・カトリック中央協議会が、シノドス総会第一期の総括文書(『まとめ』報告書)訳文を掲載

(2024.1.19 カトリック・あい)

カトリック中央協議会は1月19日付けのホームページで、昨年10月に開かれた世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会の総括文書(中央協議会訳では「『まとめ』報告書」)の日本語訳を掲載した。

「カトリック・あい」では昨年11月初めにバチカンのシノドス事務局が総括文書を発表して半月後に全文の試訳を掲載済みで、翻訳の言葉や表記には当然違いがあるが、「カトリック・あい」もバチカン発表の公式英語文をもとにしているので、内容にはほぼ相違がない。頻繁に使用されている「シノドス」「シノダリティ」というキーワードについて「カトリック・あい」では、「共働性」「共働的」、また会議の名称として使われる場合も明確に日本語をつけて区別したが、今回の中央協議会訳では、単にカタカナ表記のみになっている。また「命」「私」などを当用漢字表記とせず、ひらがな表記としている。

 

(2024.1.19 カトリック中央協議会)

世界代表司教会議第 16 回通常総会 第 1 会期(2023 年 10 月 4 日~29 日)「まとめ」報告書
宣教するシノドス的教会
2023 年 10 月 28 日(昼 12 時)

はじめに

親愛なる姉妹、兄弟の皆さん、
「一つの霊によって、わたしたちは、……皆一つのからだとなるために洗礼を受け」(一コリント12・13)ました。これが、2023 年 10 月 4 日から 28 日まで、「ともに歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教」というテーマで開催された、今回の世界代表司教会議(シノドス)第 1 会期において、わたしたちが味わった喜びと感謝に満ちた体験です。背景、言語、文化の多様性にもかかわらず、洗礼という共通の恵みによって、わたしたちは、心を一つにしてこの日々をともに過ごすことができました。聖歌隊のように、わたしたちは多様な声で一つの魂を歌おうとしてきました。聖霊がわたしたちに与えてくれたのは、聖霊だけが生み出す方法を知る調和を体験することであり、それは引き裂かれ、分裂した世界におけるたまものであり、あかしです。
今回の総会は、古く新しい戦争が世界で激化し、無数の犠牲者の不条理な悲劇を生み出している最中に開催されました。貧しい人々、移住を余儀なくされている人々、暴力に苦しんでいる人々、気候変動の壊滅的な影響に苦しんでいる人々の叫びは、わたしたちの間に響いていました。それらはメディアを通してだけでなく、これらの悲劇的な出来事に家族や人々と個人的に関わっている多くの人々の声からも聞こえました。わたしたちは皆、どのようなときにも、それを心に抱き、祈りながら、わたしたちの教会が和解、希望、正義、平和の道をどのようにはぐくむことができるかを考えてきました。
わたしたちの信仰を確認し、使命において大胆であるよう励ましてくれたペトロの後継者を囲んで、わたしたちの集いはローマで開かれました。エキュメニカルな前晩の祈りでこれらの日々を始められたことは恵みで、他のキリスト教諸派の指導者たちや代表者たちが教皇とともにペトロの墓で祈る姿を見ることができました。一致は神の聖なる教会の中で静かに発酵しています。わたしたちは自分の目でそれを見、喜びに満ちてあかしします。「兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編 133・1)。
教皇の要請により、本総会では、神の民の他のメンバーが司教たちの周りに集まっていました。司教たちは、自分たち同士でも、またローマの司教との間でも一致団結し、諸教会の交わりとしての教会を表現しました。信徒、奉献生活者、助祭と司祭は、司教たちとともに、教会全体と教会内のすべての人を巻き込もうとする歩みの証人でした。彼らの存在によって、本総会が孤立したイベントではなく、シノドスの歩みの不可欠な部分であり、必要なステップであることをわたしたちは思い出しました。総会で語られた多様な発題とさまざまな立場は、シノダリティのスタイルを学び、それを実現するために、もっとも適した形を模索する教会の姿を明らかにしました。
この第 1 会期に至る旅が始まってから 2 年以上が経ちました。2021 年 10 月 9 日にシノドスの歩みが開始された後、すべての教会は、異なるペースではありましたが、教区、国、大陸の段階を経て、それぞれの文書に反映されている聞き取りのプロセスに取り組んできました。今回の総会は、全教会がこの意見聴取の成果を受け取り、祈りと対話の中で、霊がわたしたちに求めている道を識別するフェーズの幕開けとなりました。このフェーズは、2024 年 10 月に総会第 2 会期がその作業を完了し、それを教皇に提供するまで続きます。
教会の聖伝に根ざしたすべての旅路は、公会議の教えの光の中で行われています。第二バチカン公会議は、実際、世界と教会の畑に蒔かれた種のようなものでした。信者の日常生活、あらゆる人々や文化における教会の経験、多くの聖性のあかし、神学者たちの考察が、第二バチカン公会議が芽を出し、成長する土壌となったのです。2021-2024 シノドスは、その種の力を引き出し、その可能性を発展させ続けます。シノドスの旅は、実際、聖性に招かれ、公会議が、神秘としての教会、神の民としての教会について教えたことを実践していくものです。それは、わたしたちが福音をよりよく理解し実践するために、洗礼を受けたすべての人々が各自の多様な召命に応じて行う貢献を評価しています。
この意味で、このシノドスは、公会議をさらに受け入れる真の行為であり、そのインスピレーションを永続させ、現代世界のためにその預言者的な力を再活性化させるものです。
1 カ月の働きの後、今、主はわたしたちに、わたしたちの活動の成果を皆さんに伝え、ともに旅を続けるために、それぞれの教会に戻るようにと呼びかけています。ここローマでは、わたしたちは大人数ではありませんでしたが、教皇が招いたシノドスの道の目的は、洗礼を受けたすべての人を巻き込むことです。わたしたちはその実現を切に願い、それを可能にするために全力を尽くしたいと思います。この「まとめ」報告書では、この数日間を特徴づけた対話、祈り、話し合いの中で浮かび上がった主な要素を集めています。わたしたちの個人的な体験談は、どんな文書でも十分にとらえることのできない、生きた経験の調子でこの「まとめ」を豊かにするでしょう。こうしてわたしたちは、沈黙と聞き取り、分かち合いと祈りの瞬間がいかに豊かであったかを証言することができるでしょう。また、異なる意見に耳を傾け、すぐに反論する誘惑に負けることなく、自分の発言を絶対的な確信としてではなく、他者への贈り物として提供することは容易ではないということも分かち合うことになるでしょう。しかし、主の恵みによって、わたしたちの限界にもかかわらず、そう成し遂げるように導かれ、これこそがわたしたちにとって真のシノダリティの体験となりました。実践することで、わたしたちはそれをよりよく理解し、その価値を把握することができました。
多様なカリスマ、召命、奉仕職の中で、洗礼を受けた人としてともに歩むことは、わたしたちの共同体にとってだけでなく、世界にとっても重要であることを、わたしたちは理解しました。実際、福音的な連帯はともし火のようなものであり、それは升の下に置かれるのではなく、家全体を照らすように燭台の上に置かれなければなりません(マタイ 5・15 参照)。世界は今日、かつてないほどこのあかしを必要としています。イエスの弟子であるわたしたちは、傷ついた人類に神の愛と優しさを示し、伝える任務から逃れることはできません。
この第 1 会期の作業は、『討議要綱(Instrumentum laboris)』が提示した「ロードマップ」に従って行われ、この要綱によって本総会は、シノドス的教会の特徴的なしるしと、それが含む交わり、宣教、参加のダイナミズムについて考察することができました。わたしたちは問題の是非を議論し、詳細な調査が必要なテーマを特定し、予備的な提案を進めることができました。このような経過を踏まえ、この「まとめ」報告書は、『討議要綱』の内容をすべて繰り返すのではなく、優先順位が高いと思われる問いやテーマについて新たな刺激を与えるものです。これは最終文書ではなく、まだ続けなければならない識別のためのツールです。

「まとめ」報告書は 3 部構成になっています。第 1 部は「シノドス的教会の顔」を概説し、シノダリティの実践と理解を示し、その神学的基盤を提示します。ここでシノダリティは何よりもまず、三一の神の観想から生まれ、教会における一致と多様性を明確にすることによって展開される霊的体験として提示されています。第 2 部は、「すべての弟子、すべての宣教者」と題され、教会の生活と宣教に関わるすべての人々とその互いの関係性を扱っています。第 2 部でシノダリティは、主に、神の民の共同の旅として、また、み国の到来に奉仕するカリスマと奉仕職の実りある対話として提示されます。第 3 部は「絆を紡ぎ、共同体を築く」と題されています。ここでシノダリティは、主に、諸教会間の交流や世界との対話を可能にする、一連のプロセスや諸組織のネットワークとして提示されます。
3 部構成の各章では、「意見の合致点」「検討課題」「対話から生まれた提案」をまとめています。
「意見の合致点」は、わたしたちが考察の拠り所とする定点を示すものであり、わたしたちが道を見失うことなく、進むべき方向を見定めるための地図のようなものです。「検討課題」は、神学的、司牧的、教会法的な研究を継続する必要があるとわたしたちが認識したポイントを集めたものです。一方、「提案」は、進むべき可能性のある道を示しています。提案されたものもあれば、推奨されたものもあれば、より強い決意をもって要請されたものもあります。
今後数カ月間、各国司教協議会と東方典礼カトリック教会の位階機構(hierarchical structures)は、各地方教会とシノドス事務局をつなぐ役割を果たし、考察の発展において重要な役割を果たすことになります。彼らは、到達した意見の合致点から出発して、もっとも関連性のある緊急の課題と提案に焦点を当て、それらを神学的・司牧的に深めるよう促し、それを教会法的に適用する仕方を指摘するよう求められています。
わたしたちがローマでの数日間の共同作業で経験した、互いの意見に耳を傾け、真摯に対話する風土が、神の国の良き種を育てるために、わたしたちの地域社会で、そして世界中で広がっていくという願いを、希望に支えられながら心に抱いています。

第 1 部 シノドス的教会の顔

1.シノダリティ:体験と理解

意見の合致点
a)わたしたちは、教会のシノドス的側面を、新たな意識をもって理解するようにという招き
を受けました。シノドスの実践は、新約聖書と初代教会において証明されており、その後、さ
まざまな諸教会や伝統の中で、特定の歴史的形態をとるようになりました。第二バチカン公会
議はこれらの実践を「刷新」し、さらに教皇フランシスコは、教会が再びそれを刷新するよう
勧めています。2021-24 年シノドスもこのプロセスの一部です。聖なる神の民は、神のことば
に根ざし、時には痛みを伴うこともあるものの、喜びの出会いの中で、沈黙し、祈り、聴き、
語るというシノドス的なあり方によって、わたしたちは皆、キリストのうちに兄弟姉妹である
と深く認識することを、このシノドスを通して発見しました。このプロセスから得られるかけ
がえのない実りは、信仰深い神の民としての自分たちのアイデンティティに対する意識が高め
られたことです。その中で、各自が洗礼に由来する尊厳の担い手となって、福音化という共通
の使命に対する、それぞれに異なる共同責任に招かれているのです。
b)今回の歩みは、神の家であり家族であって、より人々の生活に近く、より官僚的でなく、
より関係を大事にする教会に対する、わたしたちの体験と願いを新たにしました。このような
体験や願いにこそ、「シノドス的」「シノダリティ」という用語が関連付けられ、いま、さら
なる説明が必要な、一つの理解を提供しています。それは、2018 年、若者に関するシノドスの
際に、若者たちが最初に望むと宣言した教会です。
c)パウロ六世ホールでの総会の進め方は、円卓に小グループで座るなど、ある文化圏では聖書
の婚宴(黙示録 19・9)のイメージにたとえられていました。これは、シノドス的な教会のあ
り方とエウカリスチアのイメージを象徴していると理解されました。エウカリスチアこそが、
神のことばを中心に置く、シノダリティの源泉であり頂点なのです。シノドス的に生きている
教会では、異なる文化、言語、典礼、考え方、現実が、霊の導きを真摯に求める中で、ともに
実りある関わりをもつことができるのです。
d)わたしたちの中には、戦争、殉教、迫害、飢餓の犠牲となっている諸民族からやって来た
姉妹や兄弟がいました。多くの場合、シノドスの歩みに参加することができなかったこれらの
人々の窮状は、しかしながら、わたしたちの話し合いと祈りの輪に入り、彼らとの交わりの感
覚と平和を創り出す者としての決意を深めました。
e)総会では、このシノドスの歩みの間、霊が教会に注いだ多くのたまものの中で、希望、い
やし、和解、信頼回復について頻繁に語られました。教会で虐待を受け、傷ついてきた人々を
含め、すべての人に耳を傾け、寄り添う、開かれた姿勢によって、長い間、人の目から見えな
い存在と感じてきた多くの人々は、目に見える存在となりました。このような虐待を助長した
構造的な状況への対処を含め、和解と正義に向けた長い道のりはまだわたしたちの目の前に残
り、具体的な悔い改めの姿勢が必要です。
f)「シノダリティ」ということばが神の民の多くにとって馴染みのないものであり、それが一
部の人々に混乱と不安を引き起こしていることは分かっています。語られた不安の中には、教
会の教えが変更され、先祖たちの使徒的信仰から遠ざかり、現代において神に飢え渇く人々の
期待を裏切ることになるのではないかという危惧もあります。しかし、わたしたちは、シノダ
リティは生きた、活力に満ちた聖伝の表現であると確信しています。
g)教皇フランシスコは、議会制民主主義の価値を過小評価することなく、一部の人々が、シ
ノドスは教会的・霊的性格を欠いた多数決の審議機関になり、教会の位階的な本性を危うくす
るのではないか、と懸念を表していることに応えています。変化を強いられることを恐れる人
もいれば、何も変わらないことを恐れる人、また生きた聖伝のペースで進む勇気があまりに少
ないことを恐れる人もいることは明らかです。また、戸惑いや反対には、権力やそれに伴う特
権を失うことへの恐れも往々にして隠れているものです。しかしながら、あらゆる文化的文脈
において、「シノドス的」や「シノダリティ」ということばは、交わり、宣教、参加を統合す
る教会のあり方を語っています。その一例が、アマゾン教会協議会(CEAMA)であり、これは
同地域における宣教するシノドスの歩みの成果なのです。
h)もっとも広義において、シノダリティは、キリスト者がキリストとの交わりのうちに、人
類全体とともにみ国に向かって歩むこと、と理解できます。その方向性は宣教に向けられてお
り、その実践には、教会生活のさまざまなレベルで集いに集まることが含まれます。互いに耳
を傾け、対話し、共同識別し、聖霊のうちに現存するキリストの表現として意見の一致を生み
出し、各自の責任にしたがって決定を下すことが含まれているのです。
i)体験と出会いを通して、わたしたちはこの気づきのうちにともに成長してきました。要約す
ると、最初の数日間から、総会は二つの確信によって形作られていました。一つ目は、わたし
たちがこの数年間に分かち合ってきた体験は真にキリスト教的なものであり、その豊かさと深
さのすべてを受け取るべきであるということ。二つ目は、「シノドス的」「シノダリティ」と
いう用語は、異なる文化において、その意味のレベルをより正確に明確化する必要があるとい
うことです。必要な説明をした上で、シノダリティは教会の未来を表している、という実質的
な合意が生まれました。

