*「2013年4月、ご復活の大祝日の祝いを終えたあと、教皇フランシスコが3か月半で未熟児として生まれた脳性小児まひの8歳の男の子を抱きかかえた」(Crux/Nirmala Carvalho)
「それは本当に、本当に力強いものでした」と彼の母親が記者たちに語った。「ほとんど、愛の〝クレシェンド″のようでした。『こんなことが起きようとしている。それを起こそうとしている』。素晴らしいことでした」。それを目にした全員が涙を誘われた。私は、彼の父親が「自分が会ったことのない女性から『いいこと。あなたの息子さんは、どうやって愛するかを皆に教えるためにここにいるのよ』と教えられた」と言ったのを覚えている。それはとても力強い愛の証しだったと思う。
それから何か月か経った11月、教皇フランシスコはサンピエトロ広場で神経線維腫症で顔がぼろぼろになった男性に接吻をした。その男性は、あとで「教皇は私をハグするかどうかさえ、考えていませんでした。彼は私の顔を優しくなで、私は愛だけしか感じなかった」と体験を話している。愛と慈しみにあふれて、教皇はこの男性をハグした。私にとって、これはとてもすごいことだった。なぜなら、私は、彼ほど重くはないが同じ病を抱えた人を知っているが、彼女の手を握ることさえできないからだ。
*「教皇に就任されて最初のインタビューで「あなたは何者ですか」と問われた教皇フランシスコは、「私は罪びとです」と答えた。この告白はさまざまな次元で重要である。私は罪びと・・」(Crux/Charles Camosy)
第一に、ここには彼の人類学の基本的な理解がある。私たちは、神の慈しみを求め、推理と直感をもとにしっかりとした結論を出そうとする時にためらうような、弱い存在だ。私たちは自分の罪深さを思い起こして謙遜になる必要があり、謙遜な心は、自分の”経験”を基に強固な信念を抱くことをためらわせるに違いない。フランシスコが(ほどんどの場合に)なさっているように、可能な時にいつも、恵みに満ちた光に導かれて、福音書と教会の伝統、教えに親しむ必要がある。
だが、この答えは、教皇の持つ本質的な特徴を変えるものでもあった。「罪びと」という認識で進めば、「完全にまっさらな、罪のない、誤ることのない存在」と言うオーラは剥がれ落ちてしまうことになるからだ。ベネディクト16世の退任と、フランシスコの教皇就任は、教皇職には超自然的な力、さもなくば固有の特別な資質が与えられている、との見方を永久に変えてしまったのだ。 教皇は私たちと同じ類の人間・・福音書のとても難しい要求に応えようと努力する一人の罪びと。時として過ちを犯す。おそらく、しょっちゅうだろう。私たちも同じだ。そして、心を真っ先に正しく向け続けることで赦されるのだ。
*「2013年6月、ブラジルから帰国途中の機内記者会見で」(Crux/ Austen Ivereigh)
リオデジャネイロでのワールド・ユース・デイから帰る途中の教皇専用機に同乗したジョン・アレン記者は、教皇フランシスコの初めての機上会見は記者たちが夢に描いていたものだったが、一時間にわたって教皇と自由な質疑応答ができるとは予想していなかった、と述べている。今では、当たり前のこととなり、誰も驚くことはないが、初めての時の驚きは忘れることができない。
この時の教皇の機上会見は、彼の「人を裁こうとする私は誰なのですか?」との言葉が新聞のヘッドラインを飾ったことで有名になったが、教皇とバチカンのコミュニケーションの新時代を開いたことでも画期的だった。この機上会見で、教皇は自ら報道官を演じ、自分の意思で誰とでも、いつでも話ができる権利を確保したのだ。
記者会見は、驚くほど広範にマスコミに取り上げられ、世界の問題の核心に教皇を位置づけるのを助けた。反面で、深く作った声明を教皇が読み上げるのをよしとするカトリック教会関係者たちに、教皇の形式ばらない発言が不安を呼び起こし、時にはスキャンダルも生んだ。
教皇就任時のバチカンの報道官だったフェデリコ・ロンバルディ師は当初、記者たちに対して、教皇の自由闊達な発言に、違う”解釈”を適用するよう、強く求めた―それは確かに、教皇のお言葉ですが、公式記録に入れる類のものではありません、と。
*「米議会での演説」 (Crux/ Chris White)
米国の世論の分裂、対立が激化する中で、カトリック教会の指導者の米議会での演説は、立場を異にする政治指導者たちを純粋な喜び、熱狂で包んだ。それは、大統領の一般教書演説も及ばないものだった。2015年9月、教皇が「自由の地、勇気の故郷」と米議会議場の演壇から大きな声で語るのを聞くのは、私にとって予想外の感動的な体験だった。
教皇はこの演説を、カトリックの社会教説のレンズを通して、アメリカン・ドリームを鋳直す機会にしようとした。アメリカにとって何がベストかを考え直す機会となり、私は、これが全国民にとって、良心を調べ直すのに役立つといい、と考えた。
