(評論)傷ついた”羊”を守ろうとしない”牧者”たちは”シノドスの道”を歩めるか

「虐待に対する”沈黙”を打ち破る」ために教皇が求める「広い心」を日本の教会、司教団は持っているのか

 「司祭から繰り返し性暴力」‐東京の女性信者が神言会に損害賠償求める裁判始まるの記事を「カトリック・あい」に23日夕から掲載(朝日新聞も翌24日の朝刊に掲載)してわずか3日の26日夕現在で、閲覧件数が300件を大きく超えている。異例の閲覧件数の高さは、そのまま多くの日本の信徒、さらに司祭の間にも、大きな苦痛と不安の中であえて裁判に臨むことになった原告被害者への理解と共感が広がっていることを示しているように思われる。

 カトリック教会では、聖職者による性的虐待問題が世界的に深刻な問題となり、信者の教会離れにもつなっがっているが、1月に入ってからも、南米ボリビアで「性的虐待被害者の会」がイエズス会の司祭9人とボリビア管区を相手取って訴訟を起こしたことが明らかになるなど、いまだに終息を見せていない。

 日本でも、教会自体で責任ある対応ができずに訴訟になった、あるいはなっているケースが、確認できただけで長崎で2件、仙台で1件、そして今回の東京での1件があり、他にも問題のケースが数件あると見られる。

 このうち、仙台市の女性信徒の場合、カトリック仙台教区の司祭から性的暴行を受け、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症、その後の教区関係者の不適切な対応、発言もあって多大な精神的苦痛を受けたとして、同教区などに謝罪と損害賠償を求め、仙台地方裁判所に提訴していた事件が昨年12月、和解金の支払いなどで一応の決着を見た。

 だが、教区から本人への謝罪も公けにはなく、精神的なケアもなく、それどころか一部の信徒たちから「和解金目当てに裁判をやったのか」という本人の心の傷口にさらに塩をすり込むような声も出て、本人を教会に絶望させる事態に追い込んでいる、という。

 日本の司教団は、バチカンからの指示を受けて性的虐待防止などのガイドラインの作成や各教区の女性や子供の保護のための担当司祭、窓口の設置などはしている。だが、長崎教区では窓口の担当職員が複数の司祭のパワハラでPTSDを発症、休職に追い込まれ、窓口は一時、閉鎖となり、東京教区のように担当司祭が、理由も公開されないまま、人事異動期でもないのに突然、解任されるなど、窓口そのものの信頼を大きく損なう事態も起きている。

 また司教団は、ガイドライン決定から2年半たって、ようやく一回目の監査結果を昨年9月に明らかにしたが、「各教区から提出された確認書によれば、2022年4月から2023年3月の間に性虐待の申し立てがあったのは4教区、5件であった」などとするだけだった。
 具体的な教区名、申し立てやそれに対する教区の対応などの説明はなく、「性虐待の申し立てのあった各教区には、監査役から提出された調査報告書に記載された所見を通知し、ガイドラインに基づいてさらなる対応をするよう求めた」とあるのみ。被害者に寄り添おうとする姿勢も、虐待問題に真剣に対応しようとする意志もうかがえない。

 聖職者による性的虐待が後を絶たないことに心を痛める教皇フランシスコは、昨年11月にフランス・ナント教区の聖職者による性的虐待被害者のグループと会見された際、聖職者による性的虐待の被害者が「家族とともに何が真実で善であるかを追求してきた場で、最大の悪に苦しんでいる」とされ、「『被害者や生存者の声に耳を傾ける』という積極的かつ敬意を持った心の広さが、受け手にあれば、虐待に対する”沈黙”は打ち破ることができる」と語られている。

 傷ついた被害者に耳を貸そうとせず、それどころか代理人弁護士を立てて、加害者と見なされる司祭を守ろうとする人々に、教皇のこの言葉は届いているのだろうか。このような態度を続ける限り、司教も司祭も、そして信徒が互いに耳を傾け、共に歩もうと教皇が願って始められた”シノドスの道”を歩むことが、果たしてできるのだろうか。

 教皇の言われる「受け手」としての日本の教会、そして何より司教団は、昨年12月の仙台での和解とその後の教会の対応、今回の東京での裁判開始を機に、改めて、この教皇の言葉をかみしめる必要がある。

(カトリック・あい 南條俊二)

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2024年1月26日