【シノドス総会】☩「私は、教会を『神の誠実な民』と考えたい」と教皇、25日午後の全体会議冒頭で発言

Pope Francis at the XVIII General CongregationPope Francis at the XVIII General Congregation  (Vatican Media)

(2023.10.26 Vatican News)

    教皇フランシスコは25日午後のシノドス総会全体会議で、冒頭に特別に発言され、その中で、「教会は神の忠実な民であり、信じることにおいて間違いのないものです」と強調された。

 発言の全文以下の通り。

::::::::::::::::::

 私は、教会を「神の忠実な民」、「聖人」であり「罪人」、「(イエスの山上での)至福の教えとマタイ福音書 25 章の力によって召され、呼ばれた民」であると考えたいと思います。

 イエスはご自身の教会のために、当時のいかなる政治的計画も取り上げませんでした。パリサイ派も、サドカイ派も、エッセネ派も、熱心党も受け入れませんでした。 「閉じられた共同体」であってはならない―イエスは実直に、イスラエルの伝統を取り入れます-「あなたは私の民となり、私はあなたの神となる」。

*「忠実な民」という言葉を使うのは、その現実を矮小化するイデオロギーに与しないため

 

 私は、教会を「主の臨在の中を歩む、実直で謙虚な人々(神の忠実な民)」として考えるのが好きです。 これが私たちの「忠実な民」の宗教的な意味です。 そして、私が「忠実な人々」と言うのは、神の民の現実を「矮小化」する多くのイデオロギー的アプローチや計画に与しないようにするためです。 単に忠実な人々、あるいはまた「神の聖なる忠実な人々」、聖人、罪人。 そして、これが教会です。

*「忠実な民」の特徴の一つは「無謬性」

 この忠実な民の特徴の 1 つは、その無謬性です。そうです。「信じること」に間違いはありません。間違いないのは「信じること」です。 そして私は、それを次のように説明します-「 あなたが、聖なる母の教会が信じているのは何か、を知りたいとき、教導職の人々のところに行きなさい。なぜなら、彼がそのことを教える担当だからです。もしも、教会がどのようにして信じるのかを知りたいときは、信者たちの所に行きなさい」と。

 エフェゾの大聖堂の入り口に集まった忠実な人々のイメージを思い浮かべます。 物語(または伝説)によると、司教たちの行列が入場する間、人々は大聖堂に向かう通りの両側に立ち、コーラスで繰り返しました-「神の御母」、神の民として既に持っている教義が真実であることを、宣言するよう、高位聖職者たちに求めて。(彼らが手に棍棒を持ち、司教たちに見せた、という人もいます)。それが 史実なのか伝説なのかは分かりませんが、そのイメージには正当な根拠があります。

*信仰は多くの場合、母や祖母から女性”訛り”で子に伝えられる

 

 忠実な民、神の聖なる忠実な民には魂があり、私たちは、人々の魂について語ることができるので、解釈学、現実の見方、良心について語ることができます。 私たちの忠実な民は自分たちの尊厳を意識しており、子供たちに洗礼を授け、死者を埋葬します。

 私たち上位聖職者は、そのような人々の出身であり、その人々の信仰を、一般的には自分の母親や祖母から、受け取っています。パウロはテモテに語ります-「信仰は、女性の”訛り”で伝えられた。自分の子供たちに”訛り”で話すマカベア家の母のように」と。そして、信仰は、神の聖なる忠実な民の間で、その土地の方言、通常は女性”訛り”の方言で伝えられている、と言うことを、私は強調したい。

  これは、「教会が母であり、教会を最もよく反映しているのがまさに女性である」からだけでなく、(教会は女性です)、どのようにして待つか、どのようにして教会と忠実な民の内面的な力強さを見出すのかを知っており、おそらくは恐れと勇気をもって、限界を超えるリスクを冒し、一日の始まりの光と影の中で、そこに命があるかも知れないという直感(まだ希望にはなっていない)で、墓に近づきます。神の聖なる忠実な民である女性は、教会を反映しています。 教会は女性らしく、教会は妻であり、教会は母です。

*聖職者の行き過ぎた勤め、神の民の虐待は、教会の顔を傷つける

 

 聖職者たちが勤めにおいて行き過ぎをし、神の民を虐待すると、男性優位を誇示し、独裁者的な態度で教会の顔を傷つけてしまいます(シスター・リリアナ・フランコの発言を思い出すだけで十分です)。

 一部の教区事務所で、量販店のようなやり方で秘跡の”価格表”が掲示されているを目にするのは苦痛です。 教会は、歩みの途中で、聖人も罪人もいる、神の忠実な民となるか、それとも、さまざまなサービスを提供する人の集まりになってしまうか、いずれかです。そして、司牧のために働いている人々が後者の道を選ぶと、教会は”救済の量販店”になり、司祭は”多国籍企業の単なる従業員”になってしまいます。これは、聖職者主義が私たちを導く大きな敗北です。そして、とても情けなく、恥ずべきことです。(ローマの教会の仕立て屋に行って、カソックや帽子、またはアルブやレースで覆われたローブを試着する若い司祭の恥ずかしい姿を見るだけで十分です)。

*聖職者主義は、神の聖なる民を奴隷にし、民はそれに耐えて前に進む

 

 聖職者主義は鞭であり、主の花嫁の顔を汚し、傷つける、世俗性の一形態です。 それは、神の聖なる忠実な民を、奴隷にします。 そして神の民、神の聖なる忠実な民は、制度化された聖職者主義の侮辱、虐待、疎外に耐えながら、忍耐と謙虚さを持って前に進みます。

 そして、教会の”王子たち”について、あるいはキャリアアップとしての司教への昇進について、私たちは、何と当たり前のことのように話しているのでしょう! この世の恐怖、神の聖なる忠実な民を虐待する世俗性。

(教皇は以上をスペイン語でお話しになり、Vatican News が英訳し、それをもとに「カトリック・あい」が日本語に翻訳した).

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2023年10月26日