・竹中会長の独占会見③止「『神を信じるのか、”代理人”を信じるのか』問い直せば、対処の道も見える」ー「性的虐待を許さない会」の③

*司教団には、被害者たちから「話を聴く」ことから始めてほしい

――司教団側の対応の鈍さとか、事件のを図るなやり方について、今の時点で「許さない会」としてご意見があれば、ぜひ伺っておきたいのですが。

竹中「まずは話を聴くところから始めましょう」と私の方では監督責任のある教会当局に呼び掛けています。が、公式にはなかなか、ね。だからカトリック中央協議会と関係ある方、修道院の関係者などと私的に会って話し合い、当面どうしたらいいか、意見交換をしているんです。

 こちらとして先方に何をしてほしいかというと、まず、いったいどういう事実があったのかという話を聴く機会を設けてほしい。また、カトリック司教協議会の事務局を含めた責任者の方たちに話す場を設定してほしい。今はZoomとかオンラインでも話を聴く機会を設けられるので、そういう場を協議会の研修機会として設定してほしい、ということを何人かの方に請願しています。

 その方たちは「司教協議会に出す」と言ってくれるのですが、それから1年以上経っているのに、全然、動きがありません。『やっぱりその方たちの個人的な努力だけでは、問題を隠蔽したい司教団の意思を突破できないのかな』と悲観的になっています。

――司教団の周辺を取材していての実感ですが、このところ運の悪いことに、司教団の意思統一が全くとれていないと感じられます。カトリック教会というのは、組織的には16の教区がそれぞれバチカンと直に繋がっていて、同国内でも教区同士の横の繋がりは、他教団に比べると希薄です。そこに約20年前、高松司教が教区の中に「新求道共同体」が運営する教皇庁認可の神学校を独自に置いたことを巡って、司教団が大きく割れちゃった。

 簡単に言うと、司祭養成機関を東京と福岡の伸学院体制から東京大神学院に1本化することに決めて高松の神学校を事実上排斥しローマに追い返したのですが、その過程で司教の中には、高松で叙階された司祭を自教区に引き取るという“裏取引”をする例が複数発生し、司教団の合意は画餅に帰してしまいました。司教団の総意として決定したことを司教自身が守らないようでは、司教協議会の意味がないではないかということになり、この出来事を境に、各司教が教区に引っ込んでしまった印象があります。
その中で〈日本の教会全体に関わること〉を考えようとすると、どうしても遅くなってしまいます。責任を取るべき立場の司教が定年を迎えてなお居座っている状態だと、「いつ辞めるが分からないトップの指示なんて聞く必要がないでしょ」という話になっちゃうんでしょうね。

*コロナ禍が対応進展の妨げにはなっているが

竹中 私が最初に行動を起こしたのは東京大司教に対してでしたが…… でもそこでは全然リアクションがなかったんです。それとは別に、修道会が独自に動いてくれて、少し救われた気がしました。

 実は私の事案についてテレビが報じた後、同じサレジオ会の施設出身者が「自分も被害を受けた」とテレビ取材に明かしています。それもVTRを後で送りますね。コロナ禍のなかで動きを封じられてはいますけれど、資料だけは集めているんです。私を追いかけているTBSの中谷という記者さんに「私の連絡先を、その方に教えてほしい」とお願いして、伝えていたんだけど、向こうがなかなか連絡を取りづらいようで、そこも止まっている状態です。

 そういえば青山で行った第1回集会の後、「児童養護施設の里親の集会」で、一人の女性に声を掛けられました。「自分も養護施設出身で、赤羽星ホームを出ている」と言うんです。私が自分に関する資料を渡したらその場で読んで、「実は私も、トマス・マンハルド神父を知っています」と仰った。彼女は赤羽星美ホーム卒園生のOB会で会長をやっていたそうで実情に詳しく、「トマス・マンハルド師から被害を受けた女の子たちもいる」と、ポロッと話してくれました。その後、その方にもいろいろ資料を送っているんだけど、その人も動けない……

 だから、結局みんな、傷は抱えているんだけど、いざとなると動けなくなっちゃうという状況が続いています。そんなとき無理に口を開いてもらおうとすると相手はよけいに縮こまっちゃうからそれはできないのですが、サレジオ会の件でもそろそろ動きだそうかなと思っているところです。

