・【評論】「主の祈り」も適切な言葉にー典礼や日々の祈りに速やかに生かしたい

(2018.12.22 カトリック・あい)

 「聖書協会共同訳 聖書」は、カトリック、プロテスタントの共同作業による新たな成果だ。キリストを信じる人々が、祈りと典礼を深めるために活用することが期待される。

 日本聖書協会の解説小冊子では触れられていないが、注目されることの一つは、教皇フランシスコも”誤訳”を指摘した「主の祈り」が、教皇の意向に結果として対応する形で、以下のように改訳されていることだ。

 「天におられる私たちの父よ 御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が行われますように 天におけるように地の上にも。私たちの日ごとの糧を今日お与えください。私たちの負い目をお赦しください 私たちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。私たちを試みに遭わせず 悪からお救いください」。

 教皇フランシスコは昨年、カトリック教会の祈りの中で最も重要な「主の祈り」にある「non ci indurre in tentazione」 (英語公式訳はこの直訳の『lead us not into temptation』 、日本語公式訳は『わたしたちを誘惑におちいらせず」)は「もっとよい表現」にすべきだ、との考えを明らかにしている。

 イタリアのテレビ放送TV2000のインタビューに答えたもので、「この翻訳の言葉はよくありません」と指摘され、その理由を「人々を誘惑に❝lead”(導く、おちいらせる)のは、神ではなく、サタンであるからです…この表現は変えるべきです」と改訂の必要を強調された。そして「(誘惑に)陥るのは私です。私を誘惑に陥らせるのは彼(神)ではありません。父親は自分の子供にそのようなことをしない。すぐさま立ち直るように助けてくれます…私たちを誘惑に導くのはサタン。それがサタンの役回りなのです」と語られていた。

 この箇所をどのように改めるべきかについては、より正確にこうした神学的な見方に従って「don’t let me fall into temptation」とするのが適当、とし、フランスの司教団がこのほど仏語訳の主の祈りを見直し、英訳にすると「“Do not submit us to temptation(私たちを誘惑に陥らせないように)」を「Do not let us into temptation(私たちが誘惑に引き込まれないように)」と改めたのを妥当との判断を示している。

 現在の主の祈りの言葉は、ギリシャ語訳をラテン語に翻訳したものをもとにしており、ギリシャ訳のもとは、イエスが実際に語られていたアラム語(ヘブライ語の古語)から来ている。教皇庁立グレゴリアン大学のマッシモ・グリリ教授は「ギリシャ語のこの箇所は『eisenenkês』で、文字通り訳すと『don’t take us inside』となるとし、そのように訳し直すべきだ、としている。

 教皇フランシスコの先輩のイエズス会員、ミラノ大司教で高名な聖書学者でもあったカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿(2012年没)は著書「イエスの教えてくれた祈り―『主の祈り』を現代的視点から」(教友社刊・篠崎栄訳)の中で、この部分を「私たちが誘惑に負けることのないようにしてください」としている。

 現在の日本語訳は表現があいまいで、しかも、私たちが神に対して「誘惑しないで」と求めているように読めてしまう。日本の司教団は現在、典礼文などの見直しを進めているというが、「主の祈り」も、今回発刊された聖書協会共同訳を基礎に、フランスの司教団の仏語訳の改訂、故マルティーニ枢機卿の提案などを参考に見直す必要がある。

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 聖書協会共同訳は、一人ひとりの信徒はもちろん、キリスト教に関心のある方々が手に取って、お読みいただくことが望ましいが、比較的高額であることもあり、とくに中高齢の年金生活世代や子弟の養育費の負担が重い現役世代にとって、容易でないことも考えられる。

 そうしたなかで、カトリック、プロテスタントの共同作業によるこの新たな成果を生かすために、司教団が速やかに、この新共同訳の普及を図る努力をはじめ、各教会に常備し、ミサ典礼や「主の祈り」などの言葉に反映することで、普及に努めることが求められる。

 言葉は生きている。聖書協会が小冊子で述べているように、これで翻訳を完結せず、さらに改良を加えていることが望ましい。その場合、生きた言葉、現代の社会で理解される言葉を使うことに日々、奮闘しているジャーナリストを、その作業に加えることも必要だろう。

 (「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2018年12月22日