教皇は、カトリック教徒の理想と価値観の多くを疎遠なものとしているこの国の道徳的な過ちについて説教するのではなく、そうした理想と価値観を奮い立たせるものを私たちに与えた。
Crux’の Mark Zimmermann記者も、この教皇の米議会演説を、教皇が就任してこれまで4年間でもっとも際立ったものとし、反対派の議員たちが、共通善のために力を合わせるようにと強く勧める教皇の言葉を、党派対立を一時わきに置いて、注意深く聴いていたのに、特に感銘を受けたとしている。また彼は、教皇が4人の偉大なアメリカ人―リンカーン大統領の自由のための努力、マーチン・ルーサー・キングJr牧師の正義と平等の権利の追求、ドロシー・デイの抑圧された者たちへの奉仕、トーマス・マートンの対話と祈りを通しての平和の種をまく努力ーを取り上げたことの意味を強調した。
教皇の米議会演説は、キューバと米国の訪問の際、ワシントンに滞在中に行われた。この他にも、教皇の初の米国訪問では、セントラル・パークを通る行列が8万人以上の歓迎を受けたことから、イースト・ハーレムのカトリック校訪問の際、教皇が教室に設置されたスマートボードを試そうとしたことまで、多くの記念すべき瞬間があった。
*「家庭をテーマにしたシノドス」( Charles Collins)
教皇フランシスコが、2014年から2015年にかけて家庭をテーマにした2回のシノドス(全世界司教会議)を開くと発表した時、それがどれほどの議論を呼ぶか予想したものは少なかった。シノドスと言うのはこれまでは、司教たちが単調な演説を何週間も続け、最後に当り障りのない声明を出す、退屈な集まりだったからだ。
だが、2014年に家庭に関する臨時シノドスが行われると、これまでの会議とは違うことが、すぐにはっきりした。臨時シノドスに先立つ2014年2月の離婚・再婚者に聖体拝領を認めることを議題とした教皇顧問会議で、ワルター・カスペル枢機卿が、〝正規でない状態″の男女に聖体拝領を認めるか否かの論争の火ぶたを切り、それが家庭生活をめぐる他の重要な問題についても、時として、シノドスの会議場の内外での議論に影を投げかけた。
何人かの枢機卿が、シノドスに至る過程で、本や記事でカスペル枢機卿の見解に対する意見を発表し、シノドスの分科会で熱のこもったレポートが出された。論争は翌年2015年の通常シノドスでも続けられ、2つのシノドスの成果を受けて教皇が2016年春に、使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」を発表するとさらに激しいものになった。
このような議論の過程全体を通して、明らかになったのは、話し合いによって教会の大きな方針を決めようとする教皇の熱意が妨げられる可能性、そして伝統的に教皇職に与えらた力を完全に行使することへのためらいである。
*「慈しみ」( Father Raymond de Souza)
2015年12月8日に始まり2016年11月20日の王たるキリストの祝日で終わった「慈しみの特別聖年」は、慈しみが教会生活のあらゆる
側面に及び、神の慈しみの祈りに止まらないことを確かなものとする司教職の極致と言えるものだった。過去何年かにわたって数多くの反論、混乱が巻き起こされたにもかかわらず、聖父が特別聖年を通して示された他の人々への深い思いやりに、私は強い感銘を受けた。
ミラノのホームレスたちのためにカリタスが発行する雑誌のインタビューで、教皇はカトリック信徒たちに町中で物乞いをしている人たちに、使い道を心配せず、いつもお金を恵むように勧めたのが、その良い例だ。
教皇は、インタビューを受けることで、貧しい人々、社会から無視されている人々への気遣いを際立たせた。すべての人に疑わしいと思っても施しをするように、苦しんでいる人の目線で見るように、結果よりも出会いに価値を置くように、という勧めは、すべて教皇フランシスコを特徴づけるものだった。
彼を特徴づけるものは他にもある。それは、教皇庁の教皇慈善活動室を儀礼的な機能から実際に慈善活動を行う機能に改めたことに象徴的に示された、教会の慈しみの業を再活性化させる試みだ。
教皇がなさっていることを説明する一つの方法は、文書の発行だ。歴代の教皇たちは回勅から使徒的勧告、そして数多くの様式の冗漫な言葉の山を創り出した。何年にもわたって、誰かがそれに注意を払わないのかというあからさまな問いかけもしばしばあった。そして、そうした文書の多くは、インクが乾く前に、暗闇の中に消えていったのだった。
*「『Evangelii Gaudium(福音の喜び)』『Laudato Si’ (環境問題に関する回勅)』そして『 Amoris Laetitia(愛の喜び)』―大きな反響を呼ぶ三つの文書」( John L. Allen Jr.)