 実際、サレジオ会に対しても呼び掛けてはいるんですよ、「被害者は私だけじゃなく、もう1人被害者がテレビに名乗り出た。サレジオ会もきちんとトマス・マンハルド神父の任地を全部再調査して、被害を受けた人に名乗り出るよう呼び掛けるといったことをすべきじゃないですか」とね。

 あと、やり方としては、『カトリック年鑑』を見れば、その年時点の全神父の任地が書いてあるのだから、年鑑でって、加害者神父の旧任地全てで被害者を探す方法もあるでしょう。映画『スポットライト』がやったような調査報道を、メディアに望みたいです。

 ただ私も今仕事の面でコロナ禍への対応という課題を抱えています。私は病院に勤めているので、連日、夜の9時、10時までワクチン接種に関わる業務に従事しているので、思うように動けない状況なんです。ただ決して忘れているわけではなくて、2022年3月には完全に仕事を辞めて年金生活になりますから、そうしたら少し動けるかなと。

*「神を信じるのか、”代理人”を信じるのか」を問い直せば、対処の道も見える

――そうすると今後の方針としては、今言われたようなことの延長上で活動したいということですね。

竹中 そうそう。全然めているつもりはないし、なんとか被害を受けた人たちにコンタクトをとって、「被害者の会」「聖職者の性虐待を許さない会」をもっと拡充して声を上げていく必要があります。

――最後に、その意味で一般のカトリック信徒の皆さんに、この際、呼びかけたいことがありましたら、仰ってください。

竹中 それはもう、「神父は神じゃない」ということに尽きます。あくまでも神の代理人であって、人間なんです。人間である以上、必ず間違いを犯す。神父は完全無欠ではないということを、まず信者さんには再確認していただきたいと願います。

 従って、神父を盲信しないでほしい。神を信じることにはいくら熱心であってもいいのです。けれど神父の言動を無批判に信じる行為は、もしかしたら神を裏切ることになるかもしれない、と自戒してほしい。「あなたは神を信じているのですか、それとも神父を信じているのですか。いったいどちらを信じるんですか」という問いを、信者さんに突き付けたいんです。神を信じるのか、神の代理人である神父を信じるのか――

 そこを問われたときに、「司祭による性虐待にどう対処すればよいのか」という問いへの答えも自ずから出てくるんですよ。神を信じていれば、神父が間違ったことをしたときに「間違っている」と言える。

*「許さない会」の活動は、「神の教会」を本来の姿にする仕事の一部

竹中 私が今、教会相手にこういう活動ができ、信徒の皆さんの前で胸を張っていられるのは、それこそ、私が神を信じているから。神の前に立った時に、かつて被害者であり、今、被害者の救いでありたいと願っている私と、性虐待を隠蔽する司教や加害者のどちらが、神の前で胸を張って立てるのか。

 そう思っていますから、「聖職者の性虐待を許さない会」「施設における性虐待被害者の会」の活動をやっていて神にも信徒仲間の皆さんにも恥じるところは全くありません。神の教会を〈あるべき姿〉に建て直す仕事の。ほんの一部をお手伝いしているに過ぎませんが、神のみ旨に沿った生き方をしているので心が安らぐんですよね。

 コロナ禍の影響を受けて思うに任せないもどかしさはありますが、この問題に関する取り組みを止めているわけではなく、時期が来れば再び動き出すつもりです。

――日本の教会を神さまのお望みの姿に立て直すための、尊い実践だと思います。多くの信徒が聖職者に盲従する姿勢から抜け出せずにいる現状で、竹中さんはじめ被害者の方々のお立場には苦悩が付きまとい続けるでしょうが、どうか神のみ旨を求める姿勢を持ち続けてください。私たちも、及ばずながらメディアという場を通して、声を上げ続けていきます。長時間、お話しいただきありがとうございました。

(終)

(聞き手:山内継祐=「カトリック・あい」編集委員、『福音と社会』編集担当幹事)

⇒ご意見、ご感想をお聞かせください!すでに何人かの方からご意見をいただいています。お待ちしています。発信元は部外秘にいたします。仮名などでも構いません。(「カトリック・あい」代表・南條俊二 andynanjo@gmail.com)

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
2022年1月10日