検討課題
j)すでに実施された検討作業を土台として、司牧的、神学的、教会法的といったさまざまなレ
ベルで、シノダリティの意味を明確にすることが必要です。これは、その概念が漠然としすぎ
たり、一般的に聞こえたり、一時的な流行として現れたりする危険を避けるのを助けるためで
す。それによってわたしたちは、神学的な深まりや解説を伴って、「ともに歩む」ことに関
し、幅広い理解を提供することができます。同様に、シノダリティと交わりとの関係、シノダ
リティと団体性との関係も明確にする必要があります。
k)今回進行中のシノドスの歩みも含め、東方典礼教会の伝統とラテン典礼の聖伝の間で、シ
ノダリティの実践と理解の違いについて、両者の出会いを促進することでその理解と認識を深
めたい、という願いが生まれました。
l)とりわけ、人々が共同体としてともに歩むことに慣れていて、また個人主義が根付いていな
い文化的背景の中で、シノドス的な生活のさまざまな表現が、より深い考察のために検討され
るべきです。このように、シノドス的な実践は、人々を自らに向かわせる個人主義、分裂させ
るポピュリズム、均質化し平坦化するグローバル化に対する教会の預言者的な応答として重要
な役割を果たしています。それはこれらの問題を解決するものではないものの、複数の視点を
統合しながら、現代において、その代替となるあり方、行動の仕方を提供するものです。これ
は希望に満ちた代替案であり、さらなる探求と照らしが必要です。

提案
m)シノドスの歩みの豊かさと深さは、参加を拡大していく価値があることを示しており、こ
れまでに現れた参加をはばむ障害を克服します。
n)来年のシノドスの歩みにおいて、聖職者(助祭、司祭、司教)がより積極的に参加する方
法を見つける必要があります。シノドス的教会は、彼らの声、体験、貢献なしではいられませ
ん。彼らのうちで、シノドスの歩みに抵抗を感じている人がいることの理由を、よく理解する
必要があります。
o)シノドスの文化は、デジタルの手段を使うことも含め、若者たちが自分自身、家族や仲
間、聖職者たちと自由に語り合える場もつことで、より世代を超えたものとする必要がありま
す。
p)総会第 2 会期に先立って、第二バチカン公会議以降の研究の豊かな遺産、とくに教皇庁国
際神学委員会『教会の生活と宣教におけるシノダリティ』(2018 年)と『教会生活における信
仰の感覚』(2014 年)の文書を活用しながら、シノダリティの概念と実践に関する用語的・概
念的理解を神学的に深めることを、本総会は提案します。
q)シノダリティの教会法的な意味合いについても、同様に明確化する必要があります。これ
らの点についても、神学と教会法の専門家による大陸間特別委員会を、総会第 2 会期前に設置
することを提案します。
r)最後に、この時点で、『カトリック新教会法典』と『東方典礼教会法典』の広範な改訂が求められています。したがって、予備的な研究が推奨されます。

2.三位の神によって集められ、遣わされる

意見の合致点
a)第二バチカン公会議の教えによれば、教会は「父と子と聖霊の一致に基づいて一つに集め
られた民」(『教会憲章』4 項)です。おん父は、おん子の使命と霊のたまものを通して、わ
たしたちを交わりと宣教のダイナミズムに巻き込み、「わたし」から「わたしたち」へと移行
させ、世界に奉仕するものとしてくださいます。シノダリティは、神が人類と出会いに来る三
位の神のダイナミズムを、霊的態度や教会の歩みへと置き換えます。こうするためには、洗礼
を受けたすべての人が、それぞれの召命、カリスマ、奉仕職を相互に実行するよう取り組まね
ばなりません。そうすることによってのみ、教会は真の意味で、教会自身の中で、そして世界
との「対話」(『エクレシアム・スアム』67 項参照)となることができ、イエスが行ったよう
に、すべての人と肩を並べて歩むことができるのです。
b)原初より、教会のシノドスの旅はみ国を目指すものであり、そのみ国は、神がすべてにお
いてすべてとなられるときに完全に達成されるものです。教会が示す友愛のあかしと、もっと
も小さくされた人へ奉仕する宣教への献身は、それらがしるしであり道具である「神秘」に勝
るものでは決してないのです。教会は自らを、福音を告げ知らせる中心に据えるためにシノド
ス的な構成を考えるのではなく、たとえその成り立ちの不完全さがあっても、み国の到来への
奉仕を最善の形で果たすために、シノドス的な構成を検討するのです。
c)キリスト教共同体の刷新は、神の恵みが第一義だと認識することによってのみ可能となります。もし霊的な深みが欠けているならば、シノダリティは表面的な刷新にとどまります。しかし、わたしたちに求められているのは、他の場所で得た霊的体験を共同体の歩みへと置き換えることだけでなく、より重要なのは、いかに相互的な関係性が神との真の出会いの場であり形であるかを体験することです。この意味において、シノドスの展望は、聖伝の豊かな霊的遺産を利用しつつ、その形、つまり、参加に開かれた祈りの形、ともに行われる識別の形、分かち合いから生まれ奉仕として放射される宣教の情熱の形を刷新するのに貢献します。
d)「霊における会話」は、その限界はあるにせよ、真に耳を傾けることを可能にし、霊が教
会に何を語りかけているのかを識別する上で実り豊かなツールです。それを実践することで、
喜び、驚き、感謝が呼び起こされ、個人、グループ、そして教会を変革する刷新の道として体
験されました。「対話」ということばは、単なるおしゃべり以上のものを表現していて、つま
り、思考と感情を織り交ぜ、共有された、極めて重要な空間を生み出しているのです。だから
こそ、対話の中で回心が働いていると言えるのです。それは、異なる諸民族や文化に見られる
人類学的現実であり、彼らは連帯して集まり、共同体にとって重要な問題に対処し、決断する
のです。恵みによって、この人間的体験は成就します。「霊において」対話するということ
は、まぎれもない聖霊の声が聞こえるような、真に福音的な雰囲気の中で、信仰の光に照らさ
れて分かち合い、神のみ旨を探し求める体験を生きることなのです。

e)シノダリティは宣教を命じられているので、キリスト教共同体は、他の諸宗教、信条、他
文化の人々と連帯すべきであり、そうすることで、一方では、自己投影したり自己防衛しよう
とするリスクを避け、他方、アイデンティティを失うリスクを避けるのです。福音の告知、貧
しい人への奉仕、共通の家へのケア、そして神学研究を特徴づけるのは、相互の学び合いやと
もに旅する中で表現される、対話の論理でなければなりません。

検討課題

f)おん父のみ旨に真に耳を傾けるためには、神学的観点から教会の識別の基準を深めることが
必要だと思われます。それにより、霊の自由と新しさへ言及することで、イエス・キリストは
「ただ一度」(ヘブライ 10・10)だけ来るという事実と適切に結びつくようになるのです。そ
のためにはまず、聖書にあかしされている神のことばに耳を傾けること、聖伝と教会の教導権
を受け入れること、そして預言者として時のしるしを読み取ることの関係性を明確にする必要
があります。
g)この目的のためには、信仰体験の知的次元と情緒的次元を単に並列させるのではなく、統
合することができる人類学的・霊的ビジョンを推進し、あらゆる種類の還元主義や理性と感情
の二元論を克服することが重要です。
h)これまで用いられてきた「見て、判断して、行動する」という方法や、「認識し、解釈
し、選択する」というステップのような、教会の識別の他のモデルと並んで、「霊における会
話」が神学的思考や人間科学・社会科学の貢献をどのように統合できるかを明らかにすること
が重要です。
i)「レクチオ・ディビナ」や、古今東西のさまざまな霊的伝統が識別の実践に提供しうる貢献
を発展させるべきです。実際、聖霊が何世紀にもわたって示唆し、教会の霊的遺産の一部であ
る、複数の形式や様式、方法や基準を大切にすることは適切なことです。

提案

j)教会は、それぞれの文脈のニーズや文化に関連する多様な霊的伝統から適切と思われる方法
で、「霊における会話」や他の形の識別を試み、適応させることを提案します。適切な形で同
伴することは、この実践を促進し、その論理を理解し、起こりうる抵抗を克服する助けとなる
でしょう。
k)各地方教会は、教会の識別プロセスを促進し、同伴するためにふさわしい、訓練された人
材を確保するよう勧められます。
l)教会生活を照らすために、識別の実践は、司牧領域で、文脈に適した方法で、有益な形で実
施することができます。そうすることで、共同体に存在するカリスマをより明確に認識し、
任務や奉仕職を賢明にゆだねることができるようになります。単なる活動計画を超えて、わた
したちは霊に照らされた司牧の道を計画することができるようになるのです。

3.信仰共同体への参入:キリスト教入信

意見の合致点

a)キリスト教入信とは、主が、教会の奉仕職を通して、わたしたちを復活の信仰へと導き、
三位の神と教会の交わりへと引き入れられる旅です。この旅は、それがとり行われる時代や、
東方教会と西方教会の伝統に特徴的な強調点の違いによって、実に多様な形をとっています。
しかし、みことばに耳を傾けること、生活上の回心、典礼の祝い、共同体とその使命への参加
は、つねにつながりをもっています。まさにこの理由から、洗礼準備の旅は、その段階と通過
点の漸進性をもって、すべての教会にとって、ともに歩む体験のパラダイムとなるのです。
b)入信すると、実にさまざまな召命や教会の奉仕職に接することになります。そこには、子
どもたちとともに歩むことで、歩むことを教える、母としての教会の顔が表れています。教会
は子どもたちの声に耳を傾け、疑問や質問に答えながら、一人ひとりの歴史、言語、文化がも
たらす新しさによって豊かにされるのです。こうした司牧活動の中で、キリスト教共同体は、
多くの場合、自分では気づかぬまま、初めてシノダリティと遭遇するのです。
c)カリスマや奉仕職の区別に先んじて、「一つの霊によって、わたしたちは、……皆一つのか
らだとなるために洗礼を受け」(一コリント 12・13)ました。したがって、洗礼を受けたすべ
ての人の間には、真の平等な尊厳があり、それぞれの召命に従って、宣教に対する共通の責任
があります。「万事について教え」(一ヨハネ 2・27)てくださる霊によって油注がれること
で、すべての信者は福音の真理に対する直感、「信仰の感覚(sensus fidei)」をもちます。こ
れは、神の実在とのある種の親和性と、信仰の真理に適合するものを直感的に把握する能力か
らなるものです。シノドスの歩みはこのたまものを高め、「信徒たちの同意(consensus
fidelium)」の存在を確認できるようにします。この歩みは、特定の教義や実践が使徒的信仰に属するかどうかを判断する確かな基準を提供するのです。
d)堅信の秘跡を通して、聖霊降臨の恵みは教会にとどまります。それは、霊のたまものの豊
かさで信徒を豊かにします。宣教の奉仕の中で、共通の洗礼の尊厳に根ざし、各自の特別な召
命を育てていくよう呼びかけています。その重要性はより強調されるべきで、教会のシノドス
的な顔を形づくる、さまざまなカリスマや奉仕職と関連して位置づけられる必要があります。
e)とりわけ主日に祝われるエウカリスチアは、聖なる神の民が集い、出会う最初の、基本的
となる形です。それが不可能な場合、共同体はエウカリスチアを望みつつも、「みことばの祭
儀」を祝うために集います。エウカリスチアにおいてわたしたちは、与えられた恵みの神秘を
祝います。主は、わたしたちをご自身のからだと血にあずかるようにと招くことによって、わ
たしたち同士と、また主とともに、一つのからだとなるのです。パウロが「コイノニア
(koinonia)」(一コリント 10・16−17 参照)ということばを使ったことに始まり、キリスト
教の伝統は、エウカリスチアへの十全な参加と同時に、信者同士、教会同士の関係性の本性の
両方を表すために、「交わり」ということばを大切にしてきました。それはわたしたちを、神
のいのちの観想へ、三位の神の神秘がもつ底知れぬ深みへと開いてくれますが、このことばは
また、わたしたちの人間関係の「日常性」を指してもいます。つまり、わたしたちが互いに自
らを開くもっとも単純な姿勢の中に、聖霊の息吹が純粋に息づいているのです。だからこそ、
エウカリスチアから湧き出て、その中で祝われる交わりは、シノダリティの道を構成し、方向
づけるのです。
f)エウカリスチアからわたしたちは、一致と多様性を明確に表現することを学びます。つま
り、教会の一致とキリスト教共同体の多様性、秘跡の神秘の一致と典礼の伝統の多様性、祭儀
の一致と召命、カリスマ、奉仕職の多様性などです。エウカリスチアほど、霊によって生み出
される調和が画一的なものではないこと、そして、教会のたまものの一つひとつが共通の教化
のために意図されたものであることを表すものはありません。

検討課題

g)洗礼の秘跡は、キリスト教入信から切り離され、その論理の外で理解することはできず、
個人主義的に理解することも不可能です。それゆえ、キリスト教入信についてのより一体化さ
れた視点からもたらされるシノダリティの理解へもたらす貢献について、さらに研究すること
が必要です。
h)「信仰の感覚」を成熟した形で実践するには、洗礼を受けるだけでなく、洗礼の恵みを育
てる、真に弟子として生きる生活が必要です。それによってわたしたちは、単なる支配的な思
潮や文化的に条件付けられたもの、あるいは福音と矛盾するものから、霊の働きを区別するこ
とができるようになります。「信仰の感覚」の行使を理解することで、適切な神学的考察を深
めることになります。
i)シノダリティについて考察することで、堅信の理解について新たな洞察を得ることができま
す。堅信によって霊の恵みが、聖霊降臨の調和の中で多様なたまものとカリスマを明確にしま
す。さまざまな教会体験に照らして、この秘跡の準備と典礼をより実りあるものにする方法を
研究し、すべての信徒が共同体形成、世界における宣教、信仰のあかしへの呼びかけを再び呼
び起こすようにすべきです。
j)司牧神学の視点から、いかに洗礼準備のやり方が、結婚準備、職業選択・社会的責任の選択
への同伴、教会共同体全体が関与しなければならない聖職者の養成といった、他の司牧の道筋
にも刺激を与えることができるかについて、研究を続けることが重要です。

提案

k)もし、エウカリスチアがシノダリティを形づくるのであれば、まず最初にすべきは、キリ
ストのうちに真の友情を感じながら、そのたまものにふさわしい仕方でミサを祝うことです。
真の意味で祝われる典礼は、弟子としての最初の、そして基本的な学校です。その素晴らしさ
と単純さは、他の準備されたどのような養成プログラムよりも優れて、わたしたちを育てるは
ずです。
l)第 2 ステップは、多くの人が指摘しているように、典礼言語を信徒にとってより親しみやす
くし、文化の多様性の中でより具体化する必要性についてです。伝統との継続性やより良い典
礼の養成の必要性を疑問視することなく、より深く考察することが必要です。この点に関し
て、各国司教協議会には、自発教令『マグニュム・プリンチピウム』(2017 年)に従って、よ
り広範な責任がゆだねられるべきです。
m)第 3 ステップは、ミサに限らず、あらゆる形の共同体の祈りを高めるという司牧的責任に
あります。典礼の祈りの他の表現、また、その地方の文化が反映された民間信心の実践は、す
べての信徒の参加を促す重要な要素です。それは信者を徐々にキリスト教の神秘に導き、教会
にあまり親しみのない人々を主との出会いに近づけます。各種の民間信心の中で、マリア信心
は多くの人の信仰を支え、養う能力がある点で、とくに際立っています。
4.教会の旅の主人公である貧しい人々

