【”シノドスの道”日本では】⓷「聖職者のあり方、若者や子供たちに信仰教育、教会運営…」西日本の有志の会

世界代表司教会議に向けて”シノドスの道”を歩む私たちの声         西日本の教区信徒有志の会「愛のメタノイア」 2022年6月15日

  今、私たちは、この地球上で、膨大な権力を持った者がその力を使って人々を恐怖に陥れているのを目の当たりにしている。権威や権力を持つ者が自欲の為にそれらを行使すれば、世界には悲しみと憎しみと恐れや不安ばかりが広がっていく。パパ様が「シノドス準備文書」を出されたのは、このような世界にならないため、カトリックがイエスに倣う教会であるためではないだろうか。

しかしながら、シノドスについて私たちが受けた説明は、何か違っていた。説明された方が最後に自分なりの解釈を語られたのだが、「だめな自分だが、今のままの自分でいいと言われていると感じた」と言ったのだ。今のままでいい?それなら集まって分かち合う必要があるのだろうか?このまま進めば、形だけの集まりをし、美辞麗句を並べた文を提出し、ただ“気持ちよく”終わるいつものパターンにしかならない。なんとかして、教皇から与えられたこの機会を、私たちなりに有効に生かし、”シノドスの道“を歩みたい・・・

そのような思いから、西日本の教区信徒有志の会「愛のメタノイア」に20人が十数回にわたって集まり、少人数ながら私たちなりの意見を持ち寄った。コロナ下ということで文章のみで参加の方もあったが、それらも含めて纏めていった。相反する考えが出た時は、各個人の意見を尊重するために、無理矢理一つの考えに纏めることをしなかった。 以下がその内容である。

 

1 聖職者の生き方こそが重要課題

○まず、ここは日本、「日本人の教会」であることを認識してもらいたい。

○聖職者が机上の空論で(愛などを)語っても、信徒の心を打つことはない。愛には、人生の長い道のりが必要だと思う。

○司教・司祭・助祭は、聖職者であって一般的な職業ではないことを自覚して生きてもらいたい。権威ある者として尊敬され目標とされる人物でいられるよう不断の努力を怠らず、良い牧者の姿を見せていて欲しい。

○自分以外の聖職者の犯罪を他人事としてしか捉えていない者が多い。それを見て見ぬ振りを放置しているなら犯罪者と同罪だと思う。小さきものや弱者を大切にと教えながら、そういうものたちを食い物にして痛みもしていない様子には怒りすら覚える。聖職者が行った犯罪を忘れないでずっと戒めに持ち続けてもらいたい。

○政治的に優位に立つことや経済的な安心にばかり心をさいて行っている活動を軽いと感じる。正義ぶってよく考えもせず、怪しい慈善活動に参加したり、署名活動をしたりすることは、かえって教会を貶めることに気付いて欲しい。

○聖職者の中には、自分を神と同一視している者がいる。周りの声に耳を傾けず、謙虚な心を持ない聖職者は、教会をカルト集団化してしまう。聖職者が神ではないということを忘れないで欲しい。

○教会の為に働いたとしても当たり前のことをしているに過ぎない。その為の報酬を貰っているのだから。聖職者になるには、それ以上の働きが必要だと思う。

○終身助祭は、必要なのだろうか。私たちの周りを見渡しても、自薦による終身助祭聖職者に尊敬できる方がいない。聖職者という肩書きがなくても教会のために尽くすことはできるのに老後の暇な1~2年勉強しただけで聖職者になろうとするその神経も疑問である。

〇カトリック教会の”慣例”となっている司祭の独身制も正式に見直す必要がある。ハンス・キュンク師(スイスのカトリック司祭・神学者、故人)の著書「キリスト教は女性をどう見てきたか -原始教会から現代まで-」(教文館刊)には次のように書かれている。

「司祭の公式の独身制は、実際にはしばしば、司祭と女性たちとのあいだに不自然な緊張関係をもたらす。女性たちは、しばしば、性的な存在、司祭にとって性的な誘惑としてだけ見なされるのである。それゆえ、叙階された男性たちに対する結婚の禁止と女性たちの叙階の禁止は関連する。女性の叙階、そして教会の意思決定と指導機関における合議制の協働が実行されるのは、聖職者の独身制が真に(非婚自体へも)召命された者たちの自由に選択された非婚と置き換わるまで待つことになる」(178-179頁)。

教皇フランシスコは、司祭の独身制について柔軟なお考えを持っておられるようだが、バチカンとして、独身制を司祭の事実上の必須条件とする今のあり方を、公式に、明確に改める必要があるのではないか。

 

