・「与えられた使命を謙遜に忠実に果たす者でありたい」菊地大司教の年間第18主日メッセージ

2025年8月 2日 (土)週刊大司教第219回:年間第18主日C

 
2025caritasyouth11 年間第18主日です。8月に入りました。暑さが続く中、皆さん体調は大丈夫ですか。私は今週、ローマにおります。今年の聖年の中での青年の祝祭が行われており、ローマ市内は世界各国から集まった青年たちであふれかえっています。
 
 その中には日本からの60名近い青年たちもいます。東京よりは少しだけ涼しく、朝晩は心地よさも感じるローマですが、先週までは猛暑だったようで、ちょうどこの青年の祝祭にあわせて少し涼しくなってくれたようです。それでも十分暑い中、青年たちはローマ市内を徒歩で、またバスで、巡礼を続けています。

 3日、日曜日の午前中に行われる青年の祝祭のミサは、ローマ郊外にあるTor Vergataというところの競技場で、これは2000年の大聖年のときのWYDで教皇ヨハネパウロ2世のミサが行われた場所と聞いています。

 参加する青年たちは、今夜、土曜の夜は、近隣で野宿だということです。同行している司祭や修道者のリーダーも一緒に野宿だということ。100万人近くが集まるということなので、参加者の健康を祈ります。朝晩は涼しいとはいえ、ローマは真夏の暑さです。2025caritasyouth07
 ローマ市内の教会には、至る所で青年の祝祭のサイドイベントが、ありとあらゆる教会関係の団体によって行われており、聖堂内は涼しいこともあって、ローマ中の教会が青年たちであふれかえっています。
 今週は、国際カリタスも、この聖年の行事にあわせて、サイドイベントを行っています。バチカン近くでブースを出して、現在行っている債務を希望に変えようというキャンペーンの署名を求め、青年たちがカリタスの活動に参加するようにアピールしています。 またこれにあわせて、すでに先週、世界各地から集まった青年たちの代表50名ほどによる交流行事が行われました。
 そして今週はその青年たちの中のリーダーたち25名ほどがローマに残り、国際カリタス本部の事務局職員も交えて、様々に交流を続けています。アジアからも、カリタス・アジアの事務局、ミャンマー、シンガポール、韓国、香港などから青年のリーダーが参加しています。2025caritasyouth10 7月30日の午後には、国際カリタス本部のあるサンカリスト宮殿隣にあるトラステベレの聖マリア聖堂で、青年たちのミサを行いました。私はその司式をさせていただきました。
 ミサ後にはサンカリスト宮殿(バチカンのローマ市内にある飛び地です)の中庭での青年リーダーたちの交流会に参加して、様々なゲームにも一緒させていただきました。 
 また、これに合わせてバチカンの総合人間開発省や福音宣教省、そして国務省とのカリタスの活動についての打ち合わせの予定が入りましたので、毎日、動き回っています。広島での8月5日の平和祈願ミサを司式することにもなっているので、それまでには日本に戻ります。 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第219回、年間第18主日のメッセージです。

【年間第18主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年8月3日】

 今年は2015年に教皇フランシスコが、回勅「ラウダート・シ」を発表してから10年となる節目の年です。司教団のラウダート・シ部門でも、9月の「すべての命を守るための月間」に、エコロジカルな霊性をテーマとしたシンポジウムを計画していると聞いています。 

 またアジア司教協議会連盟(FABC)は、中央委員会を開いた今年の3月15日付けで、「被造界のケアについて、エコロジカルな回心の呼びかけ」を発表し、アジアの教会に今一度、「ラウダート・シ」の精神を振り返るように呼びかけました。 

 この文書でアジアの司教たちは、「人間的な無関心、虐待、乱開発の重荷により被造界が苦しんでいるいくつかの事例」を掲げた後に、「この聖年という時期にあたり、こうした苦難は、私たちが悔い改め、回心し、神の創造の御業の管理者としての共同責任を、より堅固な決意をもって、引き受けるように」と呼びかけています。

 教皇フランシスコは「ラウダート・シ」において、「神との関わり、隣人との関わり、大地との関わり」が引き裂かれることが罪なのだ、とされる中で、こう記されました。 「私たちが図々しくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました」(66項)。

 罪の状態の根源にあるのは、人間の思い上がりと、関係の断絶です。 ルカ福音は、「自らのために蓄財しようと、新しく大きな蔵を建てようとしている金持ち」のたとえ話を記しています。この世の価値観の典型である「自分のための蓄財行為」に対して、神は「愚か者よ、今夜お前の命は取り上げられる」と、「自分の命をコントロールするのは自分自身」であるかのように錯覚している人間に対して、その思い上がりを指摘されます。

 「図々しくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒む」、この人間の行動は、神の前の真の豊かさとは無縁です。 環境破壊に限らず、神からの究極の賜物である命に対する暴力的な攻撃のすべては、「この世界をコントロールするのは自分だ」という思い込みに支配され、この世の富と繁栄に目と心を奪われ、結果として神との関係を断絶し、隣人との関係を断絶し、被造界との関係を断絶する私たちの慢心に、その根源があります。

 その意味で「ラウダート・シ」に記された環境問題への教会の取り組みと環境的な回心の勧めは、環境の保護・回復にとどまらず、私たちの、この世界に、神の秩序を打ち立てること、すなわち平和の確立に繋がっています。 

 今週は8月6日が広島平和記念日(原爆の日)、9日が長崎原爆の日、そして15日が終戦記念日でそれぞれ80年目。この期間、日本のカトリック教会は平和旬間を迎えます。平和を求めることは、この共通の家である地球を大切にし、神との関係、隣人との関係、被造界との関係を正しく戻そうとする行動でもあります。

 教皇レオ14世の7月9日のカステル・ガンドルフォでのミサ説教の言葉です。「被造物を守り、平和と和解をもたらすという私たちの使命は、イエスご自身の使命です。それは、主が私たちに委ねられた使命です。私たちは地の叫び声を聞きます。貧しい人々の叫び声を聞きます… 私たちの業は、神の業なのです」。

 与えられた使命を謙遜に忠実に果たす者でありたいと思います。(編集「カトリック・あい」)

2025年8月2日

・「私たちが求めるものは、善、神の御旨の実現」菊地大司教の年間第17主日メッセージ

2025年7月26日 (土) 週刊大司教第218回:年間第17主日C

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 年間第17主日です。あっという間に時は過ぎ、7月も、もうあと少しで終わります。各地で通常を超える暑さが続いていますが、お見舞い申し上げます。

 7月27日から8月3日まで、ローマでは聖年の行事として「青年の祝祭」が行われ、日本からも青年たちを中心にした巡礼団がローマに出かけています。アンドレア司教様が同行されてローマに行かれます。

 私も、同じ時期ですが、別の予定で7月30日、国際カリタスの青年部門が主催するカリタスの青年の祝祭で、ローマの教会でのミサの司式を依頼されているので、数日間だけローマに出かける予定にしています。ローマも非常に暑いと聞いています。青年の行事に出かけられる皆さんには、体調にぜひ気を付けて、良い巡礼と出会いを体験して来られますように。

 まもなく日本の教会は平和旬間を迎える時期です。この時期だからこそ、改めて声をあげますが、神からの賜物である命に対する全ての暴力を止めましょう。武力の行使をやめましょう。大切なこの命から尊厳を奪い、恐れのうちで絶望を抱くような世界を、希望を生み出す世界にしましょう。命を与えられたものとして、神の前で謙遜に生きるものでありましょう。

 以下本日午後6時配信、週刊大司教第218回、年間第17主日のメッセージです。

【年間第17主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年7月27日】

 ルカ福音は、主の祈りが弟子たちに与えられた様を記しています。その祈りは、「父よ」と始まります。イエスがその言葉と行いを通じてわたしたちに示される「父」は、例えば放蕩息子を迎え入れる父親であったりするように、慈しみそのものであります。イエスは、慈しみそのものである御父が、私たちの叫びに耳を傾けようと忍耐強く待ち続けているのだから、信頼のうち、「お父さん」と呼びかけるように教えられます。

 主の祈りは、私たちの叫びの祈りであるとともに、私たちに歩むべき道を教える祈りでもあります。

 御父の御名があがめられるように努めるのは、私たちの役割です。そのために何ができるのでしょうか。

 「御国が来ますように」、すなわち「神の秩序がこの世界を支配するように」と祈ることは、神の平和が実現し、確立するように祈ることでもあります。神の平和は、私たちが具体的に働くことでのみ、この世界に実現します。そのために何ができるのでしょうか。