意見の合致点

a)貧しい人々は教会に愛を求めます。愛とは、尊敬、受容、承認を意味し、それらなしで、
食べ物、お金、社会的サービスを提供することは、確かに重要な援助の一形態ではあるもの
の、その人間の尊厳を十分に考慮していません。各自が、他者による福祉活動の対象となるの
ではなく、自ら成長の手段を決定できるようにする必要があります。評価と尊敬を受けること
は、それを可能にする強力な方法です。
b)貧しい人の優先的選択は、キリスト論的信仰に内在するものです。つまり、貧しく謙遜で
あったイエスは、貧しい人の友となり、貧しい人と食卓をともにし、貧困の原因を糾弾しまし
た。教会にとって、貧しい人や周縁部の人の優先的選択は、文化的、社会学的、政治的、哲学
的なものである以前に、神学領域です。聖ヨハネ・パウロ二世教皇にとって、神はまず彼らに
いつくしみを与える存在です。この神の選好はすべてのキリスト者の生活に影響を及ぼすもの
で、彼らは、「キリスト・イエスにもみられるもの」(フィリピ 2・5)を養うよう招かれてい
ます。
c)貧困の種類は一つだけではありません。貧困状態にある人々の中には、尊厳ある生活を送るための品々をもたない人がいます。移住者や難民、先住民族やアフリカ系の諸民族、暴力や虐待に苦しむ人、中でも女性たち、依存症に苦しむ人、組織的に声を奪われているマイノリテ
ィ、見捨てられた高齢者、人種差別、搾取、人身取引の被害者、とくに未成年者、搾取される
労働者、経済的に排除された人々、その他周縁部に生きる人々がいます。社会的弱者の中でも
っとも弱い立場に置かれていて、つねにその代わりに訴えていく必要がある人の中には、生ま
れなかった胎児とその母親が含まれます。本総会は、いくつかの大陸の多くの国々を苦しめて
いる戦争とテロリズムによって生み出された「新たな貧困層」の叫びを聞き、こうした争いの
原因となっている腐敗した政治と経済システムを糾弾します。

d)物質的な貧しさだけでなく、わたしたちの世界ではまた、多くの人が、生きる意味の喪失
として理解される、霊的貧しさを体験しています。自分自身への過度な不安によって、他者を
脅威とみなし、さらに自己に内向して、ある種の個人主義を表しています。霊的に貧しい人と
物質的に貧しい人が出会えば、互いのニーズに対する答えを見つけること向けた旅を始めま
す。これは、シノドス的教会の視点を具体化する、ともに歩む方法で、「心の貧しい人々は、
幸いである」(マタイ 5・3)という、福音書の真福八端の十全な意義を明らかにします。
e)貧しい人の側に立つためには、わたしたちの共通の家をケアする中で、彼らとともに取り
組むことが必要です。つまり、地球の叫びと貧しい人の叫びは同じ叫びなのです。この叫びに
対する反応がないために、生態系の危機、とりわけ気候変動は、人類の生存を脅かすものとな
っています。シノドス総会の開会に合わせて教皇フランシスコが発表した使徒的勧告『ラウダ
ーテ・デウム』は、このことを強調しています。気候変動の影響にもっともさらされている
国々の教会は、方向転換の緊急性を強く認識しており、このことは、地球上のさまざまな地域
にある他の地方教会の旅への貢献となります。
f)教会の取り組みは、貧困と排除の原因に迫らなければなりません。これには、排除された
人々の権利を守るための行動も含まれ、さらにこのことは、社会構造によって犯されたもので
あれ、個人、企業、政府によって犯されたものであれ、その不正義を公に糾弾することが必要
な場合もあります。貧しい人の声を聞くのに不可欠なのは、彼らの要求や視点に耳を傾け、彼
ら自身のことばを使うことです。
g)キリスト者には、教会の社会教説からインスピレーションを受け、さまざまな形で――市
民団体、労働組合、市民運動、草の根組織を通して、政治領域においてなど――活動しなが
ら、共通善を構築し、いのちの尊厳の守ることに積極的に参加するよう専心する義務がありま
す。教会は、彼らの活動に対して深く感謝しています。共同体は、真の愛と奉仕の精神をもっ
てこれらの分野で活動する人々を支援する義務があります。彼らの活動は、福音を告げ知ら
せ、神の国の到来をもたらす、教会の宣教の一部です。
h)キリスト教共同体は、キリストのみ顔と肉とに出会います。キリストは富んでいたのに、
わたしたちのために貧しくなり、わたしたちは、キリストの貧しさを通して豊かにされるので
す(二コリント 8・9 参照)。彼らと近しくなるだけでなく、彼らから学ぶよう求められてい
る。もしシノドス的になることが、道である方とともに歩むことであるならば、シノドス的教
会は、貧しさを体験している人を、その生活のあらゆる側面の中心に置く必要があります。つ
まり、彼らの苦しみを通して、苦しむキリストを直接知ることになるのです(『福音の喜び』
198 項参照)。彼らの生活が主のそれと似ていることにより、貧しい人々は、たまものとして
受けた救いの前触れ、福音の喜びの証人となるのです。

検討課題

i)世界のある地域では、教会は貧しく、貧しい人とともに、貧しい人のために存在します。貧
しい生活をしている人を、教会の慈善の「対象」として、「彼ら」と「わたしたち」と見てし
まうリスクがつねにあり、注意深く避けなければなりません。貧しさを体験している人々を中
心に置き、彼らから学ぶことは、教会がもっともっと実行しなければならないことです。
j)一方で、不正義な状況に対して預言者的に糾弾し、他方、交渉術に頼る必要があるものの、
政策決定者が共通善のために行動するよう説得する努力をすることは、明確な焦点と実りの豊
かさを失わないように、力強い緊張を維持しなければなりません。とくに、教会組織が公的、
また私的資金を使用することにより、福音が求める事柄のために発言する自由を制約すること
のないよう、注意しなければなりません。
k)教育、医療、社会福祉の分野で、だれ一人差別も排除もされることなくサービスを提供す
ることは、教会内と社会においてもっとも弱い立場の人々の融合と参加を促進する教会の明ら
かなしるしとなります。この分野で活動する団体は、自らをキリスト教共同体の表現であると
考え、慈善活動が人間味のないものにならないことが勧められています。彼らはまた、ネット
ワーク化し、互いに協調するよう求められています。
l)教会は、その関連組織で働く人々の正義の要求にどのように応えているかを誠実に検証し、
一貫性と誠実さをもって行動するようにしなければなりません。
m)シノドス的教会では、異なる地域の地方教会間でたまものを交換し、資源を分かち合うと
いう形でも、連帯感を表しています。これらの関係性は、関連するキリスト教共同体間の絆を
生み出すことで、教会の一致を促進しています。司祭不足の教会を助けるためにやってくる司
祭が、単に役割を解決するためだけに派遣されるのではなく、派遣元の教会と派遣先の教会双
方の成長の資源となるように、必要な条件を確保することに焦点を当てる必要があります。同
様に、わたしたちは、経済的援助が単なる福祉の提供に陥ることなく、真の福音的連帯を促進
し、透明性と信頼性をもって運営されることが必要です。

提案

n)教会の社会教説はあまりに知られていない資源であり、これに言及する必要があります。
各地方教会は、その内容をよりよく知らしめるだけでなく、そのひらめきを実行に移す実践を
通して、その受容を促進するよう求められています。
o)貧困に生きる人や周縁部の人と出会い、生活を分かち合い、彼らに奉仕する体験を、キリ
スト教共同体が提供するすべての養成コースの必須の部分とすべきです。つまり、それは信仰
にとって必要条件であり、選択可能な追加事項ではないのです。これはとくに叙階される奉仕
職と奉献生活の候補者に当てはまることです。
p)助祭の奉仕職を再考する一環として、教会は、貧しい人への奉仕をより強く志向するよう
推奨すべきです。
q)教会の教え、典礼、実践は、総合的なエコロジーの聖書的・神学的基盤を、より明示的
に、注意深く統合していかなければなりません。

5.「あらゆる種族、ことば、民族、国民」からなる教会

意見の合致点

a)キリスト者は特定の文化の中で生き、みことばと秘跡によってキリストを自らのうちに取
り込み、謙遜と喜びをもって愛の奉仕に従事し、あらゆる場所と時代の中ですでにわたしたち
を待ち受けているキリストの神秘を受け取ります。このようにしてわたしたちは、「あらゆる
種族とことばの違う民、あらゆる民族と国民」(黙示録 5・9)から集まった人々を迎え入れ
て、一つの教会となるのです。
b)教会が現存する文化的、歴史的、大陸的背景は、霊的、物質的に異なるニーズを表しま
す。このことは、各地方教会の文化、宣教の優先事項、各教会がシノドス的対話に持ち寄る関
心事やたまもの、そして彼ら自身を表現する言語を形づくっています。本総会の日々の間、わ
たしたちは教会であることの多様な表現を直接、そして多くの場合、喜びをもって体験するこ
とができました。
c)教会は、ますます多文化的、多宗教的な状況を生きています。そこでは、社会を構成する多
くの集団とともに、キリスト者が関わるべき諸宗教と文化の間の対話を生み出す方法を見つけ
ることが必要となっています。このような状況の中で教会の使命を生きるためには、存在し、
奉仕し、告げ知らせるというスタイルが必要です。それによって、橋を架け、相互理解を培
い、同伴し、耳を傾け、学ぶ福音化に携わろうと模索するのです。本総会中、他者との出会い
に向けて敷居をまたぐため、「靴を脱ぐ」というイメージが、対等な立場で、神聖な空間に対
する尊重と謙虚を表すしるしとして響きました。
d)移住によって各地方教会は、異文化共同体として再構築されます。難民や移住者は、その
多くがルーツを奪われた傷や、戦争や暴力の傷を負っていますが、彼らを受け入れる共同体に
とっては、刷新され豊かにされるための源泉となり、地理的に離れた教会と直接つながる機会
となることが多くあります。移住者に対する敵対的な態度がますます強まる中、わたしたち
は、手を広げた歓迎を実践し、新たな生活を築くのに同伴し、諸民族間の真の異文化交流を立
ち上げるよう求められています。移住者がもつ典礼の伝統や宗教実践を尊重することは、真に
歓迎することの不可欠な要素です。
e)宣教者たちは、全世界に福音を告げ知らせるために人生を捧げています。彼らの専心は福
音の力を雄弁に物語っています。しかしながら、「宣教」ということばが痛ましい歴史的記憶
を伴い、今日の交わりを妨げる文脈においては、特別な注意と感受性が必要となります。福音
の告知が植民地化、さらには大量虐殺へと結びついてきた地域もあるのです。このような状況
で福音宣教を行うには、犯した過ちを認め、これらの課題に対して新たな感受性を学び、植民
地主義を超えたキリスト教アイデンティティを確立しようとする世代に同伴する必要がありま
す。尊敬と謙遜は、わたしたちが互いに補い合い、異文化との出会いがキリスト教共同体の信
仰生活と思考を豊かにすることを認識するために必要な、基本的態度です。
16
f)教会は、すべての諸民族間の交わりを築く一環として、諸宗教対話の必要性を説き、その実
践を勧めています。暴力と分断の世界にあって、社会正義、平和、和解、共通の家のケアに向
けた、協調的な相互連帯のうちに、人類の一致、その共通の起源と共通の運命をあかしするこ
とは、かつてないほど急務となっています。あらゆる宗教、信条、文化の男女を通して、霊は
語りかけることができることを、教会は理解しています。

検討課題

g)教会であることの多様な表現の豊かさについて、わたしたちはより深い感受性を養うこと
が必要です。このためには、教会全体の次元とその地域性との間、また、教会の一致の絆の尊
重と多様性を窒息させる均質化の危険性との間の、動的バランスの探求が必要です。意義と優
先事項は異なる文脈の間で変化するものであり、そのためには、分権化の形を特定し、促進す
ることが必要です。
h)教会はまた、典礼生活や、道徳的・社会的・神学的考察といった重要な分野における分極
化や不信の影響を受けています。わたしたちは対話を通してその原因を理解し、それを克服す
るために、交わりと和解を活性化させる、大胆な歩みを進めなければなりません。
i)各地方教会において、福音化に関する理解の仕方の違いによって緊張が生じることがありま
す。つまり、生活のあかしの強調、人間の成長への取り組み、さまざまな信仰や文化との対
話、明示的な福音の告知などです。同様に、明示的にイエス・キリストを告げ知らせること
と、すでに蒔かれている「みことばの種(semina Verbi)」(訳注:『教会の宣教活動に関する教令』11 項)を探し求める中で各文化の特質を大切にすることとの間にも緊張が生じます。
j)福音のメッセージと、福音化を担った人々の文化との間に起こりうる混同が、研究すべき課
題の一つとして言及されました。
k)ますます強力になる武器の取引と使用によって紛争が増大しており、非暴力的な方法で紛
争に対処できるようにするために、より多くの考察と養成が必要であるという問いが、いくつ
かのグループの中で提起されています。これは、他の諸宗教との対話と協力の中で、キリスト
者が今日の世界に対してなしうる貴重な貢献です。

提案

l)多様で広範な文脈の中で、美しく、かつ親しみやすい方法で人々の思いや心情に語りかける
ために、わたしたちが使用する言語の問題に、あらためて注意を払う必要があります。
m)分権化の実験を運営・評価し、関係するすべての行為者とその役割を特定するための共通
の枠組みが必要です。一貫性を保つために、分権化に関する検討プロセスは、さまざまなレベ
ルで関係するすべての行為者の同意と貢献を想定し、シノドス的な形態で行われなければなり
ません。
n)先住民族司牧の取り組みには、彼らに対する、また彼らのために行われる活動ではなく、
共通の旅という形をとる新しい枠組みが必要です。あらゆるレベルの意思決定プロセスへ彼ら
が参加することで、より活力に満ちた、宣教する教会のために貢献できるのです。
o)本総会の作業から、第二バチカン公会議の教え、公会議後の教え、教会の社会教説につい
てよりよく学ぶことが求められています。わたしたちはより明確に、交わり、奉仕、対話にお
いて実効性のある「諸教会が集まる一つの教会」となるために、さまざまな伝統についてより
深く知ることが必要です。
p)移住者や難民の数が増加する一方で、彼らを受け入れる意欲は減少し、外国人に対する疑
いの目が強まる世界において、教会が、人種差別や外国人嫌悪と闘いながら、対話と出会いの
文化の中で、とりわけ司牧的養成を通して、断固として教育に取り組むことは適切なことで
す。移住者が社会に融合していくためのプロジェクトに取り組むことも同様に必要です。
q)人種に関わる正義に関して、対話と識別に新たに取り組むことを推奨します。人種に関わ
る不正義を生み出し、あるいは維持する教会内の仕組みを特定し、それに取り組まなければな
りません。人種差別の罪を根絶するため、いやしと和解のプロセスは、傷ついた人々の助けを
借りて始められるべきです。

6.東方典礼教会とラテン典礼教会の伝統

意見の合致点

a)東方典礼諸教会の中で、ペトロの後継者(教皇)と完全な交わりを結んでいる諸教会は、
典礼上、神学上、教会論上、教会法上の独自性を享受しており、それは教会全体を大いに豊か
にしています。とりわけ、多様性の中の一致という彼らの経験は、シノダリティの理解と実践
に貴重な貢献を提供することができます。
b) 歴史の中で、これらの教会に与えられた自治のレベルはさまざまな段階を経てきており、
ラテン典礼化(Latinization)のような、今では時代遅れとみなされる慣習や手続きもありまし
た。この数十年、これらの諸教会の固有性、独自性、自律性を認識する道はかなり発展してき
ました。
c)ラテン典礼が多数派の地域へ、東方典礼カトリック教会からの信者の大規模に移住することは、司牧上の重要な問題を提起しています。もし現在の流れが続き、あるいは増加すれば、東方典礼カトリック教会の信者は、教会法上の領域(canonical territories)内よりもディアスポラになる人のほうが多くなるかもしれません。いくつかの理由から、移住先国に東方典礼の位階制を設立することは、この問題に取り組むには十分でないのですが、ラテン典礼の地方教会が、シノダリティの名のもとに、移住してきた東方典礼の信者が同化の過程を経ずに、自らのアイデンティティを保ち、固有の遺産を育てられるように援助する必要があります。