2 若者に誇れない教会では未来がない

○今の若者に誤魔化しは効かない。多くの情報を集めることが出来るし、自分なりの考えを持っているからだ。彼らに納得してもらえるようになるには、自分自身が信仰に基づいた生き方をしていなければ無理だろう。何人の大人信徒がそのように生きているだろうか。

○若者の声に真剣に耳を傾けることが大事。自分の人生が長いからといって、若者より豊かに経験し知識を持っていると言えるだろうか。経験者の振りをしても、一人分でしかない。そのことを自覚しよう。

イエス・キリストも若かったが、多くの人の指導者となった。若者の中に神の代弁者がいるかもしれない。大人は、注意深く見極めよう。

 

3 子供たちへの信仰教育

○信仰教育の責任者は、司祭であるべきだ。

○司祭が教えたらいいと言う考えもあるが、児童虐待の問題があるので司祭と信徒の間に一定の距離を保つ必要があると思う。

○教会学校で学んだことが記憶としてあまり残っていない。教会学校は、無くてもいいのではないか

○教会学校の指導者は、「子供たちの成長に大きな影響を与えている」という自覚と責任感をもって取り組むべきだ。

○教会学校は、指導者の力量に左右されやすい。目標やカリキュラムを確立することで改善できるのではないか。

○一番大事なことは、一定の躾をしながらも、それぞれが神様や周りの人たちから大切にされ愛されて居ることを伝えることだ。

○原罪を子供たちに刷り込まないで欲しい。子供たちの自尊心を奪いかねない。

○「裁くな」とか「赦せ」とか、安易に教えるべきでない。我慢するだけになってしまうことがある。被害者にならないためにも、しっかり自分を主張できるように育てたい。

○幼い時期に政治的価値観を刷り込むべきでない。政治的価値観は、その時の社会の利益に過ぎないからだ。たまに子供たちを政治に利用している姿を見るが、痛々しい。

 

4 キリスト教他派や他宗教との関係

  ○多神教の日本では、他の宗教へも敬意を払うのが当たり前である。カトリックが一神教であっても、それぞれの国や地域の習慣・風習を尊重すべきだと思う。

○キリスト教の他派との一致は、難しい。礼拝の位置づけ・聖体拝領の位置づけ・マリア様との関係・人類と神様の取り次ぎの意味…等が一致していないからだ。

〇“多神教”の日本では、他の宗教への敬意を払うのが当然だ。カトリックも、その国や地域の習慣や風習を尊重する必要がある。

〇キリスト教の他派との一致は、当然ながら、困難を伴う。礼拝の位置づけ、聖体拝領、聖母マリア、人類と神の関係など重要な点で大きな相違がある。世界レベルで、相違を乗り越える努力がされねばならない。

 

5 教会の組織・運営・活動について

  〇司祭の転任時期について、司教は各小教区の状況を的確に把握して判断してもらいたい。

〇教会行事は、老若男女が喜びをもって参加できる準備と内容が必要である。

〇教会共同体の不一致はある程度、容認する必要がある。教会のミサを大切にするためにも、そうすることが求められると思う。

〇“硬直的な考えの年配者”だけが居心地の良いような教会運営がされるべきではない。年配者には本来、その経験、識見によってすべての教会員のための教会運営に貢献することが求められているはずであり、信徒の減少、信徒の教会離れなどの問題への対応を真剣に考えてもらいたい。

 

私たちの提案

○不適切な聖職者がいるという現実がある。資格の更新制度や再教育システムを確立してもらいたい。

○聖職者と一般信徒らが月一集まって「信仰の在り方やカトリックと向き合う姿勢を考える」討論会を実施してはどうか。

○希望する聖職者に結婚を認める制度を教会法に盛り込むのはどうか。結婚を認める事で、家庭的かつ普遍的な愛を知ることができると考える。

○上級聖職者(司教・大司教・総司教)選出に於いては、投票制度を導入する。今のままでは、一般信徒の心情が蔑ろにされる可能性が大きいからだ。例えば、司教が交代する際、担当教区の信徒による投票を行い、過半数獲得で叙階・満たない場合に別候補で問うというのはどうだろうか。

○上級聖職者推薦システムを導入する。恣意的・利己的な選出に陥りがちな現状を打開するため、担当教区の各教会から代表者が集まり、その代表者の全員一致をもって候補者を選出するのがよいと考える。

 

終わりに

今回、シノドスに向けての集まりで、日常の中に神の計らいを感じて行動する若者や目には見えない愛(イエス)を信じようとする若者に出会った。パワーを感じた。かつては自分もそうだったかもしれないと思う出来事だった。

私たちは、このような若い人たちや子供たち、更にこれから生まれてくる命のために教会が本来の姿を取り戻さなければならないと考える。希望ある未来を思い描いて、諦めずに進みたい。

神様が傍にいて、このような私たちを支えてくれますように。

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2022年6月16日