・聖職者による性的虐待ー長崎教区は賠償命令、仙台教区は和解勧告、問われる新教区長2人の対応

(2022.3.27 カトリック・あい)

 ウクライナにおけるロシア軍の罪もない市民、女性や子供たちを巻き込んだ残虐非道な攻撃が続き、教皇フランシスコの25日のバチカン・聖ペトロ大聖堂での共同回心式に合わせた、ウクライナの速やかな平和回復を聖母マリアに祈る奉献に、日本を含む世界の教会が参加した(ことになっている)。

 だが、日本の教会には、もう一つ、ウクライナ問題に比べれば”小さい”が、その信頼に関わる差し迫った課題がある。長崎、仙台両教区での聖職者の女性信者に対する性的虐待にからんだ裁判への、両教区の対応だ。

 

*裁判所から賠償命令を受けた長崎教区、一か月たっても対応が見えない

 長崎教区のケースについては、2月22日に長崎地方裁判所が、すでに教区司祭からの性的虐待で心身症に陥っていたにもかかわらず、高見大司教(当時)の心無い言葉で、さらに深刻な精神的打撃を受けたとの原告女性の主張を認め、長崎教区に対して賠償命令を出しいるが、教区側がどう対応するのか、したのか、いまだに明らかではないようだ。

 仙台教区のケースは、原告女性が2020年9月、仙台司法裁判所に、加害者司祭(当時)を「被害者原告に対する性的虐待の直接的な加害者」、司教(当時)を「加害者を指導・監督すべき仙台教区裁治権者としての注意義務違反、原告被害者への不適切な発言および対応による二次被害の加害者」、カトリック仙台教区を「信徒への安全配慮義務違反、本件事案の調査義務違反、被害事実の隠蔽、加害者への適切な処分ならびに被害者への適切な対応についての不作為があった」として、三者を相手取り、損賠賠償を求める民事訴訟を起こした。

 原告は、被告三者の違法行為により、①身体的虐待を受け、②PTSDを発症したのみならず、③その後の被告らによる不適切な対応により多大な精神的苦痛を与えられた、と訴えている。被告加害者自体が、本来なら刑事責任が問われるべき事案であるものの、既に刑事時効が成立しているところから、事実の確定を求めるため、やむを得ず除斥期間の経過していない損害賠償請求事件として訴えた。

*仙台教区は裁判所から和解勧告を受け、話し合いを始めたが…

 結審を迎えた今月初めに、仙台地方裁判所の担当判事から原告、被告双方に対し、和解のための話し合いに入るよう提案があり、双方が同意して、和解に向けた手続きが始まっている。

 今月23日に非公開で行われた仙台地裁での、双方からの和解条件についての一回目の聴取では、原告側から、①司教が公的な場での真摯な謝罪をする、聖職者による性的虐待の再発防止に、外部機関の点検を受けつつ、教区全体で具体的に取り組む、②原告に対する教区の信徒たちの誤解を解くため、原告が虐待事件の真実を語る場を設けるーなど、具体的な提案をした、という。

*被告側の和解素案は”加害”に反省なく、「対応に欠ける所があったが…事案に鑑みて和解する」と

 問題は、教区側が代理人弁護士を通して出した和解条件の”素案”だ。教区側はその具体的内容を明らかにしていないが、関係者によれば、その概要は、①この訴訟は、原告が被告から性的侵害行為を受けたとして提起され、被告らはその事実を全面的に否認している②だが、教区が設置した第三者調査委員会が、原告の主張する性的侵害行為は「存在した可能性が高い」と判断しているので、「事案の性格に鑑みて」和解する⓷第三者委員会の報告書が出されたのに対して、速やかに対応すべき点で欠けるところがあったことを謝罪する④被告の仙台教区は、原告が教区の元信者であって、その信者が「性的侵害行為」の申告を行ったことを考慮して「解決金」を支払う、ということのようだ。

 要すれば、「自分たちは悪くないが、第三者委員会が『性的虐待が存在した可能性が高い』との判断を出しているので、和解する、第三者委員会の報告に速やかに対応すべき点で欠けることがあったことは反省する」という内容で、被告たちとしては、あくまで性的虐待行為を認めず、謝罪もしない、反省するところがあるのは「速やかに対応しなかった」ことだけ。しかも、被告をどういうわけか「元信者」と決めつけ、信者だったから「解決金」で片を付ける、というように読み取れる、まさに「血も涙もない」対応。これが聖職者の取るべき態度のなか、あきれてものが言えない、とは、このことではないか。

 そもそも、性的虐待行為を第三者が目撃しているケースは少ないし、まして教会やその施設内での行為であれば、そのようなことはまずありえない。第三者の証言を得られることはなく、時が経過していれば、”証拠”も残らない。状況証拠の積み重ねも困難とすれば、残るのは、加害者本人とその上司である司教の誠実な答え、被害者に対するいたわりの姿勢しかない。被害者は、司教や司祭への批判を受け付けられないばかりか、聖職者に”逆らう”ことを悪と見なすような教会の雰囲気の中で、長い間苦しみ、しかも、その間に、さまざまな無理解、いやがらせにあって来た、とすればなおさらだ。

*「性的虐待行為があった可能性が高い」と5年前に独立委員会が報告している

 ありえないことだが、仮に百歩譲って、被告側に重大な非が無い、としても、原告の女性がこれほどの精神的な痛みを受け続けてきたことまでは否定できまい。まして、2016年7月に教区が設置した第三者委員会がその年の10月に「性的虐待行為があった可能性が高い」と判断する報告書を出しているのだ。