 「日ごとの糧」を求めることで、賜物である命が十全に生きることのできるように働く決意を示します。命の尊厳が護られ、与えられた使命を生きることのできる世界を生み出すのは、私たちの務めです。「命を生かしてください」と御父に願う私たちが、その命の尊厳をないがしろにするような行動をとったり、他者の尊厳を傷つけて平然としていることは考えられません。人間の尊厳を尊重し護る道を歩むものでありたいと思います。

 「赦し合う」ことは、一致のうちに共に支え合いながら歩もうとする私たちにとって、重要な姿勢です。神がその愛をもって私たちを包み込んでいるからこそ、私たちもその愛を同じように分かち合いたいと思います。

 「誘惑に遭わせないでください」と祈ることで、人として様々な誘惑に打ち勝った主ご自身に、私たちが倣うことのできる恵みを願います。霊的に闘うのは私たちの務めです。

 私たちの祈りに耳を傾けられる御父の姿勢は、創世記に記されたソドムの町に関するアブラハムと神のやりとりにもよく表れています。辛抱強く耳を傾けるのは、御父です。

 御父が耳を傾けてくださる存在であるからこそ、イエスは弟子たちに、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」と諭します。与えられるものは「よいもの」です。「聖霊」です。邪悪な事柄を執拗に求めたからと言って、それは聞き入れられません。求めることができるのは、善であり、悪ではありません。神の御旨の実現であり、悪の支配ではありません。赦しであって、分裂や分断ではありません。人間の尊厳を護ることであって、賜物である命に対する暴力を肯定することではありません。

(編集「カトリック・あい」)

2025年7月26日

・「私たちの教会は『迎え入れる教会』になっているだろうか」-菊地・東京大司教の年間第16主日メッセージ

2025年7月19日 (土)週刊大司教第217回:年間第16主日C

 年間第16主日となりました。先日7月13日に、生まれ故郷である岩手県の宮古市を訪れ、枢機卿に親任されてから初めてのミサを、宮古教会で捧げることができました。宮古教会は、教会で働いていた両親のもと、わたしが洗礼を受け、育てられ、幼稚園の年中組までを過ごした地です。わたしにとっては、信仰の原点が宮古教会です。聖堂はその頃(昭和30年代)と同じように建っていますが、内装も外装も新しくなっています。聖堂横の鐘楼は昔のまま。幼稚園園舎や司祭館は新しく建て直されています。25miyako06

 この日は宮古教会だけでなく、同じ宮古出身で、現在宮古教会を担当しているイエズス会の堀江神父様が、ひとりで兼任されている釜石や遠野を始め、大船渡、水沢や盛岡の四ツ家や志家からも信徒の方が来てくださり、聖堂はいっぱいになりました。ミサにおいでくださり祈りの時をともにしてくださった皆さんありがとうございます。中には一緒に幼稚園に行った幼なじみや、小学校のころに一緒に侍者をした仲間もおいででした。

Img_20250718_165003694_burst000_cover その幼なじみのひとり、ウルスラ会のシスター中島が、わたしの肖像画(写真左)を描いてくださいました。

 また土曜日には、たまたま訪れた景勝地の浄土ヶ浜で、クリーンアップ活動が行われており、このたび新しく就任された宮古市の中村尚道市長にお会いしてご挨拶させていた来ました。(右下の写真:向かって左側が中村尚道市長。右はカトリックの小百合幼稚園の加藤園長で、クリーンアップ活動に参加中でした)

 岩手県の教会の皆さん、いつもお祈りありがとうございます。

 明日は大切な選挙の日です。世界には民主的な選挙が実現しておらず、かえって制限されたり独裁がまかり通る国も、近隣を始め少なからず存在することを考える時、この国で私たちに与えられた意思表明の権利を行使することは大切です。今の自分のことだけでなく、もっと広く、将来の世代への希望や、この地球全体で神から賜物としていのちを与えられている全ての人の明日も考えながら、しっかりとご自分の考えに基づいて、この権利を行使されますように。絶望ではなく、希望が生み出される社会となることを願いながら。

  以下、本日午後6時配信、週刊大司教第217回、年間第16主日のメッセージです。25miyako04

(年間第16主日C 2025年7月20日)

 ルカ福音はよく知られているマリアとマルタの物語を記しています。イエスを迎えた家で、イエスの話に耳を傾けるばかりで客人の接待の手伝いをしようとしないマリアに対して「手伝ってくれるようにおっしゃってください」と不平を漏らしたマルタの心持ちを、私を含めて多くの人が、理解できると思ったのではないでしょうか。

 そしてそれに対するイエスの言葉、「マリアはよい方を選んだ」というのは、なんとも一生懸命になって、もてなしをするマルタをないがしろにしている、と感じたのではないでしょうか。イエスの本意はどこにあるのでしょう。

 イエスの本意を知る手がかりは、マルタが「せわしく立ち働いていた」という福音の描写と、イエス自身の言葉、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」にあります。すなわちイエスは、マリアとマルタのどちらの行動が優れているのか判断を示されているのではなく、その現実の中で「心がどこにあるのか」を問題にしておられるのです。

 教皇レオ14世は、6月1日の、聖年における家庭・子ども・祖父母・高齢者の祝祭のミサ説教で、次のように述べておられます。

 「私たちは、望む前から命を与えられました… それだけではありません。私たちは生まれるや否や、生きるために他の人を必要としました。私たちは独りきりでは生きることができませんでした。他の誰かが、私たちの肉体と霊魂の世話をすることによって、私たちを救ったのです。それゆえ、私たちは皆、関係によって、すなわち、自由で解放をもたらす人間のつながりと、互いに世話をし合うことによって生きるのです」

 互いに助け合う中で、そこにはそれぞれが果たすべき役割があります。しかしながら、心は常に命を与えてくださった神に向けられている。その命の与え主に対して、マルタは思わず、自分の役割についての不平を述べてしまいました。

 教皇フランシスコは2019年7月21日のお告げの祈りで、「心の知恵は、観想と活動、この二つの要素をどのように結び合わせるかを知ることにあるということです。マルタとマリアはその道を示してくれます。喜びをもって人生を味わいたいのなら、この二つの姿勢をつなげなければなりません」と述べています。どちらが優れているのかではなく、神に向かって生きるときには、二つの行動がどちらも大切であり、その二つが十分になくてはならないことを強調します。個人的な優しさの問題ではなく、神に向かっているかどうかの問題です。

 そもそも、話の冒頭で、イエスを迎え入れるのはマルタです。創世記でアブラハムが三人の旅人を無理にでもと迎え入れたように、マルタはイエスを家に迎え入れます。マルタのこの迎え入れる態度がなければ、全ては始まりません。マルタがイエスを迎え入れていなければ、マリアはその足元でイエスの言葉に耳を傾けることもなかったことでしょう。

 マルタのこの行動とアブラハムの行動は、私たちに、迎え入れる態度こそが、神との出会いの鍵であることを教えています。私たちの教会は、迎え入れる教会となっているでしょうか。

2025年7月20日

・「神の慈しみの心の思いを身に受け、行動で示そう」-菊地・東京大司教の年間第15主日メッセージ

2025年7月12日 (土)週刊大司教第216回:年間第15主日C

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 暑い毎日が続いています。7月13日の主日は年間第15主日です。(写真は、教皇様が夏休みのため滞在されるカステル・ガンドルフォ遠景)

 私は、予定通りであれば13日は岩手県宮古市のカトリック宮古教会で、主日のミサを捧げます。宮古市は私の生まれ故郷であり、洗礼を受けたのがカトリック宮古教会で、当時宮古をはじめ岩手県を担当していた宣教師(ベトレヘム外国宣教会)が、チューリヒあたりのドイツ語を話すスイス人であった関係で、当時まだドイツ人宣教師が多くいた神言修道会に入ることになりました。その意味で、今の私の信仰生活の基礎は宮古にありますので、特に、枢機卿にしていただいてまだ宮古を訪問していませんでしたので、宮古教会の皆さまへの感謝を込めてミサを捧げさせていただく予定です。

 以下、本日午後6時配信、年間第15主日のメッセージ原稿です。

【年間第15主日C 2025年7月13日】

 ルカ福音書は、よく知られた「善きサマリア人」の話を伝えています。

 教皇レオ14世は、5月28日の一般謁見で、このたとえ話を取り上げ、こう述べておられます。

 「人生は出会いによって作られます。そして、この出会いの中で、私たちの真の姿が現れます。私たちは他者の前に立ち、他者の脆さや弱さを目にします。そして、なすべきことを決断することができます。すなわち、その人の世話をするか、何事もなかったかのようなふりをするかです」

