・就任8年目に入った教皇フランシスコの神学的、制度的限界は(Part 2 )(LaCroix)

(2020.4.15 LaCroix Massimo Faggioli Vatican City)

The limits of a pontificate (Part II)

Pope Francis at the Vatican, 13 April 2020. (Photo by VATICAN MEDIA / HANDOUT/EPA/MAXPPP)

 教皇フランシスコの支持者とカトリック教会を改革する教皇の努力は、彼の教皇職が持っていたダイナミズムが衰退し始めたことと関係している。

 彼のもつ極めて非常に重要な霊的洞察は、神学的な枠組みや制度的な秩序に収まるような明確な体系的構造を欠いている。

 最近の教皇の判断に関わるいくつかの出来事ーアマゾン地域シノドスに出席した司教たちから出された「既婚者の司祭叙階」の検討要請の無視、そして、女性助祭の叙階を支持するとは思われない「女性助祭を研究する二度目の委員会」の設置-は、改革志向のカトリック信徒たちに、フランシスコの教皇職が危機に瀕していることを示唆している。

 現在の状況は、私たちに何を語っているのだろう?

 

*「司牧転換」には「構造の転換」も必要だが…

 実際に言えることは、フランシスコが、新しいものを構築するよりも、文化的、歴史的に制約された教会と神学の枠組みを解体することにおいて、はるかに効果を上げたということだ。教皇在位7年を経て、これは語らねばならないことである。

 いくつかの問題について、フランシスコは目に見える成果を出す決定をした。たとえば、2016年に出した使徒的勧告「Amoris Laetitia (家庭における)愛の喜び」の指針は、難しい夫婦関係や家族関係にあるカトリック教徒が秘跡を受けることに寛容さを示すのに役立っている。ただし、世界の一部地域ではまだこの勧告が無視されている。

 だが、教会の構造改革に関して言えば、83歳の教皇は、具体的な決定よりも”預言的な言葉”が多く、制度の変更よりも個人の回心を促す傾向が顕著だ。このことは、可能な場合には創造性をもたらすが、矛盾を引き起こす可能性もある。

 たとえば、カトリックの大学のための使徒憲章(2018年)「Veritatis gaudium(真理の喜び)」。多くの可能性を広げたが、同時に、それらを適用する方法を狭めるような規範を定めているのだ。

 ここに、フランシスコが教皇庁の組織を、神学面での協力者とともに、どれだけ強く制御しているのか、という問題がある。新型コロナウイルスの大感染に関してたとられた完全封鎖の措置が、バチカン内部でのホルヘ・マリオ・ベルゴリオの制度的な隔離を実際に強化することになっていないのではないか、と懸念する者もいる。

 このことは重要だ。なぜなら、フランシスコが個々人と集団の改宗の問題に人生を変えるような霊的洞察を与える強さと同じように、組織的、教会論的な視点から構造改革の問題に(カトリック教会における性的虐待危機の悲劇に照らしても)向き合ったことは、まったくないからだ。

 社会的、経済的、環境的な問題について(特に環境回勅「ラウダー・トシ」で)語り、家庭を教会論の観点から語る時、フランシスコの改革ビジョンは聖霊の賜物だ。(私が小さな子供たちの親であることは、教皇によって信じられないほど深遠な方法で形成された。)。しかし、問題が、罪深い教会の構造に関するものである時、そして、聖職者の職務の教理上の前向きな解釈に関係する時、停止してしまうように見える。

 実際問題として「司牧的転換」には、「教会の構造転換」も必要だ。だが、フランシスコは、そこまで行こうとしていないー少なくとも、まだ、行こうとしていない。彼は、教皇職を「さまざまな異なるレベルで、新たな場とプロセスを開くもの」と解釈していたが、「教会の構造のレベル」では、まだ、極めてわずかしか開かれていないのだ。

 

Synodality(共働制)と学問的神学

 神の民の教会論は、構造的な変革を必要としている。変革が最上部からもたらされないなら、神の民の教会論は行き場を失う。ないしは、ベルゴリオの出身地である中南米のカトリシズムまでしか行かない。

