◎教皇連続講話:使徒言行録⑮「『群れに気を配る』ことこそ、主任司祭、司教、教皇、すべての司牧者の仕事」

 

教皇フランシスコ、バチカンでの一般謁見 2019年12月4日教皇フランシスコ、バチカンでの一般謁見 2019年12月4日  (Vatican Media)

(2019.12.4 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、バチカンで4日、水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中の「使徒言行録」についてのカテケーシス(教会の教えの解説)で、使徒聖パウロのエフェソでの宣教を取り上げられた。

 エフェソに行ったパウロは、12人ほどの人々にイエスの名によって洗礼を授けた。彼らの上に聖霊が降り、新たな者とされた(参照:使徒言行録19章1-7節)。さらに、パウロの手を通して様々な奇跡が行われ、病人は癒され、悪霊に取りつかれた人々は解放された(参照:同19章11-12節)。

 教皇は「これらのことが起きたのは、弟子は師に似る者となるため(参照:ルカ福音書6章40節)であり、パウロは自分自身が主から受けた新しい命を兄弟たちに伝えるために、その力を発揮したからです」と述べられた。

エフェソでみなぎる神の力は、「精神的権威を持たずに、試みにイエスの名によって悪霊払いをしようとした祈祷師」を悪霊に見破らせ(参照:使徒言行録19章13-17節) 、魔術を行っていた者も、キリストを選ぶ人々に見捨てられ、その弱さを露見した(参照:同18-19節) 。

 この箇所について教皇は「キリスト教信仰と魔術は相容れないものであり、信仰とは、神の手に信頼をもって自らを委ねるものです」と説かれた。

エフェソで福音が広がることで、アルテミス神殿の模型を造る銀細工師たちは売り上げを落とした。彼らは、パウロに対する蜂起を企て、「キリスト教徒たちは、アルテミス神殿と女神への威光を失わせるもの」として訴えられた(参照:同23-28節) 。パウロはエルサレムに向けて、エフェソを発ち、ミレトスに到着した(参照:使徒言行録20章1-16節)。パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せ、人々の司牧を彼らに託した(参照:同17-35節)。

 ミレトスで、パウロがエフェソの長老たちに別れの挨拶を述べる場面を、教皇は「使徒言行録の中でも最も美しいページの一つ」として紹介された。

 この場面で、二度と彼らに会うことがない、と知っているパウロは、共同体の責任者たちを励まし、「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」と頼んだが、教皇は「まさに『群れに気を配る』ことこそが、主任司祭、司教、教皇、すべての司牧者の仕事なのです」と強調。そして、教皇は、パウロが特に群れの「監督者=司教」たちに対し、神が御子の血によってご自分のものとされた神の教会の世話をし、群れを荒らす残忍な「狼」からそれを守るように(参照:同28-29節)最大の配慮を求めている点を指摘された。

この使命をエフェソの長老たちに託したパウロは、「神とその恵みの言葉」に彼らを委ね(同32節)、パウロ自身のように、自分の生活のためにも、共にいる人々のためにも、自分の手で働き、弱い者を助け、「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉を身をもって体験するように招いた(同35節)。

 そして終わりに、教皇は「信仰を守り育む教会への愛を新たにすると共に、司牧者たちが神なる牧者の強さと優しさを示すことができるよう祈りで支えることで、すべての人が群れを守る共同責任者となれるように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2019年12月5日

♰「『切り捨て文化』『不平等を生む文化』を克服しよう」-国際障害者デーに(全文付き)

(2019.12.3 バチカン放送)

 教皇フランシスコは3日、「国際障害者デー」のためにメッセージを発表された。

 このメッセージで教皇は、国際障害者デーを機会に、「この最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ福音書12章40節)とお考えになるイエスご自身の現存を「すべての兄弟姉妹の中に、信仰の眼差しをもって見つめる」ように、改めて促された。

 教皇は「障害をもつ人々に対し医療や支援の分野で大きな進歩がある一方で、『切り捨ての文化』とともに、多くの障害者が社会への所属や参加を実感できないでいます」と指摘。「障害をもつ人々とその家族の保護だけでなく、障害者の市民の権利を阻むあらゆるものや差別を完全に排除し、様々な場所へのアクセス、生活の質を向上させることで、世界をより人間的なものとする必要」を呼びかけられた。

 また、教皇は、家庭や社会の中で「隠れた亡命者」となっている多くの人々、特にお年寄りをはじめ、障害を理由に、しばしば重荷と認識され、疎外される恐れのある人々、自分の未来を構築するための仕事のビジョンを拒まれた人々を思い起こされ、「法整備、物理的なバリアフリーを進めることは重要ですが、それだけでは十分ではない。日常生活への障害者の活発な参加を阻む『不平等を生み出す文化』を克服し、メンタリティーを改革することが必要です」と強調。

 さらに、「障害者のためのこれらの重要な奉仕と取り組みが、国の社会的レベルを決めるのです」とされたうえで、障害者と共に働くすべての人々を励まされた。

(編集「カトリック・あい」)

 

【教皇フランシスコ「国際障がい者デー」へのメッセージ】全文

  「世界障がい者デー」にあたって、兄弟姉妹一人一人の中に、キリストご自身の存在を見る、わたしたちの信仰のまなざしを新たにしましょう。キリストは、最も小さな兄弟たちの一人に対する、あらゆる愛のジェスチャー(行為)が、ご自分に対してなされたものと考えます(マタイ福音書25章40節参照)。この機会に、わたしは、今日、参加する権利の促進が、差別に反対し、出会いの文化と、質のよい生活の文化を促進するための、中心的役割をもつことを思い起こしたいと望みます。

 医学と介護の分野で、障がいをもっている人たちに対して大きな進歩がなされましたが、今日でも、排斥の文化の存在が認められ、彼らの多くは、所属も参加もなく存在していると感じています。このことすべては、障がいをもっている人と、その家族の権利を擁護するだけでなく、わたしたちに、この世をより人間的にするよう勧めています―彼らに完全な市民権を妨げるものすべて、偏見の妨害を取り除きながら、また、さまざまな場所へのアクセスのしやすさと、人間のあらゆる側面を考慮する、生活の質を推進しながら―。

 次のことが必要です:障がいをもっている人を、あらゆる生活状況の中でケアし、寄り添うこと―現代のテクノロジーをも利用しながら、しかしそれらを絶対視することなく―;強さとやさしさをもって、隅に追いやられている状態を共に担うこと;彼らとともに道を開き、市民、また教会のコミュニティー(共同体)への、積極的参与のために、彼らを尊厳で「塗油する」こと。それは、ますます、一人一人を、唯一の(ユニークで)かけがえのない人間として認めることが出来る意識を形づくることに、貢献する、厳しい歩み、また骨の折れる歩みでもあります。

 そして、わたしたちの家の中に、家族の中に、社会の中に住んでいる、たくさんの「隠された追放者たち」のことを忘れないようにしましょう(お告げの祈り:2013年12月29日、外交団への講話:2015年1月12日参照)。あらゆる年代の人、特に高齢者のことを思います。彼らは、障がいのためもあって、時に、自分が重荷であり、「やっかいな存在」だと感じていて、排斥されたり、自分の将来の建設に参与するための、具体的な仕事の見通しを否定される危険があります。