検討課題

d)東方典礼カトリック教会の経験が、シノダリティの理解と実践に提供できる貢献につい
て、さらに研究することを提案します。
e)「自治権を有する(sui iuris)」諸教会のシノドスによって選出された司教に対して教皇が
同意するという役割や、教皇による、「教会法上の領域(canonical territory)」外の司教任命
については、いくつかの難題が残っています。総大司教の裁治権を「総大司教領(Patriarchal
territories)」の外まで拡大するという要請も、聖座との対話と識別の課題です。
f)さまざまなカトリック諸教会の信者がいる地域では、効果的な多様性の中の一致を、目に見
えるようにする手本を見出す必要があります。
g)東方典礼カトリック教会が全キリスト者の一致と、諸宗教対話・文化間対話の中での役割
に貢献できることについて検討する必要があります。

提案

h)まず、東方典礼カトリック教会の総大司教と主要大司教(Major Archbishops)による常設評議会の設立の要請が教皇に提出されました。
i)東方典礼カトリック教会、そのアイデンティティと使命について、また戦争と大規模移住の
状況における司牧的・教会法的課題に特化した特別シノドスを求める声もありました。
j)東方典礼とラテン典礼の神学者、歴史学者、教会法学者からなる合同委員会を設立し、さら
なる研究が必要な問題を研究し、この旅を続けるための提案を行う必要があります。
k)教皇庁の各省庁に、東方典礼カトリック教会のメンバーからの適切な代表者を置き、彼ら
の視点からの貢献によって教会全体を豊かにし、彼らが提起する問題に対処するのを助け、さ
まざまなレベルでの対話に彼らが参加できるようにすることが必要です。
l)東方典礼教会の信者の遺産を尊重する、受け入れの形態を促進するために、ディアスポラに
ある東方典礼の聖職者とラテン典礼の聖職者の関係性を強化し、それぞれの伝統についての相
互の知識と認識を促進する必要があります。

 

7.キリスト教一致への途上で

意見の合致点

a)シノドス総会の今回の会期は、深いエキュメニズムの姿勢のもとに幕を開けました。「と
もに」祈る前晩の祈りには、教皇フランシスコと並んで、他のキリスト教共同体の数多くの指
導者や代表者が出席し、これは、信仰の一致とたまものの交換の精神のうちに、ともに歩もう
という意志の明確なしるしとなりました。この非常に重要な出来事によってまた、わたしたち
はエキュメニカルなカイロス(時)の中にいることを認識し、わたしたちを結びつけるものは
分かつものよりも大きな存在であることを再確認することができました。というのも、「主は
一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの
上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられる」(エフェソ 4・5−6)からです。
b)シノダリティの原理の根底にある洗礼はまた、エキュメニズムの基礎でもあります。洗礼
を通して、すべてのキリスト者は「信仰の感覚」に参与し、だからこそ、シノドス総会がその
識別のプロセスで行ったように、彼らは自分の伝統にかかわりなく、注意深く耳を傾けられる
べきです。エキュメニズムの次元なしに、シノダリティはありえません。
c)エキュメニズムは何よりもまず、霊的刷新の問題であり、悔い改めと記憶のいやしのプロセ
スを必要とします。本総会では、友情、祈り、そして何よりも貧しい人への奉仕の取り組みを
分かち合う、さまざまな教会の伝統をもつキリスト者たちの証言を聞き、心を動かされまし
た。もっとも持たざる人に専心することで絆は強められ、キリストにおいてすでに全信者を結
びつけているものに焦点を当てる助けとなります。それゆえ、エキュメニズムが何よりもまず
日常生活の中で発展していくことが重要です。神学的・組織的対話においては、信頼と開放性
が高まる雰囲気の中で、相互理解を忍耐強く紡ぎ続けます。
d)世界の少なからぬ地域には、「血のエキュメニズム」が存在し、つまりそれは、イエス・
キリストを信じる信仰のためにいのちを捧げる、所属の異なるキリスト者たちから始まったも
のです。彼らの殉教のあかしは、どんなことばよりも雄弁です。一致は主の十字架から来るの
です。
e)すべてのキリスト者間の協力もまた、現代の司牧課題に取り組むための重要な要素です。
世俗化した社会では、こうすることで、福音の声をより力強いものにすることができ、貧困の
状況下では、正義、平和、そしてもっとも持たざる人の尊厳のために人々が力を合わせること
ができるのです。いつでも、どこでも、これこそが、集団、諸民族、国家を互いに対立させる
憎しみ、分裂、戦争の文化をいやすための基本的な資源となります。
f)異なる教会や教会共同体に属するキリスト者同士の結婚(混宗婚)は、交わりの知恵が成熟
し、互いに福音化し合える現実を生み出すかもしれません。

検討課題

g)本総会は、教会のシノドス的な構成についての理解の仕方において、キリスト教の教派間
の多様性を認識することができました。正教会でシノダリティは、主教たち(聖なるシノド
ス)独自の権威の団体性的行使の表現として、狭義に理解されています。より広い意味では、
教会の生活と使命にすべての信者が積極的に参加することを指します。他の教会共同体での実
践についてもいくつかの言及があり、わたしたちの議論を豊かにしました。これらはすべて、
さらなる研究が必要となります。
h)研究すべきもう一つのテーマは、さまざまなレベル(地方、地域、普遍)におけるシノダ
リティと(教皇)首位権の相互依存のつながりに関するものです。ステレオタイプや偏見を克
服するために、歴史の学び直しを共有することが必要です。現在進行中のエキュメニズム対話
は、第 1 千年期における実践に照らして、シノダリティと首位権が関連し、補完し合い、切り
離すことのできない現実であるという事実について、よりよい理解を提供しました。この繊細
な部分の解明については、回勅『キリスト者の一致』で聖ヨハネ・パウロ二世教皇が願ったよ
うに、一致のために奉仕するペトロの奉仕職に関する理解の仕方に影響を与えます。
i)「聖徒の交わり(Eucharistic hospitality, communicatio in sacris)」の問題は、秘跡的交わりと教会的交わりとの結びつきに照らして、神学、教会法、司牧的観点からさらに検討されるべきです。この課題は、とりわけ混宗婚カップルにとって重要です。それはまた、混宗婚に関するより広範な考察の必要性も挙げています。
j)さらに、「超教派」共同体や、キリスト教に刺激を受けた「リバイバル」運動といった現象
についての考察も要請されました。これらには、元々カトリック信者だった、多くの信者が参
加しています。

提案

k)2025 年は、すべてのキリスト者を一致させる信仰のしるしがまとめられたニケア公会議
(325 年)を記念する年となります。この出来事を共通の記念行事とすることは、過去に公会
議において論争の的となった課題がどのように議論され、ともに解決されたかをよりよく理解
する助けとなるでしょう。
l)摂理的なことですが、2025 年は復活祭の日付がすべてのキリスト教諸派で一致します。本
総会は、復活祭の祝いのために共通の日付を設定し、同じ日に、わたしたちのいのちであり、
救いである主の復活を祝うことができるようにしたいという強い希望を表明しました。
m)わたしたちはまた、あらゆるレベルのカトリックのシノドスの歩みに、引き続き他教派の
キリスト者に参加してもらい、2024 年の次会期の総会に、より多くの友好使節を招聘したいと思います。
n)現代世界における共通の使命に関し、エキュメニカルなシノドスを招集するという提案
も、一部から出されています。
o)また、エキュメニカルな殉教論を考案することも提案されました。

第 2 部 すべての弟子、すべての宣教者

8.教会は宣教である

意見の合致点

a)教会は宣教を有している、というよりもむしろ、教会は宣教「である」と断言します。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ 20・21)。
教会はおん父が遣わしたキリストから、自らの宣教を受け取ります。聖霊に支えられ、導かれ
る教会は、福音を知らない人々、受け入れない人々に福音を告げ知らせ、あかしします。人々
はこれを、イエスの宣教に根ざした、貧しい人の優先的選択をもって行います。このようにし
て、教会は神の国の到来にともに働き、教会はその「種」なのです(『教会憲章』5 項参
照)。
b)キリスト教入信の秘跡は、イエスのすべての弟子に教会の宣教の責任を与えます。男女信
徒、奉献生活者、叙階された奉仕者も、等しい尊厳を有しています。彼らは異なったカリスマ
と召命を受け、異なった役割と機能を実践していますが、キリストにおいて一つのからだを形
成するために、聖霊によって招かれ、養われています(一コリント 4−31)。彼らは皆、弟子で
あり、宣教者であって、福音化することの喜びと安らぎを経験する地域共同体の互恵的な活力
の中にいます。共同責任の実践はシノダリティにとって不可欠であり、教会のあらゆるレベル
において必要なものです。キリスト者一人ひとりがこの世界における一つの宣教です。
c)家庭はすべてのキリスト教共同体の柱です。両親、祖父母、そして家庭の中で信仰を分かち
合い、生活するすべての人は、最初の宣教者です。いのちと愛の共同体である家庭は、信仰教
育とキリスト教実践のための恵まれた場であり、共同体の中で特別な同伴を必要とします。教
会共同体内やその宣教への奉仕を含め、仕事と家庭生活の要求を両立させなければならない親
には、とくに支援が必要です。
d)宣教が教会全体を巻き込む恵みであるならば、信徒は、あらゆる分野の、ごく普通の日常
的な状況において、宣教を実現するためにきわめて重要な貢献をしています。何よりも、教会
をその場に現存させ、福音を告げ知らせるのは信徒です。たとえば、世界中で強い影響力をも
つデジタル環境の文化の中で、若者文化の中で、労働の世界やビジネス、政治、芸術、文化の
世界で、科学研究、教育、養成の世界で、共通の家のケアの中で、そしてとりわけ公共生活へ
の参加を通して、信徒は働いています。彼らはどこにいても、日常生活の中でイエス・キリス
トをあかしし、公然と信仰を他者と分かち合うよう求められています。とりわけ若者は、その
たまものと弱さをもって、イエスとの友情のうちに成長する中で、仲間たちに対して福音の使
徒となるのです。
e)信徒もまた、キリスト教共同体の中でますます存在感を増し、積極的に奉仕しています。
多くの信徒が司牧する共同体を組織し、活性化させ、信仰養成者、神学者、養成者、霊的同伴
者、カテキスタとして奉仕し、小教区や教区のさまざまな組織に参加しています。多くの地域
で、キリスト教共同体の生活と教会の宣教は、カテキスタの肩にかかっています。さらに信徒
は、営繕や運営の分野でも奉仕しています。彼らの貢献は教会の宣教のために不可欠であり、
そのために必要な能力習得は提供されるべきです。
f)信徒のカリスマは、その多様性において、聖霊が教会に与える明確なたまものであり、それ
を呼び起こし、認め、十分に評価しなければならなりません。司祭不足を補うために信徒が求
められる状況がありますが、そこでは、信徒としてもっている使徒職の性格が損なわれる危険
性があります。また、司祭がすべてを行い、信徒のカリスマや奉仕職が無視され、十分に活用
されない場合もあります。本総会で多くの人が表明したように、すべてのケースで、信徒を
「聖職者化」し、神の民の不平等や分断を永続させる、一種の信徒エリートを生み出す危険性
があります。
g)「諸民族への」宣教は、諸教会相互に豊かさをもたらします。というのも、それは宣教者
だけでなく、こうして祈り、物を分かち合い、あかしへと刺激を受けた共同体全体を巻き込む
からです。司祭不足の教会であっても、この取り組みを放棄すべきではないし、一方、司祭召
命がより多くある教会では、純粋に福音的なやり方で司牧協力することで、利益を得ることが
できます。男女の信徒、奉献生活者、助祭と司祭、とりわけ宣教会会員や「フィデイ・ドヌム
宣教者」といった、すべての宣教者は、知識の絆とたまものの交換を生み出すための重要な資
源です。
h)教会の宣教は、とくにその共同体的、宣教的性格が十分に表現される場合、エウカリスチ
アによって絶えず刷新され、養われます。

検討課題

i)宣教の鍵となるカリスマと奉仕職の関係について、神学的理解を深め続ける必要がありま
す。
j)第二バチカン公会議とそれに続く教導職の教えは、信徒独自の宣教を、現世的、世俗的現実
の聖化という観点から提示しています。しかし現実には、小教区、教区、そして最近では普遍
的なレベルでの司牧実践においてさえも、信徒は、教会自体の職務や奉仕職をますますゆだね
られるようになっています。神学的考察と教会法の条文は、このような重要な発展と調整を図
り、教会の宣教の統一感を損ないかねない二元論を避けるよう努めなければなりません。
k)わたしたちは、洗礼を受けたすべての人の宣教に対する共同責任を促進する中で、障がい
者の使徒的な能力を認識しています。彼らがもたらす人間性の計り知れない豊かさからもたら
される福音化への貢献を大切にしたいと思います。ときに教会共同体の中でさえ起こってい
た、彼らの苦悩、疎外、差別の体験を認識しています。
l)司牧組織は再編される必要があり、それによって、信徒のカリスマと奉仕職が認知され、発
揮され、活性化されて、シノドス的教会の宣教活力に挿入されるようになります。司牧者たち
の指導のもと、共同体は、宣教のために人々を派遣し、派遣した人を支援することができるよ
うになるでしょう。このようにして、これらの組織は、信者が社会の中で、家庭の中で、職場
生活の中で実践する宣教のために奉仕することを第一義とし、内部事情や組織的関心にのみ焦
点を当てることはありません。
m)『討議要綱』で使われている「全員が奉仕職を担う教会(an all-ministerial church)」(B2.2、d)という表現は誤解を招くおそれがあります。曖昧さを避けるために、その意味を明確化すべきです。

提案

n)若者の特別な参加を得ながら、各地方教会の必要性に応じた奉仕職を設定する上で、より
創造性が必要です。典礼で奉仕する人よりもすでにより広い責任のある既存の朗読奉仕者の責
任を、さらに拡大することが考えられます。これによって、より十全な、神のことばの奉仕職
となりうるわけで、ふさわしい状況では、説教することも含まれうるでしょう。また、家庭生
活を支え、結婚の秘跡を準備する人々に同伴することに取り組む既婚夫婦に任命する奉仕職を
設ける可能性も検討できるでしょう。
o)各地方教会は、信徒のカリスマと奉仕職に対する共同体の承認について、適切な方法と時
期を検討するよう求められています。これは、司牧の任務が授与される、典礼行事の機会に行
われうるものです。

 

