◎連続講話「十戒」⑪「殺してはならない」は「愛への招き」

(2018.10.17 バチカン放送)

 教皇フランシスコは17日、水曜恒例の一般謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、先週に続き、モーセの「十戒」の第5戒「殺してはならない」をめぐる考察を続けられた。

*兄弟への怒りに対する、イエスの教え

カテケーシスの冒頭、マタイ福音書の数節(5,21-24)が朗読されたーこの箇所で、イエスは、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5章21-22節)と教えている。さらに、「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい」(同23-24節)と、兄弟を決して罵らず、和解するように、と説いている。

*「十戒」に、より深い意味を与えるイエス

教皇は「イエスはこの教えを通して、『十戒』中の『殺してはならない』という掟に、より深い意味を与えられました」とされ、「兄弟に対する怒りも、人を殺すことの一つの形であると明言し、それは『兄弟を憎む者は皆、人殺しです』(ヨハネの手紙1-3章15節)と使徒聖ヨハネも記すとおりです」と話された。

また、イエスはそれだけにとどまらず、同じ論理をもって、兄弟を罵ることや軽蔑することも、人を殺すことと同様にみなしていることを指摘され、「人間のどのような法律も、裁きにおいて、これほど異なるものを同列にみなしているものはありません」と話された。

「殺すな」とは、愛することへの第一歩

イエスは「祭壇に供え物を捧げる前に、まず行って兄弟と仲直りをし、それから、供え物を捧げるように」と教えているが、教皇は「イエスが『十戒』の第5戒『殺してはならない』の領域をここまで拡大したのは、なぜでしょうか」と問いかけた。

そして、人間は気高く繊細な命を持ち、体と同様に大切な「私」を隠し持っている。無垢な子どもを傷つけるには、不用意な言葉一つで十分。一人の人を破滅させるには、彼を無視するだけで足りるーだから、「『愛さない』ことは、『殺すことへの最初の一歩』であり、それに対し、『殺すな』ということは、『愛することへの第一歩』なのです」と答えを出された。

*人間の命には、愛が必要

 教皇はさらに、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」という神の問いに「知りません。私は弟の番人でしょうか」(創世記4章9節)と答えた聖書における最初の殺人者、カインの言葉を引用され、「『お前の兄弟は、どこにいるのか』という神の問いに、殺人者たちは『知らない。私には関係ない』と答えますが、私たちは『知っています』『私たちは互いに守り合う関係にあります』と答えられるようでなければなりません」と話された。

 そして、教皇は「人間の命には愛が必要です。真の愛とは『キリストが私たちに示されたいつくしみ』『自分を傷つけた者を、赦し、受け入れる愛』なのです」と説かれ、「誰もがいつくしみや赦しなしでは生きることができません。『殺す』ことが誰かを破壊する、排除することであるなら、『殺さない』とは、その人を大切にし、価値を与え、受け入れ、赦すことなのです」と強調された。

 最後に教皇は、「十戒」の「殺してはならない」という掟は、最も重要で本質的な呼びかけ、すなわち「愛への招き」だ、とされた。

(編集「カトリック・あい」)

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2018年10月18日 | カテゴリー :