 その上で教皇様は、「憐みは具体的な行動によって示されます… サマリア人は、近づきます。なぜなら、誰かを助けたいと思うなら、距離を保とうとは考えません。あなたは関わり、汚れ、もしかすると泥まみれにならねばならないかもしれません。サマリア人は、傷口を油とぶどう酒できれいにしてから包帯をしました。その人を自分のロバに乗せました。つまり、重荷を負いました。なぜなら、真に人を助けたいなら、人の苦しみの重みを進んで感じねばならないからです。サマリア人はその人を宿に連れて行き… 追加の料金が必要なら、さらに支払うことを約束しました。なぜなら、他者は、配達すべき荷物ではなく、ケアすべき人だからです」と述べ、「イエスが立ち止まって、私たちの世話をしてくださったすべての時を思い起こすなら、私たちは一層、憐み深くなることができる」と呼びかけておられます。

 律法の専門家のイエスに対する問いかけは、例えば、労働の対価としてそれに見合った報酬があるべきだ、というような意味合いです。しかし、神と私との関係では、「これだけすれば、これだけ報いがあるはずだ」という論理は通用しません。なぜなら、「神を信じる」とは、神からの一方的な働きかけに身を任せることに他ならないからです。

 〝見事〟な答えをした律法の専門家に対して、イエスは、「よく知っているではないか。それではその神の望みを具体的に生きなさい」と告げます。しかし彼は自分の常識にこだわり、隣人の範囲を明確に定めようとします。

 「善きサマリア人」のたとえ話は、神が求められている慈しみの思いに心を動かされず、自分の殻の中で生きようと目を閉じる二人と、神の慈しみの心に動かされて目を見開き、困窮する隣人の存在を認め、慈しみに具体的に生きよう、としたサマリア人の対比を描いています。

 私たちが求められている憐み深い行動は、単に私たち自身の優しい性格によっているのではなく、神ご自身の思い、張り裂けんばかりに揺さぶられている神の憐みの心に、私たちが自分の心を合わせることによって促される行動です。

 神ご自身は、ただ〝傍観者〟として憐みの心を持って見ているのではなく、行動されました。自ら人となり、十字架での受難と死を通じて、ご自分の慈しみを、目に見える形で生きられました。

 私たち一人ひとりの日常生活での出会いを通じて、また教会の組織を通じて、神の慈しみの心の思いを身に受けて、具体化して参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年7月12日

・「”シノドスの道”を共に歩み、福音宣教の務めを果たそう」菊地・東京大司教の年間第14主日メッセージ

2025年7月 5日 (土)週刊大司教第215回:年間第14主日C

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 6月30日の月曜日、毎年恒例の司祭の集いのミサが東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられました。東京教区の歴代の教区司教は、土井枢機卿、白柳枢機卿、岡田大司教と、お三方ともペトロが霊名であったこともあり、聖ペトロと聖パウロの祝日に近い月曜に、教区司教のお祝いのミサを行ってきたと伺いました。

 私の霊名がペトロではないことから、この数年は、その年にお祝いを迎える司祭叙階の記念者(金祝や銀祝)をお招きして、司祭の集いのミサを捧げています。

 今年は、該当者の中から、イエズス会の岩島神父様、フランシスコ会の小西神父様、アウグスチノ会の柴田神父様がお祝いに参加してくださいました。

 また大阪万博のバチカンナショナルデーに参加するために、日本政府からの招聘で来日中であったバチカン国務長官であるパロリン枢機卿様も、ミサに臨席くださり、その後、東京教区で働く司祭団と昼食を一緒にしながら、しばし歓談してくださいました。この日は、朝大阪から移動され、午後には石破首相などと会う政府関連の公式行事もありましたが、教区の行事にも参加するための時間を空けてくださったパロリン枢機卿とモリーナ教皇大使に、感謝します。

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 7月1日と2日には、千葉県の白子で、東京教会管区の年次会議が行われました。札幌、仙台、新潟、さいたま、横浜、東京の6つの教区から、教区司教と事務局長や総代理などが集まり、情報交換のひとときを持ちました。二日目の午前には白子にある聖バチルド・ベネディクト白子修道院を訪問し、ミサを捧げて、修道院のシスター方と祈りの時を一緒にすることができました。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第215回、年間第14主日のメッセージ原稿です。

( 年間第14主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年7月6日)

 ルカ福音は、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」というイエスの言葉を記しています。

 この言葉を耳にするたびに、「働き手が少ない」という部分は切実な現実の問題として実感させられるのですが、「『収穫は多い』というのはどういう意味だろう」と考えさせられます。

 長年にわたって日本の地で福音は告げ知らされてきました。禁教と迫害の時代を挟んでいるとはいえ、日本における福音の種はすでに1549年から蒔き続けられてきました。救いの道を切り開く福音宣教は、徹底的に人間の業ではなくて神御自身の業であります。もちろん福音宣教は人の業として、時に殉教者の血に支えられながら、日本の地で続けられてきました。

 しかし福音宣教は、徹底的に神ご自身の業であります。ですから、慈しみそのものである御父は、ありとあらゆる手段を講じて、一人でも多くの人を救いに与らせようとされ、福音の種を蒔き続けておられます。

 それは私たち人間の成し遂げる業績でもありません。神様は自ら種を蒔かれ、すでに豊かな実りを用意されています。人間の常識からすれば、諸々の困難が社会の現実にはあり、「どう見ても、福音を告げ知らせることができない状況だ」と感じさせられたとしても、主御自身はすでに実りを用意されており、不足しているのはそれを見いだし、刈り取る私たち働き手であります。

 福音には主が72人を任命し、「ご自分が行くつもりの全ての町や村に2人ずつ遣わされた」と記されています。「福音を告げるように」と遣わされた宣教者は、神の支配の確立である平和を告げ知らせ、その告知は病人の癒しという具体的な行動を伴っていたことが記されています。

 同時に「福音を告げるように」と遣わされることは、たやすいことではなくて、「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」と主ご自身が言われるように、命の危険も意味する数多の困難を伴う生き方です。まさしく主ご自身が十字架を持って具体的に証しされたように、福音を告げ知らせることも、命懸けの具体的な愛の証しの行動です。しかし同時にそれは、主がすでに用意された実りを見い出し、刈り取るための作業でもあります。私たちはありとあらゆる困難に直面しながらも、実りを見い出し、刈り取る者としての務めを果たさなくてはなりません。それが、召命です。

 信仰者は皆、「福音を告げるように」と派遣されています。私たち全てが、福音宣教者として派遣されています。働き手は「誰か」ではなく、「私」です。

 召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまらず、全てのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

 互いに耳を傾け合い、互いに支え合い、互いに道を歩み続ける弟子の姿は、今、「共に道を歩む教会」に変わろうとしている私たちへの模範です。福音を証しする”シノドスの道”を共に歩みながら、実りを見い出し、刈り取る者としての務めを果たして参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年7月5日

・「私たちも、自分自身の実体験から信仰を告白する者でありたい」—菊地・東京大司教の聖ペトロ聖パウロの主日メッセージ

2025年6月28日 (土)週刊大司教第214回:聖ペトロ聖パウロの主日

Catact1801 今年は、聖ペトロと聖パウロの祝日が日曜日と重なったため、この偉大な二人の使徒の記念日としての主日となります。ローマでは、この一年間に首都大司教(メトロポリタン)に任命された大司教が、教皇様からパリウムと呼ばれる肩掛けをいただく式が行われます。

 私がパリウムをいただいたのは、教皇フランシスコから2018年のこの時期でした。前日土曜の晩には、前田枢機卿様が枢機卿会の中で叙任された日でもありました。このときは、パリウムは小箱に入ったものを教皇様から渡され、帰国後に自分のカテドラルで、教皇大使からそれをいただくという形式でした。下の写真は、2018年当時の教皇大使チェノットゥ大司教様から、パリウムを授けられているところです。

1805b 今回教皇レオ14世は、以前の形式に戻して、ご自分で直接大司教たちに授けることにしたと聞いています。どちらにも象徴的な意味があると思いますが、今回のように直接の方が、確かにペトロの後継者である教皇と使徒の後継者である司教の絆を、直接的に感じることができるのではなかろうかと思います。

 ところで、聖ペトロ聖パウロの祝日に近い主日には、ペトロ使徒座献金が行われます。名称はなにか教皇庁の建物でも支える献金みたいですが、実際には教皇様の使徒職、特に困難に直面する人たちを助ける愛の業を実現するための、教皇様への個人的献金です。Peter’s PenceとかObolo di San Pietroと呼ばれ、中央協議会のホームページには次のような説明が記されています。