9.教会の生活と宣教における女性

意見の合致点

a)わたしたちは神の似姿で、男女に創造されました。初めから、創造は一致と相違を示し、
女性と男性に共通する性質、招き、運命と、人間として二つ別々の体験を与えています。聖書
は女性と男性の補完性と互恵性を証言し、また、被造物に対する神の計画の中心にある男女の
契約を証言しています。イエスは女性を対話の相手とみなし、つまり、彼女たちに神の国につ
いて語り、ベタニヤのマリアのように、彼女たちを弟子として迎え入れました。これらの女性
たちは、イエスのいやし、解放、そして認知の力を体験し、ガリラヤからエルサレムへの道を
イエスとともに歩みました(ルカ 8・1−3 参照)。そして、復活の朝、一人の女性、マグダラ
のマリアに復活を告げ知らせることを任せたのです。
b)キリストのうちに、女性も男性も同じ洗礼の尊厳をまとい(ガラテヤ 3・28 参照)、霊の
多様なたまものを等しく受けています。男女は、キリストのうちに、愛し合う、競争しない関
係性という交わりへともに招かれ、教会生活のあらゆるレベルで表される共同責任に招かれて
います。教皇フランシスコがわたしたちに語ったように、わたしたちは「真福八端の力によっ
て呼び集められ、招かれた民」なのです。
c)本総会の間、女性と男性の間のすばらしい互恵性を体験しました。司牧的・秘跡的観点から女性を理解し、同伴するために、教会がより決定的な取り組みを行うように求める、シノドスの歩みのこれまでのフェーズでなされた呼びかけを、わたしたちはともに唱えます。女性は、さまざまなライフ・ステージにおいて、聖性に向かって歩む霊的体験を分かち合いたいと願っています。つまりそれは、若い女性として、母親として、友人関係において、あらゆる年代での家庭生活において、労働の世界において、奉献生活において、です。女性たちは、性暴力と経済的不平等、彼女たちをモノとして扱う風潮がいまだに根強く残る社会の中で、正義を求めて叫んでいます。女性は人身取引、強制移住、戦争の傷跡を負っています。女性に対する司牧的同伴と精力的な支援活動は手を携えて行われるべきです。
d)女性は教会に通う人の大多数を占め、しばしば家庭の中で最初の信仰の宣教者です。奉献
生活の女性は、観想生活においても活動生活においても、わたしたちのただ中で基本的で重要
なたまもの、しるし、あかしとなっています。女性の宣教者、聖人、神学者、神秘家の長い歴
史はまた、現代の女性と男性にとって涵養とひらめきの強力な源泉です。
e)信仰の女性、神の母であるナザレのマリアは、すべての人にとって、神学的、教会的、霊
的意味の唯一の源泉であり続けています。マリアは、神に注意深く耳を傾け、聖霊に心を開い
ていなさいという普遍的な呼びかけをわたしたちに思い起こさせてくれます。マリアは、産み
育てる喜びを知り、また、痛みと苦しみに耐えてきました。貧しい状況で出産し、難民とな
り、そしておん子の残忍な殺害の悲しみを生きてきました。しかし、彼女は復活の輝きと聖霊
降臨の栄光をもまた知っているのです。
f)多くの女性が、司祭と司教の働きに深い感謝を表明する一方で、傷ついている教会について
も語りました。聖職者主義、優越主義のメンタリティ、不適切な権威の表現は、教会の顔に傷
跡を残し、交わりを損ない続けています。あらゆる効果的な組織改革の基礎として、深い霊的
回心が必須です。性虐待や権力や権威の乱用は、正義、いやし、和解を求め続けています。わ
たしたちは、教会はいかにすれば、すべての人を守る空間となりうるかを問いました。
g)教会内で、男女間の関係における尊厳と正義が侵害されるようでは、わたしたちが世界に
向かって行う宣教の信頼性は低下します。シノドスの歩みは、関係性の刷新と組織上の変化が
必要であることを示しています。そうすることでわたしたちは、男女の信徒と奉献生活者、助
祭、司祭、司教など、すべての人の参加と貢献を、宣教のわざにおける共同責任をもつ弟子と
して、より歓迎できるようになるのです。
h)本総会はわたしたちに、女性を問題や課題として語る過ちを繰り返さないように求めま
す。そうではなく、神の計画の地平の奥深さをよりよく理解するために、男女が対話し、その
中で、従属、排除、競争のない、主人公としてともに相手を理解することのできる教会を推進
していきたいと願っています。

検討課題

i)女性の積極的貢献が認識、評価され、その司牧上のリーダーシップが教会の生活と宣教のあ
らゆる領域で増大するようにという明確な要望を、世界中の教会が表明してきました。すべて
の人のカリスマをよりよく表現し、司牧上の必要によりよく応えるために、教会はどのように
すれば既存の役割や奉仕職に、より多くの女性を加えることができるでしょうか。新たな奉仕
職が必要な場合、だれが、どのようなレベルで、どのような方法で、それらを識別すべきでし
ょうか。
j)女性が助祭の奉仕職に就くことに関して、さまざまな立場が表明されています。この措置は
聖伝に反し、容認できないという人もいれば、しかし、女性に助祭職への道が開かれることは
初代教会の実践を回復することになる、という人もいます。さらに別の人は、これを、時のし
るしへの適切で必要な対応であり、聖伝に忠実で、教会に新たな元気と活力を求める多くの
人々の心に響くものと識別する人もいます。この要請は、憂慮すべき人類学的混同を物語って
おり、もしそれを認められれば、教会は時代の精神に迎合してしまうことになると危惧する人
もいます。
k)この要望に関する議論はまた、助祭職の神学に関する、より広範な継続的考察とも関連し
ています(以下の 11.参照)。

提案

l)各地方教会は、さまざまなその社会的背景の中で、もっとも疎外されている女性たちに耳を
傾け、同伴し、ケアする働きを拡大することが奨励されます。
m)女性が意思決定過程に参加し、司牧活動と奉仕職において責任ある役割を担うことができ
るように確約することが緊急に必要です。教皇は、教皇庁内で責任ある地位で働く女性の数を
大幅に増やしました。同じことが教会生活の他のレベルでも起こるべきです。それに応じて、
教会法の条文も変更される必要があります。
n)女性の助祭職への参入に関する神学的・司牧的研究は、教皇によって特別に設置された委
員会の成果と、すでに行われてきた神学・史学・釈義学的研究の成果を活用して、継続される
べきです。可能であれば、その結果は本総会の次の会期で発表されるべきです。
o)教会内における雇用の不正義と不公正な報酬の事例、とりわけ、あまりにも頻繁に安価な
労働力と見なされる奉献生活の女性に対して、対処する必要があります。
p)養成プログラムや神学研究への女性のアクセスを十分に拡大する必要があります。叙階さ
れた奉仕職のより良い養成を促進するために、神学校の教育や養成プログラムにも女性を参加
させるよう提案します。
q)典礼文や教会文書が、男女に平等に考慮した言語の使用により注意を払い、また女性の経
験をより広範に描くさまざまなことば、イメージ、物語を含める必要があります。
r)適切に養成を受けた女性が、すべての教会裁判の裁判官になれるよう提案します。

 

10.奉献生活と信徒団体・運動体:カリスマのしるし

意見の合致点

a)教会は、もっとも特別なものからもっとも単純なものまで、カリスマのたまものからつねに恩恵を受けてきました。そのカリスマを通して、聖霊は、喜びと感謝をもって、教会を若返らせ、新たにします。聖なる神の民は、これらのカリスマのうちに、神がそれをもって、自らの宣教を支え、導き、照らす、摂理的な助けを見出すのです。
b)教会のカリスマ的次元は、奉献生活の形態の豊かさと多様性の中で明らかにされます。こ
のあかしは、どの時代においても、教会共同体の生活を刷新することに貢献し、何度も繰り返
される世俗の誘惑に対する解毒剤を提供しています。修道生活を構成するさまざまな家族は、
弟子であることの素晴らしさとキリストにおける聖性を表しています。それは、さまざまに異
なる祈りの形であれ、人々の中の奉仕であれ、また、共同生活の形を通してであれ、観想生活
の孤独を通してであれ、新しい諸文化の最前線においてであれ、そうなのです。奉献生活の中
にいる人々が重要な歴史的変化を最初に察知し、霊の呼びかけを心に留めることがよくありま
した。現代もまた、教会は彼らの預言者的声と行動を必要としています。キリスト教共同体は
また、奉献生活の共同体の中で試行錯誤を重ね、何世紀にもわたって培ってきた、シノドス的
生活と識別の実践を認め、注意の目を向けたいと思っています。彼らから、シノドスの道をど
う歩むべきかという知恵を学ぶことができます。多くの修道会は、管区や総会の運営におい
て、組織を刷新し、生活様式を見直し、新しい形の奉仕やもっとも貧しい人々への寄り添いを
活性化するため、霊における会話や、また似た形の識別を実践しています。しかし、対話の余
地を与えない、権威主義的スタイルに固執しているケースも見受けられます。
c)同様の感謝をもって、神の民は、新しい教会共同体の中で花開いてきた長い歴史をもつ共同体の中に、刷新の種を認めます。信徒団体、教会運動体、新しい共同体は、洗礼を受けたすべての人の共同責任が成熟していることの貴重なしるしです。これらの人々は、異なる召命の中で交わりを促進し、福音を告げ知らせる推進力をもち、経済的・社会的に疎外されている人々に近づき、共通善を推進しているところに価値があります。彼らはしばしば、シノドス的交わりと宣教への参加の模範となっています。
d)修道生活者や信徒団体のメンバー、とくに女性に対するさまざまな虐待の事例は、権威の
行使における問題を示すものであり、断固とした適切な介入が必要です。

検討課題

e)教会の教導権には、教会の生活と宣教における位階的たまものとカリスマ的たまもの両方
の重要性に関する、よく発達した教えの体系があります。このためには、教会理解と神学的考
察における成長が必要です。したがって、この教えに関する教会論的意義と具体的な司牧的意
味をあらためて検討する価値があります。
f)教会内での多様なカリスマの表現は、神の民がもっとも小さくされた姉妹、兄弟のそばに歩
み寄る預言者的存在となり、現代の文化に霊的側面についての深い感覚を提供するという取り
組みを強調しています。奉献生活、信徒団体、教会運動体、新しい共同体が、いかにそのカリ
スマを地方教会における交わりと宣教のために役立て、預言者的な現存を通して聖性へ向かう
現在の道を拡大できるかについて、さらに深い理解を発展させる必要があります

提案

g)わたしたちは、教会における司教と修道者の関係に関する、1978 年の司教省文書『ムトゥ
エ・レラチオネス』を改訂する機は熟したと考えます。この改訂を、関係者全員に意見を聞き
ながら、シノドス的方法で行うことを提案します。
h)同じ目的のために、各国司教協議会と、奉献生活および使徒的生活会の総長連盟や管区長
連盟は、出会いと協力体制を促進するための手段と道具を、シノドス的精神に則って設置する
ことが必要です。
i)個々の地方教会と地方教会が集合したグループの両方のレベルにおいて、宣教のためのシノ
ダリティを推進するには、信徒団体、教会運動体、新しい共同体の代表者が、彼らの生活と活
動と、地方教会のそれとの間の、永続的な関係を育てるために集うことのできる協議会や諮問
機関を設置し、その構成を整えることが必要です。
j)あらゆるレベルにおける神学養成において、なによりも叙階された奉仕者の養成において、
教会のカリスマの側面が強調されるよう注視し、必要に応じて強化すべきです。

 

11.シノドス的教会における助祭と司祭

意見の合致点

a)司祭は自分の司教の主要な協力者であり、その司教とともに一つの司祭団を形成します
(『教会憲章』 28 項参照)。助祭は、みことば、典礼、しかしとりわけ愛の行為の「奉仕
(diakonia)」において、神の民に仕える奉仕職のために叙階されます(『教会憲章』29 項参
照)。彼らに対して、シノドス総会はまず深い感謝の意を表し、彼らが孤独と孤立を経験して
いるかもしれないことを意識しながら、キリスト教共同体が祈り、友情、協力によって彼らを
支えるよう励まします。
b)助祭と司祭は、もっとも多様な形態の司牧活動に従事していて、それは、小教区で、福音
化で、貧しい人や疎外された人の中で、文化や教育の世界で、「諸民族」への宣教で、神学研
究で、霊性センターや霊的刷新の家で、その他多くの場です。シノドス的教会において、叙階
された奉仕者は、人々に寄り添い、すべての人を歓迎し、耳を傾ける態度で神の民への奉仕に
生き、一方で深い個人としての霊性と祈りの生活を培うよう求められています。なによりも、
「神の身分でありながら……かえって自分を無にして、しもべの身分になった」(フィリピ
2・6−7)イエスを模範として、権威の行使について再考することが求められています。本総会
は、多くの司祭と助祭が、その献身によって、よい牧者でありしもべであるキリストを、目に
見える形にしていることを認めています。
c)奉仕職と宣教に対する一つの障害は、聖職者主義です。これは神の招きに対する誤解から生
じており、それを奉仕というよりも特権と考え、説明責任を負うことを拒否する世俗的な仕方
で権力行使をすることに現れています。このような司祭職召命の歪曲に対しては、養成の初期
段階から神の民と近しく接触できる道を確保し、もっとも助けを必要としている人々の中で奉
仕する具体的体験を通して、対抗しなければなりません。今日の司祭の奉仕職の実践は、司教
や司祭団と調和し、他の奉仕職やカリスマと深く交わることなしには考えられません。残念な
ことですが、聖職者主義は司祭だけでなく、信徒にも現れうる態度です。
d)共同責任の文脈の中で、叙階された奉仕職を実践するには、自分の能力と限界を自覚する
ことが必要です。したがって、人間の養成に対する現実的なアプローチが、文化的、霊的次元
の養成と、弟子としての養成が確実に統合されたものとすることは重要です。この点に関し、
若者の出身家庭、その召命を成熟させるキリスト教共同体、そしてその成長に同伴する他の家
庭の貢献を過小評価することはできません。

検討課題

e)シノドス的教会の奉仕のため、洗礼を受けた全員を養成するという文脈の中で、助祭と司
祭の養成には 特別に注意が必要です。この要望は本総会で広く表明されてきたことですが、
神学校やその他の司祭養成プログラムを、共同体の日常生活と結びついた状態にすべきです。
権威主義的な態度につながり、召命の真の成長を妨げる形式主義やイデオロギーのリスクを避
けなければなりません。養成プログラムの見直しには、幅広い議論と考察が必要です。
f)司祭の独身制については、さまざまな意見が表明されてきています。すべての人がその価値
を、預言者的で、キリストを深くあかしするものと評価していますが、しかし司祭職において
神学的に適切だとされている性質が、とりわけ教会的・文化的背景がそれをより困難にしてい
る中で、ラテン典礼教会において、必然的に規律上の義務に置き換えられるべきものなのか、
と問う人もいます。この議論は新しいものではありませんが、さらなる検討が必要です。

提案

g)ラテン典礼教会では、さまざまな教会的背景の中、多様な仕方で終身助祭が実践されてき
ました。全く導入されていない地方教会もあれば、助祭が司祭不足の一種の代用品として認識
される懸念をもつ地方教会もあります。ときに助祭の奉仕職は、共同体の貧しい人、困窮して
いる人への奉仕というよりも、むしろ典礼の中で表現されることもあります。したがって、第
二バチカン公会議以降、助祭の奉仕職がどのように実施されてきたかについて評価することを
勧めます。
h)神学的観点からは、司祭職への前段階としてだけでなく、まずそれ自体として助祭職を理
解する必要があります。「過渡的な」形態と区別するために、助祭職の一義的な形態を「終
身」とすること自体、まだ十分に視点の変化が実現されていないことの表れです。
i)助祭職の神学を取り巻く不確実さは、ラテン典礼教会において、助祭職が第二バチカン公会
議以降、独自の永続的な位階奉仕職として復興されたという事実とも関連しています。さらに
深い研究が、女性の助祭職への任命という問題にも光を当てることになるでしょう。
j)宣教するシノドス的教会の視点から、叙階された奉仕職の養成について徹底的に見直すこと
が求められています。これはまた、養成をどのように構造化するかを決定している『(司祭養
成)基本綱要(Ratio fundamentalis)』の改訂を意味します。また同時に、司祭と助祭の生涯養成を考える上で、シノドス的なやり方を確実に採用することを推奨します。
k)透明性と説明責任の文化は、シノドス的教会建設を進めていく上で極めて重要です。司祭
と助祭が自分の奉仕職を遂行する中で、どのように責任ある役割を実行しているかについて、
定期的に監査できるような手順と組織を確認するよう、各地方教会に求めます。参加型の組織
や司牧訪問のような既存の制度は、その共同体を巻き込むことに注意しながら、この働きの出
発点となりうるものです。そうした形態は、地域の状況や多様な文化に適応させて、妨げや官
僚主義的な重荷にならないようにしなければなりません。どのようなプロセスが必要かの識別
は、地域、または大陸レベルで検討されるかもしれません。
l)その奉仕職を離れた司祭たちを、彼らの養成と経験を認める司牧奉仕に再び参加させる可能
性については、ケースバイケース、文脈にしたがって検討するべきです。

