告『Evangelii Gaudium (福音の喜び)』(EG)での教皇のことばが、ここに反映されている-教皇はEGで、「ともに生きることの神秘」「混ざりあい、出会う神秘」「腕に抱き、支えあう神秘」「混沌とした潮流に踏み込む神秘」について書き、混沌の中で、それらが、兄弟愛の真の体験、連帯の一団、聖なる巡礼になりうる」(EG87項)と述べている。

 人々のこのような経験は、私たちの次に来る人々とかかわるだけでなく、私たちの先に歩んだ人々を含めた生きた伝統を土台にしている。

 ここで、教皇は、ご自身の二冊目の著書、1987年に書かれた『 Reflexiones sobre la Vida Apostolica』の序文で示された直観を展開していた。その中で、私たちの先人について、このように書いた。

 「男性たち、女性たちの世代から世代へ、私たちのような罪びとたち」は、「日々の生活で多くの試練を生き、闘い、希望の光をどのようにして次の人に渡していくかを知りました。そしてその光が、私たちのところに来ました。それを次の人に実り多く伝えていくのが、私たちの番なのです。ほとんどの男性たち、女性たちは歴史を記しませんでした。一生を通してただ働き-自分たちが罪びとだということを知っていたので―希望の中で救いを歓迎しました」。

 そして、人々は、教理だけでなく、何よりも大事なのは、「日々の事柄に対処した愚直さ」をもって証言を伝えた、と述べていた。

 彼が愛好するフランスの作家の著書を再度引用して、ベルゴリオ神父はこのように書いている。「私たちは、彼らの名前を知りません。彼らは信じる者の民、日々の聖性を代表しています-マレグが好んで使った『聖性の通常の仕方』で。私たちは、彼らが過ごした日々、年月のささやかな物語を何も知りませんが、彼らの命は私たちの中で花を咲かせています。彼らの聖性のかぐわしい香りが私たちのところに届いています」。

 この著書が書かれた30年経った今、この使徒的勧告 Gaudete et Exsultateに同じ表現がされている。そして、それは、ベルゴリオの中にある聖性についての洞察が深い根源をもっていることの証しだ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2018年4月11日