「教皇は毎年、世界各地を訪問します。そして、人々の苦しみや悩みを聞き、優しい笑顔で力づけ、数々の援助を与えます。キリストの代理者、教会の最高牧者である教皇は、祈りと具体的な援助を通して全世界の人々にいつも寄り添っているのです。この教皇に心を合わせて、私たちも世界中の苦しんでいる人々のために祈りと献金をささげます」

 是非教皇様の活動を支えるために、献金をお願いします。こちらは教皇庁広報省が用意した、今年の呼びかけのページとビデオのリンクです。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第214回、聖ペトロと聖パウロの主日のメッセージです。

【聖ペトロ聖パウロ使徒の主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年6月29日】

 今年は6月29日の聖ペトロ聖パウロの祝日が日曜日と重なったため、主日としてこの二人の偉大な聖人の記念をいたします。

 昨年12月7日に、教皇フランシスコから枢機卿に叙任していただいた際に、教皇様から二つのしるしをいただきました。一つは枢機卿が「その命をかけて信仰を護る」という務めを象徴する深紅の帽子「ビレッタ」であり、もう一つは右手の薬指にはめる「指輪」です。この指輪には二人の人物、すなわち使徒ペトロとパウロの二人の姿が刻み込まれています。

 ペトロとパウロこそは、今に至るまで続く主の教会を支える二つの柱であります。二人は人生で歩んだ道は異なるものの、イエスご自身から声をかけられて使徒となり、その生涯を福音の告知のために捧げ、殉教への道を歩まれました。ペトロは使徒の頭として選ばれ、「神の民を牧するように」と命じられ、聖霊降臨を経て生み出された教会を育て、導きました。パウロは元来は熱心なユダヤ教徒としてキリスト者の信仰を激しく迫害するものでしたが、イエスご自身から回心へと招かれ、世界に向けて福音を告げ知らせる「宣教する教会」の基礎を築き上げました。

 そして二人は、信仰を命をかけて証しし、その血を持って教会の礎となられました。私たちはその二人の信仰を受け継ぎ、守り、育み、同じように勇気を持って信仰を証しするものとなるように招かれています。

 マタイ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だといっているか」と問いかけた話を記しています。弟子たちは口々に、どこからか聞いてきた話をイエスに伝えます。

 「あの人はこう言っていた。こちらではこう言われている」。それは、根拠の薄い、または根拠のない噂話に過ぎません。全く今の時代を生きている私たちそのもの、のようです。自分が実際に見聞きしたわけでもないのに、ネット上に流れている情報を鵜呑みにして、即座に結論に到達しようとする私たちの姿そのものです。

 それに対してイエスは、「それで、あなたがたは私を何者だというのか」と問いかけます。根拠のない噂話ではなくて、自分の体験から得た自分自身の心の思いを語れ、と迫ります。イエスとの実際の出会い、交わり、信仰に基づいて、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのは、ペトロでありました。私たちも、自らの実体験から信仰を告白するものでありましょう。

 ところでペトロの後継者である教皇様は、同時にローマの司教でもあります。5月25日、ローマの司教座であるラテラン大聖堂に着座されたレオ14世は、こう述べておられます—「ローマ教会は、ペトロ、パウロと数えきれない殉教者の証しを基盤とした、偉大な歴史の相続人です。そしてそれは独自の使命をもっています。この大聖堂のファサードの銘文の『すべての教会の母』に示されるとおりです」。

 その上で教皇様は、ペトロとパウロのエルサレムにおける対話が教会を大きく発展させたことに触れ、対話の重要性を強調されながら、「この教会は、大胆な計画に限界なく取り組み、新たな骨の折れる見通しにも立ち向かうことによって、『大きく』考えることができることを何度も示してきたからです」と述べ、今、教会が歩んでいる”シノドスの道”を歩み続けることの重要性を説いています。

 聖ペトロとパウロの祝日に当たり、改めて、教皇レオ14世のために祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年6月28日

・「私たちを一致させるのは、聖体に凝縮されたイエスの御心」菊地・東京大司教の「キリストの聖体の主日」メッセージ

2025年6月21日 (土)週刊大司教第213回:キリストの聖体の主日C

   22日の主日はキリストの聖体の主日です。キリスト教が日本よりも社会認知されている国や伝統的なキリスト教国では、この日に合わせて、ご聖体を顕示しながら行列をして、聖体に現存する主を称え礼拝する聖体行列が行われます。私が昔、若い頃に主任司祭をしていたアフリカのガーナの村でも、大がかりな聖体行列をしていました。

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 日本でも聖体行列ができればそれに越したことはありませんが、同時にキリスト教が社会的に認知されず秘跡の意味合いが理解されていない地で、御聖体がご神体であったり、極論すれば見世物のように見なされる事態は避けなければなりません。

 御聖体はキリストの実存であり、ふさわしい敬意のうちに礼拝され、共にいてくださる主に感謝と祈りがささげられるのですから、持って回ればそれで良いというものではありません。つまり私たちの満足のためにするものではありません。

 キリスト教が今以上に認知され、ご聖体の意味が広く知られるようになる、そういったふさわしい宗教的環境を整えていく必要も、常日頃から感じています。

 同時にご聖体を通じて私たちと共におられる主キリストの聖体の主日にあたり、信仰やそれに伴う公の行動が制限され、信教の自由が侵害されている国で、また命を生きる危機を肌で感じながら信仰を守っている国や地域で、ご聖体のうちに現存される主が、常に共にいてくださり、兄弟姉妹を護ってくださることを信じ、祈りたいと思います。

 月曜日、6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。太平洋戦争末期の沖縄戦で、陸軍の現地司令官だった牛島満中将が、昭和20年6月23日未明に、糸満の摩文仁で自決したとされており、沖縄県では1974年に「慰霊の日を定める条例」を制定し、戦没者の追悼と平和を祈る日とされています。

 沖縄県の「慰霊の日を定める条例」の第一条には、「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実に鑑み、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める」とその目的が記されています。

 この日には沖縄全戦没者追悼式が行われますが、カトリック教会も那覇教区が、毎年この日に慰霊のミサと祈りを捧げる行事や、平和行進を行っており、80周年に当たる今年は、日本の多くの司教も参加する予定となっており、朝6時から小禄教会で私が司式して平和祈願ミサが行われます。当日の予定と、バーント司教様の平和メッセージは、こちらのリンクから那覇教区のホームページをご覧ください。

 以下、21日午後6時配信、キリストの聖体の主日メッセージです。

【キリストの聖体の主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年6月22日】

 映画「教皇選挙」の上映と時期が重なったこともあって、キリスト教国ではない例えば日本においても、本当の教皇選挙が大きな注目を浴びました。私も教会やキリスト教について、マスコミで語る機会を多く与えられたことに感謝しています。映画は選挙の情景描写について非常に良くリサーチされており、実際の教皇選挙とほとんど変わらない様子が映し出されていました。もっとも実際の選挙人の人間関係においては、そこまで激しい駆け引きの”権力闘争”というよりも、「祈りのうちに聖霊の導きを真摯に求める一時だった」と実際に現場にいて感じました。

 その教皇選挙の前に行われた枢機卿総会では、教会の現状と新しい教皇への期待が参加した枢機卿たちから表明されましたが、その中で「一致の重要性」が多くの枢機卿から語られました。裏を返せば、「教会全体の一致が揺らいでいる」ということへの不安の表明でもあったと思います。

 教会のシノダリティ(共働性)を問う世界代表司教会議(シノドス)の終わり、2024年10月末に発表された最終文書は、そのままの形で今を生きる神の民の声を反映した、教皇ご自身の文書ということになりました。後日、教皇フランシスコはその冒頭に序文を加えられました。

 そこには、「もちろん教会には、教義と実践の一致が必要です。けれどもそれは、教義のいくつかの側面や、そこから帰結される何らかの結論の、解釈の多様性を排除するものではありません」という一文があり、その解釈の多様性が一致を阻害すると感じる人たちがいることは事実でしょう。

 もっとも教皇フランシスコご自身が、「この共同体としての聖霊の導きがどこへ向かっているのか、を明確に知ることは難しいこと」を自覚しておられたのは間違いなく、そのために即座に結論を求めるのではなく、「時間をかけて共同の識別を続けることの重要性」を説いておられました。とはいえ、私たちは辛抱強く待ち続けることに、不安を覚えます。