12.教会的交わりにおける司教

意見の合致点

a)第二バチカン公会議によれば、司教は、使徒の後継者として、地方教会での、諸教会間で
の、さらに教会全体との交わりに奉仕する立場にあります。したがって、司教像は、司教にゆ
だねられた神の民の部分、司祭団、助祭たち、奉献生活者、他の司教、そしてローマの司教に
よって織り成される関係の網の目においてのみ、適切に理解されうるもので、つねに宣教に向
かうよう考えています。
b)司教はその教会において、福音の告知と典礼に第一の責任を負っています。キリスト教共
同体を導き、貧しさを経験する人の司牧的ケアともっとも弱い立場に置かれている人の擁護を
推進します。一致の目に見える原理として、とりわけ、福音の告知と共同体の共通善のため
に、霊が遣わしたさまざまなカリスマと奉仕職を識別し、調整する任務を担っています。この
奉仕職は、共同責任、神の民に耳を傾けることによって行われる説教、謙遜と回心による聖化
と典礼祭儀が統治に伴うとき、シノドス的な仕方で実現されます。
c)司教は、地方教会においてシノドスの歩みを開始し、活気づけるために、かけがえのない役割を担っており、「全員、幾人か、一人」の間の相互作用を促進します。「一人」の司教(訳注:教皇)の奉仕職は、識別と意思決定のプロセスにより直接的に関与する「幾人か」(訳注:各司教)の貢献を通して、信者「全員」の参加を大切にするのです。司教自身がシノドス的なアプローチを採用するという確信と、その権威を行使するスタイルは、どのように司祭や助祭、信徒男女、奉献生活者がシノドスの歩みに参加するかに、決定的な影響を与えます。司教は、すべての人にとってのシノダリティの模範となるよう求められているのです。
d)教会が神の家族として認識されている状況では、司教はすべての人の父とみなされます。
しかし、世俗化された社会では、司教の権威がいかに体験されるかについて、危機が生じま
す。司教像が市民的権威の像と同一視されないように、司教職の秘跡的本性を見失わないよう
にすることが重要です。
e)司教への期待はしばしば非常に高く、多くの司教は、運営と法的責任が過重だと感じてい
ることを訴えており、したがって、その使命を十分に果たすことが困難となっています。司教
はまた、自らの弱点や限界とうまく折り合いをつけなければならず、ときには、人間的であれ
霊的であれ、必要な支えを欠くこともあります。ある種の孤独感は珍しいものではありませ
ん。だからこそ、一方で、司教の使命にとって本質的な側面にあらためて焦点を合わせること
が、他方では、司教相互や司祭団との真の友愛をはぐくむことが重要となります。

検討課題

f)神学的なレベルでは、司教と地方教会との相互関係の意義を大幅に深める必要があります。
司教は教会を導くと同時に、その歴史、伝統、カリスマの豊かさを認識し、保存することが求
められています。
g)叙階の秘跡と裁治権との関係の問題はより深く研究される必要があります。『教会憲章』や
使徒憲章『プレディカテ・エバンジェリウム』のような最近の教えとの対話の中、このような
研究の目的は、司教が共有する責任の原理の根底にある神学的・教会法的基準を明確にし、共
同責任の範囲、形態、意味合いを決定することです。
h)司教団内で完全な合意が得られていない信仰と道徳の問題について発言を求められると、
不快感を示す司教もいます。司教の団体性と神学的・司牧的見解の多様性との関係について、
さらなる考察が必要となります。
i)シノドス的教会にとって不可欠なのは、未成年者と社会的弱者を保護するために確立された
手続きを尊重し、透明性を確保する文化です。虐待防止に特化した体制をさらに発展させる必
要があります。虐待の取り扱いというデリケートな問題によって、多くの司教は、父親の役割
と裁判官の役割を両立させるという困難な状況に置かれています。司法の任務を別の機関にゆ
だね、教会法に規定することの妥当性を検討すべきです。

提案

j)法的にまだ定義されていない形で、司教の権威のスタイル、教区財産の財政運営、参加型機
関の働き、あらゆる可能な種類の虐待からの保護に関連して、司教の業績を定期的に見直す仕
組みとプロセスを実施する必要があります。説明責任の文化は、共同責任を促進し、虐待から
保護するシノドス的教会の不可欠な要素です。
k)司教の評議会(『新教会法典』473 条 4 項)や、教区司牧評議会と東方典礼教区
(Eparchial)司牧評議会(同 511 条、『東方典礼教会法典』272 条)を義務化し、共同責任を
行使する教区諸機関を、法的意味も含め、より実効性あるものにすることが求められます。
l)本総会は、教皇大使の権威と司教協議会の参与とのバランスをとりながら、司教候補者の選
考基準を見直すよう求めています。また、神の民からの意見聴取の幅を広げ、選考の際に不適
切な圧力を避けるよう配慮しつつ、より多くの信徒、奉献生活者をそのプロセスに含めるよう
要請されています。
m)多くの司教は、管区大司教座(教会管区)と地方区の機能を再考し、その構造を強化する
必要性を表明しています。それによって、司教たちはその地域における団体性を具体的に表現
することができ、友愛、相互支援、透明性、より広範な意見聴取を通して、司教たちの間で通
常の実践とすることができるのです。

 

13.司教団の中のローマの司教

意見の合致点

a)シノドスのダイナミズムは、ローマの司教の奉仕職にも新たな光を当てています。実に、
シノダリティは、地方、地域、普遍教会レベルにおける、教会の共同体的(「全員」[訳注:
神の民])、団体性的(「幾人か」[訳注:司教])、個人に関する(「一人」[訳注:教
皇])側面を、調和のとれた姿で統合します。このようなビジョンにおいては、ペトロから受
け継ぐローマの司教の奉仕職は、神の民全体を含む共同体的側面や、司教の奉仕職を行使する
団体性的側面と同様に、シノドスのダイナミズムに内在するものです。したがって、シノダリ
ティ、団体性、そして首位権は互いに関連しており、つまり首位権はシノダリティと団体性の
行使を前提とし、ちょうど両者が首位権の行使を含意するのと同じです。
b)すべてのキリスト者の一致を促進することは、ローマの司教の奉仕職の本性的側面です。
エキュメニカルな旅は、ペトロの後継者の奉仕職に対する理解を深めてきており、将来もそう
でなければなりません。回勅『キリスト者の一致』における聖ヨハネ・パウロ二世教皇の招き
に対する応答や、エキュメニズム対話からの結論は、首位権、団体性、シノダリティや、それ
らの相互関係に関するカトリックの理解を助けることができます。
c)教皇庁の改革は、カトリック教会のシノドスの旅にとって重要な側面です。使徒憲章『プレ
ディカテ・エバンジェリウム』は、「ローマ教皇庁は教皇と司教たちの間に立つのではなく、
むしろそれぞれの性質に適した形で、両者に仕える立場にあります」(I.8)と主張していま
す。また、「交わりの生活」(I.4)と「健全な分権化」(II.2)に基づく改革を推進していま
す。ローマの各省庁の多くのメンバーが教区司教であるという事実は、教会の普遍性を表現し
ており、教皇庁と各地方教会との関係をはぐくむべきものです。『プレディカテ・エバンジェ
リウム』の効果的な履行によって、異なる省庁間、および各省庁内の両方において、教皇庁内
のシノダリティはより大きく育てられるかもしれません。

検討課題

d)シノドス的教会における、刷新された司教職理解が、ローマの司教の奉仕職と教皇庁の役
割にどのような影響を与えるかについて、さらなる洞察が必要となります。この課題は、教会
統治における共同責任がどういった形で実現されるかについて重大な意味をもちます。普遍教
会レベルでは、教皇の奉仕職を、団体性により則った形で執行するための条文が、『新教会法
典』と『東方典礼教会法典』にあります。これらの条文は、実践においてさらに発展し、将来
の両教典の改訂の中で強化されうるものです。
e)シノダリティは、枢機卿たちがペトロの、すなわち教皇の奉仕職に協力しうる仕方に、そ
して定例および臨時枢機卿会議で彼らの団体性に基づく識別を促進する方法に光を当てること
ができます。
f)枢機卿団のメンバーの出身と文化の多様性をも考慮しつつ、彼ら相互の知己と交わりの絆を
はぐくむ、もっとも適切な方法を研究することは、教会の善のために重要です。

 

提案

g)「アドリミナ」の使徒座訪問は、地方教会の司牧者とローマの司教と、その教皇庁内のもっとも近しい協力者との関係性にとって、最高のときです。このような訪問が、交わりを育て、団体性とシノダリティの真の実践を促す、開かれた相互交流の場とさらになるように、その形式を見直す必要があります。
h)教会のシノドス的な構成に照らして、教皇庁の省庁が、司教たちの協議を強化し、多様な
状況により注意を払い、地方教会の声にもっと耳を傾けることが必要です。
i)教皇の代理者(訳注:大使など)が地方教会の奉仕を助け、完成させる使命を果たしている
各国の地方教会が、代理者の働きを評価する形態を確立することが適切であると考えられま
す。
j)ペトロの奉仕職に奉仕するシノドス的な評議会である、「枢機卿評議会(Council of
Cardinals, C-9)」の体験を拡大、強化することが提案されています。
k)第二バチカン公会議の教えに照らして、教皇庁の高位聖職者を司教に叙階することが適切
かどうか、慎重に検討する必要があります。

第 3 部 絆を紡ぎ、共同体を築く

14.養成へのシノドス的アプローチ

意見の合致点

a)洗礼を受けた一人ひとりは、主のたまものへの応答として自分自身の養成に気を配り、受
けた才能を活用し、それらが実を結んで、すべての人のために役立つようにすることが求めら
れています。主がその弟子たちの養成にささげた時間は、この教会的な養成の重要性を明らか
にしています。これはしばしば影に隠れて起きていることですが、宣教にとっては決定的なこ
とです。わたしたちは、こうした務めに携わっているすべての人々に感謝と励ましのことばを
述べるとともに、教会のシノドスの歩みから生まれた、養成に関する新たな方向性を受け入れ
るよう彼らを招きたいと思います。
b)イエスが弟子たちを養成した仕方は、わたしたちが従うべき模範です。イエスは単に教え
を授けるだけでなく、弟子たちと生活をともにしました。自らの祈りによって、「祈ることを
教えてください」という問いを彼らから引き出し、群衆に食事を与えることによって、困って
いる人を見捨てないことを教え、エルサレムへ歩むことによって、十字架への道を示しまし
た。福音書からわたしたちは、養成とは、単に自分の能力を強化するのみ、またはそれを中心
にするだけではなく、敗北や失敗さえも実りあるものとするみ国の「論理」へ回心することだ
と学ぶのです。
c)聖なる神の民は、養成の対象であるだけでなく、何よりもまず、養成にとって共同責任のあ
る主体です。実際、最初の養成は家庭で行われます。わたしたちが通常、両親や祖父母のこと
ばで、実際、その方言で、信仰の最初の告げ知らせを受けるのは、まさに家庭です。したがっ
て、教会で奉仕職を担う人々は、共同体にとって不可欠な協力関係の中で、信仰深い神の民の
知恵と結び合わせて貢献しなければなりません。これは、シノドス的な意味で理解される養成
の最初のしるしです。
d)キリスト教入信には、養成の道筋を示す指針があります。養成の中心は、ケリグマを深め
ること、すなわち、わたしたちに新しいいのちのたまものを与えるイエス・キリストとの出会
いです。カテケージスの論理は、わたしたちが皆、聖性に召された罪びとであることを思い起
こさせます。だからこそわたしたちは、ゆるしの秘跡が完成へと導く個人の回心への旅を歩む
のです。これはまた、わたしたちが多くのあかしに支えられながら、聖性への望みを育てる理
由でもあります。
e)神の民の養成が行われる領域は多岐に渡ります。神学的養成に加え、本総会は、特定の技
能の養成を要望しました。つまり、共同責任・聞き取り・識別の実践、エキュメニズム対話と
諸宗教対話の実施、もっとも貧しい人々への奉仕と共通の家のケア、「デジタル宣教者」とし
ての取り組み、識別プロセスの促進、霊における会話、合意形成と紛争解決、です。子どもと
若者の信仰養成には特別な注意が払われるべきで、その中には、共同体への能動的参加を含め
なければなりません。
f)シノドス的教会のための養成は、シノドス的方法で、つまり、ともに旅をしながらともに養
成された神の民全体で行われなければなりません。司牧奉仕職の非常に多くの領域で見られる
「権限委譲」という考え方を克服する必要があります。シノドスの鍵において、養成は、神の
民が家庭において、職場において、教会的・社会的・知的領域において、洗礼から来る自らの
召命を十全に生き抜くことができるようにすることを意味します。それは、一人ひとりが自分
のカリスマと召命に従って、教会の宣教に能動的に参加できるようにすることなのです。

検討課題

g)若者が人格的・性的アイデンティティにおいて成熟する歩みに寄り添い、独身と奉献された貞潔に呼ばれた人たちの成熟を支えるために、人間関係と性教育に関する働きを引き受けることを勧めます。こうした領域における養成は、すべてのライフステージにとって必要となる援助です。
h)それらの貢献を単に横並びに置くのではなく、より成熟したまとめへと統合するよう人間
経験を理解するため、人文諸科学間、とくに心理学と神学との対話を深めることが重要です。
i)これまでのシノドスですでに要請されてきたように、叙階された奉仕職のための養成プログ
ラムに、神の民が幅広く参加する必要があります。したがって、彼らに対する女性と家庭の貢
献を高めることのできる方法にとくに注意を払いながら、養成プログラムを徹底的に見直す必
要があります。
j)各国司教協議会は、地域レベルで協力し、デジタル方式の選択肢の開発を含め、利用可能な
あらゆる資源を活用し、生涯養成と学習の文化を創造することが奨励されます。

提案

k)シノダリティの観点から、神の民全体(信徒、奉献生活者と叙階された奉仕者)を対象と
した共同での養成のためにデザインされ意図されたプログラム提供を優先することを提案しま
す。各教区が各地方教会内でのこうした計画を奨励するよう努力すべきです。各国司教協議会
が地域レベルで協力し、デジタル方式の選択肢の開発も含め、利用可能なあらゆる資源を活用
して、生涯養成の文化を創造するよう奨励します。
l)過去のシノドスですでに要請されたように、叙階された奉仕職に就くための養成プログラム
には、 神の民のさまざまなメンバーが参加すべきです。女性の参加はとくに重要です。
m)叙階された奉仕職の候補者選考のための適切な基準とプロセスを適用し、神学生の予備プ
ログラムのための要件が確実に満たされるようにする必要があります。
n)叙階された奉仕者の養成は、地方それぞれの文脈の中で、シノドス的教会と首尾一貫した
方法でデザインされるべきです。特定の進路に踏み出す前に、候補者たちは、キリスト教共同
体の、初歩的であっても意味ある体験をすべきなのですが。養成では、信者の日常生活から切
り離された、人工的な環境を作り出すべきではありません。叙階された奉仕職の養成の要件を
守ることで、説教し、秘跡を執行し、愛の行為を実行する中で、神の民に奉仕する真の精神を
はぐくむことができるのです。このためには、司祭と終身助祭のための『基本綱要(Ratio
fundamentalis)』を改訂する必要があるかもしれません。
o)シノドスの歩みがどれほど受容されたかを評価し、シノドス的教会にふさわしいスタイル
での権威行使を促進するための変革を提案するために、総会の次の会期のための準備におい
て、司祭の初期養成と生涯養成の責任者への意見聴取を実施すべきです。