 わたしたちは、障がいをもっているあらゆる人の中に、複雑で重度の障がいをもっていても、自分独自の伝記を通しての、共通善へのユニークな貢献を認めるよう招かれています。一人一人の尊厳を認めること―それは、五感の機能性によるのではないことを良く知りながら―(障がいについての、CEIの会議参加者との対話、2016年6月11日参照)。

 福音はわたしたちに、この回心を教えています。いくつかのいのちがAリーグで、その他はBリーグであると考える文化に対抗する、抗体を発展させるべきです:これは社会的罪です!障がいの状態のために差別されている人々に、声を与える勇気をもってください。なぜなら、残念ながら、いくつかの国において、今日もまだ、彼らを、同じ尊厳をもった人間、人類における兄弟姉妹として認めることが困難なのです。

 実際、良い法律を作り、物理的な障壁を打ち倒すことは大切ですが、十分ではありません―もし、メンタリティーを変えないなら、もし、障がいをもった人に、普通の生活における積極的参加を阻止しながら不平等を生み続ける、蔓延する文化を克服しないなら―。

 近年、包括的なプロセスが実施され、進められていますが、まだ十分ではありません。なぜなら、偏見が、物理的バリアのほかに、すべての人のための教育、仕事、参加へのアクセスに制限を生み出すからです。障がいをもった人は、自分自身を築くために、存在するだけでなく、コミュニティー(共同体)に属する必要があります。

 わたしは、障がいをもった人と働いている全ての人が、国の文明(文化)の水準を決定する、この大切な奉仕と任務を継続するよう奨励します。そして祈ります。あらゆる人が、自分自身の上に、その人の完全な尊厳、その人のいのちの無条件の価値を肯定する、神の父のまなざしを感じることが出来るように。

 バチカンから、2019年12月3日 フランシスコ

(イタリア語の原文からSr.岡が試訳)

2019年12月4日

♰「待降節は、私たちの周りで苦しんでいる人々に注意を向ける機会」

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 聖母マリアのお告げの祈りの前に、教皇はまず、待降節が「イエスが常に私たちの暮らしに入って来られるのを、思い起こさせる機会」となることを指摘され、「イエスが時の終わりに、私たちに信頼と希望を持って未来を見つめるよう促すために帰って来られること」の確かさについて語られた。

 そしてこの日のミサで読まれた第一朗読で、「預言者イザヤは、 全ての国がそこに向けて描かれるであろう神の家である山の絵を描いています」と述べ、「イエスは人となられた後、ご自身がその山の頂にある、真の神殿であることを明らかされました」とされた。

 そして「イザヤの素晴らしい展望は、神の約束にあり、巡礼-『歴史の意味であり、目標であるキリスト』への旅-の心構えをするように促しています」と説かれ、待降節は「神のなさり方を私たちにお示しになる平和の使いとして来られるイエスを、喜びを持って迎える時」とされた。

 また、この日のミサで朗読された福音の箇所で、イエスは私たちに「目を覚ましていなさい」と勧めてるが、「これは、文字通りに『常に目を見開いている』ことを意味しません… 他者のために自分自身を捧げ、奉仕することで、自分の心を自由にし、正しい方向に向けることを意味するのです」とされたうえで、「私たちが目を覚まさねばならないのは、無関心や虚栄心によって、人間関係を作ること、孤独な、見捨てられた、あるいは病にある兄弟姉妹の世話をすることができないこと、によって、生まれる”睡眠”です」と強調された。

 教皇は、私たちがイエスの到来を期待して待つためには「神の行動と神の驚きに驚嘆する」という形で目覚めていることが求められる、とされ、「それは、困難のなかにある隣人に注意を払い、彼らが私たちに助けを求めるのを待つことなく、彼らの必要に応えることです」と説明。

 最後に、教皇は乙女マリアに待降節の旅への導きを願って祈られた-「マリア、目覚めておられる乙女、そして希望の母が、私たちの眼差しを、『主の山』-全ての人をご自身に引き寄せられるイエス・キリスト-に向けてくださいますように」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2019年12月2日

♰「貧しい人々は、私たちに福音の生き方を教えてくれる」ー「世界貧しい人々の日」に

(2019.11.17 Vatican News Linda Bordoni)

 「世界貧しい人々の日」の17日、教皇フランシスコは、サンピエトロ大聖堂でこの日のためのミサを捧げ、説教の中で、「貧しい人々が私たちに福音の生き方を思い起こさせてくれます… 施しを願う人々が主に手を差し出すように。彼らは教会の宝物です」と語り始められた。「世界貧しい人々の日」は、教皇フランシスコが、2017年の「慈しみの特別聖年」の締めくくりの日、年間第33主日を記念して設けられたもの。

 以下はバチカン広報発表の説教の全文。

 「このミサで朗読された主日の福音(ルカ21章5-19節)で、イエスは同時代の人々と私たちの両方を驚かせています。他の皆がエルサレムの壮大な神殿を賛美している間、イエスは彼らに『一つの石』も崩されずに『他の石の上に』残ることのない日が来る、と告げられました。では、なぜ彼はこのような神聖な施設について語るのでしょうか… それは単なる建物ではなく、宗教的シンボルであり、神と信者のための家だからです。では『神の民の確固たる信念が崩れる』と預言するのはなぜでしょうか。私たちの世界がますます少なくなっている時に、なぜ、主は私たちの確信を崩されるのでしょうか?。

 イエスの言葉の中に答えを探しましょう。彼は私たちに、『ほとんどすべてのものが無くなる』と言います。『ほとんどすべて』ですが、『すべて』ではありません。王国と人間の出来事であり、人類そのものではありません。『最後から2番目』のものは、多くの場合最終的なもののように見えますが、そうではありません。それらは私たちの寺院のような荘厳な現実であり、地震のような恐ろしい現実です。それらは天国の兆候であり、地球上の戦争です(21章10-11節参照)。私たちにとって、これらは新聞の一面に載るニュースですが、主は2ページ目に掲載しています。決して死ぬことのないものは、私たちが彼のために建てたどの神殿よりも無限に大きい生きている神、世界のすべてのニュース報道よりも価値がある私たちの隣人、です。

 人生で本当に大切なことを理解するために、イエスは私たちに二つの誘惑について警告しています。

 1つ目は、『たった今』を急ぐ誘惑です。私たちは『終わりがすぐに来ている』、『時が近づいている』(8節)と言っている人たちに従うべきではありません。私たちは、他人や未来への恐怖を助長する警戒心に従うべきではありません。恐怖が心と心を麻痺させるからです。

 私たちはどれだけの頻度で、『今、すべてを知りたい』という強い欲求、好奇心にかられ、最新のセンセーショナルなニュースまたはスキャンダラスなニュース、愚かな話、大声で怒り叫ぶ人々の叫び声に誘惑されるでしょうか? この性急さは、神から来たのではありません。私たちは、『今』に躍起になると、残っているものを永久に忘れてしまいます。私たちは『過ぎ去る雲』を追いかけ、『空』を見失います。今起こっている騒々しさに気を取られ、神のために、隣に住む兄弟姉妹のために時間をかけることが出来なくなります。これが今日の現実です!走り回って、すべてを今すぐ達成しようと狂乱する中で、取り残された人は『迷惑な存在』と見なされます。そして『使い捨て』の対象、と見なされます。『役に立たない』と見なされる高齢者、胎児、障害者、貧しい人がどれほどいるでしょう。私たちは、格差が拡大すること、わずかな人の貪欲さが多くの人の貧困を増すことを心配することもなく、我が道を行きます。

