・カンタラメッサ枢機卿の「四旬節の小さな黙想」④再びつまずいても、神と共に敵に立ち向かう

 教皇付き説教師カンタラメッサ枢機卿の「四旬節の小さな黙想」の第4回は、ヨハネ福音書の「姦淫の女とイエス」(8章1-11節)を取り上げた。

 姦淫の現場で捕らえられた女を真ん中に立たせたファリサイ派の人々が「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています」と言い、イエスを試そうとした。イエスは「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と答えられた。

 これを聞いたものは、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った時、イエスは言われた。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」。女が「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」。

 枢機卿は、「これからは、もう罪を犯してはいけない」というイエスの言葉を通し、自分の心をよく見つめるように勧め、次のように語った。

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 今日、受け止めたいイエスの言葉は、「姦通の女」を訴えていた者たちが立ち去った後で、イエスが女に向けた言葉です。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」「主よ、誰も」「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」。

 「これからは、もう罪を犯してはいけない」-私たちも皆、よく自分を問いただせば、犯しがちな、たくさんの罪の隣に、他とは異なる形の罪があることに気づくでしょう。それは、「密かに執着し、告解はしても、本気で止める意志の無い罪」のことです。

 聖アウグスティヌスは、『告白』の中で官能の罪との戦いについて記しています。それは彼が「私に貞潔と節制をお与えください」と神に祈っていた時のことです。しかし、それに対し一つのささやきが「主よ、すぐにではなく」と付け加えるのでした。

 しまいには、自分に対して叫ぶ時がやってきます。「なぜ明日なのか?」明日という言葉は、ラテン語でcrasと言います。「なぜcras(明日)というのか。なぜ今ではないのか?」自由を味わうためには、「もうたくさんだ!」と叫びさえすれば十分なはずです。

 では具体的にどうしたらいいのでしょうか。ただちに神の御前に出て、話しかけるのです。「主よ、あなたは私の弱さをよくご存知です。ですから、あなたの恵みだけを頼りに申し上げます。今後、あの満足、あの放縦、あの友人関係、あの怨恨、あの財政上のごまかし、等々、私が自覚し、あなたもご存知のあの罪はもう、たくさんです。あなたの赦しの秘跡に与りに参ります」

 あなたはまた罪に陥るかもしれません。私たちも再びつまずくかもしれません。しかし、神のために、何かが変わりました。あなたの自由は神を味方につけたのです。今や、あなたは神と共に同じ敵に立ち向かうのです。罪の隷属から解放され、神と自分自身と平和のうちに生きることが、いかに、ずっと素晴らしいかが分かるようになるでしょう。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用は「聖書協会・共同訳)に改めています)

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2024年2月27日