(評論)性的虐待に絡む仙台の裁判で和解-日本の教会は、司教団は苦しむ声に”耳を傾けて”いるか

 カトリック教会では、聖職者による性的虐待問題が世界的に深刻な問題となり、信者の教会離れにもつなっがっている。日本の教会でも、西欧などの教会に比べれば件数は少ないが、”沈黙”の風土の変化を背景に被害者が声を上げるケースが増える傾向にある。

 長崎教区では、女性信者が司祭から性的虐待を受けたとされる事件があり警察当局が捜査に入ったものの、事の性質から立件が難しく不起訴となったが、それを受けた教区長(当時)の高見三明・前大司教の不適切発言などから(PTSDが悪化したとして、被害女性が教区を相手に損害賠償訴訟を長崎地方裁判所に起こし、20222月、教区に対し110万円の損害賠償命令が出されている。

 司祭の性的虐待に関係する訴えで、裁判所が被告の教区に損害賠償を命じたり、和解を勧告したのは、今回の仙台が二件目とみられるが、男子修道会・神言会の司祭の性的虐待に関して同会に損害賠償を求める被害女性の訴えを受けた裁判が、東京地方裁判所で新年1月に始まる予定であり、他にも声を上げようとする被害者が複数いることが、取材の過程で把握されている

 日本の司教団では、バチカンからの指示を受けて性的虐待防止などのガイドラインの作成や各教区の女性や子供の保護のための担当司祭、窓口の設置などはしているものの、長崎教区では窓口の担当職員が複数の司祭のパワハラでPTSDを発症、休職に追い込まれ、窓口は一時、閉鎖となった。東京教区のように担当司祭が、理由も公開されないまま、人事異動期でもないのに突然、解任されるなどの事態も起きている。

 また司教団は、ガイドライン決定から2年半たって、ようやく一回目の監査結果を今年9月に明らかにしたが、「各教区から提出された確認書によれば、2022年4月から2023年3月の間に性虐待の申し立てがあったのは4教区、5件であった」などとするだけで、具体的な教区名、申し立てやそれに対する教区の対応などの説明はなく、「性虐待の申し立てのあった各教区には、監査役から提出された調査報告書に記載された所見を通知し、ガイドラインに基づいてさらなる対応をするよう求めた」とあるのみ。被害者に寄り添おうとする姿勢も、虐待問題に真剣に対応しようとする意志もうかがえない。

 今回、一応の決着を見た仙台での裁判の過程でも、それが象徴的に表れた。

 原告被害者の女性は約40年前、24歳だった時に、気仙沼市に赴任してきた司祭に、夫の家庭内暴力などの悩みの相談に行ったが、その際に性的虐待に遭った。その後、「自分が教会を汚した」と罪の意識にさいなまれ、子育てに懸命になったものの、アルコール依存症やギャンブル依存症に陥り、離婚も経験するなど悲惨な人生を続けたが、約30年経って、主治医の精神科医から「あなたは悪くない」と言われたことで、性的虐待は自ら望んだものではなく、被害に遭ったことを認識。

 加害司祭や教会から虐待行為を認め、謝罪を受けることで、精神的に立ち直りたい、との一心で教会に被害を申告したが、第三者調査委員会による調査報告は「申告行為は存在した可能性が高い」としたものの、教区や加害司祭は何の対応もせず、謝罪と損害賠償を求める提訴に踏み切らざるを得なかった。裁判所の勧告による和解協議でも、性的虐待の行為があったことを認めない教区の姿勢は変わらず、今回の決着まで3年3か月を要した。

 その間の裁判所での聴取でも、原告側証人の精神病理学者が「教区側の対応は原告のPTSD症と密接に関係している」などと証言したのに対し、被告仙台教区の代理人が「原告は、夫や義父母からのパワハラを受けていた…性的虐待をしたとする神父やその後の教区の対応だけとは言えない」としたり、元司教は原告、被告双方の代理人弁護士の尋問に「よく覚えていません」「分かりません」とあいまいな答えに終始。あげくに、教区事務局長として対応に当たっていたはずの司祭が傍聴席で居眠りをし、裁判長から「眠るなら法廷の外に出なさい」と異例ともいえる叱責を受けるなど、原告女性をさらに精神的に傷つけるような対応をしていた。

 法律によると「強制性交」の刑事の時効は15年、民事の時効は5年ないし20年とされている。幼少期あるいは青年期に被害を受けた場合、家族や知人に打ち明けることは難しく、まして公的機関に相談したり、訴えることは通常は極めて困難であり、司法当局に訴えるのに時間を要し、時効になる可能性が高い。事の性質から第三者の証言を得るのは難しく、物証も確保しておくことが至難であることから、刑事上の処罰を求めることは、長崎のケースを見ても、ほとんど不可能だ。

 まして、”聖職者主義”がいまだに支配的な日本の多くの教会で、訴えを起こすことは司祭、さらには司教と対峙する、教会の信者たちからも批判的な目で見られ、教会から離れることも覚悟せねばなららない。被告の教会側は、教区の予算で弁護士を雇えるが、原告側はそうした手続きに不慣れなうえ、費用も自分で負担せねばならない。つまり、被害者は、正当な裁きを求め、心の救いを得ようとしても、圧倒的に不利な立場に置かれている、ということだ。

 以上のことから引き出さる結論は、教会として、司教団として、被害者が司法に頼らざるところまで追い込まれないように、訴えを受けた事案に対して、公正、客観的な調査を行い、加害者とされる司祭などに真実を語らせ、それに基づいて加害者とされる司祭や、その人事・管理責任を持つ関係者に対する厳正な措置をとるようにすること。

 また、この過程で、被害を申告した人を精神的に傷つけないよう十分に配慮し、調査結果を公表し、さらに最も大事なことは、申告者に対して、十分な精神的ケアがされるようにし、司祭、信者によって温かく教会に受け入れられるようにすることだ。そのためには、現行のガイドラインの徹底的な見直し、具体的な体制の整備、そして何よりも、被害を受けたとされる人に寄り添い、その声に真摯に耳を傾け、心を癒やすことに努める姿勢を、教会関係者に徹底することだ。

 聖職者による性的虐待問題が後を絶たないことに心を痛める教皇フランシスコは、11月28日にフランス・ナント教区の聖職者による性的虐待被害者のグループと面会された際、聖職者による性的虐待の被害者が「家族とともに何が真実で善であるかを追求してきた場で、最大の悪に苦しんでいる」とされ、「被害者や生存者の声に耳を傾ける』という積極的かつ敬意を持った心の広さが、受け手にあれば、虐待に対する”沈黙”は打ち破ることができる」と語られている。「受け手」としての日本の教会、そして何より司教団は、この言葉をかみしめる必要があるだろう。

(「カトリック・あい」南條俊二)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2023年12月28日