教皇フランシスコが出した三つの文書ほど人々を驚かせ、想像力をかきたて、議論を呼んでいるものはないだろう。2013年に出した使徒的勧告「福音の喜び」は、第二バチカン公会議の精神を受けた進歩的改革者としてのフランシスコの名声を固めることになった。2015年の環境回勅は彼を、気候変動にストップをかける地球規模の専属司祭にした。
そして、言うまでもなく、2016年の使徒的勧告「愛の喜び」は離婚して民法上の再婚をした人々に聖体拝領を認める道を注意深く開こうとする教皇の姿勢をめぐって、教会の論客たちの間に激しい議論を巻き起こし、口を開いた断層がフランシスコが残すことになる遺産を定義する助けになるだろう。
これらの文書の特定の部分について賛否を表明することは可能だ。だが、公けの議論の対象とならないのは、この教皇がペンを走らす時、その結果はつねに電撃的なものだ、ということだ。
*「教皇には、誤解されている世代、ミレニアム世代に話しかける力がある」( Claire Giangravè)
Pewリサーチ・センターの2016年版宗教白書によれば、ミレニアム世代(2000年以降に成人、あるいは社会人になった世代)の祈り、ミサに参加し、信仰心を持つ割合は、それ以前の世代よりも減っている。だが、この世代のわずかな人々は、死後も生きること、天国、地獄、そして奇跡を、年長の人々と同じように信じている、という結果が出ている。ミレニアム世代―1980年代初めからこれまでに生まれた世代―は(宗教に)幻滅した両親から信じることを何も受け取らなかった〝雪のかけら″だ。彼らは、自分たちが独特だということを信じるように育てられ、感受性が鋭く、鮮明でインターネットで結び付いた画像の中に安らぎを求めている。
ミレニアム世代が実際にどうなのかは、時だけが語ることができるのは確かだが、教皇フランシスコがなされたように、わずかな人々が、このような誤解された世代と対話することも可能だ。フランシスコがローリングストーンのレコードのジャケットを飾るただ一人の教皇である理由がそこにある。教皇がジャケットを飾ったのは米国とイタリア。米国で発売されたものはメキシコなどスペイン語を話す国々で増刷された。
フランシスコの独特の意思疎通の仕方でミレニアム世代の人々に語り掛ける。彼の特別の仕方は、現実味、既存の体制・慣習と対峙する姿、全てを包み込む行為としての慈しみへの注力、そして最新の科学技術の巧みな活用を通してなされる。
*「外国訪問にもフランシスコ流が」(Ines.San.Martin)
教皇の外国訪問はいわれなくなされるものではない。どの教皇も、ただ「そうしたいと思う」というだけの理由で外国訪問をすることはない。フランシスコは教皇就任当初、前任者ほどは外遊をするつもりはない、と語っていたが、過去4年の間に世界の主だったところを訪れている。幾つかの国への訪問を確定する前に、彼は訪問の意図を語っている。その理由の一つは、悲劇が起きていることの認識を高める能力が自分にある、と知っているからだ。
その代表的な例が、南スーダンだ。世界で最も若い、だがしばしば忘れられる国。進行中の内戦で何千人もの命が失われ、何百万もの人が餓死の危険に瀕している。教皇がこの国を訪問することができるか、まだ明確ではない。武装闘争が教皇の中央アフリカ訪問を妨げることはなかったし、同じようにコロンビアへの訪問も予定されている。だが、教皇の訪問の可能性をほのめかすことで、少なくとも、こうした国に対する国際社会の関心を高めることができる。
同じような狙いで、彼がローマの外の初のイタリア国内訪問先に選んだのは、ランペドゥーサ島だった。欧州への脱出を試みて命を落とした何千人もの難民を慰霊するのが狙いだった。教皇は現場で〝使い捨て文化″と〝無関心のグローバル化″について初めて語った。
それから三年経って、難民問題が一段と悪化しているのを目の当たりにして、ギリシャのレスボス島に出かけ、地中海の〝海の墓場″を訪れ、12人のシリア難民をローマに連れ帰った。ランペドゥーサ島訪問はフランシスコにとって極めて象徴的なものだった。彼自身がイタリアからアルゼンチンへの移民の子であり、よりましな暮らしを求めて悲惨な死を遂げた人々は自分の心に棘のように刺さっている、と同行の記者たちに語っていた。
メキシコ訪問では、首都のメキシコシティにとどまらず、貧しい原住民たちが住むチアパス、麻薬カルテルの犠牲者たちのいるモレリア、そして、移民や難民たちが多く住む米国との国境の都市シウダー・ファレスを訪れた。フランシスコのメキシコ訪問は彼の社会教説―彼の身体と現地語で語られた―の実行の大きな機会となったのだ。