 性急さに対する解毒剤として、イエスは今日、私たち一人一人に忍耐を提案しています。『忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい』(19節)と。忍耐とは、死ぬことのないもの、すなわち主と隣人に目を留めて日々前進することです。これが、忍耐が神の贈り物である理由です(聖アウグスチヌス”De Dono Perseverantiae”2.4を参照)。私たち一人一人、そして教会としての私たち全員が、善を持ち続け、本当に大切なことを見失うことのないように、願います。

 イエスが私たちをなしで済ませたいと思われている、という思い違いがあります。彼は言い​​ます-惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない(8節)と。それが、二つ目の誘惑、自己中心の誘惑です。キリスト教徒は、『たった今』を求めず、『永遠』を求めます。『私』ではなく『あなた』に関心があります。キリスト教徒は、興味をそそるが危険な誘惑に従うのではなく、愛の呼びかけ、イエスの声に従います。

 どのようにしてイエスの声を見分けますか? 『私の名を名乗る者が大勢現れる』と主は言われますが、そのような者に従うべきではありません。『キリスト教徒』あるいは『カトリック教徒』というラベルを身に着けているだけでは、イエスに属するのに十分ではありません。私たちはイエスと同じ言葉、つまり愛の言葉、『あなた』の言葉を話す必要があります。イエスの言葉を話す人は、『私』と言う人ではなく、自分自身から抜け出る人です。それでも、どれほどの頻度で、たとえ私たちが善を行ったとしても、『偽善』に打ち負かされていることでしょう?

 私は、善行だと思われるように善を行います。私は順番に従います。大切な人との友情を勝ち取るために助けを出します。それが『自分の言葉』の話し方です。しかし、神の言葉は私たちに『偽りのない愛』(ローマの信徒への手紙12章9節)に拍車をかけ、借りを返すことのできない人々に与えます(ルカ福音書14章14節、6章35節参照)。ルカ6:35)。ですから、自分自身に問いかけましょう。『見返りをもらえない人を助けますか?キリスト教徒である私は、少なくとも一人の貧しい人が友人としていますか?』と。

 貧しい人々は、神の目に価値ある存在です。それは、彼らが『自分の言葉』を話さないからです-彼らは自分で、自分の力で自分自身を支えません。誰かの助けを必要としています。貧しい人々は、私たちがどのように福音を生きるべきかを思い起こさせてくれます。神に手を差し出す物乞いをする人のように。貧しい人々の存在は、『心の貧しい人々』が祝福されている福音の新鮮な空気を、私たちに吸い込ませてくれます(マタイ福音書 5章3節を参照)。彼らが私たちの扉をたたく時、うるさがらずに、自分自身から表に出ていくようにとの招きと受け止め、助けを求める彼らの叫びを喜びをもって受け入れ、神の愛ある視線で彼らを歓迎しましょう。貧しい人々が私たちの心の中で、神の心の中に彼らが持っている場を占めることができたら、なんと素晴らしいことでしょう!貧しい人々と共に立ち、貧しい人々に仕え、私たちはイエスがご覧になるように物事を見、何が生き残り、何が過ぎ去るもいつもお世話になっております。なのかを知ります。

 最初の問いに戻りましょう。最後から二番目の、そして過ぎ去る現実の中で、主は今日、究極のもの、永遠に残るものを私たちに思い起こさせたい、と願っておられます。それは愛、 『神は愛』(ヨハネ手紙1・4章8節)だからです。私の愛を求める貧しい人は、私を直接、神に導きます。貧しい人々が、私たちの天国への歩みを容易にします。これが、神の民の信仰が、彼らを天国の『門番』とみなす理由です。今でも、彼らは私たちの宝、教会の宝です。それは、貧しい人々が、決して古くなることのない豊かさ、天と地を結びつける豊かさ、人生が本当に生きる価値のある豊かさ、愛の豊かさを、私たちに明らかにするからです」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2019年11月18日

♰「パウロの時代から現代までキリスト教信仰が続いてきたのは一般信徒の力」

Pope Francis at the General AudiencePope Francis at the General Audience  (ANSA)(

(2019.11.13 Vatican News Lydia O’Kane)

 教皇フランシスコは13日の一般謁見で、先週に続いて使徒言行録を題材としたカテケーシスを続けられ、今回は、パウロのコリントへの宣教の旅とともに、雄弁家アポロのプリスキラとアキラという敬虔な夫婦との出会いの箇所(18章24節以降参照)を取り上げ、キリスト教徒的なもてなしの模範として説明された。

 この夫婦は、ローマ皇帝クラウディウスがユダヤ人の追放を命じた後、ローマからコリントに強制的に移動させられたが、彼らのように、ユダヤ人たちは、長い歴史の中で「住んできた場所から追放され、多くの残虐行為に苦しんできました」と教皇は語られ、「ユダヤ人への迫害は、あちこちで形を変えて繰り返されています… 彼らは私たちの兄弟。迫害されるべきではありません」と強調された。

 そのうえで、教皇はこの夫婦のもてなしの話に戻り、夫婦の家は使徒だけでなく、キリストの兄弟姉妹にも開かれていたことを指摘。関連して、パウロが、「教会の家」、神の言葉を聴く場、聖体を祝う場となる「家に集まる共同体」について、どのように語ったかを説明し、「今日においても、信教の自由、キリスト教徒としての自由のない国々では、キリスト教徒たちは、祈り、聖体を祝うために、隠れて集まっています」とされた。

 また教皇は、「パウロやアキラ、プリスキラの協力者たちの中に、キリスト教共同体全体の奉仕に責任をもってかかわる夫婦のいくつもの模範が生まれました。彼らのような数多くの一般信徒の信仰と福音宣教への専心のおかげで、キリスト教の信仰は私たちまで続いてきたのです」と強調。

 最後に、ご自身の前任者であるベネディクト16世の言葉を引用して「キリスト教は最初から、一般信徒によって説かれました。一般信徒のあなた方も、洗礼を受けたがゆえに、信仰を引き継ぐ責任があります」と締めくくられた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2019年11月13日

♰「自分だけで生きられるとうぬぼれるところに、”命”はない」-日曜正午の祈りで

St Peter's Square during AngelusSt Peter’s Square during Angelus  (AFP or licensors)

(2019.11.10 Vatican News)

 教皇フランシスコは10日日曜日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで朗読されたルカ福音書の箇所(20章27-38節)を取り上げ、(注:復活があることを否定する)サドカイ派の人々の質問を受けて、死からの蘇りについての素晴らしい答えをなさったことに注意を向けられた。.