 被告側は、唯一の謝罪理由を「速やかに対応すべき点で欠けるところがあったこと」としているようだが、原告女性が損害賠償を求めて訴えた2020年9月の段階で、第三者委員会の報告が出てから、すでに4年も経っていたことになる。それは「速やかに…欠けるところがあった」と謝罪して済ませられることだろうか。なぜ、真摯な反省と、心からの謝罪ができなかったのだろうか。放っておけば、いずれ忘れ去られると考えたのだろうか。相手を思いやる心があり、それを示したなら、そもそも、原告女性が、さらに大きな苦痛を伴う提訴に至ることはなかったに違いない。

 裁判所から、判決で決定的なダメージを受ける事態に至る前に和解するように勧められたのに、教区側の和解条件が伝えられる内容であるとすれば、なぜ、原告女性にさらなる苦痛をもたらすような対応をせねばならないのか。仮にも「(教会内の事情をよく理解しない)弁護士に任せてあるので」という思いがあったとすれば、お門違いだ。あくまで被告当事者は教区や二人の聖職者なのだ。

 一言付け加えれば、この独立調査委員会の報告には、加害司祭が司祭叙階後、原告女性以外の女性とも性交渉が複数あったことを認める供述をしている、と書かれているようだ。当時、教区長の座にあった司教は当然、2016年10月に出されたこの報告を読んでいたはずだし、このことも、少なくともその時点で知ったに違いない。だとすれば、その後も、その司祭に何の処分もせずに放置したことは、教会法上の重大な監督義務違反となるのではなかろうか。

*”不都合な真実”に目を背け続けて、3月18日の「祈りと償いの日」にどういう意味?

 3月18日の、聖職者による性的虐待被害者のための「祈りと償いの日」を前に、日本の教会を代表する司教協議会会長の菊地・東京大司教は日本の全信徒に宛てたメッセージの中で、「命を賜物として与えてくださった神を信じる私たちには、命の尊厳を守る務めがあります。教会の聖職者には、その務めを率先して果たすことが求められるのは言うまでもありません。残念ながら模範であるはずの聖職者が命の尊厳をないがしろにする行為、とりわけ性虐待という、人間の尊厳を辱め、蹂躙する行為に及ぶ事例が、世界各地で多数報告されています…。日本の教会も例外ではありません」と反省している。

 そのうえで、「世界中の教会に多くの被害者がおられる、といわれます。無関心や隠蔽も含め、教会の罪を認めるとともに、被害を受けられた方々が神の慈しみの手による癒やしに包まれますように、ともに祈ります。同時に、私たち聖職者がこのような罪を繰り返すことのないように、信仰における決意を新たにし、愛のうちに祈り、行動したいと思います」と言明している。

 だが、先のような教区レベルの対応を見ると、菊地会長のメッセージに込められた誠意ある姿勢とは大きな乖離が感じられ、その言明も空虚に響く。残念ながら、司教協議会会長の呼びかけにもかかわらず、教区、小教区レベルで「祈りと償いの日」に積極的に応じたところは、あまりなく、あっても一言の祈りで済ませたところが少なくなかったようだ。

 にもかかわらず、「祈りと償いの日」に関する「カトリック・あい」の報道には、読者から大きな関心が寄せられ、”コロナ”や”ウクライナ”の中にあっても、閲覧件数が多数に上っている。それだけ、日本の聖職者による性的虐待、司教など高位聖職者の対応の問題を深刻に受け止め、彼らの今後の振る舞いを注視している、ということでもある。

*長崎、仙台の二人の新教区長の判断に関心が向けられている

 二つの教区に代表されるような心ない対応を続けていては、教会内外の人たちの教会や聖職者に対する信用が一段と落ちるばかりだ。そのことを、司教や司祭たちはどこまで分かっているのだろうか。いつまで、”不都合な真実”に目を背ける習慣から抜け出られずにいるのだろうか。

 フランスの独立調査委員会が昨年10月、同国の聖職者による大規模、かつ長期にわたる性的虐待の実態を明らかにした際、教皇フランシスコは直後の一般謁見で、「これは恥ずべきこと」と強く批判し、「被害者の方々が受けた心身の傷を深く悲しみます…。被害者を中心に置いた対応をすることができなかった『教会のあまりにも長期にわたる過ち』を深く恥じます」と教会を代表して、被害者たちに率直に謝罪された。聖職者による性的虐待撲滅にかけた教皇の思いを、どれほど真剣に受け止めているのだろうか。

 3月19日、仙台教区では、2020年3月に平賀司教が引退して以来、約2年の間空席となって教区長・司教ポストにエドガル・ガクタン司教が就任した。長崎教区長には、一足先に、中村倫明・新大司教が補佐司教から昇格している。新たにリーダーとなった方々には、速やかに、被害者(教区側に言わせれば、「と称している人」=これは長崎地裁が長崎教区に出した賠償命令の根拠となった高見・大司教=当時=の言葉でもあるが)の立場に立った、公正かつ”心”のある判断による和解の実現で”模範”を示し、仙台教区はもとより、長崎問題なども合わせて、損なわれた日本の教会の信用を回復するために、具体的な努力を始めることが期待される。

(「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年3月27日