 その不安を払拭するのは、ご聖体の秘跡です。なぜなら、聖体は「一致の秘跡」であるからに他なりません。

 第二バチカン公会議の教会憲章には、「聖体のパンの秘跡によって、キリストにおいて一つのからだを構成する信者の一致が表され、実現される」(3項)と記されています。

 聖体は、私たちを分裂させ分断させるのではなく、キリストにおいて一致するように、と招く秘跡です。なぜならば、それこそがキリストご自身の私たちへの心であり、あふれ出る神の慈しみそのものの具体化だからです。

 ルカ福音書は、五つのパンと二匹の魚が、五千人を超える群衆の空腹を満たした奇跡物語を記します。イエスは奇跡を行う前に弟子たちに対して、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と命じることで、「人々を、共同体において常に一致させることの大切さ」を指摘しています。

 神の民として共に旅する私たちを一致させるのは、主イエスの私たち一人ひとりへの思いです。それは聖体に凝縮されたイエスの御心であり、まさしく聖体のうちに現存する主は、聖体を通じて私たちをその絆で結び、一致へと招いています。主と共に歩み続けましょう。私たちはご聖体の秘跡によって一致している神の民なのです。

(編集「カトリック・あい」)

2025年6月21日

・「聖霊の導きに身を委ね、共同体の交わりの中で、世界に愛と一致をもたらすものとなろう」菊地・東京大司教の三位一体の主日

2025年6月14日 (土)週刊大司教第212回:三位一体の主日C

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 聖霊降臨の次の主日は、三位一体の主日です。

 前の記事にも投稿しましたが、先日、国際カリタスが南山大学から人間の尊厳賞をいただきました。下の写真が、その際にいただいた記念の盾です。記念の盾に刻まれているのは、キャンパス内に実際にある上の写真の十字架です。ありがとうございます。

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6 月8日の聖霊降臨の主日には、午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、教区合同堅信式が行われました。

 今年は52名の方が堅信の秘跡を、わたしとアンドレア補佐司教様から受けられました。復活徹夜祭や復活祭に行われる成人洗礼の場合は、特段の理由がない限り、洗礼と聖体と堅信の三つの秘跡を同じ日に受けていただくようにしています。

 幼児洗礼の場合は、年齢の歩みとともに、洗礼から始まり、初聖体、そしてある程度の年齢になってからの堅信と続きます。

 そのようなわけで、今年の堅信を受けた皆さんの多数は、小学校高学年から中学生や高校生が多く見られました。堅信を受けたみなさん、おめでとうございます。2025conf04

 以下、14日午後6時配信、週刊大司教第212回目、三位一体の主日のメッセージです。

【三位一体の主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年6月15日】

 教皇レオ14世は、5月18日にサンピエトロ広場で行われた就任のミサの説教で、「愛と一致」こそが、ペトロの後継者として主ご自身から自分に託された使命の二つの次元である述べられました。

 その上で教皇は、「ローマ司教は、キリスト教信仰の豊かな遺産を守ると同時に、現代の問い、不安、課題に立ち向かうために、遠くを見ることができなければなりません。皆様の祈りに伴われて、私たちは聖霊の働きを感じました。聖霊はさまざまな楽器を調律し、私たちの心が一つの旋律を奏でることができるようにしてくださいました」と、教皇選挙に集まった133名の枢機卿たちに、確実に聖霊の導きがあり、その実りは、愛と一致に神の民を導くのだ、と指摘されています。

 教皇選挙に先立つ枢機卿会議で、多くの枢機卿が、教皇に求められる役割として、「信仰の遺産を確実に明確に伝える霊性の深さ」と「現代社会の要請に応えるために司牧の豊かな経験」、さらには「この世の組織を運営するに長けた能力を持つこと」を挙げました。教皇宣教が始まる時点で、そのすべてを兼ね備えた枢機卿は誰もいない、と思っていましたが、聖霊はしっかりと働き、四回目の投票で選ばれたレオ14世こそは、そのような資質をすべて兼ね備えた方でした。

 私たちは御父によって命を与えられ、救いの道をイエスによって与えられ、この世界で聖霊によって導かれて歩みを共にします。私たちの信仰は、三位一体の神に基づいた共同体の信仰です。ですから私たちは、「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受けます。

 私たちを「導いて真理をことごとく悟らせる」聖霊が、「私のものを受けて、あなた方に告げる」と、ヨハネ福音は主イエスの言葉を記します。その「私のもの」とは、「父が持っておられるものはすべて、私のものである」と主ご自身が言われるのですから、私たちは、三位一体の神の交わりの中で、聖霊に導かれて御子に倣い、御父へと結び合わされています。

 「カトリック教会のカテキズム」はそれを、「御父の栄光をたたえる者は、御子によって聖霊のうちにそうするのであり、キリストに従う者は、その人を御父が引き寄せ、聖霊が動かされるので、そうするのです」と記します(259項)。

 私たちは共同体で生きる教会であるからこそ、教会共同体は、三位一体の神をこの世に具体的に顕す共同体であるように努めなくてはなりません。それを実現しようとしたのが、教皇フランシスコが力強く導かれたシノドスの道です。私たちは共に支え合い、耳を傾けたい、共に祈り、聖霊の導きを識別することで、この世界の現実の中で、三位一体の神の存在を具体的に証しする共同体となります。

 そもそも私たちの信仰が三位一体に基づいているからこそ、私たちには教会共同体が必要であり、信仰を一人孤独のうちに生きることはできません。父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けた瞬間に、私たちは三位一体の神の交わりの中で、教会共同体の絆に結び合わされるのです。私たちの信仰は、共同体の交わりにおける絆によって生かされる信仰です。

 主イエスご自身に倣い、御父の願いを具体的に実現するために、聖霊の導きに身を委ね、共同体の交わりの中で、信仰を生きていきましょう。この世界に「愛と一致」をもたらすものとなりましょう。 

2025年6月14日

・「聖霊の導きに心から信頼する共同体でありたい」ー菊地・東京大司教の「聖霊降臨の主日」メッセージ

2025年6月 7日 (土)週刊大司教第211回:聖霊降臨の主日C

     聖霊降臨の主日となりました。

    8日の午後には、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、合同堅信式が行われます。堅信の秘跡を受けられる53名の皆さん、おめでとうございます。堅信式の様子などは、また別途記します。

   6月は「みこころの月」と言われます。「みこころ」は、主イエスの心のことで、以前は「聖心」と書いて「みこころ」と読んでいました。イエスのみこころは、私たちへの溢れんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスのみこころから溢れ出て、人類の罪をあがなう血です。また水が、命の泉であり、新しい命を与える聖霊でもあります。キリストの聖体の主日後の金曜日に、毎年「イエスのみこころ」の祭日が設けられ、今年は月末の27日となっています。

 みこころの信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖女マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に対して主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、その満ち溢れる愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、人々への回心を呼びかけた出来事があり、主は、ご自分の心に倣うように、と呼びかけられました。そしてみこころの信心を行う者には恵みが与えられる、と告げ、その一つが、9か月の間、初金に聖体拝領を受ける人には特別な恵みがある、とされています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと言われます。

 1856年に教皇ピオ9世が「イエスのみこころ」の祭日を定められました。

 以下、7日午後6時配信、週刊大司教第211回、聖霊降臨の主日のメッセージです。

聖霊降臨の主日C(ビデオ配信メッセージ)2025年6月8日

 先日行われた教皇選挙、コンクラーベに参加し、新しい教皇レオ14世を選出した133名の枢機卿たちは、システィナ聖堂で投票を続ける中で、聖霊の働きを実感していました。

 教皇選挙は、「選挙」とは言うものの、いわゆる政治的な駆け引きの場ではありません。教皇選挙を前にして連日行われた枢機卿の総会で、教皇選挙とは、たぐいまれな才能と霊性を持って力強く教会を導いた教皇フランシスコの後継者を選ぶ作業なのではなく、「イエスが最初の牧者として神の民を託した使徒ペトロの後継者を選ぶ祈りの時なのだ」と多くの枢機卿が感じていました。すなわち、枢機卿たちは良い選挙ができるように聖霊の導きを祈っていたのではなく、すでに主ご自身が選ばれているはずのペトロの後継者を、私たちの間から見い出すための識別の賜物を願って祈っていました。

 枢機卿の総会を終えて、133名の有権枢機卿がシスティナ礼拝堂に入った時、その中の誰が本当にペトロの後継者として選ばれているのかを分かっていた枢機卿は誰もいませんでした。しかし聖霊に導かれて投票を続ける中で、最後に3分の2を超えて選出されたプレボスト枢機卿のこれまでの人生を見た時、私を含めて多くの枢機卿が、「確かに聖霊に導かれた彼にたどり着いた」と感じたはずです。