  教皇は、サドカイ派の人々がイエスを問答で打ち負かそうとして、「7人の兄弟が次々と死に、そのたびに彼らの1人と再婚した女は、誰の妻になるのでしょうか」と尋ねたが、彼はその”わな”にかからなかった、とされ、イエスが「次の世に入って、死者の中から復活するのにふさわしい、とされた人々は、めとることも、嫁ぐこともない。天使に等しい者であり、復活の子として、神の子だらである」と答えたことを指摘された。

 そして「イエスは、このように答えることで、(注:意地悪い質問でわなにかけようとした)相手、そして私たちを、『今生きているこの世だけでなく、死にかけられることのない次の世があり、そこでは、私たちが神の子であることが完全に明らかにされるのだ』と考えるように、招いておられます」と説かれた。

 さらに「死の次にある命についての、イエスの単純明快な言葉に耳を傾けることによる、大きな慰めと希望をお与えになります… 宇宙についての知識は豊富だが、永遠の命についての知恵は貧弱な現在にあって、私たちは、特にその言葉を必要としているのです」と説かれた。

 また教皇は、復活に関するイエスのはっきりとした確信は「命の神である主への完全な忠誠に基づいています」とされ、「イエスは『命は神に属し、その神は私たちを、み名と結びつけるほど愛し、とても気遣ってくださるのだ』とサドカイ派の人々の問いに答え、また、『主を、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』とされました」と述べた。

 そして「(注:イエスが言われたように)神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです… 自分だけで、島のように孤立して生きられるとうぬぼれるところに、命はありません。そのような態度には死があるだけです」と戒められ、「復活は、死から蘇るというだけではなく、私たちが今すでに経験している新しい命です。永遠の命は私たちの定め、私たちの歴史が決定的に満たされる地平線。そして、福音を選ぶことを通して準備するように私たちが呼ばれているのは、この人生においてなのです」と強調された。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

2019年11月11日

♰「『切り捨ての文化』を乗り越え、受刑者に寄り添おう」-刑務所司牧国際会議で

(2019.11.8 バチカン放送)

 教皇フランシスコは8日、刑務所司牧に関する国際会議の参加者とお会いになった。

 教皇庁人間開発の部署(長官:ピーター・タークソン枢機卿)主催のこの会議は「人間の統合的成長とカトリック教会の受刑者司牧」をテーマに開かれ、中南米、欧州、アフリカ、オセアニア、米国の刑務所付司祭らたち意見を交換した。

 教皇は参加者へのあいさつで、教育よりも「抑圧」、成長の機会を提供するよりも「閉じ込める」ことを容易と考える刑務所の現実を指摘され、「刑務所とは、社会復帰へのプロセスを促し、人間的成長と、教育、就労、健康へのアクセスを保証する場所でなくてはなりません」と強調。「過ちを犯した人に更生のための助けの手を差し伸べるよりも、切り捨てることをよし、とする社会・文化」を乗り越え、教会は司牧を通して受刑者にもっと寄り添うべきだ、と説かれた。

 そして、教皇は受刑者への司牧を考える上での二つのイメージを示された。一つは刑務所の居室の「窓」。「地平の彼方を見つめずに、人生を変えることはできません。いかなる受刑者にも地平線を見つめるための窓が必要です」。もう一つは、受刑者への面会を求める女性たち、特に「母親たち」。「母たちは恥を恐れず、受刑者である息子たちのために、顔を隠すことなく会いに来ます。教会も彼女たちの母性と行動から学ばなくてはならなりません」。

 最後に教皇は、日ごろ刑務所で受刑者に奉仕する人々を、聖母の保護に託して祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年11月9日

♰「アルペ神父に倣い、社会的使徒職を果たせ」-イエズス会の社会正義とエコロジー国際会議で

 

教皇フランシスコ、イエズス会の国際ミーティング参加者と 2019年11月7日教皇フランシスコ、イエズス会の国際ミーティング参加者と 2019年11月7日  (Vatican Media)

(2019.11.7 バチカン放送)

  教皇フランシスコは、11月7日、社会正義とエコロジーをテーマにしたイエズス会の国際会議の参加者とお会いになり、会議を主宰した同会社会正義とエコロジー事務局が当時総長だった故ペドロ・アルペ神父によって開設されて50周年を迎えたことを祝うとともに、社会に対するいっそうの関心と貢献を求められた。

  あいさつの中で教皇は「イエズス会は貧しい人々への奉仕に招かれており、聖イグナチオが基本精神要綱に記したように、それは同会の一つの召命です…この伝統は、会の創立期から今日まで続いています」とされたうえで、教皇のイエズス会の大先輩、アルペ神父(スペイン出身でイエズス会の初代日本管区長 を務めた後、第28代総長 (1965年 – 1983年) となった)に言及。

 「 アルペ神父はその伝統の強化を望まれましたが、彼の召命の根底にあったものは、人々の苦しみに触れた経験でした… 彼は『信仰の奉仕と正義の促進は切り離すことができない。根本的に一致したものだ』と信じておられました」と振り返られた。

 また、「私たちは毎年降誕祭に神を生まれたばかりの幼子の中に観想しますが、その幼子は『自分の民のところへ来たが、民から受け入れられなかった』(ヨハネ福音書1章11節)-疎外された存在でした」と語り、「(注:イエズス会の創立者である)聖イグナチオによれば、聖家族には奉仕する一人の侍女がおり、彼は自分もその侍女と一緒にその場にいるようにし、小さな、値しないしもべとなって、聖家族を見つめ、観想し、聖家族の必要において奉仕するよう招いていたこと」を思い起こされ、「疎外された神」に対するこの動的観想は「見捨てられた人々の一人ひとりが持つ美しさを発見するための助けになります」と話された。

 そして、「今日の世界は、脅かされている命を保護し、弱い立場の人々を守るように変わっていく必要があります」とされたうえで、「では、社会的使徒職は、問題解決のために存在しているのでしょうか」と問いかけられ、「存在します。特に問題解決のプロセスを促進し、希望を促すために存在します。そのプロセスは人や共同体の成長を助け、彼らの権利を自覚させ、能力を伸ばし、自分たちの未来を作ることを助けるのです」と強調された。

 教皇は最後に、アルペ神父の遺言といえるメッセージが記された一枚のカードを示され、「アルペ神父は、タイの難民キャンプで見捨てられた人々と共にいて、彼らと共に苦しむことを望み、タイからの帰路で発作に襲われました。彼がタイで残したメッセージは『祈りを忘れてはならない』という言葉でした… このカードとともに、アルペ神父のメッセージを忘れないでいただきたい」と希望された。

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*(ウィキペディアより)ペドロ・アルペ神父の生涯

:裕福なバスク人の家庭に生まれ、ビルバオのサンティアゴ使徒学院に学び、マドリード大学医学部に進んだ。そこで彼は後にノーベル生理学・医学賞を受賞するセベロ・オチョアや生理学のパイオニアでスペイン内戦時代の首相となるフアン・ネグリンに出会った。1927年にイエズス会に入会し、1936年に司祭に叙階された。修練期には米カンザス州の聖マリア学院 で学んだ。