 

15.教会の識別と未解決の諸問題

意見の合致点

a)霊における会話の経験は、参加者全員にとって豊かなものでした。わたしたちのコミュニ
ケーション・スタイルは、自分の意見を自由に表現し、互いに耳を傾け合うことに恵まれ、非
常に好評でした。それによってわたしたちは、相手の立場を指示する理由づけにまず耳を傾け
ることなしに、自分の主張の繰り返しに基づく議論に早急に移ることを避けられました。
b)この基本的なアプローチは、デジタル技術や人工知能の人類学的影響、非暴力と正当防
衛、奉仕職に関する諸課題、セクシュアリティと「身体性」に関する諸課題など、教会内で議
論の的となっている諸問題を注意深く考察していくことを可能にする状況を作り出します。
c)これらやその他の領域における、教会としての真の識別を発展させていくためには、神のことばと教会の教えに照らしてこれらの諸問題に取り組み、適切に情報を得て考察することが必要です。空虚な公式の繰り返しを避けるためには、哲学的・神学的考察と合わせて、人文科学や社会科学を含む、対話の機会を提供する必要があります。
d)このような論争の的となる多くの諸課題の中心には、愛と真理の関係についての問いがあ
り、このことが論争の的となる多くの諸課題に影響を与えます。この関係は問題と考えられる
前に、実際、キリストにおいて啓示された恵みと考えるべきものです。なぜなら、イエスは詩
編に見られる約束を成就するために来たからです。「いつくしみとまことは出会い、正義と平
和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」(詩編 85・11−12)。
e)いくつかの福音箇所を読むと、イエスはその人の歴史や置かれた状況の独自性の中で人々
と出会うということが分かります。イエスは決して偏見やレッテルからではなく、全身全霊で
関わっていく真の関係性から始めます。それは、誤解や拒絶を経験するという代価を払ってで
も、です。イエスは、たとえそれが表現されないままであっても、助けを必要としている人々
の叫びにいつも耳を傾けています。愛を伝え、自信を回復させる行動をとり、その存在によっ
て新しい人生を可能にし、彼に出会った人々は変容して立ち去っていきます。これが起きるの
は、イエスが担っている真理は観念ではなく、わたしたちのうちにいる神の現存そのものだか
らであり、また、イエスがそれを抱いて行動する愛は単なる感情ではなく、歴史を変えるみ国
の正義だからです。
f)わたしたち自身が個人としても共同体としても回心してこそ、他者を支援することができる
のです。イエスが有する明快な福音のビジョンを、司牧上の選択に反映させる際に遭遇する困
難さは、わたしたちが福音に忠実に生き抜くことに苦闘していることの表れです。もしわたし
たちが教義を厳格に、裁くような姿勢で用いるなら、わたしたちは福音を裏切っており、もし
わたしたちがあわれみを「安っぽく」実践するなら、神の愛は伝わりません。真理と愛の一致
は、真の兄弟姉妹の間で起こるように、相手の困難さを、自分のものとするほどまでに引き受
けることを意味します。しかしながら、この一致は、忍耐強くともに歩む道に従っていくこと
によってのみ達成されるものです。
g)アイデンティティとセクシャリティの諸課題に関連するもの、いのちの終わり、込み入っ
た夫婦関係、人工知能に関連する倫理課題といったある種の課題は、社会のみならず教会にお
いても議論の的となっており、それはこれらが新たな問いを生じさせるからです。わたしたち
が発展させてきた人類学的な区分は、ときに、経験や科学的知見から生まれる複雑な諸要素を
把握するのに十分でないことがあり、より高度な精密さとさらなる研究を必要とします。個人
や教会のからだを傷つける、単純化された判断に屈することなく、この考察のために必要な時
間を取り、わたしたちの最高のエネルギーを投入することが重要です。これらのうち多くの課
題に関しては、教会の教えがすでに方向感を提示しており、しかしこの教えは明らかに、司牧
実践に変換される必要が依然としてあります。さらなる明確化が必要な場合であっても、祈り
と回心の中に溶け込んだイエスの行動は、わたしたちに進むべき道を示してくれます。

検討課題

h)キリスト論的啓示に由来する、愛と真理が織り成す原初的なものについての教会の考察を
継続し、これらの原点に忠実な教会の実践を目指すことが必要です。
i)さまざまな分野の専門家が、その個人的霊性とともに自らの専門知識をもち寄り、彼らが提
供するものが真に教会の奉仕となるよう勧めます。こうした文脈の中でシノダリティが意味す
るものは、宣教奉仕において、多様な状況の中、しかし目的意識を共有しながら、ともに考え
る用意ができているということです。
j)聖なる神の民の日常的な体験を出発点とし、その奉仕に身を置く神学的・文化的研究を可能
にする条件についての考察の必要性を確認しました。

提案

k)論議を呼んでいる教義的、司牧的、倫理的諸課題について、神のことば、教会の教え、神学的考察、シノドス的体験の評価に照らして、共同識別を可能にする取り組みを提案します。これは、守秘義務を守り、率直な議論を促進する組織的な状況の中で、多様な技能や背景をもつ専門家が徹底的に議論することによって達成することができます。適切な場合には、検討中の諸課題から直接影響を受ける人々も参加させるべきです。そうした取り組みは、総会の次期会期前までに開始されなければなりません。

 

16.耳を傾け、同伴する教会を目指して

意見の合致点

a)シノドスの歩みの最初の 2 年間と、本総会を含め、耳を傾けることは、わたしたちの体験
をもっともよく表すことばです。これは、耳を傾ける行為を、与え、受け取ることです。耳を
傾けるということは、深い人間的現実であり、各自が相手の旅に貢献し、自分自身の旅への貢
献を受け取るという互恵性のダイナミズムです。
b)地方教会レベルでシノドスの歩みに参加した多くの人々、とりわけ教会と社会の中で周縁
化されて苦しむ人々は、教会において、また教会によって、語り、聞いてもらうよう招かれた
ことで大変驚きました。深く耳を傾けられることは、肯定され尊厳が認められる体験であり、
人々や共同体を引き込む強力な方法です。
c)イエス・キリストを人生の中心に据えるには、ある程度、自己を空にすることが必要です。
この観点において、耳を傾けることは、相手のために空間を空けるために、喜んで「中心から
外に出る」ことを意味します。わたしたちはこのことを、霊における会話のダイナミズムの中
で経験してきました。それは、各人が自分の限界と自分の視点の偏りを認識することを強い
る、厳しい禁欲的な実践です。このため、教会共同体の境界を越えて語りかける神の霊の声に
耳を傾ける可能性が開かれ、変化と回心の旅を始めることができるのです。
d)耳を傾けることにはキリスト論的意義があります。つまり、出会った人に対するイエスの
態度を採ることを意味するのです(フィリピ 2・6−11 参照)。また、自らの名ではなく、共同
体の名において行動する、洗礼を受けた人々の行動を通して耳を傾けるのは教会なので、教会
的価値をももっているのです。
e)シノドスの歩みを通して教会は、聞いてもらい同伴を求める多くの人々やグループに出会
いました。まず第一に、わたしたちは若者を挙げますが、彼らが耳を傾け同伴してほしいとい
う望みは、若者シノドス(2018 年)と本総会の中で強く鳴り響き、若者の優先的選択の必要性
が確認されました。
f)教会は、聖職者や教会に任命された人による性的、霊的、経済的、組織的、権力的、良心的
虐待の被害者や犠牲者の声に、特別な注意と感受性をもって耳を傾ける必要があります。真に
耳を傾けることは、いやし、悔い改め、正義、和解に向かう道の基本要素です。
g)本総会は、それらがいのちの源泉と認識し、結婚と性倫理に関する教会の聖伝と教導権に
忠実でいる選択肢として独身生活を受け入れるすべての人々へ、親しみと支援を表明します。
キリスト教共同体は彼らに寄り添い、耳を傾け、その献身に同伴するよう招かれています。
h)さまざまな方法で、結婚の状態、アイデンティティ、セクシュアリティのために教会から
疎外され、あるいは排除されていると感じる人々も、耳を傾け、同伴してもらうことを求めて
います。本総会の中では、教会に傷つけられ、無視されていると感じている人々に対する深い
愛、いつくしみと共感の気持ちが感じられました。彼らは、裁かれることを恐れることなく、
安心して話を聞き、尊重してもらえる「家」と呼ぶべき場を欲しています。耳を傾けること
は、神のみ旨を探し求めてともに歩むための前提条件です。キリスト者はあらゆる人の尊厳も
つねに尊重しなければならないことを、本総会は何度も繰り返し語っています。
i)不平等社会の中で、さまざまな形の貧困、排除、周縁化に苦しむ人々もまた、話を聞いても
らい同伴を求めて教会に目を向けます。こうして耳を傾けることで、教会は貧困と周縁化の現
実を理解し、苦しむ人々への友情のうちに寄り添えるようになるのです。重要なのは、苦しむ
人々によってまた、教会が福音化されるということです。耳を傾けることで彼らの視点に気づ
き、具体的に彼らの側に身を置くことができ、彼らによって福音化されるのです。獄中の人々
の声に耳を傾け、同伴する奉仕に従事しているすべての人に感謝し、励ましたいと思います。
とりわけ彼らは、主のいつくしみ深い愛を体験し、共同体から孤立していると感じないように
する必要があります。教会に代わって、彼らは主のことばを実現します。「牢にいたときに訪
ねてくれた」(マタイ 25・36)。
j)多くの人が、しばしば見捨てられそうになるほどの孤独を体験します。高齢者や病者は、社
会から見えない存在となることがよくあります。小教区やキリスト教共同体が彼らに寄り添
い、耳を傾けるよう励ましたいと思います。「病気のときに見舞い」(マタイ 25・36)という
福音のことばに触発されたいつくしみのわざは、当事者にとって、また地域社会の絆をはぐく
むためにも深い意義を有します。
k)結局のところ、教会は、声が届きやすい人たちだけでなく、すべての人の声に耳を傾けた
いのです。地域によっては、文化的・社会的な理由から、若者、女性、マイノリティといった
特定グループの人々が、公共空間や教会の場で自由に自己表現することが比較的困難になって
いることがあります。抑圧的で独裁的な体制下で生活する場合も、こうした自由が奪われま
す。キリスト教共同体において権威が、解放するようにではなく抑圧的に行使された場合、同
じことが起こりえます。

検討課題

l)耳を傾けるには無条件の受容が必要です。これは、福音を告げ知らせることを妥協したり、
提案された何らかの意見や立場を支持したりすることではありません。イエスは、無条件に耳
を傾ける人々に対し新たな地平と道筋を開きました。わたしたちは、出会う人々と救いの「よ
い知らせ」を分かち合うために、同じことをするよう招かれています。
m)世界の多くの地域で広まっている、キリスト教小共同体は、洗礼を受けた人たちによる、また洗礼を受けた人たちの間での耳を傾ける実践を育てています。とりわけ都市の文脈にそれを適応できる方法を探求することで、その潜在力を高めることが求められています。

提案

n)排除されていると感じる人々が、より歓迎する教会を体験できるために、わたしたちは何
を変える必要があるでしょうか。耳を傾け同伴することは単なる個人の行為ではなく、教会活
動の一形態です。したがって、霊的同伴を十分活用しながら、さまざまなレベルで、キリスト
教共同体の通常の司牧計画や運営組織の中に、それらは位置づけられるべきです。シノドス的
教会は耳を傾ける教会であることが必要で、この責任は実践に移されなければなりません。
o)わたしたちは、この働きを一から始めるのではありません。もっとも貧しい人の中、移住
者や難民の中で同伴するカリタスの働きや、奉献生活者や信徒の団体に結びついた他の多くの
文脈を含め、数多くの団体や組織がすでにこの貴重な、耳を傾けるという働きを遂行していま
す。こうした働きをより統合的な方法で地方教会の共同体に結びつけることで、それが誰かに
委託された働きではなく、共同体全体の生活の一部と見なされるようになります。
p)さまざまな形で耳を傾け同伴する奉仕を行う人々は、遭遇する人の体験を考慮に入れ、適
切な訓練を受ける必要があります。また、彼らが共同体から支持されていると感じられること
も必要です。彼らの側としては、共同体が、自分たちに代わって行われる奉仕の意義を十分に
理解し、こうして聞き取った成果を受け取る必要があります。この奉仕をより重要なものとす
るために、耳を傾け同伴する奉仕職を確立するよう提案します。それは洗礼に基づき、さまざ
まな文脈に適用されるべきです。この奉仕職の授与方法は、共同体の関与を促進するものでな
ければなりません。
q)SECAM(アフリカ・マダガスカル司教協議会連盟シンポジウム)は、一夫多妻制の問題に
ついての神学的・司牧的識別と、一夫多妻制のもとで信仰を求めている人々への同伴を促進す
るよう勧められています。

 

17.デジタル環境における宣教

意見の合致点

a)デジタル文化は、わたしたちが現実をどのようにとらえ、その結果、自分と、互いと、周
りの人と、さらに神とさえどう関わるかについて、根本的な変化をもたらすものです。デジタ
ル環境は、わたしたちの学習プロセス、時間・空間感覚、身体性、対人関係、そして実際、考
え方の多くを変えてしまいます。現実と仮想という二元論は、人々、とくに、いわゆる「デジ
タル・ネイティブ」の若者たちの現実と経験を適切に表現するものではありません。
b)したがって、デジタル文化は別個の宣教領域というよりも、現代文化における教会の重要
なあかしの一側面です。だからこそ、シノドス的教会において特別な重要性を有するのです。
c)宣教師たちはいつも、キリストとともに新たな未開拓地へと旅立ち、聖霊は彼らを押し出
し、導いてきました。携帯電話やタブレット端末から入る空間を含め、人々が意味と愛を求め
るあらゆる空間で、今日の文化に手が届くかどうかはわたしたち次第です。
d)まずデジタル文化を理解することなしに、デジタル文化を福音化することはできません。
若者、中でも神学生、若い司祭、若い奉献生活者はその文化に直接、深く触れていることが多
く、デジタル環境の中で教会の宣教を実践していくのに一番ふさわしく、また聖職者を含め、
共同体の他の人々が、その文化の原動力により親しめるよう同伴するのにも適しています。
e)シノドスの歩みの中で、「デジタル・シノドス」(「教会は聞いている」プロジェクト)
の取り組みは、宣教の鍵となるデジタル環境の可能性、それに携わる人々の創造性と寛大さ、
そして彼らに訓練、同伴、仲間同士の交流と協力の機会を提供する重要性を表しています。

