◎連続講話「十戒」⑩「殺してはならない」は命の価値を守る掟

(2018.10.10 バチカン放送)

 教皇フランシスコは10日、水曜恒例の一般謁見でのカテケーシス(教会の教えの解説)で、モーセの「十戒」の第5戒「殺してはならない」(出エジプト記20章13節、申命記5章17節)を考察された。

 講話の前に「命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」という「知恵の書」(11章 24-26節) の言葉が朗読された。そのうえで教皇は、第5の戒めで、「十戒」が「神との関係」をめぐる前半から「隣人との関係」をめぐる後半に入ったことを指摘され、この「殺してはならない」という簡潔で絶対的な掟は「『人間関係における基本価値』、 『すなわち命の価値』を守る『城壁』としてそびえています」と話された。

*すべての悪は「命に対する侮べつ」

 この世で行われるすべての悪は「『命に対する侮べつ』という言葉に要約できます」とし、「戦争や、人を搾取する組織、投機目的の自然破壊、切り捨ての文化、利益のために人を服従させるシステム、人間の尊厳にふさわしくない生活をする数多くの人々の存在」など、命の軽視の結果である様々な状況を挙げられた。

 また、教皇は「母親の胎内における人命に対し、別の権利の名のもとに、その中絶を認めることは、矛盾したアプローチ」と強調。「花開こうとしている、つぼみのような無垢で無防備な命を殺す行為が、どうして臨床上、『社会的・人間的行為』と言えるのでしょうか」「一つの問題の解決のために一人の人間を亡き者にすることが、正義にかなっているのでしょうか」「それはまるで、問題をなくすために、刺客を雇うのと同じではありませんか」と問いかけられた。

*恐れから来る命の拒絶

 そして、命に対するこのような拒絶は、どこから発するのか、何を原因としているのか。教皇は「それは『恐れ』から生まれます」と話され、「実際、他の存在を受け入れることは、『個人主義に対する挑戦』です」として、例として、生まれてくる子どもが重い障害を背負っている場合を挙げられた。

 このような場合、「両親の苦しみは大変なものです」と理解を示され、「彼らは、恐れを乗り越え、現実に立ち向かうために、真の寄り添いと、真の連帯を必要としている」。だが、それにもかかわわらず、「多くの場合、妊娠を中絶するように、という性急なアドバイスを受けることになるのです」と話された。

*人生の真の物差しは「愛」の中に

 病気の子どもは「お年寄りや貧しい人のような、社会で助けを必要とするすべての人々と同様に、一つの『問題』」として提起されるが、それは実際には「私たちを自己中心主義から外に引きずり出し、愛の中に成長させる、神の『恵み』」と説かれ、「人を命の拒絶に至らせるもの、それはお金や、権力、成功といった『この世の偶像』、人生を測るための『間違った物差し』です」と話され、「人生の『真の物差し』は、すべての命を愛される神と同じ『愛』の中にあります」と強調された。

 そして、「殺してはならない」という戒めに、「知恵の書」に示された「神はすべてをいとおしまれる方」だ、という前向きな意味を示された。

*私たちを愛の喜びに開くキリスト

 さらに教皇は「人となられた神の御子は、人間の拒絶された状態や、弱さ、貧しさ、苦しみを、ご自分の十字架の上に引き寄せられ、病気の子どもや、体力の衰えたお年寄り、絶望した移民、すべてのはかない脅かされた命の中で、キリストは私たちを探し、私たちの心を愛の喜びに開こうとしてくださいます」と説かれ、「すべての命を受け入れることには価値がある。なぜなら、すべての人はキリストの尊い血に値する(ペトロの手紙①1章18-19節)からです」「神がこれほどまで愛された命を、侮べつすることはできません」と訴えられた。

 最後に教皇は、「殺してはならない」という掟は、自分たちの命にもあてはまることを指摘。「私たちは、若い人たちに『自分の命を軽んじてはいけない。神の業を拒んではならない。あなたは神の作品なのだ』と伝えなくてはなりません」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

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2018年10月11日 | カテゴリー :