 修練期を終えると1940年に日本に派遣され、山口カトリック教会で主任司祭となったが、真珠湾攻撃の1941年12月8日、ミサ後に投獄された。彼の非攻撃的な態度と振舞いに獄吏と裁判官は敬意を示し、約1か月で釈放された。1942年3月から広島のイエズス会長束修練院の院長を務めた。1945年8月6日の広島への原爆投下では、修練院を臨時の病院として200人の被爆者を手当した。
 1958年からイエズス会の初代日本管区長を務めた後、1965年に第28代総長に選ばれた。彼は総長として、「我らの今日の使命: 信仰への奉仕と正義の促進」では信仰と並んで社会正義の促進を掲げたが、社会正義の促進を掲げることに対し「政治と信仰の混合だ」との批判が起り、議論が行われたが、最終的に圧倒的多数に受入れられた。この主張をめぐっては世界の教会関係者の間で賛否が続き、第2バチカン公会議の教令の実施について各地の司教会議で議論となった。
 ヨーロッパでは専門主義と科学的・物資主義的無神論の脅威、アジアでは宗教間の対話、ラテン・アメリカでは貧富の格差と社会正義が重要課題とされた。(1980年代に当時の教理省長官、ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後の教皇ベネディクト16世)は「解放の神学において来るべき王国と現在の世界における平等についての根本的な混乱がある」という批判的な見解を表明、教皇として2008年に出した回勅『希望による救い』(“Spe salvi“) でも同様の見解が表明されていた。)
 ラテン・アメリカでは革命闘争に身を投じる者も現れた。中南米の司祭たちは「教会が受入れ、維持しようとさえしている不平等がこの問題の最前線だ」と気付いた。彼らの実践は解放の神学と呼ばれた。イエズス会士としてはヨン・ソブリノオスカル・ロメロ、エルサルバドルの殉教者などがいる。エルサルバドルで1977年、米国の支援を受けた白人戦士連合などの”死の部隊”により47人のイエズス会士が死の脅迫を受け、同国から逃れる者もあったが、アルペ総長は彼らと相談した上で「彼らが殉教者となろうとも、私の司祭たちはこの国を離れないだろう。人々と共にあるからだ」と言明。その後も、1980年にはロメロ司教が、1989年にはエルサルバドルのホセ・シメオン・カニャス中米大学で6人の会士らが殺害されて殉教した。
 こうした事態と前後する形で、1981年にアルペ神父は突然、発作に襲われ、半身不随、言葉も不自由となり、1983年に総長退任を余儀なくされた。退任が承認されたイエズス会総会の開会式で、彼は自ら書いた文書を読み上げ、「私は何時にもまして神のみ手のうちにある。これは私が若い頃から望んでいたことだ。しかし今ここに違いがある。主導権は全て神にある。これは実際にこれまで私が全て神のみ手の内にあると霊的に経験してきたことだ」との言葉を残した。そして長い療養生活の後、1991年に84歳で帰天した。

 (編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2019年11月8日

◎教皇連続講話「使徒言行録」⑭「キリストを知らない人との間に橋を架け、手を差し伸べよう」

(2019.11.6 Vatican News)

 教皇フランシスコは6日の水曜恒例の一般謁見で、使徒言行録をもとにしたカテケーシスを続けられ、

 そして、異教徒世界の文化の中心地、アテネのアレオパゴスの丘で聖パウロが説教した箇所(使徒言行録17章22節以降参照)を取り上げ、「偶像に満ちた都市で、パウロは、聴衆の『宗教性と真実を知りたいという願望』に訴えることで、福音を宣言します」と述べた。

  パウロは、アテネ市内を歩きながら、アテネの人たちが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神」と刻まれている祭壇を見つけた。それは「世界とその中の万物とを造られた神」だ、と彼らに説き、世界の超越的な創造主である神が実際に自分自身を明らかにしたと述べ、神は御子を地上に送り、すべての人々に回心を呼びかけた(23節以降参照)。だが、パウロがキリストの死と復活について語ると、聴衆は興味を失い、ある者はあざ笑い、ある者は「いずれまた、聞かせてもらうことにしよう」と言った。

 だが、パウロの説教は「アレオパゴスの議員、ディオニシオやダマリスという女性、その他の人々が彼について行き、信仰に入ることで、実を結びました」と教皇は指摘。「キリストを知らない人々に福音のメッセージを伝える際に、静かに観想する眼差しを彼らに注ぎ、慎重に異文化に合わせる度量をもつよう、聖霊に願うこと」を勧め、「神を信じない人や私たちとは異なる信条を持つ人との間に橋を架ける…常に橋を架け、常に手を差し伸べ、攻撃することのないように」と助言された。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

2019年11月6日

♰「大学には人々の心身の健康と環境問題に貢献する義務がある」ー国際カトリック大学連盟の指導者たちに

(2019.11.4 バチカン広報)

 教皇フランシスコは4日、バチカンで、開催中の国際カトリック大学連盟主催のフォーラムに参加している世界のカトリック大学の学長などリーダーと会見し、以下のように語られた。

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 「大学指導者にとっての新しいフロンティアー健康の未来と大学のエコシステム」をテーマにしたフォーラムに参加されたイザベル・カペロア・ギル会長と出席者の皆様を歓迎し、心からの挨拶を申し上げます。

 今日の大学は、科学の発展、技術の進化、社会のニーズから生じる新たな課題に直面しています。これらはすべて、適切かつ最新の対応を、学術機関に求めています。社会経済的、政治的、文化的生活のさまざまな分野での強い圧力は、大学のまさに使命に挑戦しています。

 このことは、さまざまな分野の資格のある専門家だけでなく、社会的および市民生活の共通の善、創造的で、責任あるリーダーの支援者になるために、教え、研究し、新しい世代を育てることを求められた人々に当てはまります。したがって、今日の大学は、人の総合的な健康と包括的エコロジーにどのような貢献ができ、どのような貢献が必要かを検討する必要があります。

 このような求めに、カトリック大学は特に鋭く感じる必要があります。 「普遍的な」開放性により、カトリック大学は、連帯を特徴とする、個人と人類のための市民的および文化的進歩の解決策を、忍耐とプロ意識で追求する場になり得ます。また、より一般的な価値を持つものを見失うことなく、偶発的なものを調べることができます。

 古い問題と新しい問題は、それらの特異性と即時性で研究する必要がありますが、常に個人的かつグローバルな視点で検討する必要があります。学際的アプローチ、国際協力、人的・物的資源の共有は、人類、すべての男性と女性、そして彼らが生活し成長する環境のために、普遍性を共有する、実りあるプロジェクトに変える重要な要素です。

 すでに見てきたように、技術科学の発展は、人々の身心の健康に影響を与えるようになりつつあります。これは、学術研究の方法と手順にも影響します。今日、私たちはすべての教育が「なぜ」に疑問を投げかけることを、これまで以上に認識する必要があります。

 言い換えれば、各分野の基礎と目的を熟考する必要があります。それがなければ、教育は単なる技術指導、または単なる情報の伝達となり、疎外された断片的な教育になってしまいます。倫理的側面を気にかけずに知識を伝達できる、と信じることは、本質的に教育の仕事を放棄することです。