検討課題

f)インターネットは、子どもたちや家庭の生活の中でますます存在感を増しています。それは
わたしたちの生活を向上させる大きな潜在力を秘めていますが、いじめ、誤情報、性的搾取、
依存症などを通して、危害や傷害を与えることもあります。ネット空間が安全であるだけでな
く、霊的にいのちを与えるものであることを保証するために、キリスト教共同体がどのように
家庭を支援できるかを考えることは急務です。
g)優れたカテケージスや信仰養成を提供する、貴重で有益な教会関連のオンラインの取り組
みは数多くあります。残念なことに、信仰に関連する諸課題が、表面的、偏向的、さらに憎し
みに満ちた形で扱われているサイトも存在します。教会として、また個人のデジタル宣教者と
してわたしたちは、オンライン上の自分の存在が、コミュニケーションをとる人々にとって成
長の体験となるようにするにはどうしたらよいかを自問する義務があります。
h)オンラインの使徒的活動は、伝統的に理解されてきた地域の境界を越えて広がる空間と広
がりをもっています。このことは、どのようにそれが規制され、どの教会権威が監督責任を負
うのかという重要な問題を提起しています。
i)わたしたちはまた、新たなデジタル宣教の未開拓地が、既存の小教区・教区組織の刷新に与
える影響についても考えなければなりません。ますますデジタル化する世界において、どのよ
うにすれば、すでに行っていることを保存しようとする考え方にとらわれることなく、その代
わり、宣教の新たな形のためのエネルギーを解き放つことができるでしょうか。
j)新型コロナウィルス感染症の流行は、創造的なオンライン司牧の取り組みの幅を広げ、それ
はとくに、地域社会の高齢者や社会的弱者が経験する孤立・孤独体験の影響を軽減しました。
カトリックの教育機関もまた、オンライン・プラットフォームを効果的に活用し、ロックダウ
ン期間中も養成とカテケージスを提供し続けました。この経験がわたしたちに何を教え、デジ
タル環境における教会の宣教にどのような継続的利点があるかを評価する必要があります。
k)若者はまさに美を追求するものですが、多くの若者は、わたしたちがそこに彼らを招こうとし続けている教会の物理的空間を見放して、その代わり、オンライン空間を好んでいます。このことは、どのように彼らと関わり、彼らに養成とカテケージスを提供しようとするかに示唆を与えます。これは、司牧的観点から検討すべきことです。

提案

l)すでにデジタル宣教者として活動している人たちを認め、養成し、同伴する機会を提供し、
一方でまた、彼らが互いの中でネットワークづくりをすることを助ける必要があります。
m)他宗教の人や、信仰をもたなくても、人間の尊厳、正義、共通の家のケアを促進する共通
の目的のために協力する人を含む、協力的インフルエンサーのネットワーク作りは重要です。

 

18.参加のための諸組織

意見の合致点

a)信仰深い神の民の一員として、洗礼を受けたすべての人は、それぞれの召命、能力、経験
に応じて、宣教のための共同責任を負っています。したがって、全員が、全体としてのキリス
ト教共同体と教会を改革するステップを想像し、識別することに貢献するのです。このように
して教会は「甘美と慰めに満ちた福音化の喜び」(訳注:パウロ六世『福音宣教』80 項)を体験するのです。シノダリティの目的は、それを形づくる組織体の構成と機能において、宣教です。共同責任は宣教のためであり、つまり宣教が、わたしたちは真にイエスの名によって集まっているかを証明し、宣教が、参加する組織を官僚主義的な限界と世俗的な権力の論理から解放し、宣教が集いを実りあるものにするのです。
b)最近の教会の教え(とりわけ第二バチカン公会議『教会憲章』と教皇フランシスコ使徒的
勧告『福音の喜び』)に照らすと、宣教におけるすべての人のこの共同責任は、キリスト教共
同体、そして、そのすべての奉仕、すべての機関、各司牧団体を含む地方教会全体の構造の基
礎となる基準でなければなりません(一コリント 12・4−31 参照)。世界における宣教のため
に信徒を正当に認知することによって、キリスト教共同体のケアを司教と司祭だけにゆだねる
口実は成り立たなくなるのです。
c)もっとも卓越した権威は神のことばであり、それは、参加型の団体のあらゆる会議、あらゆる意見聴取、あらゆる意思決定プロセスにひらめきを与えるものでなければなりません。そのためには、あらゆるレベルにおいて、集いがエウカリスチアから意義と力を引き出し、祈りの中で聞き、分かち合われたみことばに照らされて行われる必要があります。
d)宣教するシノドス的共同体の識別と意思決定のためのさまざまな評議会の構成には、使徒
的な気質をもつ男女の参加がなければなりません。彼らは、教会に頻繁に出席しているからで
はなく、日常生活の中で真に福音的な証言者であることによって任命されるのです。神の民
は、世界とその周縁に住むことによってすでに宣教を生きている人々の声を、参加型の団体を
含め、自分たちの中で共鳴させることができれば、より宣教的になります。

検討課題

e)わたしたちが分かち合ってきたことを踏まえれば、重要なのは、多くの人が自分には無理
だと感じている中、いかにしてさまざまな評議会への参加を促せるかを問うことです。シノダ
リティは、各メンバーが教会の宣教のためのプロセスと意思決定に関与することによって成長
します。この意味で、わたしたちは、新たに生まれる教会内のキリスト教小共同体に励まされ
ています。彼らは神のことばとエウカリスチアを中心に、日々親密さをもって生きています。
f)『愛のよろこび』の中で教皇フランシスコは、教会が参加型諸機関の複合体へと変貌するよ
うゆだねており、この任務はこれ以上先延ばしできないものです。愛する関係が複雑になった
状況で生活する、洗礼を受けた男女の参加が、「さまざまな教会奉仕に……あってよいので
す。ですから、典礼、司牧、教育、組織といった領域で、まさに今行われている、しかし乗り
越えることのできる、さまざまな形の排除についての識別が必要になります」(299 項)。こ
の識別は、いくつかの地方教会で体験されている、小教区・教区共同体の参加型団体からの彼
らの排除にも関わることです。
g)教会の交わりの独自性という観点から、シノダリティの諮問的側面と審議的側面をどのよう
に織り交ぜることができるでしょうか。神の民のカリスマと奉仕職のたまものが多様であると
すれば、さまざまな参加型団体での助言、識別、決定の働きをどう統合できるでしょうか。

提案

h)神の民が福音化の使命の能動的主体であるという理解に基づき、キリスト教共同体と地方
教会における司牧評議会の義務的性格を法制化するよう提案します。また、信徒がその洗礼に
よって、決定を識別する上で果たすことができる役割を認識し、信徒の適切な存在感をもっ
て、 参加する団体を強化することが望ましいでしょう。
i)参加型団体は、責任を行使する人が説明責任を体験する、最初の事例となります。わたした
ちは彼らの取り組みを暖かく受け入れ、支援する一方で、彼らは、自分たちがその表現となっ
ている、共同体に対する説明責任の文化を実践するよう招かれています。

 

19.教会全体の交わりにおける教会のグループ化

意見の合致点
a)聖霊はそのたまものを共通善のために豊かに分配し、したがってわたしたちは、教会全体
の交わりの中で、各教会が多くのものを提供できると確信しています。教会をキリストのから
だとして見るとき、さまざまなメンバーが相互に依存し合い、同じいのちを分かち合っている
ことがより簡単に理解できます。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一
つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(一コリント 12・26)。ですから
わたしたちは、このような考え方から生まれる霊的態度、すなわち謙遜と寛容、尊敬と分かち
合いを育てたいのです。また相互の知識を深め、必要な組織を準備する意欲も重要で、それに
よって、霊的豊かさ、宣教的な弟子性、物質的な物のやり取りが具体的現実となるのです。
b)各地方教会のグループ化という問いは、教会におけるシノダリティの完全な実施にとって
基本であることが証明されました。地方教会のグループ化を含む、シノダリティと団体性の事
例をどう構成するかという問いに対して、本総会は、シノドスの歩みの第 1 フェーズを適切に
行うために、各国司教協議会と大陸別総会が行う教会的識別の重要性について合意しました。
c)シノドスの歩みは、『新教会法典』と『東方典礼教会法典』によって規定されている諸団体
が、これらの団体が地方教会から理解されることによって、より効果的にその機能を発揮する
ことを示しました。教会(Ecclesia tota[教会全体])が諸教会の交わりであるという事実によって、各司教は、教会の一司牧者としての自らの奉仕職を構成する一つの側面として、すべての教会のケア(sollicitudo omnium Ecclesiarum)の務めを、より直接的に、義務として果たすことが必要となります。
d)各国司教協議会は、シノドスの歩みの第 1 フェーズで決定的役割を果たしました。その歩
みは、大陸レベルでのシノダリティと団体性の必要性を浮き彫りにしました。これらのレベル
で活動する諸団体は、地域の現実とインカルチュレーションのプロセスを尊重しながら、シノ
ダリティの実践に貢献しています。本総会は、こうした方法で、教会統治における画一化と中
央集権化のリスクを回避できると確信しました。

検討課題

e)新しい教会組織を作る前に、既存の組織を強化し、活性化する必要があります。また、教
会のグループ化に関する改革の意義について、教会論的・教会法的研究が必要であり、そうす
ることで、それらはより十全にシノドス的性格を有するようになるのです。
f)第 1 千年期の教会におけるシノドス的実践を考察する中で、現在の教会法の秩序の中で古代
の制度をどのように復興することができ、司教協議会のように、それらが新しく創設された制
度と調和できるのかを研究するよう提案します。
g)司教協議会の教義的・法的性格をさらに研究し、地方教会で起きる教義的問いを含む、団
体性に基づく行為の可能性を認め、その結果、自発教令『アポストロス・スオス』に関する考
察を再開する必要があります。
h)部分教会会議(全体公議と管区会議)(訳注:『新教会法典』439 条)に言及する条文を改訂し、最近のオーストラリアの全体会議でえられた免除の例に従い、神の民の参加を増やすことができるでしょうか。

提案

i)教会法ですでに規定されている組織の中で、教会管区、または管区大司教座は、その地域内
の各地方教会の交わりの場として復興、強化されるべきです。
j)関係する当局は、教会のグループ化について明らかになった洞察に従い、地域、国、大陸レ
ベルでのシノダリティを実施すべきです。
k)必要な場合には、どの司教協議会にも属さない司教たちにとって有益で、国境を越えた教
会間の交わりを促進する、国際的な教会管区の創設を提案します。
l)東方典礼カトリック教会の位階も存在するラテン典礼諸国では、彼ら自身の法典で確立され
た統治の自律性はそのままに、東方典礼の司教をその国の司教協議会に加えるよう勧めます。
m)各大陸の特殊性を尊重しつつも、司教協議会の参加と、神の民の多様性を表す代表者たち
を擁する諸教会の参加を十分考慮した、大陸別総会の教会法的な構成がなされるべきです。

 

20.世界代表司教会議(シノドス)と教会会議

意見の合致点
a)「ともに歩む」体験で疲れてきたときでさえ、本総会は神の民であることの福音的な喜び
を感じていました。シノドスの旅の本段階における新しい体験は、概して歓迎されました。そ
のもっとも顕著なものは、以下のとおりです。つまり、シノドス開催のイベントからプロセス
への移行(使徒憲章『エピスコパリス・コムニオ』で示されたとおり)、司教とともに他のメ
ンバー、女性と男性の参加、友好使節の積極参加、総会準備のための霊的黙想会、聖ペトロ大
聖堂でのミサ、祈りの雰囲気と霊における会話の手法、さらに、パウロ六世ホールでの総会手
配自体もそうです。
b)シノドス総会は、その極めて司教のものとしての性格を保ちつつ、この機会に、教会生活
のシノドス的な次元(すべての人の参加)、団体性的な次元(教会全体に対する司教たちのケ
ア)、首位的な次元(交わりの保証人であるローマの司教による奉仕)の間の内在的なつなが
りを明らかにしました。
c)シノドスの歩みは、昔も今も、わたしたちを励ます恵みのときです。神は、教会の生活と宣
教を導くことのできる、シノダリティという新たな文化を経験する機会をわたしたちに与えて
います。しかし、宣教するシノダリティへの個人としての回心がもし欠けているなら、共同責
任の組織を作り出すだけでは不十分だということをわたしたちは思い起こしました。シノドス
の歩みは、教会のあらゆるレベルにおいて、その奉仕職とカリスマによってシノドスに参加す
るよう招かれた人々の、個人としての責任を減少させるものではなく、むしろ、よりいっそう
それを求めるものなのです。

検討課題

d)シノドスの旅の証人として、司教以外のメンバーの存在は評価されました。しかし、正式
参加者としての彼らの存在が本総会の司教的性格に与える影響については疑問が残ったままで
す。司教の特定の務めが十分に理解されない危険性を指摘する人もいます。司教ではない参加
者が本総会に招かれる基準もまた、明確にする必要があります。
e)2021 年 11 月の第 1 回ラテンアメリカとカリブ教会会議、ブラジルにおける神の民の組織、
オーストラリアの全体会議といった経験が報告されました。神の民の全員の意思決定への貢献
と、司教独自の任務とを(過度に分離することなく)区別しながら、今後、シノダリティと団
体性をいかに統合していくかを見極め、深めることが残された課題です。シノダリティ、団体
性、首位権の明確化は、静的あるいは直線的な形で解釈されるべきではなく、差異のある共同
責任における、動的な循環性に従って解釈されるべきです。
f)地域レベルにおいて、連続的なステップ(教会会議に続いて司教総会)を考えることは可能
な一方で、カトリック教会全体については、これがどのように提案されるかを明らかにするこ
とが適切だと考えられます。本総会で採用されたやり方がこの必要に応えると考える人もいれ
ば、教会会議に続いて司教総会を開催してその識別を結論づけるよう提案する人もいます。さ
らに、シノドス総会のメンバーの役割を司教たちに限定すること好む人もいます。
g)さまざまな学問分野の専門家、とりわけ神学者や教会法学者による、本総会への働きやシ
ノドス的教会の歩みへの貢献もまた、何らかのものを提供します。
h)また、シノドスの歩みと、インターネットやメディアによるコミュニケーションとの相互
作用についても考える必要があるでしょう。

提案
i)教会のあらゆるレベルで、シノドスの歩みが評価されるべきです。
j)世界代表司教会議(シノドス)第 16 回通常総会第 1 会期の成果が評価されるべきです。

旅を続けながら

「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」(マルコ 4・30)
主のことばは、教会のことばよりも優先されます。弟子たちのことばは、たとえシノドスのことばであっても、主ご自身が語ることの反響にすぎません。
み国を告げ知らせるために、イエスはたとえ話で語ることを選び、自然界、仕事場、日常生活のさまざまな要素など、人間生活のありふれた体験の中に、神の神秘を語るイメージを見出したのです。
こうしてイエスは、み国はわたしたちを超越するものではあるものの、遠い存在ではないことを知らしめたのです。この世のものの中に神の支配を見るか、それとも決して見ないか、のどちらかです。
地に落ちた一粒の種に、イエスは自らの運命を見ました。それは、価値も意義もなく朽ち果てていく運命にあるものでありながら、いのちのダイナミズム、止めることのできない、予測不可能な、過越のダイナミズムをもっているものです。いのちを与え、多くの人のためのパンとなるよう運命づけられたダイナミズムです。そのパンは、エウカリスチアとなるよう運命づけられました。
今日、人々が互いに覇権を争い、目に見えるものに執着する文化の中で、教会はイエスのことばを響かせ、その力をすべて生かして再びいのちを吹き込むよう求められています。
「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」(訳注:マルコ 4・30)。主のこの問
いは、いま、わたしたちの目の前にある仕事を照らしてくれます。いくつかの分野に分散し、すべてを効率と手続き至上主義の論理に落とし込めばいいという問題ではありません。そうではなく、この報告書の多くのことばや提案の中から、小さな種に見えても未来を担うものを掌握し、それが多くの人のために成長し成熟できる土壌にどうやって届けるかを構想することなのです。マリアはみことばを聞いた後、ナザレで自問しました。「どうして、そのようなことがありえましょうか」(ルカ 1・34)。答えはただ一つ。霊の陰にとどまり、その力に包まれることです。
これから第 2 会期までの期間を見据えて、これまでの旅路と、それを祝福してくださった主に感謝しましょう。わたしたちは次のフェーズを、旅を続ける忠実な神の民にとって確かな希望と慰めのしるしであるおとめマリアの執り成しと、今日その祭日を祝う聖シモン聖ユダ使徒の執り成しにゆだねます。この「まとめ」報告書が象徴する小さな種を、わたしたち全員が迎え入れるよう招かれているのです。
聖霊とともに!
ローマ、2023 年 10 月 28 日、聖シモン聖ユダ使徒の祝日

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2024年1月19日