使徒的勧告「愛の喜び」の主題は「共に歩む」こと、「離婚・再婚・・」ではない 

(2017.5.4 マシュー・シュナイダー神父 CRUX)‘Amoris Laetitia’ is about accompaniment, not the divorced and remarried

 教皇フランシスコの使徒的勧告「Amoris Laetitia(家庭における愛の喜び)」の要約版をまとめた時、私は「どの家庭でも、離婚と民法上の再婚だけでなく」という副題を付けた。勧告発表当時、聖体拝領をめぐる問題が大きな話題になることは知っていたが、教皇が発表されてから一年後の今年まで話題であり続けるとは予想しなかったのだ。そして、人々がこの勧告のもつ他の素晴らしい側面をつかみ取るのを助ける方策が必要と感じていた。

 このたび、ローマのヨハネ・パウロ二世研究所の3人の教授が、「Amoris Laetitia」の活用法を示した英語版ハンドブックを刊行した。本のタイトルは「Accompanying, Discerning, Integrating: A Handbook for the Pastoral Care of the Family According to Amoris Laetitia(共に歩み、見分け、一体となる)-Amoris Laetitiaをもとにした家庭司牧のための手引書)、著者はホセ・グラナドス神父、ステファン・カンポウスキ博士、ホアン・ホセ・ぺレス‐ソバ神父だ。

 この手引書で彼らは聖体拝領の問題に触れているが、その分量は全体の一割以下で、全体の内容は「Accompanying, Discerning, Integrating(共に歩み、見分け、まとめる)の三つの柱で展開されている。その一つ一つについてどのような言及がされているか、みてみよう。

 まず、Accompaniment(共に歩む)について、彼らは厳密な定義をしていないが、この章を通して、いくつかの重要な特徴を提示している。教会の法を個人の外にある抽象的なルールというよりも個人の内部で作られる「道の真理」として理解することから始め、法を外部から持たされるものではなく、内面的な賜物とみるカトリックの自然法の伝統に言及している。このような理解は、人々に寄り添いながら道を歩み、正しい生き方を理解するように助けるように、私たちを導く、としている。

 にもかかわらず、彼らは、「命令的な要求を個々人の主体的な能力に適合させようとすること」に誤りがあること、「そのようなことは決してしてはならない」とを強く指摘する。それは「神の法は人にとって厳しすぎる、だから人の置かれた状況の中で妥当な他の法が広められるべきだ、と言うのと同じくらい悪いこと」だ、と。

 キリスト者にとって「共に歩む」ことは、単に、他の人と道を歩むだけでなく、彼らに歩むべき正しい道を示すことを意味する。彼らにとって、共に歩むことは、人々の暮らしの中にいつも居ることで、彼らの良心を時たま刺激するだけにとどまらない。「教皇は、私たちが『共に歩む』ことについて理解が不十分であることをよく知っておられます」。また彼らは、年配の夫婦が若い夫婦と共に歩むことの重要性について明確に述べ、共に歩む者は徳性を忘れてはならないが、それは人を裁くためよりも、正しい方向に導くために使うものだ、という。

 このように述べたうえで、彼らは、共に歩むことを勧めている。「Amoris Laetitiaは、『共に歩む』ことは家庭の自然な出来事の中で起こってくることが望ましい、と提唱しています」と。このように共に歩むことで、教会生活にこうした人々が完全に受け入れられるようになる目標を持つ必要があるが、具体的な道筋や段階を前もって決めておくことはない。「共に歩む」ことについての彼らの考えは、結婚と家庭生活についての古い教えを素直に適用したものだ。

 「例えばジョニーに数学を教えようとするなら、数学だけでなく、ジョニー本人を知らなければなりません」。同じように、教皇フランシスコも、結婚に関する司牧をする場合に、教会の教義を知ることよりも、相手の人物を知ることに努めるように勧めている。

 論理的には、「共に歩む」の次に「見分ける」ことが章建てとしてくるはずだが、彼らは、第二章として「一体となる」ことを選んだ。目標を知ろうとする場合、正しい道を理解する方が容易だからだ。山々を歩く時、色々な道があり、どれも歩けるが、山頂へ行こうとすれば、道は限られる。手引書は、一体となることが秘跡であり、社会的な現実というだけではない、ということを思い起こさせる。「Amoris Laetitiaで述べられている『一体となること』は、ミサ聖祭の神秘に与ることにあり、単なる世俗的な一体化と混同しないように注意する必要があります」。

 この点で、3人の学者は、赦しを受けるために、致命的な罪を二度と繰り返さないという強い決意を持つ必要がある、としている。だが、それにもかかわらず、告解の秘跡が他の人々に対する自らの罪を認めることの浄化作用と世話をする司祭が与えるであろう助言によって、赦されない罪を犯した人々にとって、いかに助けになり得るかを強調している。さまざまな秘跡で、彼らは教会の何年にもわたる教えを支持しつつ、過去以上に厳しい状況の中で彼らの助けになることを強調している。

 和解の秘跡で人が示すべき開かれた心は、教会に、人々の心を啓発する素晴らしい機会を提供する。それは決して見逃されることがない。司祭は、誰かが告解場に入ってきた時と同じ無知のまま去るようにはできない。ある場合には聖体拝領を認めない必要があることを指摘する中で、彼らは、この問題を議論する際によく見逃される前向きな対応に言及する。そうした対応が、目に見える関係の問題を思い起こさせ、回心を起こさせるような治療効果がある、というのだ。そのことは夫婦の子供たちに聖体の中に真の信仰があることを教え、教会共同体の中で、結婚生活を救う価値を思い起こさせる。

 そして最後に、著者たちは離婚、再婚者の「discernment(識別、見分けること)」に進む。その基礎として、「司牧者は、夫婦が自分たちの置かれた状況について、慎重に見分ける責任がある」と言う。聖体拝領が差し止められるべきか否かの見分けは、致命的な罪の見分けではなく、教会の教えにそぐわない状態での生活の終結にある。

 こうして、教皇は聖体拝領を認めるか否かの見分けについて語る時、対象となる人の心の状態を見分けることについて話しているのではない。告白していない重大な罪を犯した人は誰でも、聖体拝領を認められるべきではないが、聖体拝領はその人が教会の教えに反した暮らしをしている場合にのみ、拒むことができる。結婚に関する聖職者の職務が離婚して再婚した人々に対する聖体拝領の問題に限定される時、深い神学的、道徳的課題は表面的な法律問題になってしまう。

 事実、われわれが回心なしに聖体拝領を認める時、信徒の道義的な力を過小評価している。「道徳的な法を自分たちの能力と考えるものに適合させるのは司牧的な行為ではない。司牧的行為を行き過ぎたものにすることを目的にした法的行為です」。

 「見分け」の目的は、いかに速やかに道を歩くか、どの道を取るか、だ。われわれは邪悪なものを見分けることができない。フランシスコは、このことをAmoris Laetitiaの300項で強調している。「『見分け』は、教会によって提示された福音の要請と切り離して考えることができません」。そして全体として見て、「見分け」が助けるのは、教会の道徳的な縛りから逃れる道ではなく、夫婦の忠誠を生きる道を見つけるのを助ける。このようにして、この素晴らしい小冊子は、教皇フランシスコがAmoris Laetitiaで明らかにした教え、とくにその第8章を実生活に活用させる役割を果たそうとしている。ぜひ活用をお勧めしたい。

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2017年5月13日