 啓蒙主義の遺産を克服する必要があります。教育全般、特に大学教育は、頭を概念で満たすことだけではありません。頭の言語、心の言語、手の言語の3種類の言語が必要です。私たちは、自分が感じていること、自分がしていることと調和して考え、考え、行動していることと調和し、感じ、考えていることと調和して行動する必要があります。全体からの調和。全体から乖離することはありません。

 そもそも、私たちは目的論的プロセスとして考えられた教育のアイデアから始めなければなりません。つまり、目的に向かって、必然的に目的に向かっており、この意味で人間の正確なビジョンに向かっています。。教育の分野では、「なぜ」という問い、つまり倫理的秩序に関する問いに直面するために、さらなる視点が必要です。これは本質的に教育の認識論的特性に関係しており、教養だけでなく、自然、科学、技術研究など、知識の全範囲を扱います。教育と目的と関係づけることは、すべての認知プロセスにおける志向性と主題の役割のテーマに、私たちを導きます。

 このようにして、私たちは新しい種類の認識に到達します。これが課題です。新しい認識に到達することです。伝統的な認識論は、すべての知識の非人格的性質を客観性の条件、知識の普遍性と伝達可能性に不可欠な要件と見なすことでこれを強調していました。しかし、今日、多くの著作者たちは、完全に非人間的な経験は存在しないことを強調しています。orma mentis(知性の形?)、主題の規範的信念、カテゴリー、創造性および実存的経験は、知識の「暗黙の次元」を表し、常に存在し、不可欠です。科学の進歩を理解するための要因。研究室では、新しい認識を思い付くことができません。それは実生活から来なければならないからです。

 この観点から、大学には良心とともに、教育を受ける人だけでなく人類全体のニーズに責任を持つ知的および道徳的な力があります。国際カトリック大学連盟は、いっそう統一された国際的な学術コミュニティとなるために努力する、という道徳的義務を果たすよう求められています-大学の起源であるキリスト教の文脈にもっと忠実に基づいて、そして、個人と人々の文化的生活の質を向上させることを目的とした普遍的な精神をそだてるために、経験を積んだ大学と新しい大学のネットワークを統合することによって。大学の生態系は、大学のすべてのメンバーが各個人および全ての人々が生活し、成長する状況、および彼らの進歩に貢献できるすべてのことに敏感になると、発達します。

 指導者の養成は、大学の生活が知性だけでなく、「心」、良心を、学生たちの実践的な能力を合わせる形で、発展させようとするときに、その目標を達成するのです。科学的、理論的な知識は、学者や研究者の感性と融合しなければならず、研究の成果は、専門的な訓練だけに関係する自己参照的な方法で獲得されるのではなく、関係的および社会的な目的を持っています。最終的に、すべての科学者と文化に関わるすべての人が、大きな知識を所有しているためにより大きな奉仕をする義務があるように、大学共同体、特にキリストの霊感を受けた共同体、そして学術機関の生態系も同じ義務を感じなければなりません。

 この観点から、教会とカトリック信徒の学者がとらねばならない道について、先に聖人となられたジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿はこう語っておられます-「教会は、知識を恐れず、すべてを浄化する。私たちが本来持っているものを抑えつけるのでなく、そのすべてを養い育てる」と。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2019年11月6日

♰「人への奉仕のため身をかがめることが天国への控えの間を作る」-枢機卿・司教の追悼ミサで

(2019.11.4 バチカン放送)

 教皇フランシスコが4日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、過去一年間に亡くなった枢機卿と司教の追悼ミサを捧げられ、説教で「私たちは死ぬために生まれたのではありません。復活のために生まれたのです」と強調された。

 ミサの参加者たちに対して、教皇は、「復活という召命」に応えるために、「自分の殻から抜け出し、毎日、主に向かうことができるか」「助けを必要とする人を憐み、手を差し伸べることができるか」「神の御前で重要な決断を下しているか」を自問することを勧められた。

 そして、「生きておられる方、イエスに向かうことは、死への恐れ、全てが終わってしまうことへの恐れに対する予防になります」とされ、「今日、『自分の仕事を通して主と向かい合い対話したか』『出会った人々をイエスと関わらせ、イエスへの祈りの中で彼らを思い起こしたか』『自分の歩みはどこに向かっているのか』を考える必要があります」と語られた。

 また、「母の胎から出て、幼児期や青年期、壮年期を経て、この世を後にするように、全人生は外へと向かうことにあります… 最も困難で大切なのは、自分自身から出ること。自分の殻を出てこそ、主へと向かう扉を開くことができるのです」と強調。「他人に対する憐みは永遠への扉を開き、人々に奉仕するために身をかがめることは天国への控えの間を作ることになる」とも話された。

 最後に教皇は、聖イグナチオの霊操に倣い、重大な決心をする時、神の御前で考え、自分が神の審判の日にいるように、「現実を主の目で見つめ、未来と復活に眼差しを向けることが、霊的に役立つ訓練となる」と勧められた。

 なお、この一年の間に世界の教会で亡くなったのは、枢機卿が13人、司教が147人。

(編集「カトリック・あい」)

2019年11月5日

♰「主の慈しみに満ちた眼差しから、私たちの回心が始まる」ー正午の祈りで

2019.11.01 Angelus2019.11.01 AngelusPope Francis greets the faithful from the Apostolic Palace, during his weekly Angelus address  (Vatican Media)
 ザアカイは徴税人で、そのために罪人と見なされていた。イエスがエリコを通られていると聞いて、彼は「イエスがどんな人か見ようとした」-イエスに会うことは期待していなかった。

 「しかし」と教皇は言われた。「彼は関心を持っていました。イエスについて素晴らしいことを聴いていたので、その人を見ようとしたのです」。

ザアカイは背が低かったので、主を見るために木に登った。

 イエスはザアカイが木に登った場所に来ると、上を見上げて、彼を見た。教皇は「これは重要な点です。最初に相手を見たのはザアカイではなく、イエスです… 主の慈しみに満ちた眼差しは、私たちが、救われる必要があると分かる前に、私たちに注がれるのです」と指摘。

 そして、主の眼差しがザアカイに注がれることで、彼の奇跡的な回心が始まる、とされ、「イエスは、彼を詰問したり、説教したりしませんでした… 彼に、『私は、あなたの家に泊まらねばならない』と言われたのです… それが父のご意思だから、『ねばならない』のです」と説明された。

 ルカ福音書のこの箇所で、イエスを見ていた人々は、「あの人は、罪深い男の所に行って宿をとった」と口々につぶやいた。教皇は「私たちもまた、このようなイエスの振る舞いに憤慨するかもしれません」とされた。人々のザアカイに対する蔑視は彼を孤立させ、さらに罪深いものとさせたが、「神は、罪をとがめるが、罪人を救おうとされます… 神が自分を助けようとしてくださっていると感じたことのない人にとって、イエスがザアカイに対して見せた振る舞いと言葉の特別の素晴らしさを理解するのは難しい」と語られた。

 「ザアカイを回心に導いたのは、イエスが彼に向けた歓迎と注意です… その瞬間に、ザアカイは、金銭によって消費されている暮らしのつまさなさを知ったのでした」。イエスが彼の所に来られた時、「ザアカイは、これまでとは違った目で、そしてイエスが自分をご覧になった優しさを少しばかり持って、全てを見ることができたのです」と教皇は説かれた。