 というのも、事前の枢機卿の総会では、「次の教皇には、司牧の現場に精通し、組織の運営に長けており、さらには深い霊性を持った人物がふさわしい」という意見で多くが一致する一方で、「そのような資質を持った人物などいない」という諦めも感じていました。しかし、教皇レオ14世こそは、ペルーでの長年の宣教師としての働き、修道会の総長や司教としての働き、さらにはバチカンでの働きと、「必要だ」とされた経験を十分に持ち、アウグスチノ会という修道会の霊性にも通じておられます。主は自ら選ばれ、聖霊を通じて、私たちがプレボスト枢機卿に到達するように導いてくださいました。

 「聖霊来てください。あなたの光の輝きで、私たちを照らしてください」—聖霊降臨の主日に、福音の前に歌われる聖霊の続唱は、この言葉で始まります。教会は聖霊によって誕生し、聖霊の働きによって育まれ、聖霊の導きによって歩み続けています。

 「聖霊は教会の中に、また信者たちの心の中に、あたかも神殿の中にいるかのように」住んでいると指摘する第二バチカン公会議の教会憲章は、聖霊は「教会をあらゆる真理に導き、交わりと奉仕において一致させ、種々の位階的たまものやカリスマ的たまものをもって教会を教え導き、霊の実りによって教会を飾る」と教えています。その上で、「聖霊は、福音の力をもって、教会を若返らせ、たえず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く」(4項)と記し、教会は、「キリストを全世界の救いの源泉と定めた神の計画を実現するために協力するよう」、聖霊から迫られている(17項)と強調しています。

 聖霊の導きに信頼し、神の道を共に歩むことができるように、祈りのうちに身を任せましょう。常に私たちの間で働かれる聖霊の導きに、心から信頼する共同体でありましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年6月7日

・「共に生きる”家”を守るために、共に努力しよう」-菊地・東京大司教の「主の昇天の主日」のメッセージ

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  この1か月ほど、教皇フランシスコの帰天に始まり、葬儀、教皇選挙、レオ14世の誕生、さらには以前から予定されていたメキシコでの国際カリタス理事会と、予定外のプログラムを含めて海外へ出ていることが続いたため、週刊大司教を一回お休みさせていただきました。申し訳ありません。今週からまた再開です。今週の週刊大司教が210回目となります。

 なお2020年11月7日に第一回目を配信してはじまった「週刊大司教」ですが、過去のすべてのビデオは、こちらのリンクの東京大司教区のYoutubeアカウントからご覧頂けます。

 主の昇天の主日となりました。

 教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」が発表されてから10年。単なる環境問題への取り組みにとどまらず、私たち被造物のふさわしいあり方を問いかけ回心を促すこの回勅は、いままだ解決の糸口さえ見い出されていない地球の様々な問題を目の当たりにするとき、決して時間とともに色あせていくような内容でないことを、改めて痛感します。

 この課題に真摯に取り組むために、司教協議会には啓発活動をするための、「ラウダート・シ」デスクが設けられています。こちらのホームページをご覧ください

 また私が事務局長を務めているアジア司教協議会連盟(FABC)では、3月にバンコクで行われた中央委員会の際に、FABC司牧書簡を発表しています。この書簡のタイトルは、「アジアの地方教会へ――被造界のケアについて。エコロジカルな回心への呼びかけ」です。邦訳が中央協議会のサイトに掲載されていますので、どうぞご一読ください。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第210回、主の昇天の主日のメッセージです。

主の昇天の主日C(ビデオ配信メッセージ)

 使徒言行録は、弟子たちに対して天使が、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と語りかけたと記します。死を打ち破って復活された栄光の主が、自分たちから去って行く。残された私たちはどうなるのだと、呆然として、弟子たちは立ち尽くしていたのでしょう。

 この天使の呼びかけは、諦めと失望のうちに呆然と立ち尽くすのではなく、イエスが再び来られることを確信しながら、その日まで、イエスから託された使命を果たして生きよという、弟子たちの行動を促す言葉です。

 イエスから託された使命とは何でしょうか。ルカ福音書も使徒言行録も、ともに、「地の果てに至るまで、私の証人となる」というイエスの言葉を記します。語るのは、自分の考えではありません。自分の才能を披露することでもありません。

 聖霊に導かれて、イエスが何を語ったのか、何を成し遂げたのか、その言葉と行いについて、世界中のすべての人に向かって語ります。それこそが証しの行動です。すなわち福音宣教であります。だから弟子たちは、イエスが天に上げられた後に、喜びに満たされて、「エルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と記されています。隠れているのではなく、多くの人に向かって証しを続けたのです。

 そして、現代社会の中で生きている弟子は、福音を信じている私たちひとり一人です。現代社会に存在するありとあらゆるコミュニケーションの手段を駆使して、一人でも多くの人に、イエスの証しを届けていく者でありたいと思います。

 2015年5月24日に教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」が発表されたことを受けて、毎年5月末には「ラウダート・シ週間」が設けられ、教皇フランシスコが呼びかけた総合的エコロジーの視点から、私たちの共通の家である地球を守るための道を模索し、行動を決断するように招かれています。

 今年の「ラウダート・シ週間」は、ちょうど昨日まで、5月24日から31日までとされていました。今年は回勅が発表されてから10年という節目の年であり、同時に「希望の巡礼者」をテーマとした聖年の真っ最中です。

 そこで今年の「ラウダート・シ週間」もそのテーマを、「希望を掲げて」としていました。新しい教皇レオ14世も、教皇フランシスコの始められた”シノドスの道(共に歩む道)”を、同じように共に歩み始めておられます。そのペトロの使徒職の初めから、平和と対話の大切さを説き続けておられます。私たち神から命を賜物として受けた者が、共に生きる家を守り抜き、託された使命を果たし、共に歩んでいくことができるよう、共に努力していきたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年5月31日

・「パン種のように内部から働きかける召命を生きる人が求められている」-菊地東京大司教の世界召命祈願日メッセージ

2025年5月10日 (土) 週刊大司教第208回:復活節第四主日C

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  復活節第四主日です。

 教皇選挙については、できる範囲で別途記します。以下、本日午後6時配信、週刊大司教第208回、復活節第四主日メッセージです。

【復活節第四主日C   2025年5月11日

  ヨハネ福音は、羊飼いと羊のたとえ話を記しています。「私の羊は、私の声を聞き分ける」と主は言われます。復活の命への希望へと招いてくださる羊飼いである主イエスは、私たち羊をよく知っておられます。先頭に立って常に旅路をともに歩んでくださいます。そして常に呼びかけておられます。

 問題は、先頭に立って私たちを導いてくださる羊飼いとしての主の声を、果たして私たちがしっかりと聞き分けているのかどうかでしょう。

 現代社会はありとあらゆる情報に満ちあふれ、人生の成功の鍵という魅力的な誘惑で満ちあふれています。選択肢があればあれほど、決断が難しくなり、多くの人がその波間を漂いながら時を刻んでいます。その中で、希望の道へと招いてくださる牧者の声に耳を傾けることは、容易ではありません。

 それだからこそ、故教皇フランシスコは”シノドスの道”の歩みを最優先事項とされていました。教会は、2028年の予定されている教会総会に向けて、”シノドスの道”を共に歩みながら、互いに支え合い、耳を傾け合い、祈りのうちにその導きを識別しようと努めています。羊飼いの声を聴き分ける羊となろうとしています。

 復活節第四主日は、世界召命祈願日と定められています。この祈願日は、教皇パウロ六世によって、1964年に制定されました。元来は司祭、修道者の召命のために祈る日ですが、同時に、シノダル(共働的)な歩みを続ける教会にあっては、すべてのキリスト者の固有の召命についても、黙想し、祈る日でもあります。牧者の声を識別する役割は、すべてのキリスト者の務めであるというのが、シノダルな教会の一つの特徴です。

 今年の祈願日のメッセージを事前に用意されていた故教皇フランシスコはその中で、「召命とは、神が心に授けてくださる尊い賜物であり、愛と奉仕の道に踏み出すべく自分自身の殻から出るように、という呼びかけです。そして、信徒であれ、叙階された奉仕者であれ、奉献生活者であれ、教会におけるすべての召命は、神が、世に、そしてご自分の子ら一人ひとりに、糧として与えてくださる希望のしるしなのです」と語っておられます。

 その上で、世界がめまぐるしく変わる中で翻弄されて道を見失っている若者たちに、特にこのように呼びかけておられました—「立ち止まる勇気を出して、自らの内面に聞き、神があなたに思い描くものを尋ねてください。祈りの沈黙は、自分自身の人生においての神からの呼びかけを読み取るために、そして自由意志と自覚をもってこたえるために、欠かすことができません」と。

