◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑪感謝の典礼-私たちのわずかな捧げものをキリストは求められる

聖ペトロ大聖堂に集った一般謁見参加者に挨拶する教皇フランシスコ、2月28日 – REUTERS

(2018.2.28 バチカン放送)教皇フランシスコが28日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、その中で、「ミサ聖祭」をめぐるカテケーシスを続けられた。この日はミサの後半の部分、「感謝の典礼」の考察に進み、「奉納」をテーマに講話された。

 ミサでは「ことばの典礼」に続いて「感謝の典礼」が行なわれるが、ここで教会は「多くのしるしを通して、イエスによって十字架の祭壇で結ばれた新しい契約の犠牲を、現存させ続けるのです」と前置きしたうえで、次のように説明された。。

 「イエスの十字架の祭壇はキリスト教の最初の祭壇。私たちがミサを祝うため祭壇に近づく時、私たちの記憶は、最初の犠牲が捧げられた十字架の祭壇へと向かいます」「司祭は、主ご自身が最後の晩餐で行い、弟子たちに託されたこと、すなわち、パンと杯を取り、感謝を捧げ、弟子たちに与えて『皆、これを取って食べなさい… これを受けて飲みなさい。これはわたしのからだ、…これは私の血の杯。これをわたしの記念として行ないなさい』と言われたことを、主の代わりに行ないます」「教会は、このようなイエスの指示に忠実に、典礼をイエスの受難の前夜の言葉と行いに合わせて形作ってきたのです」

 さらに、具体的に「パンとぶどう酒」を取り上げ、「『パンと杯を取った』というイエスの行為にならって、最初に供え物の準備として、パンとぶどう酒が祭壇に運ばれます。信徒はパンとぶどう酒を司祭のもとに運びますが、これは彼らも『教会の霊的な捧げもの』となることを意味します。信徒たち自身が祭壇にパンとぶどう酒を運ぶことは素晴らしいことです」と述べられた。

 そして、パンとぶどう酒のしるしのもとに、信徒たちはその捧げものを司祭の手に渡し、司祭はそれを主の食卓である祭壇の上に置くが、「祭壇はミサ全体の中心、祭壇はキリスト」であり、「祭壇をミサの中心として、常に見つめねばなりません」と強調された。

 また、「信徒たちの努力は『大地の実り、労働の恵み』として、『全教会のため』に捧げられ、『全能の父である神が受け入れてくださる』捧げ物となります」「感謝の典礼において、信者たちの生活や、苦しみ、祈り、労働などは、キリストのそのような行為と、キリストの完全な奉献に結ばれ、新たな価値を得ることになるのです」とされたうえで、「奉納」の意味について、次のように説明された。

 「私たちの捧げものはわずかであっても、キリストはその『わずかなもの』を必要とされています。日常生活の中の善意や、開かれた心、聖体を通してキリストをふさわしく迎えるためによりよい状態でありたい、という望みを、キリストは私たちに期待されています」「こうしたわずかな捧げものが、キリストの御からだ、御血となって、パンを増やす奇跡(マルコ福音書6章38-44節)のように、キリストの肢体である教会において、すべての人を養い、一致させる聖体の恵みに変容するのです」「奉納において、司祭は教会のこの捧げ物を神が受け入れてくださるように願うことで、『私たちの貧しさ』と『神の豊かさ』の交換という、驚くべき恵みを祈ることになります」。

 最後に、「ミサの奉納は、私たちに『自らを捧げる』という霊性を教えてくれます」と語った教皇は、「この霊性が私たちの日常や、人間関係、行動、苦しみなどを照らしてくれますように」と祈られた。

(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

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