 強欲だったザアカイは今や、気前が良くなり、もっと手に入れようとしていたザアカイは今や、人にあげることに幸せを感じた。「愛と出会うこと… 自分の罪にもかかわらず愛されいることを知り、他の人々を愛することができるようになった」-罪の元となっていた金銭を「連帯と交わりのしるし」に変えたのだった。

 

2019年11月4日

♰「聖性とは『恵みと召命』、自力では到達できない」-諸聖人の日に

(2019.11.1 バチカン放送)

 カトリック教会の典礼暦で、「諸聖人」の祭日を迎えた11月1日、教皇フランシスコは、正午の祈りの集いに先立つ説教で、「諸聖人の祭日は、私たち皆が聖性に招かれていることを思い起こさせるもの」と話された。

 この日に祝う、あらゆる時代のすべての聖人たちは「単なる象徴でも、私たちにとって到達不可能な人たちでもありません… 聖人たちは、地に足を着けて生き、人生の日々の労苦を成功や失敗と共に味わいつつ、再び起き上がり、歩み続ける力を主の中に見出した人々なのです」と説かれた。

 そして、「聖性とは、自分の力だけで到達できるゴールではなく、神の恵みと、その恵みに対する私たちの自由な答えの実り… 聖性とは、『恵みと召命』です」と語られ、「聖性は買ったり、引き換えたりできるものではありません。洗礼を受けた日から、私たちの中にお住まいになる聖霊を介して、神の命にあずかり、神の恵みを受け入れることで得られるもの」と強調。

 また、「聖性は、キリスト者全員に共通の一つの召命… その召命とは、全てのキリスト者が信仰において辿るように呼ばれた道であり、その道は最後の目的地、すなわち『永遠の命における神との完全にして最終的な一致』へと向かっています」とされ、召命への責任を各自が負うことで「聖性は、神の恵みに対する答えになります… 一つひとつのことを思いやりと慈愛をもって行いながら、人生の様々な状況の中で日常的な聖化の努力を続けることが大切」と述べられた。

 諸聖人たちは今、神の玉座の御前で、神の永遠の栄光の賛歌を唱和し、私たちが巡礼しているこの「地上の都」から、最後の目的地として希望をもって見上げる「聖なる都」を形作っている、と語られ、「聖人たちの生涯を見つめることで、私たちは彼らに倣うよう励まされます… 聖人たちの多くは、私たちのそばにいながらも、神の存在を感じさせる『身近な霊性』を持っているのです」と指摘。「諸聖人たちを思い起こすことは、私たちの目を天に向けさせますが、それは地上の現実を忘れるためではなく、勇気と希望をもって立ち向かうためです」とある、と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年11月4日

♰「『死』を忘れる文化は、枯れて、死ぬ」-世界若者会議へ教皇がビデオメッセージ

(2019.10.31 VaticanNews Devin Watkins)

 教皇フランシスコは31日、メキシコ・シティで開かれたScholas Occurrentes(教皇が設立した世界教育ネットワーク)と World ORT(ユダヤ的価値観の教育ネットワーク)共催の第四回世界若者会議に参加した若者たちに、ビデオメッセージを送られた。

 この中で、死について取り上げられた教皇は、「死の問題は、実際は命に関する問題です… 一見して矛盾しているように思われるこの意味は、実は極めてはっきりしています-命を生き続けさせるのは死なのです!」と繰り返された。

「終わりと目標」

 教皇はスペイン語で語られたメッセージで、ロマンス諸語ラテン語の口語である俗ラテン語に起源をもつ諸言語)で見られる用語の類似性(el final: the [temporal] end vs. el fin: the aim or end goal)を取り上げ、「『最終目標』は、物語を書いたり絵を描いたりすることを可能にするもの… それぞれの言葉の終わりや沈黙の終わりのように『日常生活の小さな目標』に注意を払うように…『この瞬間は終わる(注:永遠ではない)』ということを意識している人生だけが、それを永遠なものにするのです」と説かれた。

 さらに、「『死』は、私たちの『全能性の幻想』を消し去り、人生の謎に取り組むことを教えてくれます… それによって、『虚空に飛び込んでも、落ちず、沈まず、私たちを捕まえてくれる誰かがいつもいること』を認識する自信が得られます。終る前も終わった後もです」「私たちの人生の『終わり』を知らないことは、私たちにはかなさを感じるようにさせますが、他の人の話を聞いたり、一緒に何かを作ったりすることに私たちの心を開いてくれもします」と語られた。

「太陽の下に新しいものはない」

 続いて教皇は、現代の人間社会の特質に関心を向け、「世界は既に形成されており、全てが既に説明されている… 社会は完全に形成され、明確に定義されている、と考え、疑問をそのままにしておくことを拒否します… そして、自立、自己充足、自己実現を崇拝する世界で、それ以外の(注:それを崇拝しない)人々の場所は無いように見えます」と指摘。

 さらに「私たちの世界は、中断が許されないほどのペースで加速しているように見え、私たちを奴隷にし、「『結局は終わりがあること』の意味を忘れるように麻酔にかけます」「死を忘却することは、死の始まりでもあります… 死を忘れる文化は、枯れて死ぬ。 死を忘れる人は、既に死に始めているのです」とされた。

「互いのために死ぬこと」

 最後に、教皇は、死の問題に立ち向かう勇気を持つ、会議に参加した学生に感謝を述べ、「私たちを命で満たす死は三つあります… 瞬間・瞬間の死。自我の死。新しい世界に道を譲る、一つの世界の死です」とされ、「覚えておいてください。死が遺言を残さないとすれば、それは、私たちが人生において、互いのために死ぬことを学んだからです」と諭された。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(バチカン・ラジオの英語翻訳版は以下の通り)

A Vatican Radio English-language translation is below:

Dear young people of Scholas Occurrentes gathered from so many nations of the world, I celebrate with you the end of this meeting. I want to stop there. I wish to dwell on this: the end.

What would become of this encounter if it did not have an end? Perhaps it wouldn’t even be an encounter. And what would become of this life if it did not also have its end?

I know some will say: “Father, don’t put on a funeral face.” But let us think this through. I know from a good source that you kept the question of death burning throughout this entire experience. You played, thought, and created out of your differences.

Good! I celebrate and thank you for this. Because, you know what? The question of death is really a question about life. And keeping the question of death open, perhaps, is the greatest human responsibility towards the question of life.

Just as words are born out of silence and return to it, allowing us to hear their meanings, so it is with life. This may sound somewhat paradoxical, but… It is death that allows life to remain alive!

It is the end goal that allows a story to be written, a painting to be painted, two bodies to embraced. But watch out, the end goal is not found only at the end. Perhaps we should pay attention to each small purpose of everyday life. Not only at the end of the story – we never know when it ends – but at the end of each word, at the end of each silence, of each page that is being written. Only a life that is conscious of the fact that this exact instant will end works to make it eternal.

On the other hand, death reminds us that it is impossible to be, understand, and encompass everything. It comes as a slap in the face to our illusion of omnipotence. It teaches us throughout life to engage ourselves with mystery. This gives us confidence to jump into the void and to realize that we will not fall, that we will not sink, and that there is always Someone there to catch us. Both before and after the end.