 第二バチカン公会議の教会憲章に、信徒の召命について、「信徒に固有の召命は… 自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、パン種のように内部から働きかけるためである」(31項)と記されています。

 牧者であるキリストの声は、私たちだけでなく、すべての人に向けられています。それを正しく識別するために、キリスト者の働きが必要です。「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が求められています。

(編集「カトリック・あい」=このメッセージは、教皇フランシスコが帰天される前に用意されたものと思われます。今の時点に合わせて手直しをしてあります)

2025年5月10日

・「教皇は東京でのミサで言われた『キリスト者の唯一有効な基準は、神がすべての子供たちに示しておられる慈しみだ』と」菊地・東京大司教の復活節第二主日メッセージ

2025年4月26日 (土)週刊大司教第206回:復活節第二主日C

  復活節第二主日です。

 本日は教皇フランシスコの葬儀ですが、時差もありますので、これは後ほど記事を書きます。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第206回、復活節第二主日メッセージです。

復活節第二主日C 2025年4月27日

 「人類は、信頼を持って私の慈しみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのメッセージに基づいて、復活節第二主日を「神の慈しみの主日」と定められたのは、教皇聖ヨハネパウロ二世であります。この主日に私たちは、「信じない者ではなく、信じるものになりなさい」と、信じることのできなかったトマスを見放すのではなく、改めてその平和のうちに招こうとされる主の慈しみに信頼し、そのあふれんばかりの愛の想いに身をゆだねる用に招かれています。同時に、私たちを包み込まれる神の慈しみを、今度は他の人たちに積極的に分かち合うことを決意する主日でもあります。

 故教皇フランシスコの東京ドームでの言葉を思い起こします。

 「傷を癒し、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子供たちに示しておられる慈しみ、という基準です」

 私たちが生きている今の世界は、果たして慈しみに満ちあふれている世界でしょうか。慈しみに満ちあふれることは、決してただただ優しくなることではなく、根本的には神からの賜物である命の、それぞれの尊厳を守ることを最優先にすることを意味しています。ですから、他者を排除したり、切り捨てたりすることはできません。

 復活された主は、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて隠れ鍵をかけていた弟子たちのもとへおいでになります。「平和があるように」という挨拶の言葉は、「恐れるな、安心せよ」と言う励ましの言葉にも聞こえます。同時にここでいう「平和」、すなわち神の平和とは、神の支配の秩序の確立、つまり神が望まれる世界が実現している状態です。そのためには「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」というイエスの言葉が実現しなくてはなりません。私たちは何のために遣わされているのでしょうか。

 イエスは弟子たちに聖霊を送り、罪赦しのために派遣されました。罪の赦し、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神の慈しみによって包み込む業を行うことであります。排除ではなく、交わりへの招きです。断罪ではなく、人間の尊厳への限りない敬意の証しであります。

 交わりの絆は、私たちの心に希望を生み出します。私たちの信仰は、慈しみ深い主における希望の信仰です。互いに連帯し、支え合い、賜物である命の尊厳に敬意を払って生きるように、と私たちを招く、神の愛と慈しみは、私たちの希望の源です。

(編集「カトリック・あい」=表記を原則として当用漢字表記に統一し、文章として読みやすく、意味が通りやすくしました)

2025年4月27日

・「キリストに倣い、希望を生み出し、証しする者となる決意を新たにしよう」菊地・東京大司教の復活祭メッセージ

2025年4月19日 (土) 2025年の復活祭にあたって

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( 2025年復活祭メッセージ  2025年4月20日)

    皆様、御復活おめでとうございます。

   そしてこの復活祭、または復活節に洗礼を受けられる皆さん、おめでとうございます。教会共同体に心からの喜びを持ってお迎えいたします。

 十字架における受難と死を通じて新しい命へと復活された主は、私たちが同じ新しい命のうちに生きるようにと招きつつ、共に歩んでくださいます。復活された主イエスは、私たちの希望であるキリストです。

 2020年に直面した世界的な命の危機以来、私たちは混乱の暗闇の中をさまよい続けています。その間に勃発した各地の戦争や紛争は止むことなく、今日もまた、命の危機に直面し、絶望のうちに取り残されている人たちが、世界には多くおられます。

 そのような状況は多くの人の心に不安を生み出し、世界全体が自分の身を守ろうとして寛容さを失い、利己的な価値観が横行しています。異質な存在を受け入れることに後ろ向きであったり、暴力を持って排除しようとする事例さえ見受けられます。

 人はその命を、「互いに助けるもの」となるように神から与えられたと旧約聖書の創世記は教えています。ですから互いに助け合わないことは、私たちの命の否定につながります。命の否定は、それを賜物として与えてくださった神の否定につながります。

 互いに助け合わない世界は、神が望まれた世界ではありません。互いに助け合わない世界は、絶望を生み出す世界です。

 今、必要なのは、命を生きる希望を、すべての人の心に生み出すことであります。

 教会は今年、25年に一度の特別な聖なる年、聖年の道を歩んでいます。希望の巡礼者がそのテーマです。私たちは、絶望が支配する世界に希望をもたらす者として、人生の旅路を歩み続けます。一人で希望を生み出すことはできません。信仰における共同体の中で生かされることを通じて、希望が生み出されます。その希望の源は、復活され、私たちと共に歩み続ける主イエス・キリストです。

 先般、東京教区の姉妹教会であるミャンマーで大きな地震が発生し、私たちが特に力を入れて支援してきたマンダレー周辺で大きな被害が出ています。ただでさえクーデター以降不安定な状況が続き、平和を求める教会に対する攻撃も続いている中での災害です。

 被災者救援のための募金も始まっています。被災され絶望に打ちひしがれている方々に希望が生み出されるように、私たちは出来る限りのことをしたいと思います。まず、ミャンマーの方々のために、その平和のために、祈りを捧げましょう。祈りには力があります。命を生きる希望を生み出す信仰の絆です。

 復活祭にあたり、互いに支え合い、共に歩む中で絆を深め、希望を生み出し、証しする者となる決意を新たに致しましょう。

 終わりに、病気療養中の教皇フランシスコのために、どうぞともに祈りをお捧げください。

(編集「カトリック・あい」)

2025年4月19日

・「イエスご自身に倣い、互いに支え合い、希望を生み出し、告げる者でありたい」菊地東京大司教の受難の主日メッセージ

2025年4月12日 (土)週刊大司教第205回:受難の主日C

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   受難の主日となり、今年の聖週間が始まりました。改めて私たち一人一人の信仰の原点である主の受難と死、そして復活を黙想して、そこにおける主との出会いという希望の体験に立ち返り、また御復活祭に洗礼を受ける準備をしておられる方々のために、さらに祈りましょう。

   なお受難の主日午前10時に始まり、聖木曜日午後7時、聖金曜日午後7時、復活徹夜祭午後7時、復活の主日午前10時は、すべて私の司式で、東京カテドラル聖マリア大聖堂からビデオ配信の予定です。こちらのリンク先のカトリック東京大司教区のYoutubeチャンネルからご覧頂けます。

  以下、本日午後6時配信、週刊大司教第205回、受難の主日のメッセージ原稿とビデオリンクです。

(受難の主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年4月13日)

 3月28日午後にミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生しました。現時点での報道では、ミャンマーの第二の都市であるマンダレーや首都のネピドーに大きな被害があり、またタイの首都バンコクでも、建設中の高層ビルが倒壊するなど、被害が多数出ています。

 ミャンマーの教会は、東京教区にとっての長年の大切なパートナーです。ケルン教区と共に様々な支援を行ってきました。今年は、今度は二人のミャンマーの司祭が、東京教区で働くために来日してくれました。

 東京教区は数年前から、今回の震源に近いマンダレー教区の神学生養成の支援に取り組み、哲学課程の神学校建物の建設を支援しています。今回の地震発生直後から、マンダレー教区関係者から連絡があり、教会の施設の多くがダメージを受け、避難者の救援作業にあたっていると支援の要請が来ました。もちろん、金銭での支援も重要ですからこれから具体的な方策を考えますが、それ以上に、信仰の絆における連帯を示すことも重要です。

 愛する家族の一人が、目の前で命の危機に直面しているなら、多くの人は平然としてはおられないはずです。なんとかして、どうにかして、助けたいと思うことでしょう。まさしく今起こっていることは、信仰における兄弟姉妹がいのちの危機に直面している状況です。いても立ってもいられなくなるはずですが、どうでしょうか。東北の大震災の直後、当時カリタスジャパンを担当していた私の元には、世界中各地から、祈っているとのメールが殺到しました。信仰における絆を実感した体験です。

