清水神父の時々の思い ④母と自転車

  小3のとき自転車の練習を始めた。補助輪もない大人用の自転車だったのでなかなか上達しなかった。「みんな、転びながら覚えるんだよ」という母に、荷台を押さえてもらいながら、「持っててね、絶対持っててね」と怖がると、「持ってるよ。離さないよ」。いつも背中に母のやさしい声がした。
あるとき気づくと、母の声が遠くに聞こえた。「持ってるよ~。離さないよ~」。このウソに励まされ、いつの間にか自転車に乗れるようになった。・・・
(武熊敦子=当時33歳 茨城県=「DUSKIN 95. No.300」より)

 その昔、校長室に舞い込んできた営業用チラシのこの文章が気に入った。親の、教師の教育姿勢はかくありなんと思わせる文章だったから。助けが必要な子に援助の手を差し伸べる。当然のことである。見せて、支えて、やがて手を離す。そのタイミングが難しい。

 ごくふつうの母親が、絶妙に教育原理を会得していて、読み返しても楽しい。

 教会の在り方にも通じるものがある。明治以来のキリスト教会は宣教師の献身的な働きに依ってきた。私は先輩宣教師たちの心意気に感心する一人である。生活習慣が全く違う。人々はチンプンカンプンの言葉をしゃべる。何よりも、目刺とタクアンと納豆の生活に甘んじなくてはならない。ある人は、生涯を懸けるだけでなく、全資産を投じて、貧しい信徒のために尽くされた。それらの先人に感謝しつつ、私はひとつのことに残念さを覚える。パターナリズムである。<善き父親>として面倒をみる。それはとても有難い。が同時に、自転車の手を離すことも必要であった。自分たちでこぐために。

 そのわけで、現代の日本の教会は受けることに慣れきっている。神父が何かをしてくれることを期待する。教会が考えてくれると待っている。しかし、自分たちでできることまでも保護と援助を求め過ぎる。

 キリシタン時代は違っていた。1640年ころ、幕府の厳しい締め付けのなかで、パーデレたちは消滅した。もう自分たちのところに来てくれない。その時浦上の孫右衛門は教会の壊滅を案じたと言われる。釣り仲間の七郎左衛門に相談したいが、彼が今も信仰を守っているか分からない。下手に話すと、役人の御用になりかねない。長い試案の末、孫右衛門は決心する。話そう。相手がつべこべ言うなら、ぶった切って、自分も死ぬまでだ。

 ここまで腹を決めて話すと、七郎左衛門は「実は俺もそのことを考えていたんだ」。確信したふたりは村人を訪ね回って、信仰を確かめ、組織固めをした。歴史上の帳方・水方・聞き役などが整備されたのはこの時だと言われる。信徒が、信徒に教え、導き、励ましたのだ。

 2016年9月に着座された白浜広島司教は「カテキスタ養成」を本気で訴え始めた。カテキスタ構想の具体化は今後のこと。ではあるが、これは信徒が自分たちで学び、教え、運営するというリーダー養成に関係する。もうおねだりばかりはできない。 (了)

(清水弘=イエズス会士、広島教区・益田・浜田教会主任司祭、元六甲学院中高等学校長)

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