The “not knowing” part of this question results in fragility that opens us to listening to and meeting other people. It is that rising above the commotion that calls us to create something, and urges us to come together to celebrate it.

Lastly, the question of death has driven different communities, peoples, and cultures to be formed throughout the ages and throughout all lands. These are stories that have fought in so many places to stay alive, while others were never born. That is why today, perhaps as never before, we should touch on this question.

The world is already formed, and everything is already explained. There is no room for open questions. Is that true? It is true, but it is also not true. That is our world. It is already fully-formed, and there is no place for unanswered questions. In a world that worships autonomy, self-sufficiency, and self-realization, there seems to be no place for the other. Our world of plans and infinite acceleration – always speeding up – does not allow for interruptions. So the worldly culture that enslaves also tries to put us to sleep so we forget what it means to stop at last.

But the very oblivion of death is also its beginning. And a culture that forgets death begins to die within. He who forgets death has already begun to die.

That is why I thank you so much! Because you have had the courage to confront this question and to pass – with your own bodies – through the three deaths that, by emptying us, fill us with life! The ‘death’ of every instant. The death of the ego. The death of one world gives way to a new one.

Remember, if death is not to have the last word, it is because in life we learned to die for one another.

Finally, I would like to thank especially World ORT and each one of the people and institutions that made possible this activity in which the culture of encounter has become tangible.

I ask each of you please, each in his own way, each according to his own convictions: don’t forget to pray for me. Thank you.

 

2019年11月1日

◎教皇連続講話「使徒言行録」⑬聖霊は宣教の主役、私たちを前進させる」

(2019.10.30 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、バチカンで30日、水曜恒例の一般謁見を行われ、その中で「使徒言行録」をテキストに聖パウロたちの福音の旅をめぐるカテケーシスを続け、この日は、ヨーロッパに上陸したキリスト教信仰をテーマに話された。

 まず教皇は「『使徒言行録』を読むことで、私たちは、聖霊が福音宣教の主役となって宣教者たちの歩みを導いていることを知ります」とされ、その聖霊の働きは「トロアスに下った使徒パウロが幻を見、その中で一人のマケドニア人が『マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください』(使徒言行録16章9節)と願うのを聞き、『神が私たちを召されている』と確信し、すぐに旅立ったエピソード」からも明らか、と話された。

 パウロたちは「マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市」(同16章12節)であるフィリピに行き、数日間滞在した。教皇は、パウロたちがフィリピで体験した3つの出来事を振り返られた。

  その1つは、パウロが、リディアという婦人と家族に宣教し、洗礼を授けたことだ。リディアは紫布を商う、神を崇める婦人だったが、「パウロの話しを注意深く聞く」(同16章14節)ために、主は彼女の心を開かれた。リディアは家族と共に洗礼を受けた後、パウロたちを家に招いて泊めた。

 教皇は「私たちがここに見るのは、キリスト教がヨーロッパに上陸した証しであり、これが今日まで続く、インカルチュレーションのプロセスの始まりです」と説明された。

  2つ目の出来事は、リディアの家での心温まる体験とは対照的に、「パウロとシラスが投獄される」という厳しい体験だった。パウロは、占いの霊に取りつかれた女奴隷を、その霊から解放してやった。しかし、この女奴隷は占いをして主人に多くの利益を得させていたため、金儲けができなくなった主人はパウロとシラスを捕え、役人に引き渡し、彼らが町を混乱させたと訴えた。二人は何度も鞭で打たれ、牢に投げ込まれた。パウロとシラスは、嘆く代わりに、牢の中で賛美の歌をうたい、神に祈っていた。すると、大地震が起こり、牢の戸が開き、すべての囚人の鎖がはずれた。

 教皇は「神への賛美が、解放の力を起こさせ、聖霊降臨の祈りと同様に、牢獄においても祈りは奇跡を起こしたのです」と話された。

  3つ目は、看守とその家族の回心と受洗だ。囚人たちが逃げてしまったと思った看守は自害しようとしたが、パウロは「私たちは皆、ここにいる」と叫んだ(同16章27-28節)。看守の「救われるためにはどうすべきでしょうか」(30節)という問いに、パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)と答えた。看守と家族は主の言葉に耳を傾け、真夜中にも関わらず、パウロたちの傷を洗ってやり、皆で洗礼を受けた。

 教皇は「真夜中に、この無名の看守にキリストの光が輝き、光が闇に打ち勝ちました。心の鎖は外れ、彼と家族の中に今まで知らなかった喜びが花開いたのです」と語られ、このエピソードに見るように「聖霊は宣教の主役… 福音をもたらすために、聖霊は私たちを前進させます。私たちは聖霊が促す召命に忠実でなければなりません」と強調された。

(編集「カトリック・あい」)

*VaticanNews英語版

(2019.10.30 VaticanNews  Lydia O’Kane)

Pope Francis during his weekly General Audience says the Holy Spirit is the protagonist of the Church’s mission.

Despite pilgrims and tourists having their umbrellas to the ready for Wednesday’s General Audience, the brief drizzle that descended on St Peter’s Square then turned into a clear sky as Pope Francis reflected on his continuing catechesis on the Acts of the Apostles.

He told those gathered that in this book, one can see how “the Holy Spirit is the protagonist of the Church’s mission: it is He who guides the journey of the evangelizers showing them the path to follow.”

St Paul’s missionary journey

The Pope noted that this can be clearly seen when the Apostle Paul, having come to Troad, receives a vision begging him to come to Macedonia and help the people there.

The Apostle, said Pope Francis has no hesitation; he leaves for Macedonia, sure that it is God Himself who sends him, and arrives in Philippi.

The conversion of Lydia

The Pontiff explained to those present that the power of the Gospel is directed above all to the women of Philippi, in particular to Lydia, a merchant dealing in purple dye, and a believer in God to whom the Lord opens her heart “to adhere to the words of Paul”.

Lydia, continued Pope Francis in fact, “welcomes Christ by receiving Baptism together with her family and welcomes those who belong to Christ, hosting Paul and Silas in her house.” “Here we have the witness of the arrival of Christianity in Europe: the beginning of a process of inculturation that still lasts today”, he said.

The Pope went on to describe how, after having received hospitality at Lydia’s house, Paul and Silas then find themselves having to deal with the harshness of prison. He remarked that they go from the consolation of this conversion of Lydia and her family, to the desolation of prison where the key is thrown away for having healed a slave girl in the name of Jesus.

Speaking off the cuff, the Pope said that this slave’s masters made much money out of getting her tell people’s fortunes.

Even today, Pope Francis commented, “there are people who pay for this” recalling in his former diocese, in a very large park, there were more than 60 tables where fortune tellers read palms and people believed and paid.

Prison and a jailer’s baptism

By praying fervently to the Lord, said the Pope, “Paul and Silas are freed of their chains by a sudden earthquake.  This prompts their jailer to ask how he too can be saved, and after hearing the word of the Lord, he receives baptism together with his family.”

Concluding his catechesis, the Pope underlined how “in these events we see the working of the Holy Spirit and the unchained power of the Gospel.

 

2019年10月31日