 多くの人が犠牲になる大災害や戦争のような事態が起こっても、それが目の前ではなくて遙か彼方で発生すると、私たちはどういうわけか、あれやこれやと理屈を並べて、まるで人ごとのように眺めてしまいます。そのような態度とは、すなわち無関心です。無関心は命を奪います。神の一人子を十字架につけて殺したのは、あの大勢の群衆の「無関心」であります。

 歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。無責任に眺める群衆は、そのときの感情に流されながら、周囲の雰囲気に抗うことができません。

 パウロは、イエスが、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

 復活を通じた永遠の命を生きるという私たちたちの希望は、「受難と孤独のうちの十字架での死という絶望的な断絶の状況にあっても、イエスは、御父と一体であったからこそ、希望を失うことがなかった」という事実に基づいています。無関心は孤立をもたらし、絶望を生み出します。しかし「命の与え主である御父に繋がる中で、兄弟姉妹として互いに結ばれている」という確信は、命を生きる希望を生み出します。いま、世界に必要なのは、命を生きる希望であって、絶望ではありません。

 互いへの無関心が支配する現代社会にあって、私たちはイエスご自身に倣い、御父との絆に確信を抱きながら、互いに支え合い、希望を生み出し、それを告げる者でありたいと思います。無関心のうちに傍観して流される者ではなく、互いを思いやり、支え合い、ともに歩みを進める者でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2025年4月12日

・「神から赦しをいただき、生かされていることを心に刻もう」菊地・東京大司教の四旬節第五主日メッセージ

2025年4月 5日 (土)週刊大司教第204回:四旬節第五主日C

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 四旬節も終わりに近づき、もう第五主日です

 3月23日深夜に出発、29日お昼頃帰着で、ローマに出かけておりました。もともとは一年に一度、この時期に教皇様にお会いして、国際カリタスの活動報告をすることにしていました。当然ながら、現在の教皇様の健康状態もあり、謁見はキャンセルになりましたが、それ以外にも国務省を始め総合的人間開発省、東方教会省、諸宗教対話省、キリスト者一致推進省、広報省、教皇庁未成年者保護委員会、シノドス事務局を、国際カリタスの事務局長と二人で訪問して回りました。

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 またその間に、枢機卿としての名義教会であるサン・ジョバンニ・レオナルディ教会のアントニ・サミィ・エルソン主任司祭(向かって右端)はじめ助任司祭と小教区財務委員の信徒の方の訪問を受け、さらに主任司祭と一緒に教皇庁儀典室のモンセニョールを訪問し、10月9日夕方6時に予定されている着座式の打ち合わせも行いました。

 ローマのどちらかというと郊外の住宅地にある小教区であり、長年、枢機卿の名義教会になることを申請していてやっと夢がかないました、住宅街の共同体なので、日曜のミサの参加者は大勢であり、様々な活動のある教会です。当日は日本からの訪問者も大勢いるだろうし、当小教区出身の司祭や司教も来るので、聖堂に入りきらない場合は、隣の学校のグランドで野外ミサをするとのことです。いまから楽しみです。

 イタリア語ですが、小教区のホームページです。なお司牧を担当しているのは16世紀に聖ジョバンニ・レオナルディが創立したOMD(Ordo Clericorum Regularium Matris Dei)と言う修道会司祭ですが、この会の正式名称をどのように邦訳するのか思案中です。

 その間に、イタリア国政放送RAIのテレビのインタビューがあり、さらには国際カリタスの夏の聖年の青年行事の打ち合わせや、国際カリタス法務委員会との顔合わせなど、盛りだくさんでした。

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 バチカン周辺は思ったほどの人出ではなかったものの、聖年の巡礼団が多く集まり、サンタンジェロ城付近からコンチリアツィオーネ通りにサンピエトロ大聖堂までまっすぐに700メートル近い特別通路が設けられてあり、途中信号などがあるのでボランティアの時間調整や誘導にしたがって、祈りと共に歩んでいました。サンタンジェロ城の近くに登録ブースがあり、ここで先頭を行く十字架を貸してもらえるようです。

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 ローマ市内は、そこら中で道路工事をしていましたが、昨年末に枢機卿親任式で訪れた際には絶対終わるのは不可能と思ったバチカン周辺の工事は、なんと見事に終わり、閉鎖されていた地下トンネルなども再開して、渋滞も少なくなっていました。今回も国際カリタス事務局のすぐ近くの小さなホテルに泊まったのですが、お値段が昨年とは比べものにならないくらい高騰していました。

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 教皇様は宿舎であるサンタマルタの家に戻られていますが、パロリン国務長官によれば「二か月本当に休んでいただけば、なんとか復帰なされるだろう。教皇様がしっかりとお休みになるようにすることが、我々の務めです」と言われ、「回復の度合いにもよりますが、今までのようなペースでの仕事は難しくなるので、スタイルを変更しなくてはならない」とのことでした。どうか続けて、教皇様のためにお祈りください。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第204回、四旬節第5主日のメッセージ原稿です。

(四旬節第五主日C 2025年4月6日)

 ヨハネ福音は、「姦通の現場で捉えられた女」の話を伝えています。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言うイエスの言葉がよく知られています。もちろんこの場において、本当に罪を犯したことのない者は、神の子であるイエスご自身しかおられません。さすがに神に挑戦するような思い上がった人は、当時の宗教的現実の中で、そこにはいなかったと福音は伝えています。

 しかし同じことが、今の時代に起こったとしたらどうでしょう。とりわけ、バーチャルな世界でのコミュニケーションが匿名性の影に隠れて普及している今、同じことが起きたのであれば、あたかも自分こそが正義の保持者である、というような論調で、この女性を糾弾する声が多く湧き上がるのではないでしょうか。何という不遜な時代に私たちは生きているのでしょう。時にその不遜さは、自分が虐げている弱い相手に対して、自分に対する感謝が足りないなどと、さらにとんでもない要求すらして相手を糾弾します。

 この福音の物語は、時代と文化の制約があるとはいえ、共犯者であるはずの男性は罪を追及されることがなく、女性だけが人々の前に連れ出され断罪されようとしています。同じ罪を形作っているにもかかわらず、女性だけが批判される構図は現代でも変わりません。それどころか、ハラスメントなどの暴行や虐待の事案にあって、あたかも被害者に非があるかのような批判の声が聞かれることすらあります。

 神の愛と慈しみそのものであるイエスは、犯された罪を水に流して忘れてしまうのではなく、一人で責めを受け、命の尊厳を蹂躙されようとしている人を目の前にして、その人間の尊厳を取り戻すことを最優先にされました。もちろん共同体としての秩序と安全を守ることは大切ですし、社会においてもまた宗教共同体においても、掟が存在しています。

 イエスの言葉は、掟を守ることに価値がない、とはしていません。イエスの言葉は、掟が前提とする一人ひとりの人間の尊厳に言及しています。なぜなら、その尊厳ある一人一人が共同体を作り上げているのであって、共同体が人を作り上げているからではありません。イエスは、そのような場に引き出され、辱められ、人間の尊厳を蹂躙されている女性の、そこに至るまでの状況を把握することもなく、掟を盾にして尊い賜物である命の尊厳をないがしろにしている現実のただ中で、一人の命の尊厳を守ろうとしています。その存在を守ろうとしています。私たちの時代は、誰を、そして何を最優先にしているのでしょうか。

 今年の四旬節メッセージ「希望をもって共に歩んでいきましょう」で、教皇様は回心について三つの側面から語っておられます。その三つ目のポイントは、約束に対する「希望をもって」共に歩むことですが、教皇様はそこに、こう記しておられます。

 「回心への第三の呼びかけは、希望への、神とその大いなる約束である永遠の命を信頼することへの招きです。自らに問いましょう。主は私の罪を赦してくださると確信しているだろうか。それとも、自分を救えるかのように振る舞っているのではないだろうか。救いを切望し、それを求めて神の助けを祈っているだろうか。歴史の出来事を解釈できるようにし、正義と兄弟愛、共通の家のケアに務めさせ、誰一人、取り残されることがないようにする希望を、具体的に抱いているだろうか」

 私たちは、神からの赦しをいただいて生かされている、と心に刻むとき、神の前で謙遜に生きることを学びます。神の前に謙遜になるとき、初めて、同じ神の愛によって命を与えられ生かされている兄弟姉妹と共に歩むことの大切さを理解することが可能になります。一人ひとりの人間の尊厳を尊重し、虐げられている人の尊厳を回復しようとする主の慈しみに倣いましょう。

2025年4月5日