 昨年のアマゾン地域シノドスの結果を受けた司祭職と聖職の任務に関する使徒的勧告「Querida Amazonia(アマゾンの愛する人々)」の断面を見ると、それは、単に「第二バチカン公会議とは別」なだけではない。一部に、「第二バチカン公会議以前」に聞こえる箇所があり、それは明らかにフランシスコの、アマゾン地域シノドスについての考え方、感じ方ではない。

 Synodality(共働制)について言えば、彼は前任の教皇たちの誰よりも大きな前進を遂げた。シノドス(全世界司教代表会議)の会合は、フランシスコが主宰し始めた2014年以来、従来よりもはるかに神聖な教会行事となっているが、特に地方教会との関係において、synodalityを司教の威厳と任務をもって進められない問題を、教皇が抱えているのは事実だ。

 認識しておくべきは、他のキリスト教の伝統においてsynodalityが常にうまく機能しては来なかった、ということだ。カトリック教会は他のモデルを盲目的に模倣すべきではないが、正確には、フランシスコがsynodalityをどのように見ているか、明らかではない。それは単に、進んで耳を傾けることが教皇の最優先事項なのか、それともそれ以上のものなのか?

 カトリック教会のsensus fidei(注: 聖霊が与える 感覚、力、可能性、能力。 聖霊によって与えられた神からの霊的な事柄を感じる能力)のある1つの側面だけを代表し、特定の問題についての神学的な話し合いを代表する者がいないバチカンの委員会の委員の任命は、課題に取り組むためのsynodality的なやり方ではない。

 問題がsynodalityに及んだ場合、フランシスコは、大半の司教たちよりもはるかに前向きになる、という代償を払うが、それでもなお、彼と神学者の間には、明らかな隔たりがある。

 カトリック神学は、教会を必要とし、通常認める以上に教会に奉仕する必要があり、教会と教会改革には、学問としての神学を含む神学が必要だ。幸いなことに、教会は、学者たちによって統治されてはいない。

 私は、リベラルな学問的神学者を含む理論神学の人々がフランシスコの教えを受け入れないことを批判し、学問的神学における”自己参照”の危険性についても警告してきた。

 しかし、教皇職は学問的神学と何らかの関係を育まねばならない。神学者も神の民だからだ。

 神学は、たとえ普遍的なレベルであっても、synodalityのプロセスの一部であるべきだ。過去30年にわたる学問的な神学者の研究がなければ、今日、誰もsynodality ついて語ることはでなかったろう。

 

*決定的に重要な、これからの数年

 これからの数年は、これからの教会のために決定的に重要な年月となる。新型コロナウイルスの世界的大感染はグローバリゼーションの危機の一つであり、中世からのキリスト教世界を受け継いできた教会システムの危機を加速させる。だが、このシステムを乗り越えることがあっても、カトリック教会が必ずしもカトリックでなくなるわけではない。

 現在、多くのカトリック教徒は、今後予定されている取り組みー第二バチカン公会議後初のオーストラリアの「全体会議」、ドイツの「synodalityの道」、アマゾン地域シノドスの成果の実現、そして、2020年にsynodalityをテーマに開催予定のシノドスーに大きな期待を寄せている。

 そして、カトリック教会は2025年に大きな祝いの時ー325年に開かれたニカイア公会議から1700年ーを迎え、教会一致のための大きな機会となる。

 だが、その間にも、カトリック教会は、今や世界的な現象と認識されている聖職者による未成年性的虐待がもたらした目下の危機に対処するための改革が緊急に求められ続けている。一部の国で、それは、教会共同体において次の世代が福音を受け取ることを求める教会にとって、最後の希望となるだろう。

 Synodalityと女性の聖職は、最近出てきた問題ではなく、過去から提起され続けてきたのものだが、福音宣教の一部をなすテーマだ。事実、教会での女性たちの問題は中心的なものではあるが、男性聖職者が経験上、最も重視するものでもある。

 昨年、この2つの問題について取り上げられた経緯を見ると、実際には前向きに受け止められていない、という懸念がある。教会にいて女性に新たな役割が認められなければ、信頼できるsynodalityというものはない。この問題は、女性に関する家父長的な言語によっては解決できないのだ。

 

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2020年4月18日