(2020.1.25 LaCroix Massimo Faggioli)
聖職者の独身制について論じたロバート・サラ枢機卿の著作「From the Depths of Our Hearts」に前教皇ベネディクト16世が共著者としてなお連ねたことは、「名誉教皇制度」に関わる問題を改めて提起している。
最新の論争についてはすでに多くのことが述べられているが、前教皇のこの本への貢献について言えば、彼が第二バチカン公会議で神学の専門家として重要な役割を果たしたにもかかわらず、その後、修正主義に転じたという観点からの議論は、あまりされていない。
イタリアの神学者アンドレア・グリッロは彼について、「第二バチカン公会議の教父の一人だが、そうであったことを、ひたすら後悔している」と評した。実際、この著作が主張する聖職者独身制の擁護は、第二バチカン公会議の諸文書を一顧だにしない聖書、典礼、教会の見方観点に基づいています。
もちろん、「名誉教皇」が過去1年間に(虐待危機の発端についての彼の思いも含めて)自身の名前で出した文書にどれほと直接的に関与したのか、を知ることは、現時点では難しい。だが、それにもかかわらず、それはフランシスコが教皇職に就くはるか以前に遡る神学の流れに収まるものだ。
人によっては、ラッツインガ―(前教皇)がすでに1965年8月には第二バチカン公会議と距離を置く兆候が見られたとしているが、その時はまだ公会議は開催中であり、「現代世界憲章」がまとまりつつあった。
彼が公会議から距離を置くようになったと考えられるもう一つの時期は、ドイツ(注:当時の西ドイツ)で反体制の学生運動が盛んになった1968年から69年だ。当時、彼はテュービンゲン大学で教鞭をとった後、バイエルンの静かなレーゲンスブルク大学に移っていた。 1972年から1975年にかけて開かれたドイツの代表司教会議に幻滅したことも影響しているようだ。
その後、彼は、教皇ヨハネ・パウロ2世の下でバチカンの教理省長官を24年にわたって務めたが、その間、第二バチカン公会議によってもたらされた神学(特に典礼学)の進歩を逆戻りさせるために、繰り返し介入した。
彼がトップを務める教理省の、第二バチカン公会議との関係破綻は、2005年12月の講話「継続性と改革の解釈学」と2013年2月のローマ聖職者に対する説教で、「この公会議について失望している」ことを告白し、決定的となった。そして、彼は教皇ベネディクト16世として、2007年7月に、自発教令Summorum pontificumを発し、第二バチカン公会議以前のミサートリエント公会議以来のラテン語典礼によるミサー司式を世界の全教会で自由に行われるようにしたのだった。
第二バチカン公会議の流れを逆転させようとするベネディクトの試みに沿ったと思われる言明がこれまで、いくつかなされてきた。その一つが、教皇就任の翌年、2006年9月のレーゲンスブルクで行った演説だ。この演説で、彼は、イスラム教を暴力と同一視した14世紀のビザンチン帝国皇帝を引き合いに出し、第二バチカン公会議を批判するマルセル・ルフェーブル大司教によって違法に司教聖別され、破門された4名(この中には、反ユダヤの歴史観を標榜する英国のリチャード・ネルソン・ウィリアムソン師がいる)の司祭の復権を言明した(注:破門はベネディクト16世により2009年1月に解除されたが、聖職停止措置は継続)。
教皇職の制度的制約から、キリスト教会一致と宗教間の対話に関するヨハネ・パウロ2世の教えからの離反は一定程度に抑えられた(例えば、ベネディクト16世は2011年、創設25周年を記念してアッシジで開かれた「平和のための宗教間会議」に、強い懐疑の念を抱きながらも参加した)。
だが、名誉教皇となった今、そのような制度的制約はもはや適用されない。「第二バチカン公会議修正主義」をしっかりと抱く彼の発言は、インターネットがない時代にはできなかったやり方で増幅されている。
そして今、ベネディクトが人生の終わりに近づくにつれて、教会と世界に伝える第二バチカン公会議に関する彼のメッセージは、前任者のメッセージとの間に深い対比を生んでいる。
ヨハネ・パウロ二世は、彼の死後に出版された遺書の中で、第二バチカン公会議について「その実践が今、そして将来求められる全てに人にとって、大きな財産」と高く評価した。これに対し、ベネディクト16世の最新の著作は、第二バチカン公会議の影響に対する否定的な見方を示し、あるいは、公会議文書とその神学を完全に無視している。彼の一連の著作の中で、2012年に出版された第二バチカン公会議に関する本は、同公会議からの距離を置こうとする意図がはっきりしている。
また、第二バチカン公会議に関して、過去数年間にラッツィンガーが提起した神学的な考え方と、教皇フランシスコに反対する陣営の神学的および教会についての考え方の間に、いくつかの不穏な連携がみられることも、指摘せねばならない。
”ラッツィンガー”の神学と”ベネディクト”の教皇職の役割を誇張することは難しい。例えば、米国のカトリック教会の階層組織的、そして司教の指導性の文化が、第二バチカン公会議以前の教会の伝統との継続性を志向する穏健な保守主義から、第二バチカン公会議との決裂を志向する過激な保守主義への移行ている中で…。
2020年において、第二バチカン公会議についての”ラッツインガー派”神学の定義は、この神学的意見が書かれた特定の時期に大きく依存している。教皇の死は通常、教皇の退任とは異なり、彼の教えを封印して保存する。ベネディクトと彼の側近が、本人の教皇退任後の期間をどのように解釈し、管理したかが、これについて完全に説明している。ベネディクト16世はもはや神学的な物語を所有していない。現在、彼が作成を助けたのは協議事項についてだが、それが、彼をますます教会の健全な感覚と対立させている。
これらすべてで本当に残念なのは、ラッツィンガーが、第二バチカン公会議で最も重要な神学者の一人だった、ということだ。この公会議が終わった直後に、彼は、公会議が発出した「神の啓示に関する教義憲章」についての基本的な解説を書いた。そこからは、神学的な真理についての活力に満ち、実り多い見解が明確にされていた。それが、彼のバチカン公会議を否定する現在の姿勢を、さらに厄介なものにしている。
名誉ローマ司教が彼自身の公会議に関する業績から、自らを仲たがいさせるのを見るのは、悲しいことだ。
(Massimo Faggioliは、ビラノーバ大学の神学・宗教学担当教授。最新の著作は、The Liminal Papacy of Pope Francis: Moving Toward Global Catholicity (Orbis Books)。CommonwealとLa Croix Internationalの寄稿者です。 Twitter @MassimoFaggioli)
(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)
(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。