・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑭イスラーム時代の世界をリードした高度な科学知識 

  今回はハーフェズの生きざま、時代背景や環境、その詩的人生を紹介する最後として、イスラーム時代の科学知識について触れておく。

 イスラームというと今は、ヘジャーブ(女性の髪や顔、肌さらには身体全体を覆う)や断食など宗教儀礼の一部やイスラーム過激派のことがすぐに浮かぶが、その歴史は栄光に輝く。

 イスラーム生誕後(7世紀)、8世紀には、バグダード(現在のイラク)を首都とするイスラーム帝国が樹立され、宗教の拡大に合わせて、文化、商業、科学・技術を発展させて世界の中心となる。イスラームを生み出したアラブ人のみならず、征服されてイスラームを受け入れたペルシャの世界も、科学知識の発展に大きく貢献した。

 当時のイスラーム世界の科学・知識の水準は世界の最先端であった。占星術・天文学、化学、数学、神学、哲学、論理学、文学・詩など輝かしい発展を遂げ、またギリシャ哲学やその科学的知識を積極的にアラビア語に翻訳した。イスラーム世界の学問とともに、アラビア語訳されたギリシャの哲学が、その後西洋に逆輸入されて、その復興(ルネサンス)に深く貢献した。

 ハーフェズの関心は、神すなわち見えざる世界とのかかわりであり、それを中心に据えた人の生き方として、イスラーム教の神秘主義の道を実践する人生であった。ハーフェズの名前そのものが、イスラームの聖典「コーラン」を暗唱する人を意味し、また詩人として「見えざる世界の舌(語る人)」と評された。同時にハーフェズは、一級の知識人であり当時の科学知識も教養の一端とし、それが詩の中にも垣間見ることができる。

 「我々の存在は謎である。ハーフェズよ、研究したところで無駄である。無駄」と歌うのは、コーランや神学を懸命に学び研鑽しながら、それで神を体得できるわけではないことを自覚しているからであり、あるいは、「我が知識の集積はすべて葡萄酒で洗い流そう。宇宙は我々の知ったかぶりに復讐する心はコンパスのようにあちこちに動き回る。 しかし結局、固定された円の内にとどまっている」と語り、あたかも科学・知識を否定するがごとくであるのは科学知識では神の世界を捉ええないことをはっきりと認識していたからである。

 むしろここでは、宇宙、コンパス、円といった言葉が用いられていることに注目したい。ハーフェズの科学知識に対するレベルを示すものであり、現代の詩歌で用いられても全く遜色のない言葉である。

 また、「幸せの錬金術は友である。友に限る」と言って錬金術に言及している。

 錬金術は価値のない金属から金を作り出そうとする術であるが、ローマ・ギリシャ以来重要な科学技術の一分野であり、ハーフェズの時代でも立派な科学であった。その後そのようなことが不可能であることは明らかになったが、ありきたりの金属を金に変えようとする努力は現代の化学の基礎になった。

 ハーフェズが内外(ペルシャ・アラブ)の文学に広く通じていたことも、ハーフェズの詩の中で「コーラン」とともに引用される多くの文学上のエピソードから知られることであるが、同時に言葉の専門家として、「意味は言葉ですべて言い尽くすことはできない。大海が入れ物に収まらないように」と言葉の限界を巧みに科学的に表現している。

 イスラーム世界は、ヨーロッパ文明がルネサンス、地理上の発見、産業革命を経て世界をリードするまでの間、世界の科学技術の発展に大きな役割を果たした。ハーフェズはそんなイスラーム世界の一級の知識人であった。

 次回からはいよいよ、筆者が毎日暗唱し自らの生き方の指針としているハーフェズのいくつかの詩の断片を、その詩全体とともに紹介する。

(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)

(駒野欽一=元イラン大使)

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2018年9月27日